内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

食をめぐる哲学的考察(6) ― 味覚と言語の弁証法(1)

2013-06-22 21:00:00 | 食について

 今日は、朝からから午後にかけて、本務校で今年度後期の学部の追試。その後は久しぶりにオペラ座近くで人と会う。夕食を共にする。

 気心の知れた人たちと食事を共にするのは楽しい。その時、料理そのものが美味しいに越したことはないが、仮にそうではない場合でも、料理に文句を言いながらでも、一緒に食べることが楽しいこともある。もちろん不味過ぎたら、その場の雰囲気もぶち壊しではあるだろうが、今はそのような場合は考えない。なぜ一緒に食べるのは楽しいのか。食べながらだと話が弾みやすいからだろうか。もちろんそれもあるだろう。適度なアルコールが舌を滑らかにすればなおさらのことであろう。しかし、なによりも食べるという行為そのものが共有されているところに楽しさの源泉があるのではないだろうか。では、ただ一緒に食べればいいのか。同じ物を食べれば、その条件として十分なのか。そうではなかろう。それぞれ自分の味覚があり、これは他者のそれとは交換不可能だ。たとえ親子であろうが、兄弟姉妹であろうが、夫婦であろうが、恋人同士であろうが、これはできない。もし一緒に食べている全員が黙々と無表情に食べ物を口に運んでいるだけだったら、楽しくはないだろう。表情や仕草で自分の感覚を伝えることもできるが、それには限界がある。やはり言葉で味覚を表現することによってはじめて、その味覚は共有されうる。あるいは自分と他者の味覚の相違に気づく。それは「美味しいね」とか「甘いね」とか「辛いね」といった単純な表現でもわかるが、自分の味覚をより正確に表現しようとすれば、もっと言葉が必要になる。このようにして、今食べているものについて語り合うことによって、味覚が共有されていく。さらには、味覚だけではなく、それぞれの人の五感によって感じられていることが言葉を通じて伝わり合う。その仲立ちとして食べ物がある。この会話を通じての味覚の共有、これが一緒に食べる楽しさの源泉なのではないであろうか。
 それは感覚を言葉に置き換えるということではない。味覚そのものは言葉ではない。味覚それ自体はそのままで、それに合った言葉を見つけ出すということでもない。味覚についてのより繊細・微妙な言語表現を求めることによって、味覚そのものもより敏感になる。そしてそのように感度・細やかさが増した味覚が、今度は言葉のセンスをより鋭敏にする。そこに働いているのは、味覚と言語との相互発展的な関係、あえて哲学用語を使えば、「味覚と言語との弁証法」とでも名付けるべき動的発展的関係性である。味覚を磨くためには言葉のレッスンが必要であり、言語表現力を高めるためには味覚を洗練させなくてはならない。一緒に食べること、それはこの味覚と言語の弁証法を共に生きることなのだ。それが楽しい。私たち人間は、幸いにも、そのように作られている。