春夏秋冬

日々流されないために。

懐かしい吉野川橋

2005年11月04日 20時51分19秒 | ふるさと・徳島

先日徳島に帰郷したとき、吉野川橋の写真を撮る。雨模様だったので、写りはいまいちだが、橋の写真を、下に2枚ほど掲げる。
 
吉野川橋は、徳島市と川内町をつなぐ長さ千メートル強の17連のトラス橋。美しい橋である。小生にとっては、懐かしい橋だ。昭和3年完成。写真は、徳島側の土手から撮った。
 
実はこの土手は、小生が子供の頃、よく遊んだ土手で、土手そのものは、昔と変わらない。変わったのは、河川敷というか、土手の内側だ。昔はここにい草やその他の草が、川岸まで一面に生えており、青一色だった。この橋の少し下流側でよく遊んだ。懐かしい橋だ。
 
土手から橋を眺めていると、徳島空襲で家が焼かれて、母親に手を引かれて、この土手まで、逃げ延びてきて、うずくまっていたことを、思い出す。小学校3年生の時だ。時々、ぼそっ、ぼそっと音がして、焼夷弾が近くに落ちてきた。翌日、吉野川橋を渡り、親戚の田舎に歩いていった。この長い橋を歩いて渡ったのは、このとき以来ない。あれからもう60年が経つ。
 
  
さて、今の吉野川橋は、両側に歩道橋がつくられている。当時はこれがなかった。自動車の横を自転車が通行していたものだ。自動車の交通量が多くなり、危険となったので歩道橋をつくったと言うことだろう。しかし、この歩道橋のおかげで、吉野川橋としての景観が随分損なわれてしまっている。
 
 
この橋の設計は、増田淳。彼は、香川県出身で、米国で15年ほど修行した後、日本に帰国し大正末から昭和中期にかけて多数の橋梁を設計した。東京の白髭橋も彼の設計による。なお、増田淳の橋梁設計図面が多数、つくば市の土木研究所に保管されいるそうで、一度見たいもの。
 
 
なお、小生の子供の頃はなかったが、現在は、この橋の下流にもう1本、橋が架けられている。今ではそちらの方が、交通量が多く、動脈となっている。橋名は吉野川大橋という。ただし、この橋、道路の延長といった感じの橋で、橋としての趣が全くない橋。
 
先日見ると、この吉野川大橋の一寸下流側に橋台を造っていたので、更にもう1本、橋を造るのかな。
 
徳島も少しずつ変わってきている。

 

下の河川敷は、い草などの、緑一面だったが…。小学3年生のとき、戦災で焼けだされたとき、この橋を歩いて渡り、栄村の親戚の田舎に身を寄せた。親戚の家まで遠かった。徳島空襲は7月4日だから、暑いときだった。歩けないと親にだだをこねたのだろう。親に随分しかられた記憶がある。
 

昔は両側の歩道橋がなかった。歩道橋は昭和40年につくられている。本橋は完成後77年経つが、リベット構造のトラス橋は今も健在。アーチ型トラスが17連も連なる美しい橋で、徳島の数少ない歴史建造物の一つと思う。

 

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