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歴史ブロガーの「東山道をめぐる攻防の地を訪ねて」 前

2012年07月15日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

歴史ブロガーの「東山道をめぐる攻防の地を訪ねて」・・・清岸寺・蓮華寺・居醒の泉

 

歴史ブロガーの「東山道をめぐる攻防の地を訪ねて」

 

米原駅前 

米原駅から東へほんの100m、旧中山道を越えてちょっと太尾山の西麓の清岸寺。

(旧米原尋常高等小学校のすぐ東側にある駐車場がある。

清岸寺

 楼門をくぐると、一面のイワヒバが青々として広がっています。これは自生したもので、このお寺は別名、「岩桧葉の寺」とも。

創立は南北朝時代の中期、近江の守護職だった佐々木京極道誉によって開創され不動山米泉寺と呼ばれていました。その後延文年間(1356~61)に自ら法華経八巻を書写し、その最後の一軸(太尾)をこの寺に奉納して祈願所としました。

現在の背後の山を太尾山とするのはこのことからです。太尾山城祉 - harimaya.com京極の城跡が・・・(未訪問…秋にお庭・予約して食事と城跡を
 佐々木六角太夫判官氏頼 もこの寺に参詣のおり、開創時からの来歴を聞き感ずるところがあって諸堂を修理するとともに、金剛仏師讃岐法眼尭尊に命じて聖観世音菩薩を刻ませ安置しました。

御厨子の中からしずかに微笑んでおられます。

体内には佐々木六角太夫判官氏頼が常に念持して戦場におもむく時も旗竿の中にいれて離さなかったと言われる八寸ほどの観音像が納められています。

 江戸時代に入って曹洞宗彦根大雲寺三世の要津守三和尚がこの寺を訪れ余りの荒廃ぶりに心を痛め、この寺の再興を決意して慶安三年(1650)小堂に居を移しました。これを知った敦賀の伊藤五郎助は私財をなげうって自らの力の限りを尽くしたので諸堂・伽藍は整い、寺は完全に復興しました。
 しかし復興後まもなく五郎助は他界しました。これを悼んで五郎助(諡を青岸宗天という)の中興の功績を讃え永く伝えるために吸湖山清岸寺と改称しました。

和洋折衷の石灯篭---(上部には仏像、下部はキリシタンの十字形をしている寄せ灯篭)。

<仏法を伝える名勝庭園>

 この寺は名勝清岸寺庭園として知られています。非常に多くの石を使い、豪華にして仏法の理を込めた意味深い庭園で延宝六年(1678)の作です。
 約三百坪の広さにまとめられた回遊式と観賞式をかねた築山林泉式の枯山水庭園で、興欣和尚が築いた当時の姿を現在に伝えています。

蓮華寺

 

誰一人訪れない、時が止まったかのようにひっそりとしてた、北条仲時公以下430余名のお墓

寺伝では、北条仲時公以下430余名のお墓は、寺の境内に散在していたが、江戸時代、井伊の殿様が馬で蓮華寺を訪ねたとのこと。
 その夜、仲時公が、夢に現れ「馬で見下ろすとは、何事」といわれ、北条仲時公のお墓は、向かいの山の頂上に移転したとか
お墓も、このように、集めて、整然とお祭りしたようです。

北条仲時は元弘3年(1333)5月7日の六波羅探題陥落の際、北朝の光厳天皇、後伏見・花園上皇を伴い中山道を鎌倉へと東走しますが、近江国番場宿(ばんばのしゅく)(現、滋賀県米原市番場)にて佐々木京極道誉らに行く手を阻まれ止むなく蓮華寺に籠り応戦したが、5月9日、奮戦空しく本堂前庭で自刃して果てました。
仲時は自害する際、配下の者たちに「我が首を敵に奉じて手柄にせよ」と言い残しましたが、配下の者たちも仲時の後を追うように自害して果て、その数は432名を数えました。                                                                                           蓮華寺の住職が深く同情し、境内に墓を建ててその冥福を弔い、彼らの姓名と年齢を一巻の過去帳に記しました。それが国宝『陸波羅(ろくはら)南北過去帳』(『六波羅過去帳』)です。中には中学生くらいの年頃の者、姓がなく名のみ記載されている者が多く見られます。

蓮華寺の本堂の裏に‐‐‐長谷川伸の戯曲『瞼の母』で一躍脚光を浴びた山里の宿場町(番場の宿)です。

付近には一向上人開山と伝わる蓮華寺や、脇本陣跡といったみどころがあります。

国道21号線番場の陸橋に「忠太郎像

居醒の泉

 古事記」、「日本書紀」にも記載されている日本武尊が伊吹山の荒ぶる神の毒気にあたったとき、その高熱を源流の水で癒したという「居醒清水(いさめのしみず)」、「居醒の泉」と記載されている。

峨天皇の時代、百日を越える旱魃が続いたことがあった。降雨の命を受けた伝教大師は、夢の中で、「東に清浄な泉がある。そこへ行って雨を求めよ。」とお告げを受ける。伝教大師が泉を尋ねてこの地に来た際に、白髪の老翁が忽然と現れ、「私はこの水の守護神である。ここに地蔵尊の像を刻み安置すれば、雨が降り草木も生き返るであろう。」と言って水の中へ消えた。早速石工を集めて坐像を刻んで祈念したところ、大雨が三日降り続き、緑は甦ったという伝説が残っている。

(透明な水に梅花藻の白い花

宿場の道路は、とても清らかな冷たい水が流れ、ハリヨも梅花藻もこの冷水の中に繁殖する。季節でもないのに梅花藻が小さな花を付けている。ハリヨも梅花藻と共に天然記念物として保護されている。

 

木彫の里上丹生」 は、木彫りの里(仏具・欄間・・・)ヒコニャンの木彫が?醒井木彫美術館(森大造記念館)の前

 

水彩の画家さんグループ約20人が観光客に目もくれず!

ヴォーリス建築 旧米原 醒井郵便局跡、今は醒井宿資料館

醒井 水の宿駅で昼食予定、満席・時間がない

やむなく、醒ヶ井駅前の布屋食堂で「冷やしぶっかけそば」

 JR東海のさわらかウォーク!に参加者約800名+観光バス+水彩画グループ・・・

 

 

・参考資料:現地説明はご住職、文化財保護課(県)・現地説明板、パンフレット、HP・BLOG等々

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