城郭探訪

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歴史ブロガーの「東山道をめぐる攻防の地を訪ねて」 中

2012年07月15日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 

  

成菩提院

正式には寂照山円乗寺成菩提院と称提院するこの寺は、弘仁6(815)年に天台宗の開祖最澄が談議所を建てたのに始まり、のちに延暦寺の別院の一つとなりました。
 嘉暦元(1326)年、越前白山平泉寺の衆徒が乱入して全焼しましたが、69年後の応永2(1395)年に貞舜が再興しました。
 記録によると、戦国の武将織田信長・豊臣秀吉・小早川秀秋など有名な武将が宿営しています。

 寺領は160石余りで、末寺は80ヵ寺余り、また寛文5(1665)年の調書によると64坊、僧侶103人とあり、大きな寺院であったことが伺えます。
 絹本著色聖徳太子像など、多くの文化財があります。また、

      山門の竜はあまりにも出来がよかったために、本物の竜となって村里にあらわれ、大洪水を起こしたとの逸話があります。竜を止めるために、その目には大きな釘が打ち込まれているということです

 柏原宿柏原宿は、江戸時代、344軒の家数を数え、22軒の旅籠と多くの店がひしめく、中山道の中でも大規模な宿場町としてにぎわいました。長さが1.5kmと近江国最大級の宿場で、昔ながらのまちなみを残しています。この辺りは、伊吹山の麓にあって薬草の生産地として知られ、特に「もぐさ」は上質のものとして古くから有名でした。

      柏原宿は、伊吹山の麓にあって薬草を使用したもぐさの生産が盛んでした。、現在ももぐさの販売を続けている亀屋。

 織田信長と伊吹山の薬草園・・・HP
作成:筒井杏正

伊吹山には薬草園が作られていたことはよく知られていますが、当時から伊吹山が薬草園の適地であったことと、そこには豊富な薬草が自生していたことにも,織田信長が薬草園を開かせた理由の一つと思われます

ポルトガル宣教師日本でキリスト教を布教し貢献した聖フランシス・ザヴィエル 織田信長ポルトガル宣教師の進言を受け伊吹山での薬草園開設を許可した織田信長

 さて、その内容を察するに、織田信長が安土城にいた永録年間の頃、ポルトガルの宣教師と謁見した際、宣教師が人の病を治すには薬が必要であると、そのためには薬草栽培が必要であることを進言したそうです。また、もう一説には、鉄砲火薬の原料となる植物も含め移植したとも
 その進言を受けて信長は伊吹山に薬草園の開設を許可したのです。50ヘクタールという広大な薬草園には、西洋からもってきた薬草が3000種類も植えられていたと言われています。

 

柏原宿資料館の土間のようで、 住居部分も見学出来ます。

  

 寝物語の里の目標が、何故ここに?(安藤広重の「木曽街道六十九宿」に描かれた今須宿の図は、この地を描いたものです。現在宿等はなく、石碑のみが建っている。)

近江と美濃の国境は、この碑の東10m余にある細い溝だった。この溝を挟んで両国の番所や旅籠があり、壁越しに「寝ながら他国の人と話合えた」ので、寝物語の名が生まれたといわれている。
また平治の乱(259年)後、源義朝を追ってきた常盤御前が「夜ふけに隣り宿の話し声から家来の江田行義と気付き奇遇を喜んだ」所とも「源義経を追ってきた静御前が江田源蔵と巡り会った」所とも伝えられている。
寝物語は中山道の古跡として名高く、古歌等にもこの名が出ていたり、広重の浮世絵にもここが描かれている。
~ひとり行く 旅ならなくに 秋の夜の 寝物語も しのぶばかりに 太田道潅~

伊吹山のふもとの柏原という宿場に代々つたわるもぐさや「亀屋」に番頭福助がいた。           この番頭は正直一途、お店の創業以来伝えられた家訓をまもり、ふだんの日は裃を着け、扇子を手放さず、道行くお客さんを手招きしてもぐさをすすめ、お客に対して感謝の心をあらわしおべっかを言わず、真心で応え続けた。そのため商売が大いに繁盛し、主人もたいそう福助を大事にした。         やがてこの話が京都にも広まり伏見人形屋が耳にして、福を招く縁起物として福助の姿を人形にうつしたという当時は、茶店や旅籠も兼業していたという。

  

最澄が創立したという明星山明星輪寺泉明院への道しるべである。
宿内東に、同じ薬師仏を本尊とする長福寺があったので、明星山薬師道、西やくし道とも呼んだ。太平洋戦争までは、眼病に霊験ありと賑わったが、門前の明星村も消え、今は往年の面影がない。
この道標は享保2年(1717年)と古く、正面が漢文、横二面が平仮名・変体仮名を使った二つの和文体で刻まれている。 

お茶屋御殿跡

お茶屋御殿跡の小公園

お茶屋御殿跡と郷宿(ごうやど)跡がある。郷宿とは脇本陣と旅籠屋の中間で、武士や公用で旅する庄屋などに使用された旅館である。         皇女和宮宿泊の本陣とか、この宿場は中山道4番目の規模だったと。                                                      柏宿企画展 「中山道と和宮下嫁展」開催中、撮影禁止:チラシ20120710~819をhttp://plaza.rakuten.co.jp/t036kkk/diary/201207150000

脇本陣は、大名・幕府役人・宮家・公卿・高僧他貴人が、本陣を利用できないときの、公的休泊施設である。柏原宿は南部本陣の別家が本陣同様江戸時代を通して務めた。間口は、屋敷は228坪、建坪は73坪あったと。

  柏原宿は、江戸時代、344軒の家数を数え、22軒の旅籠と多くの店がひしめく、中山道の中でも大規模な宿場町としてにぎわいました。長さが1.5kmと近江国最大級の宿場で、昔ながらのまちなみを残しています。この辺りは、伊吹山の麓にあって薬草の生産地として知られ、特に「もぐさ」は上質のものとして古くから有名でした。

 

 

・参考資料:現地説明はご住職、文化財保護課(県)・現地説明板、パンフレット、HP・BLOG等々

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