ようこそRAIN PEOPLES!超バラバラ妄想小説『雨族』の世界へ! since1970年代
「雨族」
断片40-風のなかで眠る女
「7章・大時計」
空が、ぼうっと黄色く光っている。
俺は、いつもと同じ足どりで、いつもと同じアーケードを抜け、いつもと同じような光景を横目で見ながら帰路を行く。夏の夕暮れ。
どろっとした空気がいつもと同じような雑踏を包み込み、いつもと同じような澱んだ暑さが俺の身体にまとわりつく。
同じような毎日、同じような仕事、同じようなヌメッとした人々、同じような喧騒。
いったい俺はいつからこんな時間の中で毎日を送るようになったのだろう?この風景はいつから続いているのだ?
俺はいつもと同じ、くすんだグレーの背広を脇に抱え、少しネクタイをゆるめ、白い半袖シャツにうっすらと汗をにじませて陽炎みたいにゆらゆらと歩いている。
ゲーセンのけばけばしい音がようやく薄らいできた暑さを掻き乱し俺をいらいらさせる。このクソ馬鹿面した群衆は、いったい、いつから蔓延っていやがるんだ。ダラダラ・ダラダラしやがって。自分もその中の一人であることが胸くそ悪い。
俺は結婚している。結婚していて子供も二人いる。いや?確かに結婚しているはずだ。そして、子供も・・。
??おかしい。俺は三十三歳だ。二十五歳で結婚して二人の子供がいるはずだ。女の子だ。俺は父親だ。五年前に買った2LDKのマンションに一家四人で暮らしている。長女はもう小学生だ。
・・・ったと思う。
この延々と続くヌルヌルとした粘着質の生活が、俺を少し混乱させているのだろう。頭の回りが何だか、ぼんやりとして女房の顔も娘たちの顔も思い出せないのだ。この長い暑さのせいかもしれない。
このアーケード街。いつもと変わらぬ、ぼんやりとくぐもった雰囲気。変わらぬ商店群。本当に五年前だっけ?ここに越してきたのは。もう一世紀も前のような気がする。何かがおかしい。
ひょっとして頭?いよいよか?生きている気がしない。淡々と毎日という作業を繰り返しているだけだ。みんな錯覚の中を自動的に動いて生きている事にしているんだ。俺と同じだ。
そう思うと何だか、すっとする。そうさみんな生きていると思いこんでいるだけさ。実は、そこには何もないのに。いや・・・・
ぶるっ、ぶるっと俺は頭を振った。馬鹿な、少しおかしい。きっと疲れているんだろう。体の調子はいいし、仕事も相変わらず適度にこなしている。自覚はなくても、どこか神経の奥深くで相当疲労しているんだ。
ストレスか?しかし俺は適度にギャンブルをしたり運動をしたり、年に二回くらいは海外にバカンスに出かけてもいる。浮気相手も二人ぐらいはキープしてある。それでも、どこかで人生に飽きてきてしまっているのだろう。
日常と非日常。これが両方とも単調な繰り返しになってしまい、両方でストレスを、ため込んでいるのかもしれない。六時に起きて食事をし、会社で働き、同じ路線で通勤し、このアーケード街を通って帰宅する。
日曜日にはプールで体を鍛え、たまに長い休暇が取れると女房には仕事と偽って同じように東南アジアに不倫相手とバカンスにでかける。
それは、両方とも単調な繰り返しに過ぎなくなってしまっているんだろう。この二つの繰り返しの他に、もうひとつの何かが必要なんだ。たぶん。
少し、いつもと違うことをしてみようか。何を、しようか?思いつかない。些細なことからでいい。とりあえず、帰り道を、いつもと変えてみようか。少しは気分も変わるかもしれない。
このアーケード街には、たくさんの入り組んだ細い路地がある。俺は、いつもこの大通りを通って帰るのだが、今日は、そこの時計屋の角を曲がってみよう。そこの路地はあまり通った覚えがない。
・・・まてよ。時計屋?こんなところに時計屋があっただろうか。隣の本屋も、正面にある靴屋も毎日お馴染みの店構えだ。ああ、暑い。俺はシャツを広げて汗ばんだ自分の胸を触った。
夏のけだるい夕暮れ時に、みなれない、今までこの通りにあったのかどうかも定かでない時計屋に遭遇する。俺は不思議な気持ちだ。
もしかしたら、これもストレス?女房たちの顔をよく思い出せないように俺の記憶が所々ずれてしまっているのだろうか?
