城郭探訪

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前田慶次:屋敷跡発掘調査 「無苦庵間違いない」

2015年11月03日 | 武将

「かぶき者」として知られる戦国武将・前田慶次が晩年住んだと言い伝えが残る山形県米沢市万世町堂森で発掘調査を行った「米澤前田慶次の会」と、調査を指導した同市教委は2日、「慶次の無苦庵(むくあん)の屋敷跡にほぼ間違いない」と発表した。納屋などと見られる直径20〜30センチの柱穴約20基や、四方から見つかった土塁や堀の工法が江戸時代初期のものと合致することなどから、慶次の武家屋敷跡との認識を示した。【佐藤良一】

 調査は10月下旬に開始。民家脇の畑を含む東西100平方メートルなどを深さ約20〜30センチ掘ったところ、柱穴約20基を発見した。約20センチの柱穴群は塀や柵、並列した状態の約30センチの柱穴群は納屋か作業小屋のものとみられるという。

 調査地の北と東の外側では「V字型」の堀が、南と西の外側からは高さ約1メートルの土塁が見つかった。堀は「薬研堀(やげんぼり)」、土塁は「版築(はんちく)」と呼ばれる工法で造られており、慶次が米沢に住んだとされる江戸初期の技法と見られるという。

 測量の結果、屋敷全体は東西109メートル、南北72メートル四方の広さがあったことが判明。同市教委文化課の手塚孝主任は「この広さなら武家屋敷に間違いない」と断言した。屋敷の母屋は地形から判断して、中心にある現在の民家付近にあったと考えられるという。

毎日新聞 「無苦庵」屋敷跡を報道陣らに説明する米沢市教委の担当者=米沢市万世町で2015年11月2日・・・佐藤良一撮影

  土塁からは、古伊万里焼の茶碗片1点が見つかったほか、柱穴群からは白磁皿片1点、堀からは木坑1点が出土した。屋敷跡は、慶次が生活に利用したといわれる「慶次清水」と約300メートルの水路でつながっている。

 慶次は1602年、上杉景勝とその家臣直江兼続を慕って米沢に住み、12年に堂森で死去したと伝えられているが、死亡場所には諸説ある。慶次の会によると、上杉氏の米沢藩が、慶長年間(1596〜1615)初期に編集したとされる村勢一覧「邑鑑(むらかがみ)」には、堂森地区に武家屋敷の記載はないという。同会の梅津幸保会長は「編集後に慶次が居を構えたとすれば理屈に合う」と話し、「400年前から堂森一帯に伝わる慶次居住の痕跡を確認できた」と喜んだ。

 3日午前8時半から午後4時まで一般向けの現地説明会を行う。慶次の供養塔がある善光寺北側で。雨天決行。4、5日に埋め戻し、来年3月までに報告書をまとめる予定。

 慶次はドラマや人気漫画の主人公として取り上げられ、一時ブームが起きた。今回の調査結果で、さらにファンが訪れそうだ。

情報:毎日新聞


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