倉橋部城
主郭部の石垣
- お城のデータ
- 所在地:近江八幡市倉橋部町/東近江市上羽田町 map:ttp://yahoo.jp/kATND9
- 現 状:山林(山麓/山頂・林)
- 区 分:平山城
- 築城期:室町期
- 築城者:倉橋部氏
- 遺 構:曲輪・土塁・竪堀・石垣
- 標 高:154m 比高差40m
- 目標地:安吉神社
- 駐車場:倉橋部集会所:前路上駐車
- 訪城日:2016.7.25・2017.3.10・2017.4.4
- お城の概要
- 近江八幡市倉橋部集落の「愛楽寺」の狐狸の裏山が遺跡ウォーカーの比定地であるが?。
- 安吉神社の背後が詰め城か?
- 山麓館は「愛楽寺」と考えられるが、あくまで想像で確証はない。
- お城の歴史
- 『佐々木南北諸氏帳』には、「蒲生郡 倉橋部住 佐々木隋兵 倉橋部 右京進」の名が見える。
- 『江源武鑑現代語訳』には
九月大
二日 右衛門督が勢州から夜毎加勢を呼び寄せて箕作城へ入れていると吉田出雲守が観音寺城へ注進する。屋形は浅井下野守祐政に、承禎父子の軍勢は八千程である、いくらでも勢州から加勢を呼び寄せてから攻めよ、そうすれば勢州退治が容易になるであろうと仰せになる。浅井は、この計画は必ずうまくいくと思われると申して、わざと箕作への加勢をゆっくりと入れさせる。
十九日 京極、朽木、浅井が観音寺城に出仕して屋形に申し上げるには、箕作の軍勢が一万二千になり、その上和田山の建部源八兵衛、吉田出雲守等も寝返り義弼に味方した、さらに勢州国司が鈴鹿越えで近日当国に入ると伝え聞いており、これ以上戦を引き延ばせば却って逆襲を招くことになり難しい状況となるであろうとのことである。屋形は、今こそ合戦の時である、それぞれの攻口を定めると仰せになる。
一 箕作表へは京極長門守高吉五千騎、浅井下野守祐政、備前守長政父子四千五百騎の合わせて九千五百騎である。箕作東口へは平井加賀守、進藤山城守、後藤喜三郎の三人で八千騎である。
一 和田山南坂へは澤田武蔵守、楢崎太郎左衛門尉、伊達出羽守、朽木宮内大夫、青地伊予守の五人で六千騎である。西坂口へは京極兵部大夫、蒲生右兵衛大夫両名で七千騎である。
一 勢州国司の軍勢への抑えとして君ヶ畠口へ山崎源太左衛門秀家、永田刑部少輔、山岡美作守の三人で五千騎である。
一 同様に国司の抑えとして鈴鹿口へ多賀新左衛門尉、和田和泉守、目加多摂津守の三人で四千三百騎である。
二十日 卯の下刻からそれぞれの軍が合図を定めてまず和田山に攻め懸ける。城中からは六千騎の軍勢が防戦する。卯の下刻から午の刻までの戦いで敵八百七十騎を討ち取り、味方は三百二十騎が討死する。午の下刻になって吉田道覚が城を出て、命を助けてもらえるならば城を明渡すと屋形へ申し入れる。屋形は、諸卒には罪はない、建部、吉田が切腹すれば兵卒は助けようと仰せになる。これを受けて建部、吉田は出家し味方の陣に降伏して再び屋形に申し上げる。屋形は、既に出家をしたのであれば助命しようと仰せになり和田山の城を受け取られる。建部、吉田の二人は屋形の菩提所である東光寺に入寺する。同日、箕作城に二方面から攻め懸ける。承禎父子は大手、搦手へ打って出て自ら采配を取り下知をする。下方三夢という者が堀で討死しそうなのを見て右衛門督が一騎で駆け下りてこれを助けたところ、味方の軍から右衛門督を討ち取ろうと浅井の家人で坂田十内という者が駆け寄り横槍を入れる。義弼は引き返して十内を馬上から掴み、箕作城の二の丸から数町の堀へ投げ入れる。このようにして敵味方が大手、搦手で同時に入り乱れて戦い、承禎軍は二千三百、味方は八百二十騎が討死する。武将は一人も討たれず午の刻から酉の刻まで戦う。承禎から軍使が立てられ開城する旨を申し入れるが、屋形は承諾されず承禎父子を討ち取るように諸将へ仰せ付けられる。これに対して京極高吉、朽木宮内少輔の両名が屋形に諫言し、一家を滅ぼしてしまうことはよくない、その上開城すると申し入れているのを承認せずその者を誅殺しようとするのは良将が強く嫌うところであると申し上げる。屋形は、どのようにでも其の方等の思うように任せると仰せになり、京極、朽木両名は箕作城を受け取って承禎父子を日野谷かいかけという所へ移す。この時の落書には次のように詠まれる。
をしかりしそのみつくりを後藤にかへて今はかうびんかいかけの城
元来承禎父子はこのような目にあう筈はなかったのであるが、六年前に後藤但馬守を殺害してからは屋形との仲が悪くなりついにはすべてを失うこととなった。実に屋形が幼少の頃から近江国の政務を預かり管領職まで手に入れたが、息子右衛門督が欲心を抱き屋形を滅ぼして国を奪おうと数年間企んだところついに天命に背きこのようなことになった。屋形も承禎父子には数年に亘り不義等が多くあったが、亡父が後見につけてからは偏に承禎公に慈父の如く礼を尽くされたので国人も尊敬し後見の義賢と申したものである。義賢は去る永禄六年に後藤を謀殺したため家を失ったのである。