いやいや、冗談じゃない、ここは、うんざりするほど毎日、眺めているところだ。ひょっとしたら、こんなことから俺の生きるという、この飽き飽きした世界と人生の閉塞状況から、もう一つの何か、何かの突破口が、いや、その糸口が見つかるかもしれない。
待てよ、俺は大丈夫か?突破口なんて本当に必要なんだろうか。ちょっと疲れてるだけで夏も過ぎれば、こんな事考えなくなるんじゃないか?
全ては、この、肌から内蔵に脳髄に染み込んでくるような食虫植物の触手のような、黄ばんでくすんだ、このじんわりとコールタールを空中に滲ませるような、この夏の暑さのせいかもしれない。
豚の内蔵に閉じこめられたような暑さ。
このまま、いつもの通りに帰宅して女房の作った夕食を娘たちと一緒に食べ、その後で、こっそりと不倫相手に電話して次の性交場所を連絡してみる。帝国ホテルだったら喜ぶかな?そして、ぐっすりと寝て明日になれば、もうこんな事は考えずに、いきいきと日常にダイブしてゆく。きっとそうだ。
そう考えながらも俺は、その時計屋の前で腕組みをして立ち止まっていた。やはり、気になるのだ。
何かこの場所、今の時代に、いやこの世界にあってはいけないモノ・・・そんな気が拭えないのだ。古ぼけている。狭っくるしい入り口のガラス戸に、墨で馬鹿でかく「時計店」と書かれたブリキの看板が張り付いている。
俺は汗を拭いながら、暫くガラス戸越しに狭苦しい店内を覗いていた。そのうち、やはり、この時計屋は俺の人生に重要な何かを与えてくれる、そんな思いが再び後頭部のあたりから身体中に広がっていくのを否定する事が出来なくなってきた。
我慢が出来なくなってきた。ここには、俺を待っている何かが絶対にある。さあ、入ろう。
俺は、この時計屋に、今までこの通りには決して無かったはずの古ぼけた門構えをした、この店に入らなければならない。その思いが、ほとんど、強迫的なまでに高まっていくのを俺は感じている。
あたりは依然としてブヨブヨとした不愉快な夕暮れの暑さの吹き溜まりだ。俺は、今にも戸を開けて飛び込んで行きそうになる自分を抑えて、ガラス越しに細長く奥行きのある店の様子を観察し続けた。
ガラスの向こうにはアンティックな木製机が置いてあり、ほとんどのスペースを独占している。机は右側のコンクリート壁にくっつけられて、その奥は灰色の板仕切りに遮られていて見えなくなっている。
天井にはチカチカと明減を繰り返す蛍光灯が奥の方まで、ずらずらと並んでいて店内を映画のコマ落としのように照らしている。夕暮れの黄色く、くすんだ光と混ざり合って奇妙な静寂空間を演出している。
異空間だ、俺はそう思った。
同時に俺は、やはり、どうかしている、ただの時計屋じゃないか、という考えもよぎった。しかし、この時計屋の醸し出す、異様なまでの強迫的な吸引力には、もう逆らえそうもないことを俺は知っていた。
これは、ただの時計屋じゃない。間違いなく、俺にもう一つの何かを与えてくれるに違いない。そう、ただの時計屋じゃないことは明らかなんだ。だって、さっきから一度も店主及び店員らしき人物を目撃していない。
それに、何といっても時計屋なのに細長い店内の壁に沿って並べられた机には、ただ一つの時計も見あたらないじゃないか。ここは時計屋だぞ。なぜ、時計も腕時計も一つもなく、いや時計どころか、何も陳列されいないのだ?
