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中村勘九郎襲名披露興行「瞼の母」@松竹座

2012年09月16日 22時00分09秒 | 歌舞伎・文楽




昨日は松竹座へ芝居を見に行った。
昼の部3幕目「瞼の母」。
土曜日でそこそこ混むだろう、と思ったので、
10時過ぎに幕見席を取りに行った。
おかげで、12席中9番目を確保。

結局12席とも埋まっていたが、
前の3等席はかなり空いていた。
やはり3等で6,000円はちと高い印象なのだろう。

「瞼の母」は長谷川伸が自分の経験を反映した作品、と聞いた覚えがある。
広く言えば股旅物、やくざ物にあたるのだろうが、
「幼い頃生き別れた母を探す子の物語」そのものは、
(やくざ者であることは一つの重要な要素になってくるにせよ)
特殊な人の特殊な物語、と言わなくてもよいストーリーだと思う。

「番場の忠太郎」が新勘九郎、
その母親である「水熊のおはま」に玉三郎。
おはまの娘(忠太郎の妹)「お登勢」が勘九郎の弟である七之助、という配役。

忠太郎の弟分である「金町の半次郎」は実家に匿われている。
半次郎の母は忠太郎が訊ねていってもやくざ者であり、
倅がまた巻き込まれるのでは、と思って会わせようとしない。
忠太郎は、その半次郎の母の情を見て、羨ましく感じることになる。
やくざ者であると、堅気の母親から忌避される、というのは、
後でおはまが、尋ねてきた忠太郎を倅として拒否する仕込になるのだろう。

勘九郎の忠太郎はごくあっさり、やくざ者の爽やかさを見せる、という程度。
半次郎の母親は竹三郎で、少し台詞の間や強弱に違和感はあったが、
母親の情がそれなりに出て悪くなかった。

次の場は料亭岩熊の裏。
突き出されてきた夜鷹を助け、
自分の母親ではないか、と尋ねて
その身の上を聞き、金を恵んでやる忠太郎。
この夜鷹、チラシでは名が出ていなかったが誰なんだろう。
ここまで身を落とすに到った悲哀などが出ていて良かった。

次が「岩熊」の中。
おはまとお登勢の母子が話している幸せそうな場面。
お登勢が座敷に出た後、表の喧嘩の声を聞き、
おはまは忠太郎を呼んで帰らせようとする。
そして忠太郎が入ってきて、おはまに「おっかさん」と呼びかけ、
おはまは「番場にいたことはいたし、忠太郎という子がいたのは確かだが、
もう死んだ、お前がその忠太郎であるはずがない」と拒絶する。
「金をたかりに来たのか」というおはまに対して
忠太郎は「おっかさんが貧しかったらいけないから、と金は持っている」と
金を出して見せる。
おはまは「母を探しているんだったら、何故堅気であってくれなかったのか」と言い、
忠太郎は「両親に死なれて堅気になれ、と言うのは惨いこと」と嘆く。
そして「自分で瞼の母を消してしまった」の名文句を残し、
忠太郎はお登勢とすれ違いつつ、出ていってしまう。

入ってきたお登勢におはまは泣き伏し、
忠太郎を呼んで一緒に暮らそう、と探しに出る。
自分を殺そうとする浪人ややくざ者を斬った後、
隠れていた忠太郎は2人に呼ばれているのに気付いたが、
一緒に暮らすことは出来ない、と2人の前に顔を出すことなく、
また旅に出て行く。

この芝居、忠太郎に感情移入すべきなのかも知れないが、
個人的にはおはまの側に感情移入して見てしまった。
お登勢への告白では直接は言っていないが、
おはまとしては「ようやく死んだと思って自分を納得させたのに、
今になって出てこられても気持ちの整理がつかない」がメインなのではないか、と思う。
それは「こないだまで泣いて暮らしていた」というところからも伺える。
仮に忠太郎がやくざでなく、
堅気の人間としておはまの前に顔を出したらどうなったか?と考えた時、
やはり目の前の忠太郎の親である、と認めなかったのでは、と感じる。
やくざ者であったので、
「ゆすりではないか」「お登勢に迷惑がかかる」と考えやすかったのは確かだろうが、
それが本筋ではないように感じた。

そう考えたからか、個人的には
「おはまが泣き伏す」とか「探しに行く」といったところが、
饒舌であり、蛇足である、と感じてしまった。
「自分で瞼の母を消してしまった」悲しみを湛えたまま、
忠太郎が花道を去っていく、で終わってしまって良いのではないか、と思う。
確かに最後に忠太郎が若干の未練を見せつつ、
旅に出ていくのは良いのだが、
そこに到る探す場面、
或いは「探してくれ」と言われたことを利用して忠太郎を斬ろうとする
浪人者ややくざ者の登場など、
芝居としての濃度が下がってしまうように感じる。
それ位ならば、余韻や引っ掛かりを残しつつ、
探したりせずに幕切れを迎えた方が良いのでは、と思った。

メインの「母子」の対面、
勘九郎と玉三郎の感情のずれ、ぶつかり合いは良かった。
個人的には玉三郎ってあまり好きではないのだが、
特に玉三郎の憂い、「岩熊」の女主人としての風格、といったものが大きく、
勘九郎の芝居を充分に受けていた印象。
後で歩くところは、女形としてやけに不安定に感じてしまったが。
勘九郎も大きく、
突っかかったり落胆したりする動きを見せていた。
七之助のお登勢は可愛らしさと、
母親の正直な気持ちをぶつけ、受け止める強さが出ていた。
このテキストの好き嫌いは兎も角。

2時間近くの芝居で、
金町の場面では少し眠くなることもあったが、
全体には若干クサめではあるにせよ、分かりやすい芝居だった。
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2 コメント

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名脇役に光を (明彦)
2012-09-16 23:26:50
こんばんは。大賞受賞者の会で、それとは知らずお会いしていたようですね。
夜鷹役は、歌右衛門の弟子の中村歌女之丞です。
去年の新歌舞伎座での「引窓」のお幸では、ちょっと遠慮がちに思えたのですが、
今回は哀しみに加えて、忠太郎への感謝が対等な人間同士の「情」に変わっていくことが伝わって来てよかったですね。
こういった「幹部未満のベテラン名題」が、結構大役を勤める時でも、チラシでもパンフの筋書でも名前を出させて貰えないのが、歌舞伎の暗部なのでしょうね。
『瞼の母』実は今回初めてちゃんと観たのですが、おっしゃる通りベタなようで様々な解釈の出来る、一筋縄でいかない世界だと思いました。
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同感です。 (kkmaru)
2012-09-17 04:11:22
コメントありがとうございます。
中村歌女之丞でしたか。

脇役に光が当たっていない、というのは全く同感です。
血縁主義が全て悪いとは言いませんが、
例えば一度も歌舞伎に出ていない香川照之に中車を襲名させるのが適切か、とか、
名脇役であった先代又五郎、多賀之丞といった人々の子が役者になっていなかったり、途中で辞めたりしている事実、
「良い脇役がいない」と嘆く前に、そのような状況を作っている原因を排除し、少しでも良い脇役が出てくるような状況を作って欲しい、と思います。
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