城郭探訪

yamaziro

北坂本城(北坂城) 近江国(愛東)

2014年10月07日 | 戦国山城

坂本神社から、徒歩で登城しましょう!

林道脇に、山麓遺構がたくさんあります。(実線は林道、点線は城道)

 

曲郭で櫓台(最高所)

お城のデータ  

所在地:東近江市北坂町     (旧愛知郡愛東町北坂町 )      map:http://yahoo.jp/z1Rt4y

別 名:北坂城

現 状:山林

区 分:山城

標 高:520m   比高差339m  琵琶湖湖面から425m

築城期:永正~大永年間

築城者:百済寺カ

城 守:井関源三郎、源四郎

遺 構:曲輪・土塁・堀切・竪堀・石列

城 域:200m×200m

目標地:坂本神社

駐車場:坂本神社前に路上駐車 

訪城日:2014.10.7

お城の概要

 百済寺の北方の山上に築かれ、眺望は抜群で湖東平野が一望でき、百済寺防衛を担っていた城郭と考えられている。

城跡は鈴鹿山系の丘陵地帯に張り出した舌状尾根のピークに築かれ、背後を堀切で遮断し、城内には巨大な櫓台5m×5mがを伴っている。

 土塁の西側が40m×25m程の郭で、中間に小さな段差があり二段になっている。下段には三方に土塁が廻り、西に平虎口が開いている。土塁の外側には石列が入れてある。なお、下段の郭に二か所の窪地がありここで狼煙をあげ、寺に急を知らせたのだろう。

 

歴 史

 百済寺の領地の一部だった百済寺戊(通称・北坂)といい、百済寺領で、中世に湖東平野が一望できる丘陵地に北坂本城(標高五百二十メートル)が築かれている。 百済寺の北方の山上に築かれ、眺望は抜群で百済寺防衛を担っていた城郭と考えられている。

百済寺全盛時、井関源三郎、源四郎が在城したとされるが、井関氏に関し地元に伝承がなく、城番として在城したと考えられるものの、詳細は不明である。

河内大掾井関十兵衛家重 15」 に

井関源左衛門 同
 井関の一族は細工以外に歴史に記述されることが珍しい旧佐々木源系なのですが、此の人物は、永正から大永年間に百済寺戊の北坂本城に在った井関源三郎、源四郎に連なることは無いのでしょうか。信長の近習を勤めていたころに信澄に・・・云々

道案内

名神高速ガードをくぐり、50m先の坂本神社Y字路(小さな案内板)を左斜めに入る。100m弱行き川沿いに出て橋を渡り、林道を1.5km程上るが、普段は橋の所で施錠され入れない。(林道が閉鎖されている場合あり) 林道を上っていくと左手に小さな案内板があるので林道脇に駐車し、城道を20分程登ると城跡に至る。 

送電線の下伐採(下草)

林道の右に案内板・・・ここから郭へほぼ直登しました。帰りは城道を無事に下城しました。

下城時、城道に3つ目案内板!石列

此処で城道に

山上平削地【主郭】に到着

頂部に曲郭虎口「岩で囲われた狼煙穴」カ?

櫓台最高所(5m×5mの削平地)、この西は自然の地形で大堀切に

南側の伐採で湖東平野を一望

観音寺城・箕作城・小脇山城・荒神山城・・・街道(中仙道・下街道・高野道・八風街道)

下城します。

城道を、途中低土塁・武者隠し・枡形虎口が!(写真は、下向きに撮ってます)

林道に下りました

林道に赤テープは、曲郭・土塁・城跡の遺構が残存

10月1日~11月閉鎖(松茸シーズン) 施錠されていて、侵入に難儀したが・・・立ちはだかる敵(獣害柵)を突破。上杉鷹山の(為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり) の思いで!

 ・・・どんなことでも強い意志を持ってやれば必ず成就するということで、やる気の大切さを説いたことば。

 江戸時代後期、米沢藩主の上杉鷹山(故ケネディー大統領の日本の政治家発言で大騒ぎなった)が家臣に「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」という歌を教訓として詠み与えたという話は有名。

また、それより以前に武田信玄が「為せば成る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人の儚さ」という、よく似た歌を詠んでおり、上杉鷹山の言葉はこれを変えていったものといわれる。「為す」は、動作や行動をするという意味。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭大系  

              本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!      

 よみがえる歴史ロマン秋まつり 北坂本城のろし駅伝                                                                                                            

◇東近江・愛東(滋賀報知新聞 平成21年11月29日(日) 第15508号)
 東近江市北坂町で二十三日、第二回北坂町活性化祭が開かれた。歴史を知ることで地域の活性化と愛着を持ってもらうことや秋の収穫を地域みんなで楽しもうと、北坂のろし駅伝実行委員会と北坂ドリームファームが催した。
 百済寺の領地の一部だった同町は、合併前の旧名を百済寺戊(通称・北坂)といい、百済寺ゆかりの地域で、中世に湖東平野が一望できる丘陵地に東北坂本城(標高五百二十メートル)が築かれている。
 当日は、愛東地域の歴史研究会「愛史会」や地域教育協議会などの協力を得て、子供からお年寄りまでが百済寺の歴史、北坂町の歴史、城山として築かれた北坂本城についての知識を深めた。
 午前中は、子供たちが城山に登り、山頂での宝探しや写生を楽しんだほか、能面彫刻研究室主宰の坂ロ裕子さんによる記念講演「北坂本城とイセキ能面」や、NPO法人城郭遺産による街づくり協議会の中井均理事長の講演「戦国・愛東の城―北坂本城を中心に―」などが行われた。
 一方、近江中世城跡保存団体連絡会(近江のろしの会)が呼び掛けよるイベント「近江中世城跡琵琶湖一周のろし駅伝」にも昨年に続き参加し、澄み渡る青空に向かって発炎筒を使ってのろしを上げた。
 第八回目を迎えたのろし駅伝は県下四十四か所で行われ、北坂本城から上げられたのろしは、勝楽寺城(甲良町)から受け継ぎ、観音寺城(安土町)へと引き継がれた。



最新の画像もっと見る