今時の時計屋ならサングラスやらアクセサリーまで売ってるじゃないか。レジもなければ修理道具の一つもない。絶対に妙じゃないか。
次第に、俺は何も置いてない陳列机の向こう側、すなわち板仕切りの裏側がどうしても気になってきた。
いったい、あの裏側には何があるのか?仕切りの奥へと続く、蛍光灯の明減によりチカチカと瞬いている細長い通路は、どこへつながっているのだろうか?果たして時計はあるのだろうか?
ふと、その時・・この店・・ひょっとして営業していないのではないのか?それとも、その古めかしい外見は、古くからある店ということではなく、営業作戦の一つとして、今、開店準備中なのかもしれない・・と思わないでもなかったが、もう誰も俺を止めることは出来なかった。
俺は一度、深呼吸をすると、ぐっと顎をひき、ガラガラとガラス戸を開けて店の中に飛び込んでいった。
そして、次に、全ての今まで俺のいた世界から、自分自身を完全に引き剥がすかのように、とても素早く自然に自動的に、ガラス戸を(しゅーぅううぅぅぅぅぅぅ、ピシャ!)と見事に完膚無く閉めていた。
そして、身体がビクッと硬直した。
静寂を予想していた店内は、とてつもない巨大な音に満ちていたのだ。巨大な一つの音に。
『
カチッ かちっ カチッ かちっ・・・
』
静寂を予想していた俺は一瞬、鉄パイプでぶん殴られたような気分になり大きくのけぞってしまった。
まったく、このガラス戸は完璧な防音効果を備えているらしい。この馬鹿でかい音は少しも外には漏れていなかった。やはり、ただの時計屋ではなかったのだ。そして間違いなく、この店は時計屋だったのだ。
頭のてっぺんからつま先まで、身体中を突き刺してくるようなこの音。キーンッッ・・と残響音を俺の耳の中で渦巻かせる、この音・・・秒針だ。これは秒針が一秒一秒、時を刻んでいる音だ。
店全体に響きわたり俺の身体まで振動させる、巨大で強力な、時を刻む秒針の音。
これは絶対に幻聴じゃない、現実に聞こえる生の音だ。アンプで増幅され、スピーカーから出力された音ではない。
俺にはわかる、こんなにくっきりと突き刺さってくる音が再生音であるわけがないし、幻聴なら身体まで振動しやしない。
俺は音による蠢動と同調して、身震いした。そして、響きわたる鋭角的な秒針音に身を任せて、暫くじっと狭くて奥行きのある店の中を、観察した。
蛍光灯の瞬きが、まるで秒針の音に合わせているかのように感じられた。そうしていると俺は次第に、このとてつもない秒刻みの音に慣れてきた。
それどころか、『カチッ カチッ』と乱れなく続く、鋭く透明感のある音に妙な清涼感を覚えるようになってきた。
そして、その妙な清涼感は俺を行動に駆り立てた。もう我慢できなかった。あの仕切りの裏側が見たい。どうしても見たい。
俺は板仕切りの向こう側を目指して、ゆっくりと忍び足で音を立てぬように歩いていった。何だか、この秒針音の他に音があってはいけないような気がしたからだ。
何も置いていない陳列机に沿って狭い通路を進み、板仕切りに辿り着くと、そぉ~っと、その裏側を覗いてみた。
何も無かった。板仕切りの裏には何も無く、ただ、そこからさらに細長い通路が店の奥へと続いていた。
俺は、何となく、もう引き返せないなと思い、そのさらに奥へと続く蛍光灯がチカチカと明減し続ける細長い通路を進んでいった。
秒針を刻む巨大な音は相変わらず鳴り続けている。きっと、この巨大な音の正体が、この細長く薄暗い通路の奥にあるに違いない。
どのくらい歩いただろう?ゆっくりとだが、かなりの時間、俺は、この通路を進んでいる。しかし、相変わらずこの細長い通路の奥が見えてこない。何だかちっとも進んでないような気さえする。
こんな小さな時計屋だ。いくら細長く奥行がある店だといっても、こんなに距離があるはずがない。歩けど歩けど、いくら進んでいっても通路の奥に到達できない。
そんな事があるわけがない。おかしい。やはり疲れているのか?ストレスなのか?それで感覚がおかしくなっているのか?
