城郭探訪

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灰塚山城   近江国(栗東)

2014年03月20日 | 丘陵城

灰塚山城(遠景)金勝寺川より

お城のデータ

所在栗東市川辺 map:http://yahoo.jp/7KwyEZ

現 状 :山林・灰塚山古墳群

区 分::丘陵

遺 構 :曲輪・虎口・堀切・狼煙台や物見台

築城者:小槻氏カ、青地氏カ

:築城期 :

駐車場:栗東市出土文化財センター

訪城日:2014.3.16

お城の概要

灰塚山城は、安養寺山の西端に派生した 独立丘、灰塚山にあったとされる。山頂からは栗東地域が見渡せないが、灰塚山のすぐ南麓に「金勝川の水上交通」にも優れ、「東海道の交通の監視」も出来る立地だ。
灰塚橋~栗東市出土文化財センター(車を駐車~西の丘陵が灰塚山城)

登城口・・・名神高速道路のトンネル手前を西に

灰塚山は城山というよりも灰塚山古墳群があることで知られている。古墳は山の稜線上に5基の円墳が並ぶ。
城はその古墳群を利用して築かれ、古墳に付随するように堀切等の城遺構が確認できるが、居住するほどの改修ではないことから、狼煙台や物見台程度のものではなかったかと感じる。

お城の歴史

 灰塚山は、栗東(栗太郡)の名の由来となった栗の大木を燃やした灰が積もってできた山だという古代伝説がある。
奈良~平安時代に栗太郡の中心的な役所・栗太郡衙があった岡遺跡と、これを支配した小槻氏の拠点(小槻大社付近)が灰塚山南西のすぐ近くにあった。

登城口・・・名神高速道路のトンネル手前を西に

土塁と横掘 

       土塁と横堀 横堀

       最高所(主郭5m×10m)虎口最高所(主郭5m×10m)

上段の帯曲輪最高所(主郭5m×10m)
  灰塚山は、安養寺山の西にちょこんと突き出た半独立丘です。南に金勝川が流れ、周囲には灰塚池や目川池などがあることから、かつては氾濫原に囲まれていたものと推測されます。城としての史料はほぼないので、灰塚山1号墳に関する記述を追ってみたのですが、「大きく破壊され」などと書かれているものが多かったです。実際には、城跡としての遺構は結構残っているので、古墳時代愛好家の方々からみると、中世城郭は古墳の破壊者としか映らないのかもしれません…。

 山頂への登山道はとくにないようなので、適当に山肌を直登します。冬場だったとはいえ、とくに樹木が深いわけでも、ヘビや熊の心配があるわけでもないので、登頂は難しくありません。城は、山頂の主郭を中心に、2段ほどの帯曲輪がめぐる構造となっています。

北麓を名神高速が走っており、こちら側は工事によって破壊されている可能性が高いと思われます。主郭の周囲をめぐる土塁が比較的良好に残っており、これによって灰塚山が城跡であることが確定できるといえます(逆に、私には古墳であることが分かりませんでしたが)。西辺に虎口跡と思しき箇所が見受けられます。それ以外にはとくに際立った造作はみられず、ごく小規模な城砦であるといえます。目的は、物見や伝え、緊急避難用など種々考えられますが、確定的なことはいえません。すぐ近くに大身領主青地氏の居城青地城があり、青地氏に関連する施設とも推測されます。

  さて、灰塚山には、その名の由来となった伝説があります。かつてこの地には葉の陰が朝は丹波国に、夕は伊勢国にまで及ぶ巨大なクリの大木があった。周辺住民は田畑に日が差さなくなるので困り、住民ないし天皇が人を集めてクリの木を伐採して燃やし、その灰を集めて塚としたのがすなわち灰塚山であるというものです。また、栗東や栗太郡の語源は、このクリの木にあるともいわれています。この伝説の裏には、かつて大和朝廷と対立した古代豪族がいて、栗東周辺を本拠地とし、遠くは丹波や伊勢にまで影響を及ぼしていたという史実があるように思います。灰塚山の周辺には他にも多くの古墳群があり、また古代郡衙跡である岡遺跡や、古代豪族小槻氏の拠点小槻神社などもあります。また、市内の万年寺には、聖徳太子がかつて近江の敵と戦って一度敗れ、ある老人がこのクリの大木の下に太子を匿ったとする寺伝があるそうです。

現在に残る城館以降は中世のものであり、これらの伝説が直接城跡と関連はないが、灰塚山一帯がかつて大和朝廷を一度は敗走させたほどの古代豪族の拠点であったとする。

   

参考資料;淡海の城、滋賀県中世城郭分布調査、滋賀の城、

本日も訪問、ありがとうございました。



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