二十一日 将軍並に織田上総介信長が総勢二万八千で本日卯の上刻に濃州立正寺を発ったと池田庄三郎が早飛脚を仕立てて屋形に申し上げる。午の下刻に観音寺城へ早飛脚が到着する。屋形は池田に対して、その旧功を思う所ひととおりでないと仰せになる。同日、将軍が江州柏原上菩提院に着陣されたと報告がある。信長は田中城に参陣したということである。
二十二日 将軍が桑実寺へ着陣されたと報告がある。信長は馬場に参陣したということである。酉の刻に屋形は観音寺城を発ち将軍の御迎のために桑実寺へ移られる。将軍は対面し、まず承禎父子のことを仰せになる。承禎父子が国の害となるのを知り一族といえども天下草創のためを思い追い払ったと聞き大いに心を動かされたということである。
二十三日 卯の刻に屋形が桑実寺を発ち観音寺城へ帰城される。未の刻に将軍が観音寺城に到着される。信長は武佐に着陣する。屋形は信長と評議をされ、一両日まずは人馬を休息させることになる。
二十七日 本日は吉日であるので将軍家が観音寺城から上洛される。天下草創の上洛であるため行列等を決められたところ先陣は信長、二陣は屋形、三番目に将軍家が出立することに決まる。そこで屋形が仰せになるには、吾は信長より若年でありさらに信長に対して既に慈父の礼を取っている、それだけでなく当家が代々天下草創に際して功を顕していることは世間で語られるところである、このため先陣を仕りたいとのことである。信長は、吾を慈父の如く思い礼を正されるのは非常に恥ずかしいことである、特に古例を引かれたように確かに佐々木家が天下草創に功を顕す例は古今に多い、と申す。そこで前陣屋形、二陣信長と定め本日酉の刻に観音寺城を出発される。
一 先陣屋形の軍勢五万六千騎 この備は十三備(実は江州の軍勢は三万五千騎であるという。軍勢を多く見せる計略である。)
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先手七手組(これは江州で代々先手を司る家である。) 目賀田摂津守、馬渕伊予守、伊庭河内守、三井出羽守、三上伊予守、落合出雲守、池田大和守 以上七人の軍勢五千騎
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二番備 浅井下野守、同備前守、高嶋越中守、朽木宮内大輔 この軍勢四千三百騎
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三番備 永原大炊頭、同筑前守、平井加賀守、楢崎内蔵介、鯰江又八 この軍勢三千四百騎7四番備 京極長門守、同治部太夫、黒田日向守、坂田兵庫頭、水原河内守 この軍勢四千三百騎
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五番備 蒲生右兵衛太夫、後藤喜三郎、和田和泉守、種村三河守 この軍勢二千八百騎
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六番備 澤田武蔵守、種村大蔵大輔、永田刑部少輔、山崎源太左衛門尉、青駿河守、朽木宮内大夫 この軍勢三千七百騎
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七番備 小川孫一郎、久徳左近兵衛尉、野村越中守、鏡兵部少輔 この軍勢二千五百騎
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八番備 平井丹後守、倉橋部右京進、赤田信濃守、宮川三河守、田中石見守、大野木土佐守、三田村左衛門佐、加藤佐渡守 この軍勢三千二百騎
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九番備 ・・・・・
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十三番・・・・・木村筑後守、山内讃岐守 この軍勢三千八百騎
一 二陣織田家の軍勢六万六千騎 以上十七備(実は四万二千騎である。江州と同じ計略である。)
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一番備 佐久間右衛門尉、同大学助、同刑部少輔、同左京進 この軍勢五千七百騎
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二番備 飯尾近江守、同隠岐守、織田玄蕃允 この軍勢三千二百騎