何でもストレスのせいにしてしまえば都合がいいか?けっ!それとも俺は本当に何かこの世のものならぬ場所に迷い込んでしまったのか?
その時、どこかで近くでギギギギギギギィィィィと何か扉の開くような音がして、声が聞こえた。
「あんた、この世界時計の音を聞きにきたんだろう?」
声のした方を見ると、ちょうど俺のいる数歩前におそらく地下室へ続いていると思われる階段が出現していた。そうか、地下室か。今の音は地下室への扉を開けた音か。
そして、このどこまでも続くかのような通路の床にその入口があったということだ。カモフラージュなのだろうか?何故、そんな事を。
とにかく通路の床にカモフラージュさせた地下室への扉を薄汚れた作業着を着た男が持ち上げて、細長い鉄の棒で、押し上げられた扉を、固定し、地下室の入口は完全に開かれた。
そして、その男は地下への階段の上でつっかえ棒になっている細長い鉄の棒に寄りかかりながら、俺の事を哀れみの混じったような目で見て、言った。
「なあ、憶えているだろう?私はここの店主だ。ほら、昔、よく、あんた、時計の修理に来たじゃないか。忘れちゃったかい?まあ、無理もないな。あんたは、とっくの昔に死んでるんだよ。気づいてないだけで。」
俺がとっくに死んでいる?何を言ってるんだ、この男は?だいたい、こんな男、全く記憶にない。薄汚れた作業着を着た時計屋の店主?俺が昔、ここに来て、この時計屋の店主によく壊れた時計を直して貰った?
分からない。そんな事があったような気もするが全く思い出せない。
それにこの店主と名乗る男の顔は変だ。特徴が無い。よく見ても、ちょっと目を離せば、すぐにどんな顔だったか忘れてしまう。憶えているのは薄汚れた作業着を着ている初老の男という事だけで、どんな顔だか思い出せない。
特徴が無いんだ。全く完璧なまでに顔に特徴が無いんだ。男は続けた。
「私の後をついてきなさい」
そう言うと店主は、トントントンと早足で地下への階段を降りていった。俺はただ言われた通りに店主の後を追いかけた。
地下には何があるのか?店主は世界時計と言った。それじゃ、さっきから俺が聴いている秒針を刻む音は世界時計が刻んでいるのか?それは何だ?
地下には世界時計がある。少なくとも店主の言葉からは、そうとしか察しようが無かった。まさか音だけが鳴ってるなんて事は無いはずだ。
とにかく俺は、この秒針を刻む巨大な音の正体を確かめる事以外、何も思い浮かばなかった。ここが、どこなのか、あの店主は何者なのか?俺は何をしているのか?そんな事は全て、どうでもいいことだ。
あの音。あの音の正体を知りたい。あの音を刻む時計を見てみたい。
階段は長かった。店主は身軽にスイスイと降りていくが、俺は先に何があるのか分からないという不安感もあって、次第に身体の動きがぎこちなくなり、何度か転げてしまいそうになった。どんどん、どんどん、階段を降りた。
いったい、どのくらい下りているのか?この階段はまるで地球の中心部にまで続いているんじゃないか?地球のコアまで。すると、今、俺は、地表からどのくらいの深さまで到達しているのだろうか?
