城郭探訪

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村雨城 近江国(甲賀・甲南)

2018年02月03日 | 丘陵城

画像に含まれている可能性があるもの:屋外、自然

お城のデータ

所在地:甲賀市甲南町新治小字池ノ谷 map:https://yahoo.jp/4LmW4Y

区 分:丘陵城

現 状:山林

築城期:室町期

築城者:服部氏か?杉谷氏?

改築期:織豊期後期(信長の近江侵略に備えて)

遺 構:高土塁・箱掘・虎口

標 高:210m 比高差20m

目標地:新名神高速道路甲南サービスエリア

駐車場:路上駐車

国指定史跡

訪城日:2018.1.20

お城の概要

甲賀郡中惣遺跡群(寺前城,村雨城,新宮城,新宮支城,竹中城)の一つとして国指定史跡となっている。

村雨城は大谷池の西にある丘陵に築かれており、北側に隣接して寺前城がある。村雨城は大きく東西二郭で、東が主郭、西が二郭となる。主郭の周囲は高土塁が巡らされ、西中央部に虎口を開く。西の二郭は北側に土塁を設けており、西側がやや北へ張り出すようになっている。

主郭の南北両尾根は深く堀切となり、北はやや自然地形に近い尾根に東西に土塁が付き、その先が寺前城の二重堀切へ続いている。

村雨城は、寺前城と連結する甲賀特有の二城連結城で、丘陵の先端部分にあるのが寺前城で、その50mほど南にあるのが村雨城である。
甲賀市甲南町新治付近には、現在確認されている中世の城館が7箇所あるそうだ。いずれも方形に土塁で囲む城館で、 保存状態も非常に良いそうだが、この村雨城もほぼ完存である。
主郭は25m×20mの長方形に近い形で、周囲を土塁がめぐっている。南側の土塁は、部厚くて高く、その外側に空堀をめぐらせている。
西側に設けられた虎口への道は少し屈曲しており、虎口付近は急斜面になっている。
また、虎口の西側前方には土塁で囲まれた2段の曲輪が設けられ、曲輪の先端より下方へ緩い斜面になっている。
東側は急崖になっており、その向こう側は大谷池であるが、大谷池は近世に用水池として築かれたもので、往時は谷になっていたようだ。
北側の寺前城との間には、堀切が3条ほど設けられている。

お城の歴史

中世後期、甲賀の小領主たちは、同じ名前を名乗る一族同士で血縁的な結合を強め、同名中惣を組織していた。
永禄から元亀の頃になると、その連合が甲賀全域に拡大し、甲賀郡中惣が結成された。
同名中惣内部では、総領家を中心としながらも、その力は絶対的なものでなく、分家に当る庶子家の自立度は高く、それぞれに城を構えていた。そして、他所の一揆衆との間に争乱が起これば、一味同心に合力して戦うことなど、有事の際の具体的な行動が、 一族内の取り決めとして定められていた。
同規模の武士団が連合し合った郡中惣という枠組みの中では、甲賀郡を一円的に掌握する突出した領主は現われず、そのため同じ規模、 同じ形の城が、多く造られたものと考えられる。
村雨城もそのような甲賀郡中惣の城の一つであるが、甲賀の城の中でも進化した築城技術が施されており、

その背景には、 永禄11年(1568)の織田信長の上洛に伴い、守護六角氏が甲賀杉谷へ逃避したことにより、この地域に軍事的な緊張が生じたことが要因であると思われる。
尚、城主などを知る記録類は残されておらず、詳細は不明である。『「近江の山城・中井均著(サンライズ出版刊)」、現地説明板」より

写真集 https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/989069254588983

 

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、植物、屋外、自然南側の箱掘画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然土塁東側画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然東側から虎口画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然北側虎口写真の説明はありません。作図:長谷川博美氏

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査 旧甲賀郡の城』・『甲賀市史・甲賀の城』・城歩会資料・

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