城郭探訪

yamaziro

堅田城  近江国(大津)

2016年11月12日 | 平城

堅田城

 

お城のデータ
所在地:大津市本堅田町   map:http://yahoo.jp/p-xNG
現 状:宅地
区 分:平城
築城期:
築城者:
遺 構:水路(堀痕か?)
目標地:伊豆神社
駐車場:参拝者駐車場
訪城日:2016.11.6
お城の概要

遺構は現存しないが、「西ノ切」「宮ノ切」などの地名と直線的に張り巡らされた水路が残る

琵琶湖の水運に絶大な特権を持った自治都市・堅田の本拠。
堅田大宮・伊豆神社を拠点に、殿原衆と全人衆の合議制による運営がなされていたとか。

戦国期には織田信長に降伏。朝倉軍の攻撃を受け、織田方大将の坂井政尚が戦死するほどの激戦となる。
江戸時代には堅田藩が置かれ、大津代官従属の元で自治運営時代の経済的特権を追認されている。

お城の歴史 

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「片田城主(堅田城主) 佐々木隋兵 片田兵部少輔秀氏・同 佐々木末隋兵 山田民部丞忠宗・同 佐々木末元備州 沢田兵庫宗永」の3城主名を記す

『当代記』には、

 元亀4年2月20日条

「二月廿日、信長人数被立、則山岡光浄院道阿弥事令味方則参陣、堅田の城は被責落、三百被討補」と記す。

志賀の陣

元亀元年(1570)9月16日~12月17日 織田信長と浅井長政・朝倉義景・比叡山延暦寺の戦い】Wikipedia

堅田の戦い

 25日になって堅田の猪飼昇貞・居初又次郎・馬場孫次郎が織田方に内通したので、信長は、坂井正直・安藤右衛門佐・桑原平兵衛ら1千の兵を堅田の砦に侵入させ、防備を固めることで西近江の物流の差し押さえを狙った。しかし朝倉軍も素早く坂井の堅田入りを察知し、翌26日には朝倉景境・前波景当や一向宗門徒らが比叡山より下って堅田に攻め寄せた。坂井の軍は堅田を囲まれ孤立したが奮戦し、前波景当を返り討ちにするなどしたが、結局は数に押し込まれ織田軍は壊滅し坂井政尚らは戦死。猪飼らは堅田を捨てて船で琵琶湖渡って逃走し、この試みは失敗に終わっている。

浅井三代記 第十六

朝倉浅井堅田寺内を取返す事 附坂井右近討死の事

 斯而堅田の地下人一統して信長卿の勢を引入、浅井朝倉が役人共悉く討取旨、浅井朝倉両将の許へ注進有しかば、味方の諸勢いろをうしなひ、あはて騒ぐ事おびたゞし。浅井朝倉家老共を近付被レ申けるは、東近江越前への通路を敵堅田にてとりきらば、誠に鳥ならではかけりがたし、兎やせん角やあらんと評議したまふに、朝倉義景被レ申けるは、とかく信長の本陣へ切入、一戦をとぐるか、又は朽木越を可レ落かと被レ申ければ、備前守長政の曰、敵陣へ切入といふ共、敵籠城したる数万の勢なればやはか利有べしとも不レ覚、又ぬけ道へまはるとも敵よも落さし追討にうたれ、末代迄の悪名をとゞめむより、明日は未明に堅田へ人数四五十計出し、無二無三に一刻に責つぶし、坂井右近が首を刎んに何の子細候べきと被レ申ければ、義景の家老朝倉式部大輔、山崎長門守進出て、長政の仰誠にゆゝしく御座候。明日の御先は某等両人可レ仕と申により、評議一統してあけゝれば、十一月廿四日に義景方には朝倉式部大夫、山崎長門守を侍大将として三千餘騎、浅井方には赤尾美作守、浅井玄蕃亮、侍大将として二千餘騎、都合其勢五千餘騎なり。浅井勢は朝倉勢の後陣也。斯而三千の勢を三手に作り堅田へ押寄る。坂井右近は是を見て一千餘騎の勢を五百余騎は引かへす。残る五百の勢にて堅田の町面へ討て出る。越前勢五百計弓鉄炮を射かけ打かくれば、右近も弓鉄炮を射かけ打かくれば、右近も弓鉄炮を敵を以あいしらふ。越前勢敵を小勢成と勝にのり、はや鑓を入、面もふらず突懸る。右近は本より巧者也。しばしさゝへ敵の色を見てかゝれ/\と下知すれば、右近が五百余騎一度に撞と突かゝる。越前勢引色に見えたりけるが、山崎は是を見て、きたなし味方の者共よ、我一軍してみせんとて五百計おめきさけむですゝめば、右近此いきほひに突立られ、一町計引退く跡をしたがふて突かゝる。右近能時分を引請、取て返し、火花を散して戦へば、右近がかくし勢五百計撞と喚て真黒にて成、面もふらず突かゝる。越前勢足をしどろにみだし、既に崩れんとせし處に、式部大輔は其を引なと云まゝに、馬煙を立てかけ込ば、浅井が勢も備へて待て何にかせんとて、相かゝりに突かゝる。てき味方入違へ、互に命も不レ惜たゝかへば、右近は寺内へ引入むとする處を、味方堀きは迄ひしと付、寺内を付入にせんとせしを右近取て返し、敵を四方へ追払ひ、其透に寺内へ懸入ば、朝倉浅井が兵ども寺内をおつ取巻より、はや堀へひた/\と飛込/\、我先にと乗込ば、右近も大剛の兵なれば、走り廻て下知すれ共、敵は多勢味方は小勢叶はずして、遂に討死したりける。浦野源八父子、坂井十介、馬場居初もはしたなく働、右近は小勢叶はずして遂に討死す。味方にも前波藤左衛門尉、堀平右衛門尉、中村木工之丞きらびやかに相働討死す。是は朝倉が兵也。浅井方には浅井甚七、赤尾甚介、田那部平内、八木又八郎ゆゝしき働して討死す。總じて其時の責口にては、敵味方にて寺内の堀は平地と成、かくて義景長政寺内を取かへすといひ、坂井右近討取事浅からざりし次第なりとて、喜の事は限なし。則堅田を拵て朝倉よりは堀江七郎平、浅井よりは月ガ瀬若狭守を入をかる。去程に信長卿は坂井右近討死の次第をきゝたまひ、われらが命にかはるといひ、数度の忠功報しがたしとて鎧の袖をぬらし給ふぞ忝なき。

 
『本福寺由来記』・・・千葉乗隆著「蓮如上人ものがたり」より
 城には一人もたまらず、うみなるゆかに、置きつるもの取り入て、その日、沖の島をさして、舟をおしだし、よき順風なれば、帆をあげて落ち行、やがて島へぞとつきたる。
 五日にわたる防戦のすえ、堅田は四方から焼きたてられ、湖上に待機させていた舟に分乗し、沖の島へ撤退した。
 いったん沖の島へ退いた堅田衆は、坂本衆に権益回復の決死の戦いをいどんだ。

   

伊豆神社
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1・遺跡ウォーカー・『近江国輿地志略』・『浅井三代記』・『当代記』『本福寺由来記』・ Wikipedia・『江州佐々木南北諸氏帳』
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