内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「汝自身を知る」ことはできるのか ― ポール・クローデルの演劇論的ソクラテス批判(承前)

2013-08-22 07:11:16 | 哲学

 昨日からの続きで、ポール・クローデルによる自作戯曲『堅いパン』の解説講演の内容紹介。以下、文中の「私」はクローデル自身を指す。

 どのような人格であれ、自分がそこに属するドラマ全体の調和なしには、自分の中にある共鳴装置を振動させる外からの呼びかけなしには、自分自身の諸可能性を知ることはできないであろう。この共鳴装置は自分だけで自分の内に直に見ようとしても、何一つわからないものである。己を取巻く外的な諸事情こそが、一個の人格が己を顕にすることを可能にしてくれる、あるいは日常のフランス語において意味深くもそう言われるように、己が「生じる(se produire)」ことを可能にしてくれる。つまり、しばしば深い驚きとともに、それまで気づかずにいたほとんどまったく新しい存在をその人格に対して開示してくれるのである。この点において、かの有名なソクラテス的格言「汝自身を知れ!」は、私には実行不可能に思われる。実際、自分自身を知ろうとして、自分を見つめなくてはならない人間は、ある的確な行為が活性化しないかぎりそれら自体では不定形に留まるほかない潜在力しか、自分の裡に見ることができない。
 そこには何か反自然的な態度が感じられる。眼は自己の内部を見るように作られてはおらず、外部に向かって開くように作られている。ソクラテス的格言に対立する真のキリスト教的格言は、「汝自身を知れ!」ではなくて、「汝自身を忘れろ!」である。これを詳しく説明的に言い換えれば、以下のようになろう。
 「汝の注意を自分自身以外に向けよ。汝がそれに対して義務を果たすべき存在、それが神であれ、事物であれ、人々であれ、それらの存在に注意を向けよ。この途方もなく大切な呼びかけ、今にも、そしておそらくただ1度きり汝に差し向けられるこの呼びかけを聞き逃さないように気をつけよ。そして、よりよくそれを聴くためには、まずもって、自分自身を黙らせよ。瞑想に、あるいは、もっと愚かしいことだが、自分自身の人格の不毛な礼賛に耽ってはならない。なぜなら、自分を見つめるためには、まず立ち止まり、作為的なわざとらしい態度の中に自分を固定しなくてはならないからである。巷でよく言われるように、「ポーズを取る」というのがそれである。怠惰な人間たちのように、あることが自分の性格に向いていないとか、自分にできることではないなどと言ってはならない。なぜなら、それについて汝は何も知らないのだから。1人の人間にとって重要なのは、自分にできることではなく、人が自分に望むことである。見つめなければならないのは、鏡の中の自分の姿ではなく、十字架であり、御旗である! 聴かなければならないのは、夢や幻想といった、だらけて浮ついた音楽ではなく、自分を無から引き出した呼びかけ、素晴らしい1つの言葉で人がそう呼ぶところのもの、つまり『召命(vocation)』である。」

 以上が、昨日の記事の冒頭で書誌的な紹介をしたクローデルの講演の中での人間存在についての一般的考察の要旨である。しかし、このように紹介したからといって、私(これはこのブログの記事を書いている当人のこと)がクローデルの主張に全面的に賛成しているというわけではない。クローデルに対する私の疑義を一言申し述べることが許されるならば、それは以下のようになるだろう。
 クローデルの考察は彼のカトリック信仰を前提としているが、それを超える創造的で開かれたもの、無限に受け入れるものによってカトリックもまた相対化されないかぎり、個々の掛け替えのない人格は、自己目的化した1つの全体性に一方的に従属あるいは不可避的に埋没せざるを得ない。1つの調和的音楽にとって、それを撹乱する不協和音でしかない存在は、その音楽から排除されなくてはならないものである。しかし、私たちが乱してはならない最上の音楽とはただ1つしかないものなのだろうか。もし、いくつかのいずれ劣らず優れた音楽が存在し、それらが同時に奏でられうるとすれば、ある時ある場所に生を受けた私たちはそれらすべてに同時に参与することはできない。それらが同じ場所で同時に演奏されれば、耳を覆いたくなるような巨大な騒音にしかならないかもしれない。私たちは、それぞれ一個の有限な存在として、そのいずれかの音楽の演奏に自分の役割・パートを十分に自覚して参加しなければならない。しかし、まさにそうであるからこそ、それらの異なった仕方でそれぞれに美しい音楽をすべて受け入れる、無限に広がる沈黙の場所にこそ、私たちは何よりも耳を澄まさなくてならないのではないだろうか。確かに、自分自身を知るためには、この世のある時代と場所で自分を働かせる「召命」をそれとして注意深く聴き取る耳を私たちは持たなくてはならないだろう。しかし、だからといって、自分がそこから引き出された〈無〉は、その私の「召命」によってもはや消去されてしまったのではなく、私をその生誕以前からまったき沈黙のうちに受け入れていたのであり、今もそうなのであり、永遠に受け入れていることを私は忘れるわけにはいかない。