内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

世阿弥の〈花〉の現象学的分析

2013-08-26 03:24:39 | 哲学

 昨日の記事で話題にしたヴィスマンの「自由と形式」の話は、発表の枕にときどき使うのだが、2008年9月に勤務校で開催された能についてのシンポジウムと公演に発表者の1人として参加した時もそうだった。その時の発表のテーマは、「能の舞台における身体的所作への現象学的アプローチ」だったが、世阿弥の『風姿花伝』における「花」と舞台上の身体的所作と関係の分析が主たる内容だった(ちなみに、フランス語での発表原稿はそのシンポジウムの論文集に収録され出版されることに最初からなっていて、翌年の1月には最終決定稿を責任者に送ったのに、論文集はいまだ出版されていない。もうこっちがそのことを忘れていたこの6月初めに、編集者から最終原稿の確認依頼がようやく来て、すぐに訂正案を受け入れる旨返事したが、いったいいつになったら出版されるのだろう。シンポジウムからもう5年である。ここまで待たされると、もう呆れてはてて文句を言う気にもならない)。
 その発表の導入部分で、ヴィスマンの「自由と形式」の話を引用した。これは、聴衆が主にフランス人であり、しかも能については知識の乏しい人たちが大半だったから、彼らにとって比較的わかりやすいアプローチの仕方で、能について私が哲学的に何を問題にしようとしているかを理解してもらうために採った「戦術」だった。昨日の記事で紹介したヴィスマンによる独仏の文化的差異の規定を引用することによって、「自由と形式」という問題を際立たせた上で、さて、それでは、この問題は能において理論的かつ実践的に世阿弥によってどのように立てられ、解決が示されたのかと、本題を提示した。もちろん、世阿弥自身は『風姿花伝』で「自由と形式」に相当するような問題をそれとして提起しているわけではないが、年齢ごとの演じ方、演目や人物像ごとの演じ方の差異を論ずる記述の中にこの問題についての世阿弥の解答を読み取ることができるというのが私の解釈だった。そして、世阿弥のいう舞台上の「花」こそが、自由と形式の高次の融合の実現にほかならないという結論に向けて、『風姿花伝』から引用を鏤めながら議論を展開した。
 『風姿花伝』における「花」については、そして『花鏡』における「離見の見」についても、舞台芸能において実践される現象学的態度という問題枠で、両テキストをじっくりと読み込んだ上で、いつかまた立ち戻りたいと思っている。