と、思った瞬間、目の前が急にひらけ、明るくなった。
しばらく、その明るさのため目がおかしくなったが、時計屋の地下深くには広大な空間が広がっているのが分かった。まるで、東京ドームくらいのでかさに思えた。
目が慣れてくると、そこはやはり巨大なホールになっていて、どこから光源を取っているのか天井や壁や床全体が真っ白な輝やきを放っていた。
あまりにも、その真っ白な輝きが強烈だったために、そのホール全体に渡って置かれているものが何なのか最初は良く分からなかった。
しかし、さらに目が慣れてくるにつれ、輝く白一色の広大なホール内の空間から、じわじわと数え切れない程の黒っぽい形が滲み出し、その姿を明らかにしていった。
そこには数万と思える時計があった。壁にかけられた時計、宙吊りにされた時計、棚の中に収められた時計、床に並べられた時計、天井に設置された時計、そして、その何万もの時計は全て柱時計だった。
俺には分かった、ここにある時計は全て柱時計だ。そして、全ての柱時計は一糸乱れぬ正確さで動いている。一糸乱れぬ正確さで、ここにある全ての柱時計の秒針が音を刻んでいる。
これだ。全ての柱時計の針は秒針・分針・時針ともに、ピッタリと同じ時刻を指し示し、時を刻み続けている。この音なんだ。幾万もの柱時計が一糸乱れぬ正確さで時を刻む音。
俺は何だかホッとした。
あの秒針が一秒一秒を刻む巨大な音は、ここで、こういう具合に、鳴っていたんだ。そうなんだ、これだけの数の柱時計の針が一糸乱れずに一秒一秒を刻んでいれば、あの鋭角的で巨大な秒針音も理解できる。
秒針も1ミリたりとも狂っていない。完全に一致した時を刻んでいる。おそらく店主はそれが自慢で支えなんだろう。
見事だ。俺は店主を誉め、そして訊いた。
「見事ですね。これが世界時計という事なんですね。いったい、これは、どういう仕組みになってるんですか?何か秘訣でも?」
「ふむ、ふふふ。実はね、実は実は、誰にも言っちゃダメだよ。この五万六千七百八十九個の柱時計は全て一つの中心に繋がっているんだよ。デジタルの柱時計もアナログの柱時計も全て心臓部から発せられる、ある特殊なパルスに導かれているんだよ。もとは一つさ。」
「なるほど、もとは一つですか。だから一糸乱れぬ正確さなんですね。」
「そうなんだよ。はい。一糸乱れません。あんた、今、0.000001秒くらいはズレてるかなと考えただろうが?1ミリたりともとか。いやいや、0.000000001秒も0.00000000000001ミリとかも、いやもっと小さな単位でさえナンセンスだ。ズレというのは有り得ないんだよ。ここにある全ての柱時計は完全に一致した時を刻んでおるんだ。デジタルもアナログも」
デジタル?店主はそう言うが、俺には、その五万六千七百八十九個の柱時計、全て、アナログに見えた。いや、実際全部調べた訳じゃないが何となくそういう気がした。
と言うか、俺は別にデジタルとかアナログとかにこだわってるわけじゃなくて、店主がデジタルの柱時計とかいう言葉を発する、その裏に何かをまだ、肝心な何かを隠してるんじゃないか、デジタルだアナログだとかいういかにも混乱を誘発しそうな言葉で俺を誤魔化そうとしてるんじゃないのか、そう思ったのだ。
そこで、何となく薄々見当がついていた俺は訊いて見た。
「心臓部ですか。それは、どこに?どこにあるのですか?」
