昨日、司法試験の合格発表がありました。
みなさまおつかれさまでした。
ところで、司法試験と言えば、最近私、仕事で
司法試験の採点実感と出題趣旨を読んでいるのですが、
表現的にいかがと思うことが多く・・・。
時間的な制約から、
どうしても理論的にも文章的にも雑な表現になってしまうのはわかるのですが
(あ、これは受験生の答案のことではなく
試験委員が書く採点実感と出題趣旨のことです)、
やはり、いささかいかがなものかと思ったところを
コメントしてみようと思います。
さて、そのシリーズの第一回ですが、
今回は、昨年平成25年についてです。
あの年の公法系第一問は、
デモ行進の不許可処分と大学の教室使用不許可処分の合憲性が問われました。
このうち、前者については、まあよいのですが、
後者については、「出題趣旨」で平等権で書いてほしいということが書いてあり、
採点実感でもそこがメインとのこと。
しかし、採点実感では同時に、「憲法23条」が問題になる(1ページ目1)とか、
「学問の自由と大学の自治の緊張」という平成21年同様の問題があり、
それを書いた答案は「賞賛」に値する(3ページ目)とか、
書いてあり、学問の自由についても論じた方が良かった
という空気。
結局、憲法23条をどう処理すればよいのやら、という疑問がわくわけです。
また、平成21年(遺伝子治療研究の研究停止命令)の出題趣旨、採点実感では、
大学教授が「県立大学の施設を使って研究すること」が学問の自由で保護されることが
当然の前提とされる一方、平成25年の出題趣旨、採点実感では、
学生が「県立大学の施設を使って研究集会すること」は学問の自由で保護されない
というようなかきぶりになっていて、
これは、かなり受験生を戸惑わせる内容になっております
(このような採点実感の記述は有害ではないのか・・・)。
というわけで、この点を整理してみようと思います。
(つづく)
みなさまおつかれさまでした。
ところで、司法試験と言えば、最近私、仕事で
司法試験の採点実感と出題趣旨を読んでいるのですが、
表現的にいかがと思うことが多く・・・。
時間的な制約から、
どうしても理論的にも文章的にも雑な表現になってしまうのはわかるのですが
(あ、これは受験生の答案のことではなく
試験委員が書く採点実感と出題趣旨のことです)、
やはり、いささかいかがなものかと思ったところを
コメントしてみようと思います。
さて、そのシリーズの第一回ですが、
今回は、昨年平成25年についてです。
あの年の公法系第一問は、
デモ行進の不許可処分と大学の教室使用不許可処分の合憲性が問われました。
このうち、前者については、まあよいのですが、
後者については、「出題趣旨」で平等権で書いてほしいということが書いてあり、
採点実感でもそこがメインとのこと。
しかし、採点実感では同時に、「憲法23条」が問題になる(1ページ目1)とか、
「学問の自由と大学の自治の緊張」という平成21年同様の問題があり、
それを書いた答案は「賞賛」に値する(3ページ目)とか、
書いてあり、学問の自由についても論じた方が良かった
という空気。
結局、憲法23条をどう処理すればよいのやら、という疑問がわくわけです。
また、平成21年(遺伝子治療研究の研究停止命令)の出題趣旨、採点実感では、
大学教授が「県立大学の施設を使って研究すること」が学問の自由で保護されることが
当然の前提とされる一方、平成25年の出題趣旨、採点実感では、
学生が「県立大学の施設を使って研究集会すること」は学問の自由で保護されない
というようなかきぶりになっていて、
これは、かなり受験生を戸惑わせる内容になっております
(このような採点実感の記述は有害ではないのか・・・)。
というわけで、この点を整理してみようと思います。
(つづく)
平成21年の問題で少し異なる構成を描いていたので、見て頂けますでしょうか。
[設問2]なのですが、二段階審査のうち、典型的適用例として「第三者(赤の他人)への情報提供」、当該適用例としてU+2460「第三者と言っても赤の他人でない家族の遺伝子に関する情報提供」U+2461「自己の遺伝子に関する情報提供」を想定する、という構成です。
私見の場面では、典型的適用例審査では、そもそも「第三者の遺伝子に関する情報の開示を要求する権利」は保障されない、当該適用例審査では、U+2460の「家族の遺伝子に関する情報の開示を要求する権利」も保障されない、U+2461の「自己の遺伝子に関する情報の開示を要求する権利」は保障され、要件該当性を論じ、U+2461の請求を妨げている規則の一部は違憲である、という流れになりました。ただ、こう書いてしまうと到底時間内では終わらないと思います……
立法が審査対象になり、
その典型的適用例と
Y社のような事例の適用例審査が問題になる
ということでしょうか。
あの段階で訴訟を打たせることが妥当かどうかは
議論がありますね。
あと自己統治の価値は、いささか微妙ですが
社会の決定を豊かにするという意味で社会的価値でもありますが、
