人間学入門
☆文字式サブリミナル・プロジェクション(域値下投射法)
実験小説・ウルトラ・デメリットNO、9。
その青白く痩身の男は、下宿先の薄暗い板の間に立っていた。
彼の背後の急な階段を、黒い猫が、ナメクジのように這っていた。
男は正面のガラス戸を凝視していた。
階段横にある便所のドアが開いていた。
まるで失われた過去のような静けさが男の周囲をとりまいていた。
便所から断続的に水滴の冷たい音が聞こえるだけだった。
猫は、彼の足元に、ゆっくりと滑り込み、丸まった背を一瞬はじけたように震わせた。
男の手には、緑色の絵具が強く握られていた。
り。
絵具のキャップは無く、ゼラチン状の頭が、
亀頭のようにのぞいていた。
ん。
男は、さらに絵具を、強く、握りしめた。
ご。
ほおづきを、かんだような音と、ともに緑色の液体が、
ミミズのように彼の指をはった。
お。
男は手を斜め上方に、かざし、かけ声ひとつ発し、
急激に手を自らの顔体にたたきつけた。
い。
彼は、緑を、顔体に荒々しく塗りたくった。
し。
彼の顔面は、一面の薄い緑におおわれ、怪物のようであった。
い。
彼は、あごを天井に突き出し、犬のようにうなった。
下宿先の外は、夕闇の独特なリリカルな響きの中に、
ひっそりと横たわっていた。
樹木が、わずかな風にそよぎ、塀は、モノトーンの落ち着きを、
ひときわ、きわ立たせ、一日の終わりの、あの、
少し斜めにかまえた夢物語の騒音が、
遠慮深げに、顔をのぞかせていた。
太陽は、きわどい輝きに人々を酔わせ、樹木と塀の中心に位置していた。
全体は、もう夜の侵入を、許容する体制にあった。
うす青の空間があった。
男は、玄関のガラス戸を神経症的に震えながら、小刻みに開けていった。
外の終末的な空気が、彼の緑色の頬を打った。
彼の顔は軽く、ケイレンしていた。
り。
彼は戸を開き終えると、決然と1歩、外の空間に踏み出した。
ん。
男は発作的に、右側のゴミ置きに絵具を投げ捨て、
一方の手で顔をかかえた。
ご。
彼の手は、ゆううつそうに顔を這いまわり毛髪をかきむしり、
そして、行く場所をなくし、空をさまよった。
お。
彼の足は、1歩づつ確かめるように、庭を横切り、門に向かっていた。
い。
黒猫は、開け放たれたガラス戸の奥で、落胆した白痴の如く、
首をうなだれていた。
し。
彼は門を出て、人通りの多い路上に立った。
い。
彼の体は、おこりのように、ケイレンし、
ついに、それは、笑いへと変化していった。
悲しい 笑い声で、あった。
「うわはははははははははははは、
ぎゃへへへへへへへへへへへ、
は、はらが、へったぁぁーーー、
林檎喰いてぇーーーー、
なんで?」
kipple