城郭探訪

yamaziro

石田三成の隠岩窟(オトチ洞窟)  近江国(木之本)

2011年08月23日 | 武将

石田三成が関ヶ原の戦いに敗れた後、逃亡し、隠れていたと岩窟

ついに三成が・・・。

 その三成が最後に隠れていたとされる洞窟が木之本町の古橋に2011.9.18に放送されました。

別 名:大蛇の岩窟・オトチの洞穴

所在地:長浜市(旧:伊香郡)木ノ本町古橋  map:http://yahoo.jp/VxsrzR

目標地:己高庵

区 分:隠れ岩窟

標 高:410m 比高差:林道の登り口から230m

現 状:山林

遺 構:岩窟・説明板

時 代:戦国期

武 将:石田三成

駐車場:己高庵から林道を2kmで登り口、林道の登り口から900m、比高差:230m(40分)

訪問日:2011.8.20

己高庵の駐車場にある案内板 

岩窟の概要

右に法華寺を見ながら、林道を約2km進み(途中、1km地点で林道はY字で左手に進みます)、登り口に標識と説明板がありますので、そこから登ります。 林道入口から登り口まで、林道には、貝洞、谷ケ平、居張滝、藤蔵ケ谷、仏の谷、ヒル谷、東荒谷、西荒谷などの標識があります。

 林道の登り口からきついつづら道を登ります。山道にも各所に標識がありますので、迷うような心配ありません。 岩窟入口には石田三成の家紋の入った幟があります。その左手方向に岩窟への入口があります。 岩窟への入口は大人一人がやっと通れるような竪穴で、内に入るために梯子が取り付けてあります。内部は入口とは別にもうひとつ岩の割れ目があり、そこから光は差し込むものの、真っ暗です。今は相当に埋まってしまったようですが、当時は25平米ほどの広さはあったと言われるようです。懐中電灯が必要です。

岩窟のある山中は、岩窟もせまい竪穴であることもあり、また、この地区はクマの出没するところであり、単独行動は危険です。

歴 史

 慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いに敗れた石田三成は、再起をかけて逃亡し、この山中に潜伏した。

 しかし、徳川家康の命で探索をしていた田中吉政(虎姫・三川城主)の手のものに捕縛され、大津城にあった家康のもとに連行され、その後、六条河原で処刑されました。

 この古橋は三成の母の出身地であり、三成が幼少の際は法華寺に修行したとも伝わるため、縁のあるこの古橋に逃げ延びたようです。 

最後の緩(ゆる)やかな坂をたどると、迎えてくれる。さあ、到着です!

オトチ洞窟、オトチ(オロチ)=大蛇のことだそうで!

唯一ビューポイント琵琶湖が見る。

最後の緩(ゆる)やかな坂をたどると、迎えてくれる
林道から、石田三成の隠岩窟まで約30分・・・これがキツイ!前日の雨で登山道はヌカルミ、水が流れている所も・・・・!

関ケ原の合戦

石田三成は、関ヶ原で野戦を挑むこととなる。

 そして9月15日、豊臣臣下の東軍(徳川家康)と西軍(石田三成)による天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いいが始まった。当初は西軍優勢であり、石田隊は6,900人であったが、東軍:細川忠興・黒田長政・加藤嘉明・田中吉政ら兵力では倍以上の敵に幾度と無く攻め立てられたが、高所という地の利と島左近・蒲生頼郷・舞兵庫らの奮戦もあって持ちこたえた。しかし西軍全体では戦意の低い部隊が多く、次第に不利となり、最終的には小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなり、三成は戦場から逃走して伊吹山に逃れた

 その後、伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れた。その後、春日村から新穂峠を迂回して姉川に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入った。そして、小谷山の谷口から高時川の上流に出、古橋に逃れた。
 しかし9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政(近江・三川城主)の追捕隊に捕縛された。

 一方、9月18日に東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継を初めとする石田一族の多くは討死した。

 9月22日、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後家康と会見した。9月27日、大坂に護送され、9月28日には小西行長、安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回された。9月29日、京都に護送され、奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれた。

10月1日、家康の命により六条河原で斬首された。享年41。首は三条河原に晒された。

 辞世は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」。

後、生前親交のあった春屋宗園・沢庵宗彭に引き取られ、京都大徳寺の三玄院に葬られた。

大徳寺三玄院前の石田三成墓所石碑

参考資料:ウィキペディア

  今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


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