内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

習慣論(2)

2013-06-05 14:00:00 | 哲学

 ラヴェッソンの『習慣論』をその思想の深みにおいて私が充分に理解できているとは言えない。しかし、このわずか原書で数十頁、邦訳でも70頁足らずの論文は、読むたびごとに新たなインスピレーションを与えてくれる。以下に述べるのは、『習慣論』の中立的な解説ではなく、私がそれをどう読み、どう自分の言葉で言い直し、〈習慣〉と〈繋がり〉とを結び合わせようとしているか、その思索の現場そのものである。
 世界は、最も異なった諸存在同士をも互いに接近させる様々な類似性からなっている。これがラヴェッソンの哲学的直観の核心である。
 哲学とは、そのような世界の第一性質であるところの類似性を、異なった諸事物の間に再び見出すための弛みない努力にほかならない。その努力を継続するためには、分析する知性だけでは不十分で、何よりも必要なのは、そのような類似性を見出したいという欲望とそれをどこまでも探し求める勇気である。
 哲学的思考とは、諸対象を切り分け、それらを切り離すことにその最終目的があるのではなく、見たところおよそ繋がりがなさそうな物・事・人の間に隠された〈縁〉を見出すことだ。それが見出されたときに感じられる恐れにも似た心の震え、それこそ私たちが神秘体験と呼ぶものにほかならないとすれば、哲学的思考は、私たちの日常生活の中に隠された〈繋がり〉の発掘作業を通じて、存在の神秘への途を開くことだと言える。
 では、そのような体験は特殊な体験として、一部の人たちだけに許されたものなのだろうか。特別な知的能力あるいはいわゆる霊感を持った人たちだけに接近可能な世界なのだろうか。そうではない。そのための手がかりは、私たちの一切の個人的努力に先立って、すでにすべての人に与えられている。それが習慣、より丁寧に言えば、私たちが反省的思考を始めたときにはすでにその中で生きている習慣的世界なのだ。
 私たちは、習慣を、日常的にあるいは一定の間隔で反復される行為、それがなぜ繰り返されるのかと問うこともなくなった行為のことだと思っている。もちろんそれはそれで日常的な言葉遣いとして間違っていない。しかし、習慣をそのようにすでにできあがってしまった形から見ただけでは、私たちに習慣が形成されうるということそのことの意味を充分に汲み尽くしたことにはならない。種々の習慣が私たちに教えているのは、すべての存在はそのように最初からあったのではなく、あるときからそのようになったのだ、ということだ。つまり、ただそう〈ある〉だけのものなどひとつもなく、すべてはそう〈なった〉あるいは〈なりつつある〉のだ。この意味で、すべての存在には、およそ似ても似つかぬ、天と地ほどの差があるものの間にも、実は何らかの仕方で、隠された類似性がある。
 この万有に見出されうる類似性を探究することが哲学的思考であるならば、私たちみんなが一人の例外もなく、生きているというそのことによって、哲学的探究への招待状をすでに手にしていることになる。その招きを受けるか受けないかは各人の自由に属する。しかし、この招待を受け、哲学的思考へと身を投ずることによって、私たちは思いもよらぬ〈繋がり〉を発見するかもしれない。自らの習慣を内省することによって、私たちは自らの心を存在へと開き、世界との多様な〈繋がり〉に目覚めさせることができるかもしれない。習慣を通じて、一方では〈意志〉あるいは〈自由〉へと、他方では〈自然〉へと、私たちの心は開かれている。
 ラヴェッソン『習慣論』に触発された以上のような思考から、他者との関係について、以下のような帰結が引き出せると私は考える。他者との出逢いとは、互いの習慣の間に照応・共鳴が見出され、互いの〈なりつつある〉ものが方向性を共有し〈繋がる〉ことであり、その他者と生活を共にするとは、この習慣を共有し合うことで世界へのいまだ隠された関係性を協同して探究していくことである。