お城のデータ
別 名:山本城・阿閉山城
現 状:山林
区 分:山城
遺 構:
標 高:324m 比高差:235m
築城期:治承4年(1180)
築城者:山本義経
城 主:阿閉氏,浅見氏,阿閉氏
目標地:宇賀神社(湖北町津里)
駐車場:宇賀神社駐車場
訪城日:2014.9.23
若宮古墳へ(宇賀神社登り口より)
山本山城へ(宇賀神社登り口より)
お城の概要
賤ヶ岳から南に派生した尾根の南端の頂部にある。 頂部が主郭で南に二の丸その東に三の丸を配し、主郭から北側に続く尾根にも馬場などの曲輪群がある。
宇賀神社より800mと標識には書いてありますが、急でジグザグな山道はけっこうきつい。若宮古墳を見学しながら!
30分程度で二の丸に到達します。二の丸は公園化され、南側遺構が破壊されている。主郭は四方を巡る土塁はよく残り。主郭の北側には見当杭と呼ばれる杭が建っていた高まりがあります。この高まりは往時は櫓台であったろうと想像できます。その先は堀切があり、さらに先は馬場があります。馬場の先には宗教関連の碑があり、その先には連続堀切があるようですが連続堀切が続きます。二の丸から見る琵琶湖は絶景。
西麓にある朝日山神社脇から登ることもできる。麓から重機「山上二の丸の公園化のため」で取り付けたハイキング道を登りつめると三の丸へと着く。ここは土塁が背後を固めているがハイキング道が曲輪内を突き破っている。 更に登ると二の丸に出るがここは緩やかに南に傾斜している。 これを北側に進むと主郭となり、土塁で囲まれた曲輪となり、南北東に虎口がある。ただ、北側はハイキング道用に取り付けたような感じもする。
主郭の北は空堀を経て一番馬場、二番馬場となり、ここは土塁が残っている。 ここから北側は土橋の架かる空堀と曲輪の連続である。
歴 史
平安時代末期に山本兵衛尉義経が籠った山本城がこの城であったと云われる。 その後京極氏の被官阿閉氏の居城となったが、永正年間(1504年~1521年)頃には浅見氏の居城となっていた。 浅見氏は一時期浅井亮政と対立したが後にその傘下に組み込まれ再び阿閉氏が城主となった。
治承四年(1180年)に山本義経の本拠地である山本山城を平知盛・資盛が攻めたと言う記録があるようです。山本氏は、源氏の旗揚げとともに平氏打倒の挙兵をし木曽義仲の上洛を助けますが、義仲の滅亡とともに没落します。戦国期は浅井氏の家臣の阿閉氏の居城となりますが、織田信長の小谷城攻めの時に阿閉氏は織田氏に寝返ります。山崎の合戦時は明智光秀に味方し、秀吉方の攻撃で城は落ち廃城となります。
織田信長による小谷城攻撃では、阿閉氏の籠る山本山城が天正元年羽柴秀吉謀略によって開城となり、小谷城は孤立し落城した。
二の郭からの眺望(琵琶湖)
二ノ丸到着(公園化)
主郭へ
尾上城(尾上漁協・小江神社一帯)
近世の有力者であった「滝本藤太夫」の屋敷付近が尾上城の跡だと云われている。小江神社の西側一帯で、かつて礎石が十二個並び、「十二石」あるいは「城ヶ石」と呼ばれていた。
文治年間(1185年~1190年)に浅見実勝によって築かれたと云われる。山本山は浅見氏の詰め城として!浅見氏は湖北の有力国人となったが、浅見俊孝のとき浅井亮政によって攻められ高島新庄へ退いたと云われる。
三の丸へ
三の郭堀切 三の曲郭の土塁南側は重機で破壊され!
堀切があり、さらに先は馬場があります。馬場の先には宗教関連の碑があり、その先には連続堀切がある
見学会参加者の記念撮影
昭和37年までの小学生の通学路を下山
本日の歩行数15,797歩
実歩行時間2;52
歩行距離 11.8km
消費カロリー384.9kcal
脂肪燃焼量54.9g
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、長谷川博美(城郭研究家)の資料・説明
本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!