内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

虚と空

2013-06-06 14:00:00 | 哲学

 今月28日、パリを主たる拠点とする、「アジアと西洋の芸術的言語の比較研究」グループの主催で、「美学的・芸術的概念:鍵言葉、翻訳不能な言葉」というテーマの研究集会が開かれる。そこで私も発表する。テーマは、集会主催者に先月すでに伝えてある。その原題は « Le ciel vide et la terre saturée ― Le néant, médiateur silencieux, ouvert et passible ― »、「虚空と充溢せる大地 ― 〈無〉、黙し、開かれ、受容する媒介者 ―」とでもなるだろうか。原稿はこれから書く。メモは若干とってあるが、どんな議論の展開になるかは、自分でも書いてみないとわからない。
 研究発表・論文ともに、発表言語がフランス語であれば、いつもはじめからフランス語で書く。哲学の論文に関しては、特に、最初からフランス語で書いたほうが、日本語からフランス語に訳すより労力が少ない。翻訳は、たとえ自分の文章の翻訳でさえ、二言語間で逡巡する分だけ時間が余計にかかる。これはどちらの方向でも同じ。かつて自分の仏語の博士論文の日本語訳を出版しようとして、出版社も決まっていたのに、自分自身の仏語の文章の和訳で予想以上の困難に直面し、途中で投げ出したまま、もう8年以上経ってしまった。このことは今でも大きな後悔の種の一つとして心を疼かせている。一般化するつもりは毛頭ないが、私の場合、哲学的思考は、フランス語での方が正確かつ繊細に、しかも自然に表現でき、それを日本語にしようとすると、どうしても日本語に無理強いすることになり、それが苦痛で前になかなかすすめないことがよくある。だが、これは言い訳にすぎない。私自身でもっと日本語での哲学的思考を鍛え上げなくてはならない。不遜を顧みずに言えば、日本語を哲学的言語として鍛え上げることに、微力ながら私も参与できればと思う。先日、一時帰国中にお目にかかった日本での恩師から、改めて、博論の翻訳を仕上げること、あるいはそれとは別に日本語で研究を本にまとめることの大切さを諭されて、ありがたくも、ひどく心に沁みた。
 そんなこともあって、今回は、このブログで論文の下書きのようなものを日本語で書きながら、それと並行して仏語版を作成してみようと思う。初めての試みだ。それは翻訳という形にはならないだろうが、日仏両語間の隔たりを計測しながら、その隔たりを逆に思考の触発剤として書いてみよう。当の研究集会もまさにこの翻訳不可能性の問題をテーマとしているのだから、ちょうどよい機会かもしれない。
 上に掲げた発表題目、それだけ見ても何の論文だか、何を問題にするのか、どの分野に属するのか、見当もつかないだろう。集会責任者からは、特に、日本思想における〈虚〉と〈空〉― その責任者は中国美学思想の専門家だから、 « kong / xu » とも併記していたが ― について話してほしいと依頼を受け、上記のタイトルを選んだ。タイトルを選んでから、話す内容を考え始めた。〈虚〉〈空〉にさらに〈無〉を加えることで、この三つの漢字それぞれの用法、三つのうち二つを組み合わせた漢語、あるいはそのいずれか一つを含んだ別の漢語群の間に見られる意味の差異を、日本語の一般的な用法のうちに観察するところから説き起こそうと思っている。しかしこの領域に不用意に手を出すと、果てしなく広がる鬱蒼とした漢字の森に惹き込まれ、出口を見失い、さまようことになるだろうから、あくまで導入として軽く触れるに止めたほうがいいだろう。白川静博士のあの記念碑的な三部作『字訓』『字統』『字通』のことを思っただけでも、漢字の世界は、その歴史の奥深さゆえに、底知れぬ畏怖を呼び起こす。
 だから以下に記すのは、私自身の貧しい語感から生まれた、一つの小さな随想の域を出ない。
 虚は、単独では、形容詞としての用法「虚しい」がある。空にも、同じ読み「空しい」がある。両者の差異はどこにあるか。確定的なことはもちろん言えないが、強いてその微妙な差異を言ってみるならば、前者は「事物のはかなさ、価値のなさ、無意味さ」、後者は「事物の無益さ、中身のなさ、不在」を指すと言えるだろう。名詞としては「虚ろ/空ろ」があるが、両者の差異についても形容詞の場合と同じことが言えよう。それは両者それぞれを含む漢語を見てみるとよりはっきりするように思われる。「虚」の方は、例えば、「虚妄」「虚飾」「虚構」、「空」の方は、「空費」「空席」「空想」―しかし、これらは私が自分の解釈に都合のいい例を選んでいるだけかもしれない。
 次にそれぞれの反対語を見てみよう。「虚」の反対は「実」であり、「虚実」は漢語として古くから使用されてきた。現実・事実に対する虚偽・虚妄という意味で、〈虚〉と〈実〉は対立する。しかし、私たちが生きる世界は「虚実の世界」だと言うときには、世界は〈実〉だけで成り立っているのはなく、〈虚〉なしには世界は世界たりえないということがそこには含意されている。〈虚〉は〈無〉ではない。とはいえ、〈虚〉と〈実〉の間にあるのは、いわゆる二元的対立でもない。虚の有り方と実の有り方は異なっているのであって、両者相容れないのでもなく、相互に排除しようとしているのでもない。むしろ両者ともにそれぞれの有り方を互いに可能にしている。では、虚実の世界がそこにおいて成り立つのはどこか。ここではこの問いをそのままに残しておく。
 「空」の反対語はなにか。「満」だろう。「空腹/満腹」「空席/満席」という用法はまったく日常的なものだし、同様の例は他にもある。「空満」という漢語はないかもしれないが、前者は「あきがあり」、後者は「あきがなく、一杯」という意味で、両者は互いの反対語だとは言えよう。〈空〉は、何かかがそこにないこと、〈満〉はそこが何かによって充足されていること。ないことは、肯定的な意味も否定的な意味も持ちうる。演劇を例に取ってみよう。観客としては空席があって座れれば、喜ぶだろうし、舞台に立つ役者は、空席が目立つ客席を見れば悲しいだろう。満席はそれぞれの立場に逆の感情を引き起こすだろう。
 しかし、これだけでは「虚」も「空」も、一つの思想の構成要素としてはまだ充分な規定を与えられているとはとても言えない。日常的な用法にだけ依拠してそうすることには無理があるのだろう。そうかと言って、日本思想史における〈虚〉と〈空〉について、いきなり一般的な規定を与えることもできないし、それはそもそも無理な話だろう。やはりあるテキストを手がかりに考えていくという、常套手段を明日からは取ってみることにする。