城郭探訪

yamaziro

平塚城(平塚館)   近江国(浅井)

2016年02月12日 | 平城

小谷城の裏門(移築門)

城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡浅井町)平塚町149 map:http://yahoo.jp/3v4-CD

別 称:平塚館

区 分:平城(居館)

現 状:寺院・神社・宅地・田畑

遺 構:郭・土塁・庭園・類似説明板

築城期:室町期

築城者:平塚左近助

標 高:107m 比高差:-

目標地:実宰院

駐車場:実宰院の門前

訪城日:2016.2.11

お城の概要

 平塚城はは集落全体は城域であったようだ。

集落の南端に曹洞宗実宰院が在る。この寺院はかって実才庵と呼ばれ天台宗に属していたが、後に”小谷山実宰院”と改め曹洞院宗に属した。

 現在は約60m×60mで三方に土塁が巡り館の構えを呈しているが、浅井氏とのかかわりをもつ寺院である。

一方、羽柴秀吉が城主になった折、当寺に与えられた50石の朱印状が残っている。山門は小谷城の裏門と言われ、当初の位置は現在よりも南にあり、そこまで土塁が伸びていたと思われる。 

 現在の本堂は徳川秀忠に嫁いだ「お依与(おごう)」(葵の紋)が再建したものである。

 平塚集落全体で見てみると、北西に鎮守の天神社が祀られ、実宰院が南に位置している。この社寺に囲まれた一区画(東西約120m、南北約80m)は、東・南・西を水路で遮断だれている。

この一画に、平塚左近助の末裔平塚家が位置するが、浅井久政から同氏への書状から推し、同氏が平塚に居住する在地土豪であったと思われる。

室町時代の庭園

歴 史

浅井長政の姉にあたる阿久姫が昌安見久尼と称して出家した庵。寺は小谷山実宰院と改称され宗派も曹洞宗に改宗し、現在に至っています。

 実宰院は浅井長政の姉の見久尼が中興した寺とされ、小谷城が落城後に浅井三姉妹がここに匿われたという伝承があります。見久尼は相当に大きな方だったようで、三姉妹を探索した織田方に対して、三姉妹を衣の中に隠して難を逃れたとされます

 

開基昌庵見久庵主顕著碑

室町期の庭園

寺院土塁

天神社と土塁

 参考資料:滋賀県城郭分布調査、戦国の姫たちの越前・若狭、現地説明板

  本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!


実宰院 (長浜市平塚町 149)
浅井長政の姉ゆかりの寺で、お市・三姉妹の避難伝承地

 実宰院は、平塚という小集落の中ほどにある。寺伝では、鎌倉時代以前に創建された実才庵という天台宗の寺で、長政の姉にあたる阿久姫が出家して昌安見久尼と称した際に、当地の庄屋を務めていた平野左近助をして庵を再興させたと伝えられている。寺は小谷山実宰院と改称され宗派も曹洞宗に改宗し、現在に至っている。

 この寺が最近注目されているのは、お市と三姉妹に関係する。
 お市と三姉妹は小谷城落城の際、織田軍に救出され、その後伯父の織田信包のもと伊勢上野城(後清洲城)で暮らしていたとされる。上野城や清州城で生活していたことはほぼ間違いないであろうが、落城の際、どのようにして城を脱出したのかについては資料によって異なり、また一番信用性の高い肝心の『信長公記』には全く触れられておらず、実態は不明である。

 地元では実宰院にまつわる伝承として、通説とは異なる経過が伝わる。
 それによれば、長政は落城の際、姉である見久尼に三姉妹の養育を依頼。三姉妹と母のお市はともに城を脱出し、実宰院の見久尼を頼り、ここに匿われたとされている。
 この話が全く無視できないのは、実宰院が浅井長政の姉にあたる見久尼を中興の祖とし、後の秀吉時代には三姉妹との関係で豊臣政権との深い関係があったことを伺わせる文書が残っているからである。
 三姉妹がこの寺に拘わった理由、それはここが三姉妹の避難先であったからと解しても、そう無理ではないように思われる。

 見久尼は、非常に大柄な女性であったと伝えられ、信長軍が残党狩りで実宰院に侵入した時には、三姉妹を大きな法衣の袖の中に入れて隠したという話も伝わるが、これは伝承に尾ヒレがついたものであろう。

 なお、実宰院昌安見久尼天正13年(1585)に49才で死去している

浅井家侍女の墓 (長浜市北野町)
お市・三姉妹の小谷城脱出に関わった侍女の墓

 実宰院には、浅井長政が小谷城落城の際、姉である見久尼に三姉妹の養育を依頼し、三姉妹と母のお市はともに城を脱出し、実宰院見久尼(長政姉)を頼り、ここに匿われたとされてる伝承が残っているが、この時、3人の侍女が随行したとされ、そのうちの1人とされる侍女の墓とされるものが残っている。

 場所は小谷城址東にあたる北野町で、「五先賢の館」から少し北に行ったところにある。現在も住民によって大切に管理されており、大河ドラマの影響であろうか、案内看板まで設置されている。

 この侍女の名は「盛秀」といい、脱出に際して母娘を古い野良着に着替えさせて実宰院まで無事届けたとされる。盛秀はその後、北野で生涯をおくったとされる。

 解説板によると、「盛秀」「禅定尼」「元亀四癸酉年」「四月四日」などの文字が刻まれているとのことである。落城が元亀4年9月1日であるから、伝承と日時があわない。江戸時代に著された地誌「淡海国木間攫」には「浅井長政北ノ方の墓ナリト」と図入りで記されているとされている。脱出に関わった侍女の墓かどうかは別にして、昔から浅井家とのかかわりが指摘されてきた墓石であることは間違いない。

 今日まで残っているのはそのことの裏付けているように思える。

DSC00659.JPG「侍女の墓」全景DSC00666.JPG道路にも標識が出ている


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