案の定、店主は何だかオドオドし始めた。そして小さな囁き声で俺に耳打ちしドームのちょうど中心あたりを指差した。
「あそこだよ。でも、あそこには絶対に行っちゃいけないよ。ここまでだ。これで終わりにしようよ、な。ここはな、蜃気楼の世界なんだよ。だいたいね、今、あんたは生きてると思ってるんだろうが、今現在、あんたがあると思ってる現実、あんたの家族、毎日、仕事、生活、全て。この世界は、蜃気楼に映った遠い過去なんだよ。過去から未来への途上にある巨大なレンズの中。今、あると思ってる全ての世界は、密度の高い時空間に映し出された過去の風景なんだよ。お分かりかい?そもそも現実なんて、とっくに無いんだよ。」
店主は何を言ってるんだろう?そもそも、この男は店主だっただろうか?見た事も無い顔だ。全く特徴が無い。この世界は蜃気楼で現実ではない?冗談じゃない。俺は五年前に買った2LDKのマンションに女房と子供と四人で暮している。
俺は今、三十・・・、あ、三十何才だっけ?女房?いるよな。子供だって、、、、。おかしい。思い出せない。さっきも、こんな感じがした気がする。ここは、どこだっけ?さっき、俺は、どこかを歩いてて、ここに入ったんだ。この時計屋に。
待てよ、俺は又、この店主らしき男に惑わされているじゃないのか?そうだ、店主の奴は、このドームの中心部、そこに全ての柱時計を制御している心臓部があると言ったな、そして、そこへ行くなと。
じゃ、行ってやろうじゃないか。はっきりさせよう、この世界は現実だ。ただ俺は疲れていて、こんな妙な場所で妙な体験をしているから混乱しているだけなのだ。
「ここが過去の風景を映し出している蜃気楼の中なら、その心臓部とやらは何だ?この世界の全てを、その五万六千七百八十九個の柱時計を制御している心臓部が蜃気楼の世界を作り出しているとしか思えないじゃないか。じゃあ、それを壊してしまえばいい。全て、もとに戻る。」
と言い、俺はスタスタと、さっき店長が指し示した方向、ドームの中心部に向かって歩いていった。
「おい!待て!殺すぞ!」
と背後で店長が叫ぶ声がしたので、思わず振り向くと、薄汚れた作業着の中から店長はマシンガンを取り出して、俺に向けて構えた。何?冗談じゃねぇ。
と思いっきりドームの中心部に向かってダッシュした、その瞬間・・・鳴った。
ボーン!ボーン!ボーン!ボーン!ボーン!ボーン!ボーン!ボーン!ボーン!ボーン!ボーン!ボーン!
耳がつんざけるような轟音が一糸乱れぬ正確さでドームじゅうに響き渡った。
俺は急いで駆けながらあたりの柱時計を見た。全ての柱時計の針は秒針・分針・時針がピッタリと重なり正午を示してる。いや午前零時なのか?
背後から絶叫が聞こえた。この世のものとは思えぬ絶叫が。
「ぎゃあああああああああああ!ぎゃぁぁああぁぁあああああああ!あぎゃぁぁあああああ!」
俺は走りながら、秒針・分針・時針がピッタリ重なった無数とも思える柱時計をちらちら見ながら、いよいよ狂いはじめる兆候を感じた。全ての柱時計が爆発的に狂ってしまう兆候を。
店主は全てを知ってるんだ。違いない。狂う。俺は、猛ダッシュをかけ、ひたすら店主の指さしたドームの中心にある心臓部を目指した。
背後の店主の絶叫が次第に遠くなっていく。追いかけてこないようだ。何かが起きたのだろうか?俺をマシンガンで撃ち殺すんじゃなかったのか?
