厳島神社
(いつくしまじんじゃ)
広島県廿日市市宮島町1-1
海中に建つ有名な大鳥居。水面に鮮やかな朱が映えます。
〔御祭神〕
市杵島姫命
(いちきしまひめのみこと)
田心姫命
(たごりひめのみこと)
湍津姫命
(たぎつひめのみこと)
全国に500社ほどある厳島神社の総本社として1,400年以上の歴史を誇り、延喜式神名帳にも「安芸国佐伯郡 伊都伎嶋神社」とその名を刻む古社です。鎮座する宮島には、弘法大師が修行したといわれる幽玄たる霊山・弥山(みせん)をはじめ美しい自然が今もなお豊かに護られており、日本三景のひとつとして訪れる人々は引きも切りません。1996(平成8)年には厳島神社を中心としたエリアがユネスコの世界文化遺産に登録されています。
受付のすぐ奥にある門神社。五重塔が見えます。
古来より、神を斎き祀る島を意味する「イツキシマ」という名前が表す通り、厳島は神の宿る島として人々の厚い崇敬を集めていました。その厳島に神社が建てられたのは、推古天皇が即位した593年のことといわれており、当時この一帯を治めていた佐伯鞍職公が、市杵島姫命の神託を受けて社殿を創建したのが最初といわれています。
ある時、家臣を連れて釣りに興じる佐伯鞍職公のもとに西から一艘の立派な船が近付いてきました。その船の主と思しき女性より「厳島に鎮座する神である」ということ、そして「島に社殿を建てて祀って欲しい」との言葉を賜った佐伯鞍職公は、朝廷にこの事を奏上して勅許を得、改めて神意を伺って鎮座地を定めて社殿を建てたということです。このとき「高天原から連れてきた神鴉が導く地に社殿を築くように」との神意を受けた佐伯鞍職公は、船の主である市杵島姫命に従って厳島の浦々を巡っていたところ、弥山から1羽の鴉が飛来して一行を御笠の浜に導いたため、ここに社殿を築いたといわれています。こうして鎮座した祠は、心身を清め神に仕えるという意味の「伊都伎」をとって伊都伎島神社と名付けられました。
朱塗りの社殿には青空が一番似合います。
厳島神社が現在の形を整えたのは、平清盛公が安芸守に任じられ、平家が一門の守護神として、そして瀬戸内支配の拠点として厚い崇敬を寄せるようになってからのことです。1168(仁安3)年、平清盛公の庇護を受けた佐伯鞍職公の子孫・佐伯景弘公は、厳島に37棟からなる内宮を、そして対岸の地御前に19棟からなる外宮を造営。現在見られるような立派な海上神殿が姿を現しました。1174(承安4)年には都から遠路はるばる後白河上皇と建礼門院の行幸があり、1180(治承4)年には高倉上皇が2度も行幸されました。
鎌倉時代に入った1207(承元元)年と1223(貞応2)年には火災に遭って被害を受けますが、そのつどすぐに再建されました。参拝口を入ってすぐ左手にある客神社はこの頃に再建されたものです。室町時代には足利尊氏公や足利義満公なども参詣されましたが、政情が不安定になったこともあって社勢は一時期衰退します。
1571(元亀2)年に毛利元就公によって改築された本殿。
厳島神社が隆盛を取り戻すのは、戦国時代にこの島を舞台に繰り広げられた厳島の合戦以降のことです。1551(天文20)年に周防国・長門国の守護大名だった大内義弘公を下克上で倒した陶隆房公(のち改名して陶晴賢)と国境を接する安芸国で勢力を伸ばしていた毛利元就公。両者は互いの版図の拡大を狙って何度も小競り合いを繰り広げていましたが、ついに1555(弘治元)年に大規模な戦闘が起こります。これが厳島の合戦です。
兵力では毛利軍の4,000に対し陶軍は20,000以上と圧倒的な差がありましたが、毛利軍は周到な計略によって宮島の狭隘の地に陶軍をおびき出して大軍の動きを封じることに成功。夜の嵐に乗じて厳島への上陸に成功した毛利軍は、陶軍に察知されないまま敵陣に肉薄し、夜明けをもって一斉に突撃を開始しました。まさかの奇襲に陶軍は成す術なく惨敗。陶晴賢公も島内を敗走、毛利軍の海上封鎖が完璧だったために島を脱出すること叶わず、大江浦まで逃げ延びたところで自刃して果てます。
幅4m・長さ約275m(108間)の廻廊。床板の間に隙間があり、
潮の圧力を吸収するしなやかな構造になっています。
この大勝利をきっかけに勢力を伸ばして中国地方に一大勢力を築いた毛利元就公ですが、聖なる島である厳島を血で穢したことへの贖罪の念から、1571(元亀2)年に厳島神社の大規模な再建を行いました。現在の本殿はこの造営されたものだといわれています。もちろん、ただ敬虔な贖罪の意味だけで修復造営を行ったのではなく、いかに戦国の世を勝ち抜く謀略とはいえ「神宿る島」で戦を行ったということに反発する世論を恐れたのではないかと考えられます。こうして再興された厳島神社は、豊臣秀吉公による千畳閣の建立や江戸時代の広島藩主・浅野氏代々の厚い崇敬もあって栄え、明治時代に入ってからは1871(明治4)年に国幣中社に列せられ、1911(明治44)年には官幣中社に昇格しました。
1557(弘治3)年に毛利元就・隆元親子によって再建された反橋。
朝廷からの勅使が渡ったことから勅使橋とも呼ばれています。
アクセス
・JR山陽本線「宮島口駅」下車、宮島口桟橋よりフェリー(JR、松大汽船)にて海路10分
・広島電鉄「広電宮島口駅」下車、宮島口桟橋よりフェリー(JR、松大汽船)にて海路10分
(宮島口~宮島フェリー片道料金:JR・松大汽船ともに大人170円、子ども80円)
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拝観料
・大人300円、高校生200円、小・中学生100円
拝観時間
・6時30分~18時(冬期17時まで)
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