城郭探訪

yamaziro

唐国城 近江国(虎姫)

2015年07月17日 | 武将

山内一豊の初領地

山内一豊が、朝倉氏との戦い”刀禰坂の戦い”での功により、近江唐国四百石に封じられる。

初領地のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡)虎姫町唐国   map:http://yahoo.jp/h3_Hll

目標地:唐国集落 南側

区 分:平城  

比 高:0m

現 状:水田

遺 構:顕彰石碑

初領期:織豊期

受領者:山内一豊

訪問日:2015.6.27

山内一豊公 顕彰碑(虎姫商工会) 

お城の概要

国道8号線の唐国の琵琶湖側・高時川の堤防のすぐ南の、唐国集落の南の田んぼの中に碑があります。

真新しい顕彰碑が立っています。

 

歴 史

山内一豊織田信長の家臣で、木下秀吉の部隊に所属していた。

1573年近江浅井氏の援軍として北近江に進軍してきた朝倉義景は、織田信長の攻撃を受け越前へ退却を始めた。

近江と越前の国境の刀禰坂で朝倉軍に追いついた織田軍は、そこで朝倉軍を散々に破った。その織田軍のなかに若き日の一豊がいた。
刀禰坂の戦いでのエピソードが残っている。
刀禰坂での戦いで一豊は、朝倉軍の弓の名手三段崎(みたざき)勘右衛門との死闘を繰り広げた。一豊は三段崎の矢を左のまなじりに受け、その矢は右の奥歯まで達した。しかし一豊は傷にひるむことなく三段崎を討ち取った。

顔の矢を抜こうと家臣の五藤吉兵衛為浄が口で矢をくわえたところ一豊は、「そんなことでは間に合わない。顔を踏みつけて抜け」と命じたという。さらに草履を脱ごうとした為浄に「そのままで良い」と命じ、為浄は草履のまま一豊の顔の矢を抜いたという。この三段崎を討ち取った功により近江唐国四百石を与えられた。

功名が辻-15【刀根坂古戦場】1573年、浅井氏救援のため木之本まで来ていた朝倉義景は敗色が濃厚にあると越前に引き上げる。それを信長軍が追撃して勝利した。この時、信長軍にいた山内一豊が顔面に鏃を受けた話は有名。

(参考. 掲示板)

 
 

天正元年(1573年)に浅井氏、小谷城落城後、織田信長から羽柴(豊臣)秀吉がこの地を与えられ、一豊も唐国に400石を与えられました。

山内一豊(官歴と所領推移)

  • 天正元年(1573年)、近江国唐国(滋賀県長浜市唐国町)に400石を領す。
  • 天正3年(1577年)、播磨国有年(兵庫県赤穂市有年)に700石を加増。時に、合計2,700石を領す(石高総計については異説あり)。
  • 天正10年9月25日(1582年10月21日)、播磨国印南郡(兵庫県南部地域)に500石を加増。
  • 天正11年8月1日(1583年9月16日)、河内国禁野(大阪府枚方市禁野本町あたり)に361石を加増。
  • 天正12年(1584年)9月、近江国長浜城主となって、5,000石を領す。
  • 天正13年6月2日(1585年6月29日)、若狭国高浜城主となって1万9,870石を領す。8月、豊臣秀次の宿老となる。閏8月21日(10月21日)、近江国長浜城主となって2万石を領す。
  • 天正13年(1585年)9月~天正14年(1586年)4月 正五位下対馬守に叙任(『一豊公記』)。なお豊臣家臣で一豊と同格の人物の多くは当時従五位下に叙せられているため、正五位下ではなく従五位下の誤記ではないかとの説もある。
  • 天正18年9月20日(1590年10月21日)、遠江国掛川城主として5万石を領す。さらに10月25日(11月22日)、遠江国周智郡一宮(静岡県周智郡森町一宮)1万9980石の代官にもなる。
  • 文禄3年9月21日(1594年11月2日)、伊勢国鈴鹿郡(三重県鈴鹿市)で1,000石加増。
  • 文禄4年7月15日(1595年8月26日)、遠江国内の豊臣秀次所有の蔵入地より8,000石を加増。
  • 慶長5年(1600年)11月、土佐国内9万8,000石(後の検地で20万2,600石)を領有する大名となる。
  • 慶長8年3月25日(1603年5月6日)、従四位下に昇叙し、土佐守に転任する(『徳川実紀』)。
  • 慶長10年9月20日(1605年11月1日)、卒去。
  • 1919年(大正8年)11月15日、贈従三位。

「内助の功」に関する逸話

馬と黄金の話

一豊夫妻の有名な逸話として、見性院は、『常山紀談』による嫁入りの持参金またはへそくりで夫・一豊の欲しがった名馬(鏡栗毛)を木之本の馬市で購入し、主君織田信長の馬揃えの際に信長の目に留まり、それが元で一豊は加増されたといわれる。この逸話は、『藩翰譜』、『鳩巣小説』、『常山紀談』の3つに記載があり、藩翰譜には(見性院が)「鏡の筥の底より、黄金十両取り出しまゐらす」とあり、父からもらった金とされている。馬に関しては「東国第一の馬」と記載されている。一方鳩巣小説では「金子一枚」(十両大判一枚のこと、つまり十両)とあり、母からもらったとされていて、馬売りを「仙台より馬売りに参り候」と表現している。常山紀談では、父からもらった金を差し出したとある。また、どこで馬を手に入れたかについては3つとも安土城下とあり、馬揃えの時期に関しては、天正9年(1581年)2月28日とある。

一豊の妻である見性院(千代、まつ)は夫を「内助の功」で助けた賢妻とされており、嫁入りの持参金(貧しいながらも貯めたへそくりとの説もある)で名馬(鏡栗毛)を買った。この逸話は特に第二次世界大戦以前の日本において教科書に採り上げられ、女性のあるべき姿として学校教育に用いられた。真偽の程は定かではないが、千代紙の由来になった人物としても知られている。

参考資料:現地説明板・ウィキペディア

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