何だか風が吹いている。あれが心臓部なのか?俺は走るスピードを落とし、その心臓部とやらに近付いていった。近付くにつれ、何故か風の勢いが強くなってきた。
強い風の吹く中、ついに俺は心臓部に到達した。心臓部は床にしっかりと固定された透明なガラスのケースだった。近付くと、そのガラスケースの中で眠っている女が、はっきりと見えた。
俺は、その透明なガラスケース越しに顔を近づけて、中を覗いた。
彼女は気持ちよさそうに、ゆっくりと目覚めた。
俺は彼女を注視していたが、あたりが変化し始めたのに気づいていた。店主がマシンガンをブッ放しているのが遠くから聞こえた。
俺は何だか店主の言っていた意味を理解した気がした。
ガラスケースの上部が開き、パッチリと目を開けた女がゆっくりと身体を起こして立ち上がった。
もう、その時には、このだだっ広い白いホールの中の五万六千七百八十九個の柱時計は全て、デタラメに狂いはじめていた。
遙か向こうで店主がマシンガンで手あたり次第に柱時計を破壊していた。あきらかに店主は発狂していた。
突然、女がしゃべり始めた。
「ずっと前の事よ。暗い地下でね。半仮死状態でね、半覚醒状態。でも、よく見つけたわよね、ここ。でぇ、本当に来ちゃったんだ、真に偉大な雨族さん」
俺は絶句した。そうか。そういう事か。もう何も言う事はない。すでに、ここの風景は以前のものではない。
あたりの様相がどんどん変わっていく。
---ここは地下のコールドスリープルーム。物凄い強風が吹き荒れている。柱時計の針は全てデタラメに狂って猛スピードで回っている。---
瞬く間に全てが形を変えてゆく。
真っ白なだだっぴろいドームだったのが、次の瞬間には強風が吹き荒れる狭くて暗い冷凍睡眠ラボに変容し、デタラメに狂って針を回し続けていた五万六千七百八十八個の柱時計が急速に収縮した空間に弾かれるように消滅し、一つだけ無造作に足元に転がっていた。
そして、その一つだけ残った柱時計には、針が無かった。時針も分針も秒針も。
しかし、その強風の吹き荒れる狭く薄暗い狭間に、ちらっと青い海と小高い丘の島と草原が見えたような気がした。
「私はあなたの世界を制御していたのよ。でも、これで終わりね。これから平等な現実が再開するわ。平等とはなによりも冷酷ということよ」
俺は風のなかで眠る女が、そう言うのを聞いてから、すぐ近くに出現した扉を開けて時計屋の通路に出た。
扉を閉める時、中で、風のなかで眠る女が長い髪を強風になびかせながら、気持ちよさそうに伸びをしているのが見え、こう言うのが聞こえた。
「はぁ。眠るたびに、歳を取るわ。」
狭い通路を歩いて店の表から入ってすぐの陳列机のところに戻るとマシンガンを抱きかかえた店主が床に横たわっていた。
そして、店主はかすかな声で俺に言った。
「俺は、全ての柱時計を破壊した」
そして、店主は、マシンガンの銃口を自分の顔面に密着させ、足で固定すると、親指で銃口を引いた。
ズガガガガッガガッガガガガガガッガ!
店主の首から上は細かく吹っ飛んで、小さいのやら大きいのやら色々のヌルヌルした赤黒い肉塊が、陳列机の上に散らばった。
そして、一瞬にして、世界は終わり、俺も消滅したが、その一瞬の間に時計店のガラス戸から全てを飲み込む灰塵を見た。いや、全てが灰塵に帰すのを見たと言うべきか。
とにかく、地面から空の天辺、おそらくこの世の中心の核から全宇宙津々浦々にわたって巨大な壁のような灰塵が出現し、猛スピードで全てを消していった。一瞬の間に、それを見た。いや、単に一瞬にして全宇宙が灰塵に帰しただけなのかもしれない。
でも、俺には、天と地を繋ぐ巨大な壁のような灰塵の層が、ズドドドドドドドドドドと超スピードで壮絶に押し寄せて、ビルも人も山も海も電車も空も宇宙も記憶も何もかもを消してゆく様が、あんぐりとデカイ口を開けた途轍もない怪物が全てを飲み込んで喰い尽くしてる様に見えた。
一瞬の間。
そして、俺は消え去る最後に、心の底から、こう思った。
“みんな死んじゃえ!みんな死んじゃえばいい!全部、ぶっ壊しちまえ!何もかも全部、完全にブッ壊れちまえばいい!世界なんか消えちまえ!何もかも全部、消えちまえばいい!全部、無くなっちまえ!もともと何にもありゃしねぇんだ!こんな世界、全部、無しにしちゃえぇええええええぇぇっ~!”
ボーンボーンという大時計の響くとき、風のなかで眠る女が目を覚まし、全ては消え去るのです。
断片40 終
This novel was written by kipple
(これは小説なり。フィクションなり。妄想なり。)