自らが社会の決定にかかわれるという意味で
個人的価値でもあり、
後者の側面が強調されることもあります。
あと、誤植?情報です。p159の三行目の「自己統治の価値」は個人的価値でしたっけ。ひょっとしたらそういう理解が正しいのかも、と自信がないのですが……
プログラム提供ですから
プログラム提供と書くのが正確とされます。
ただ、実態は画像配信行為なので
プログラム提供行為は実質的には
こういう行為だと説明をするなら、それでよいと思います。
先生の近著である過去問解説を読んでいます。他のコメントとも関連するのですが、平成20年の問題は、制約される行為として、「プログラムを作成、提供した行為」を設定し、これが表現の自由で保護されるか、これへの制約は違憲ではないか、を問題にしています。
私が構成した際には、制約される行為として、「本件サイトで無料で平和問題等に関する画像を配信する行為」を設定し、その行為は表現の自由で保障される、それが有害「指定」されることで、他者が閲覧できなくなったという意味で、表現の自由が制約される、と考えたのですが、これだとまずいのでしょうか。その後の解説を読んでも、論じる直接の中心になっているのは、「画像配信行為」ですし、制約も「指定」が問題になっている気がするのですが(少なくとも、無償ダウンロード行為を刑罰をもって規制することの是非は直接は問題にしていない)。
あと一点だけ。もし出版予定の御著書に記されているときはそちらを拝見します。
平成21年の事案では教授の学問研究の自由を問題にしていますが、この学問研究の自由には、大学の施設や設備を利用した研究まで保護範囲に含まれるのでしょうか。ここは他人の土地を利用した表現活動は、表現の自由の保護範囲から外れるのと同様、大学施設を利用した研究も、学問研究の自由の保護範囲からは外れるのではないかと思いました。
そうすると、学問研究の自由に含まれるものといえば、自己所有のものを利用した研究活動だけになる、と理解していいのでしょうか。
さきほどは簡単なお答えですいませんです。
重要なご指摘ありがとうございました。
参考にさせていただきます。
>丼さま
どもです。確かにその記述は重要ですね。
ただ、先の記事を書こうと思っておったのですが、
もちろん、学生と教授では
少し位置づけは違うわけですが、
平成25年の問題は、C教授のゼミとして行うので、
結局、学問の自由で保護されてしまうのですよ。
という問題については、どんな風に処理したもんか。
ということで、やはり採点実感は読みが浅い気がします。
>阪神優勝様
「憲法の趣旨に反する」とは
普通は違憲という意味なので、Bはとれないでしょう。
また、Bが違憲とまでいえなくても
憲法価値の実現のためにAのほうがよい
と言う場合は、
おっしゃるとおり上位規範を優先すべきですね。
解釈ABが取りうる場合で、Aがより憲法の趣旨に沿った解釈といえる場合、なぜAを選択しなければならないのでしょうか。逆に言えば、Bを選択することが許されないのはなぜでしょうか。
以上のケースとは異なり、解釈Bが違憲の場合にはAを選択しなければならないことは理解できます。
しかし、解釈Bが違憲とはいえず、ただAが憲法の趣旨に適合している場合に、なぜAを選択しなければならないのでしょうか。
憲法は上位の規範だから、という理由しか思い浮かびません。これで理由になるのでしょうか。
たまたま先生のブログを拝見しました。
先生の問題提起ですが、
僕はポポロ判決に書いてあると感じました。
と言いますのも、全文孫引きするのもアレですが…
[3] このように、大学の学問の自由と自治は、大学が学術の中心として深く真理を探求し、専門の学芸を教授研究することを本質とすることに基づくから、直接には教授その他の研究者の研究、その結果の発表、研究結果の教授の自由とこれらを保障するための自治とを意味すると解される。大学の施設と学生は、これらの自由と自治の効果として、施設が大学当局によつて自治的に管理され、学生も学問の自由と施設の利用を認められるのである。もとより、憲法23条の学問の自由は、学生も一般の国民と同じように享有する。しかし、大学の学生としてそれ以上に学問の自由を享有し、また大学当局の自治的管理による施設を利用できるのは、大学の本質に基づき、大学の教授その他の研究者の有する特別な学問の自由と自治の効果としてである。
[4] 大学における学生の集会も、右の範囲において自由と自治を認められるものであつて、大学の公認した学内団体であるとか、大学の許可した学内集会であるとかいうことのみによつて、特別な自由と自治を享有するものではない。学生の集会が真に学問的な研究またはその結果の発表のためのものでなく、実社会の政治的社会的活動に当る行為をする場合には、大学の有する特別の学問の自由と自治は享有しないといわなければならない。
学生が特別な学問の自由を享受できるのは、あくまでも教授が有する学問の自由の効果であるとしています。
判例は、学問の自由について
一般国民≦学生<教授と考えているのではないでしょうか?
