内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

鏡の中のフィロソフィア ― 講義ノートから(2)

2013-06-11 20:00:00 | 哲学

 鏡の中に私が見ているのは誰か? この問いがあたかも閃光のように突然私を襲ったのは、映画『薔薇の名前』(原作ウンベルト・エーコ)の中で、主人公のバスカヴィルのウィリアムスと見習い修道士のアドソが滞在先の修道院の迷宮のような図書館の中で出口を探している時に、歪んだ鏡に写った自分の姿を見て恐れ慄くアドソをウィリアムスがたしなめるシーンを何度目かに見た時だった。人類はいったいいつ、今日私たちが当たり前に使っており、これほどありふれたものはないと言えるほど普及している姿見としての鏡を制作する技術を獲得したのであろうか。それ以前、「鏡」とは何だったのか。「鏡に映った姿」とは何だったのか。古代ギリシア哲学においては、例えば、プラトンの作品の中に、通常「鏡」と訳されている言葉が何箇所か見られ、ラテン語著作の中では、「鏡」がキーワードになっている代表的なテキストの一つとしてアウグスティヌスの『三位一体論』がよく知られている。しかし、それらの用例を今日私たちが考える意味での鏡、つまり、いわゆる「自分の忠実な姿を映すもの」とみなしては、それらのテキストを読み誤ってしまうのではないか。なぜなら、その時代には、今日いう意味での鏡は存在しなかったからだ。この問いを、昨年度の夏の集中講義のテーマとして選んだ。以下がその講義内容紹介。


鏡の中のフィロソフィア
― 認識モデルとしての〈鏡〉をめぐる歴史的・哲学的考察―


 〈鏡〉が人間の認識モデルとして用いられている古代から現代までの様々なテキストを読みながら、実物の鏡と隠喩としての〈鏡〉の関係の変遷を辿り、それによって開かれるパースペクティヴの中で哲学史における認識論的な転回点がどこに見出されるかを問う。
 古今を問わず、また洋の東西を問わず、〈鏡〉をめぐる言説は、文学、宗教、哲学において枚挙にいとまがないほどだが、今日私達が日常的に利用している鏡の制作技術が西洋で確立されるのは15世紀になってからであり、その後2世紀に渡ってその技術は師から弟子へと秘伝され、その間、鏡は王族・貴族間の最も高価な贈答品の一つとして珍重され、庶民には無縁であった。西洋で一般に鏡が普及するようになるのは17世紀になってからに過ぎない。つまり、鏡の普及の始まりは、近代哲学の誕生と時代的にほぼ重なる。自分の姿の忠実な〈うつし〉を人々が日常的に見ることができるようになった時代に近代哲学は始まったのである。
 鏡制作の近代的技術誕生以前の時代おいては、人々は自らの姿を忠実にうつすものとして鏡を見ていたわけではない。実際、フランス語で12世紀に確認される用例は、「物や人のイメージ(像)を与えるもの」、そこから派生した「お手本、見本、モデル」という意味での用例が中心で、これはラテン語に遡っても同様である。さらに古代ギリシアにまで遡ると、プラトンの 『アルキビアデス』に有名な用例があるが、ここでも鏡は、美しい魂に比べれば、むしろ自分についての最も忠実な似姿を与えるものではないとされている。
 ヨーロッパ思想史上最も有名な〈鏡〉の用例は、おそらくアウグスティヌスの『三位一体論』の中のそれだろう。そこでは魂が鏡に例えられ、美しい純粋な魂にこそ神の光が映されるとされている。つまり〈鏡〉は「神からの光を反射するもの」なのである。中世において、キリスト教神秘主義者たちは盛んにこの意味で〈鏡〉を隠喩として用いている。
 翻って近現代哲学においては、一方で、〈鏡〉は実物に忠実な〈うつし〉を与えるものの隠喩として一般化し、他方では、実際の鏡像そのものの認識論的な価値が問われるようになる。
 鏡の歴史を辿る他方で、鏡を介さない自己像の歴史ということも問題にされなくてはならない。
 その一つの起点になるのが旧約聖書「創世記」のアダムとイブの失楽園の物語である。そこで語られているのは、知恵(あるいは生命)の木の実を食べてしまい、自らが裸であることに気づき、それを互いに隠そうとする、それどころか神に対してさえも自分たちを隠そうとする、つまり 全知全能の神に対してそうすることができると思ってしまう一対の男女の振る舞いである。そこには、己が見る自己の身体が自分自身であることの自覚ばかりでなく、他者(神もそこに含まれる)もまた、私が自分の体を見るのと同じ様な仕方で、私の体を見ていると思い込む人間の姿が示されている。人間が自らの視座を普遍的な基準と見なす瞬間である。これが〈原罪〉にほかならない。
 もう一つの始原的な、そして悲劇的な自己像の例は、ナルシス神話に見られる。これは、水面に映った自己像をそれとして認識しえず、他者と思い込み、それを愛してしまう物語だが、これは自己愛の不可能性の物語として読むことができるだろう。

 昨年度は話したいことの半分も話せなかったので、今年度の集中講義は昨年度の続きになる。その講義内容紹介は、明日投稿する。