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三番備 水野帯刀左衛門尉、同大膳亮、簗田出羽守、佐々隼人正 この軍勢二千五百騎
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四番備 林佐渡守、池田庄三郎、毛利新介、梶川平左衛門尉、織田源兵衛尉 この軍勢三千騎
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五番備 柴田権六郎、前田又左衛門尉、徳川三河守 この軍勢四千二百騎
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六番備 木下藤吉郎、同雅楽頭、毛利河内守、織田造酒丞 この軍勢三千五百騎
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七番備 不破河内守、同彦三、織田上野介、坂井右近将監、中嶋豊後守 この軍勢二千八百騎
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八番備 明知十兵衛尉、山田三左衛門尉、蜂屋兵庫頭 この軍勢四千五百騎
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九番備 山口飛騨守、遠山河内守、岩室長門守、織田左馬允 この軍勢三千二百騎
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十番備 丹羽五郎左衛門尉、津田掃部頭、福冨平左衛門尉 この軍勢三千四百騎
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十一番備 佐々内蔵助、河尻與兵衛尉、野々村三十郎、澤田越後守、津田源八郎 この軍勢二千三百騎
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十二番備 織田家 旗本の軍勢一万騎
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十三番備 織田十郎左衛門尉、同美作守、同市令助、同左助、同孫五郎 この軍勢二千騎
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十四番備 森三左衛門尉、稲葉又左衛門尉、村井民部少輔 この軍勢二千百騎
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十五番備 氏家常陸守、稲葉伊予守、伊賀伊賀守(名字を後に改めて安藤という)この軍勢二千四百騎
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十六番備 村井民部少輔、同丹後守、嶋田所之助、奥平十内、加藤三右衛門尉、甲斐越前守、犬山越中守、名塚采女正、乾加賀守 この軍勢四千二百騎
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十七番備 織田孫兵衛尉、同主水正、丸毛伊豆守、山口半左衛門尉、岡部又右衛門尉、堀池主膳正、前田一学、小畠左馬允、丹羽想内兵衛尉、瀧野源八、寺田善右衛門尉、篠川兵庫頭、団平八、永井新太郎、森兵部左衛門尉 この軍勢三千四百騎
第三陣に将軍家近習の軍勢二千騎が続き、細川兵部大輔藤孝、上野中務大輔清信が五百騎にて二列に並び将軍を先導する。
本日未の下刻に将軍が三井寺観音院に着陣される。屋形の軍勢は大津、松本、馬場、茨川に陣を置き、先陣は山科の里々に陣取る。信長の軍勢は多野、勢多、石山、草津、坪井、目川に陣を置き、明日二十八日に京都に入るということである。戌の刻に江州七手組が粟田口へ押し寄せて陣を取ったところ三好笑岩の軍勢は攻めかかってくることもなく、それどころか味方の軍勢が強大であると聞いて三好一族等は近国の城へ引き篭もったと粟田口に陣取る七手組が申し上げる。三好一族の立て篭もる城を一々書状にて申し上げる。・・・・云々
- 安吉神社の廃後・・詰め城であろう。
- 物見櫓跡か?(瓶割山城
- http://shimohaneda.jpn.org/?p=72主郭部の石垣ハイキングコースで分断された主郭部竪堀
- 倉橋部集落がら
- 東近江市
上羽田地区から遠景
2017.4.4
駐車位置から長福寺城駐車位置かt観音寺城遠望
- 2016.7.25訪城時(倉橋部)
参考資料:滋賀県中世城郭分布、史跡ウォーカー、『江州佐々木南北諸氏帳』『江源武鑑現代語訳』、近江八幡の城、蒲生郡志
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