春夏秋冬

日々流されないために。

わが母校の先生、中森蒔人さんのこと

2005年04月11日 14時11分15秒 | ふるさと・徳島
昨年(2004年)12月、わが母校、徳島県城東高校の先生でおられた中森蒔人さんがお亡くなりになりました。小生、卒業後、お付き合いがありませんでしたので、全く存じませんでした。一度お会いしたいとは思っておりましたが、何か、きっかけがなく、今に至っておりました。申し訳なく存じます。
 
中森先生のことは、小生が高校生の時、世界史の先生として教えを受けただけの、お付き合いですが、50数年後の今まで、忘れたことはありません。一度、先生から、自分の家に来ないかと誘われました。お家に行くと、そこは、何もない一部屋の間借りの部屋で、室内には何もなく実に殺風景だったことを覚えております。独身者の生活環境ということでしょう。そのとき、どんな話をしたか覚えておりませんが、一冊の本を貸してくれました。定かではありませんが、赤い表紙の本だったように記憶しております。勿論、中身は理解できるようなものでなかったことは確かです。
  
小生が卒業するまで、先生は、城東高校におられましたが、卒業してすぐ、小生がちょうど浪人中に、ある事件があり、先生は別の高校に移られました。その事件のことは、当時、徳島の人なら、知らない人はいないという出来事でした。小生、その事件の当事者ではありませんでしたが近くにおりました。話す機会が来れば、お話することもあるかと思います。
  
なお、中森先生は、東京に戻られ、ほるぷ出版を創設され、児童本などの出版界でご活躍されておりました。そのことは、ときどき、同郷の友人から情報が入っておりました。その後、お会いすることを願っておりましたが機会がなく、一度もお会いできなかったことが残念です。くりくりとまんまるい目をして、いつも、にこにこしていた若い先生のお姿は、ついこの間のように鮮烈に覚えております。小生にとって、心の師と言ったら僭越ですが、中森先生のことは、いつまでも忘れることはありません。
  
中森先生の略歴は下記にあります。
http://web.archive.org/web/20021207001111/http://www2.odn.ne.jp/~aao40020/naka-sp.htm

 
中森蒔人先生経歴要約
最近見ますと、上記WEB記事が削除されておりますので、その時私のパソコンに取り込んでいた記事を基に、先生の略歴のところだけを抜き書き致します。先生がご自分で略歴を述べられている箇所です。
 
 私は1922年(大正12年)東京本郷に生まれました。幼年時代セマント(エスペラント語で種蒔く人)と呼ばれました。父親泰蔵は広島から上京してカナモジ運動、エスペラント語運動に共鳴し、武蔵境駅前に書店クララ館(戦時中、中森書店と改名)を開館しました。
 
 東京工大航空機学科に進み敗戦を迎えた私は戦後東大法学部政治学科に入学し1949年卒業、そして東大に再入学したとき、レッドパージ反対闘争の中で無期停学処分を受けました。そのおかげで南原繁東大総長の知遇を得ることになりました。
 
 その後、生涯の「田舎教師」を望み徳島県の高校教師として社会や世界史を教えていました。しかし、家業である本屋を継いでくれた義兄平井潔が急死したため帰京し家業の中森書店を建て直し、1964年にほるぷ(当時は図書月販)を設立しました。そして1985年12月第22回株主総会まで代表取締役社長、その後代表取締役会長、1986年12月第23回株主総会において取締役(相談役)になり、1988年12月第25回株主総会において取締役退陣をいたしました。
 


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