以上、ロー生の戯言でした。
日に日に寒くなりますが、お身体に気をつけてお過ごしください。
たとえば、定義規定と禁止規定と罰則規定の三つということがありえますし、
憲法論としても
定義があいまいとか、定義はともかく罰則が重すぎる
と、どこを攻撃するかはいろいろです。
急所第二問の場合は、根拠法はややこしいですが、
地行法のうち教育委員会の方針に反した生徒に処分することを認めた部分ということになると思います。
あと一点、関連してよく理解できなかったことがあります。国家行為の「根拠法の画定」について、どこまでを「根拠法」に含めて考えればよいのか、という点です。
【平成20年】を例にすると、
被告人に刑罰を科す直接の根拠法となっているのは、フィルタリングソフト法17条(「…前条第1項の規定に違反した者は、…罰金に処する」)ですが、これに加えて、その「前条」である16条1項(「何人も、次に掲げるものを他人に提供してはならない」)2号(「適合ソフトウェアの…動作をさせないプログラム」)も「根拠法」に含まれるのでしょうか。
さらに、これら17条、16条1項2号の前提として、当該ウェブサイト(ページ)への内閣総理大臣による有害指定が適法、有効になされていなければ刑罰を科すことはできないわけですから、その内閣総理大臣による有害指定を根拠づけている5条(「内閣総理大臣は…有害ウェブサイトを指定するものとする」)や、その「有害ウェブサイト」の定義規定である2条4号も根拠規定に含まれるのでしょうか。
一般論でいえば、
処分の直接の根拠となっている条文に加えて、どこまで他の条文を「根拠法」に含めて考えることが許されるのか、ということです。
今のところ、その条文が無効になれば、その影響を受けて処分が無効になる、という関係性が認められる条文であれば、すべて「根拠法」に含めて考えてよいのでは?と考えているのですが…
急所第二問を例にすると、「国家行為」は原級留置処分であり、その原級留置処分はY県教育委員会の方針転換が違法、無効であればその影響を受けて無効となる関係にある、ということで、方針転換の根拠になっている地行法23条5号も処分の「根拠法」に含まれる、という考え方でいいのでしょうか。
実際に行われたかどうかはともかく、
その権利主体の権利を制限するような行為をすることが
合憲か?
を審査するわけですね。
実際に処分が行われていない段階では
訴訟法的に訴訟が打てないこともありますが、
それはまた、別の問題ですね。
ということは、国家行為を特定する際には「実際に」処分や刑罰が行われたかどうかなんて関係ない、という気がしてきました。
もちろん、その事案で実際に処分や刑罰が行われているならわかりやすいのですが、
H18や21では、まだ実際に処分は行われてないと思うのですが(21では被験者との関係で)。(処分される前に訴えを提起している)
「実際に」処分や刑罰が行われなくても、処分や刑罰を国家行為として特定することは許されるのでしょうか?
私の理解が基からおかしいのかも‥
処分や命令、刑罰が審査対象であり、
法律や規則ではないでしょうね。
そのあたりの詳細は、
『急所』の第一部第二章にまとめられておりますぞ。
「審査対象となる国家行為の特定」についてです。
例えば、H18、H21の設問2では、前者は「法律」そのもの、後者は被験者との関係では「規則」そのものが「国家行為」ということですが
例えば、H19 H20 H23では、順に「処分」「刑罰」「処分」という具体的な行為が「国家行為」となっています。
H19、20、23では、(18、21のよう抽象的な規範も国家行為として認められる以上、)処分や刑罰の根拠となっている「法律」を国家行為と特定することは許されないのでしょうか。
逆に、H18、21で仮に後で処分や刑罰が行われた場合、その「処分」「刑罰」が特定すべき国家行為ということになるのでしょうか。
憲法ー→法律ー→規則ー→処分・刑罰というながれのなかで、どれを問題となる国家行為と捉えるべきか、という基準がよく理解できないのです。
現に存在している国家行為のうち、直近のもの(処分・刑罰)から遡って考えればいいのでしょうか。
どうもです。
昨年の講義の後、いろいろ肉付けして
現在本を書いています。
年内発売予定なので、細かい点は、
ぜひそちらもご参照ください。
>大1さま
ホッブズ『リヴァイアサン』が
ご質問の点をどんぴしゃりに扱っていますので
読んでみてください。
芦部先生の憲法の教科書を読んでいて1ページ目からつまずきまして、質問させて頂きます。
観念的には、自然権を保障するような統治を行う王政であれば絶対主義権力も、社会契約の観点からは正当化可能なんでしょうか。
行使主体が王様というだけで、実質は自然権(人権)保障もされている。
それとも権力を作るのが国民であること及び行使主体も国民でなければいけない、というのが社会契約、近代自然法思想の要請なんでしょうか。