内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

鏡の中のフィロソフィア(現場レポート4)

2013-08-01 19:00:00 | 講義の余白から

 集中講義4日目。西田の論文「場所」読解後半戦。昨日は、同論文の中で「鏡」という語が使用されている箇所だけを取り出して、それらをそれぞれその文脈に位置づけながら、西田がどのような意味で「映す」「照らす」等の動詞を使っているかを検討したが、今日は、論文後半の数頁を、一行一行読んだ。学生たちに各自1段落ずつ声に出して読んでもらい、その後、私が逐語的に注釈していった。それは難渋をきわめる作業だった。私の未熟さゆえに、学生たちのテキスト理解にどれほどの手助けができたか心もとない。それだけに、最後まで集中力を保ちつつ付いて来てくれた学生たちには心から感謝している。
 同論文から、一節だけ引用する。

 「映すということは物の形を歪めないで、そのままに成り立たしめることである、そのままに受け入れることである。」

 この1文を起点として、私はここ10年「受容性の哲学」を自らの哲学として展開しようとしている。それを一息でまとめると、以下のようになる。
 私が他者を〈受け入れる〉ということが事実としてありうるとすれば、それは、この私がその他者を私の意志によって受け入れたということなのではなくて、互いにどこまでも相異なる個物同士である私と他者とが、両者それぞれの己の一切の思い計らいに先立って、こうして〈今、ここにある〉ことそのことによって、それぞれ他との比較を絶した掛け替えのない個物として、共にそもそも〈そこ〉に〈受け入れられている〉からこそ、〈そこ〉において、私が他者を受け入れるということも成立しうるということなのだ。
 この〈そこ〉こそが、西田の言う「場所」なのである。もしそう言ってよければ、この原事実の忘却が私たちの「原罪」であり、それに気づくことが「許し」だということになる。この「受容性の哲学」の展開こそ、私のこれからの生涯かけての真の課題なのである。

 さて、ピエール・アドの Exercices spirituels (=ES) の紹介の続き。

 ESのリストの中で、ストア派にとって根本的に重要な態度は、現在という瞬間への〈注意〉である。この注意とは、常に目覚めた意識のことであり、それによって、哲学者は、その都度の瞬間になすべきことを知り、それを欲する。この精神の注意深さによって、根本的な生の規則、つまり「自分次第のこととそうでないこととの区別」が可能となる。ストア派(そしてこの点では、エピクロス派も同様である)にとって本質的なことは、その信奉者に、根本的な原則をきわめて単純かつ明晰に数語で表現することである。そうすることによって、その原則はそれぞれの人の心に深く刻まれ、いつでも適応可能となる。
 この現在の瞬間への注意こそがESの秘鑰なのである。この注意が、私たちにはもうどうしようもない過去とまだどうすることもできない未来とが引き起こす諸情念から、私たちを解放してくれる。そして、今この瞬間に私たちの注意を集中することが、それぞれの瞬間が秘めている無限の価値に気づかせてくれる。この集中が、万有を支配する規則の中で自分の実存の各瞬間を受け入れることを可能にしてくれる。