今日午前中はパリの大学で前期に担当していた "Pensée contemporaine" という講義の追試の試験監督。受験者4名。試験時間3時間。試験問題は前後半に分かれ、前半は授業中に解説した日本語のテキストの中から私が選んだ、二つの数行からなるテキストの仏訳。和辻哲郎『人間の学としての倫理学』と丸山眞男「超国家主義の論理と心理」が出典。後半はその二つのテキストから共通する問題を学生自身が引き出し、議論を展開すること求める小論文。こちらももちろんフランス語。時間配分は学生たちの自由。資料・文献・辞書・パソコン・スマートフォンすべて持ち込み可。毎回の授業のためにその都度あらかじめ配信した数枚の資料と授業概要も、授業中に学生自身が取ったノートも持ち込み可。音楽を聞きながら試験を受けたい学生はiPodを持ってきてもいいからとあらかじめ通知してある。「つまり、禁止すること以外は何も禁止されてない」といつも最初の授業で宣言する。こんな「夢のような好条件」はその他の科目の試験ではまったく考えられないことなので、学生たちはだいたい信じられないといった顔をして聴いている。そこですぐにそれに付け加えて、「それはこの授業の単位が取りやすいということを少しも意味しない。なぜなら、取り上げるテキストはすべて日本人にとっても難解なテキストであり、毎回哲学的な問題を扱うから、当然試験問題も難しいわけで、どんな資料を持ち込んだところで、普段からよく考えていない人はとうてい時間内に解答できないからである。したがって、授業内容に本当に興味のない人にはこの授業を選択しないことを勧める」と親切にアドヴァイスする。その当然の帰結として、第2回目の授業から受講者は半減するが、残った学生はそれだけ覚悟があるわけで、そのほとんどは最後まで出席してくれる。ただ、すべて持ち込み可とするのは、試験問題がそれだけ難しいからというだけではない。知識の断片を頭に無理やり詰め込んで、試験の時にそれを吐き出し、その後数週間も経てばあらかた忘れてしまうとすれば、それが一体何の役に立つというのだろう。試験前に暗記の努力で無益に脳を疲弊させて来るよりも、与えられた資料を最大限活用しながら、たとえ3時間という限られた時間だけでも、考えるべき問題を、その場で、真剣に、自分の頭で考え抜いてほしい、と私が願っているからでもある。
第1回目の講義で必ず説明するのは、"Pensée contemporaine" という科目名の contemporaine とはどういう意味か、ということである。日本学科の選択科目であるから日本のことを扱うに決まっているからそれについては問わない。では、日本にとって contemporaine とはいつからのことか、この問いに答えることから授業が始まる。日本での一般的な教科書的時代区分に従えば、明治維新から第2次大戦末までが「近代」で、戦後が「現代」ということになるが、この授業では、まずこの区分を問い直す。フランス語でも、moderne と contemporain とを併置して使用する場合には、その区切りをどこに置くかは人によって意見が違うとしても、時代区分の指標として使われるという点では日本語の「近代」「現代」と同じである。ところが学生たちに「君たちはどの時代に生きているのか」と聞くと、それに対する答えとしては「époque moderne に生きている」という答えも出てくる。この場合、moderne は、過ぎ去ってしまった、あるいはそう認識された時代に対して「今そして今と連続している近い過去も含む、あるいはまた、過去のある時から始まり今もそれが続いている」時代を指すために使われており、まったく正しい用語法である。言い換えれば、いつの時代に生きている人でも、その人たちも、この意味で、époque moderne に生きているわけで、それは何もいわゆる私たち「近代人」の特権ではない。
では、一時期、特にバブル期に日本で大いに流行し、今では死語、とは言わぬまでも、瀕死語であるところの「ポスト・モダン」"post-moderne" とはいつの時代を、あるいは何を指すのか。ここでは日本での当時の軽佻浮薄な議論には触れない。この急性反ヨーロッパ=近代熱狂症候群とも命名すべき、「近現代」日本に特によく観察される社会現象を日本社会の病理の一つとして分析することは、それとして意味がある作業だとは思うが、ここでは、問題の手がかりを掴むために、この語のフランス語での用法により忠実に考えたいからである。この語は、しかし、英語から1970年代末にフランス語に導入されたのに過ぎず、分野によっても定義が違う。それでも、ひとつ言えることは、ヨーロッパでは、post-moderne は moderne への内在的批判として生まれてきた自己規定であり、それは後者の根本的な自己批判契機ではありえても、単にそれを使用期限が過ぎたからと概念の墓場に葬り去ることではなく、ましてや、傍からそれを眺めながら、自分たちはそれをすでに乗り越えたなどと嘯く浮かれ騒ぎなどではありえない、ということである。
それでは、contemporain とは何を意味するのか。それは「何かあるいは誰かが、他の何かあるいは誰かと、同じ時代に生きている」ということだ。例えば、「漱石と鴎外は同時代人 contemporains である」と言うことができる。そこで私は学生たちに問う、「あなたたちは、誰とあるいは何と同時代人なのか」と。より正確に問えば、「あなたたちは、誰とどのような問題を今共有しているのか」ということになる。この 「同時代思想 Pensée contemporaine」 という授業では、西田幾多郎から始めて戦後の哲学者たちまで扱う。すべて私たちと「同時代人であり、同じ問題群を共有する人たち」として。そして、それは、それら哲学者たちを同じ議論の俎上に載せて吟味するということを意味するだけではなくて、「あなたたちにもまた、彼らの同時代人として、彼らが必死になって考え抜いた問題を自分たちの問題として考えてほしいからなのだ。」半ば祈りにも似た気持ちで、学生たちにこう呼びかけることから毎年の授業は始まる。