春夏秋冬

日々流されないために。

小湊鉄道の上総鶴舞駅にて

2005年04月30日 23時08分28秒 | 旅行
4月27日~28日、車で房総へ小旅行をした。 
途中何気なく立ち寄った、小湊鉄道の上総鶴舞駅のレトロさにびっくり。
 
写真を数枚撮る。
 
全くの無人駅で誰もいない駅。駅員は勿論、待つ乗客もいない。しばらくいたが全くの無人駅舎という感じ。そのうち、1台、車がやってきた。駅前にある郵便ポストに郵便物を入れるためにやってきたようだ。ご年配の方で、この駅はレトロですね。と、話しかけた。その方はこの地の方のようで、いろいろ話してくれた。
 
この駅は、大正の末にできて、そのままの姿です。ときどき、映画が何かの撮影にこの駅を使っていましたよ。私が高校生の頃は、ここから上総牛久駅まで通学したが、そのままの姿です。と言うことであった。撮影に使ったといっていたが、さもありなん。小湊鐵道はこのような駅が他にもありますかと尋ねると、ありますよ、と言う答えだった。駅舎が新しくなるのは快適でよくなるのだが、変に味消しの駅舎になって欲しくない。小湊鐵道は昔の駅舎をまだ残しているようだ。
 
駅員室の窓ガラスに、百選駅認定記念として、切符と駅舎の設計青図がセットになって売られていた。連絡の電話番号があったので、早速、連絡を取り、送ってもらうことにした。
  
この日は、先を急いだが、次回はぜひ小湊鐵道探索にやってこよう。
 

 


小湊鐵道 上総鶴舞駅 駅前にて
 

人の気配がない待合室
 

夜はどんな照明になるのだろう。

 
【追記】
関東の駅百選認定記念の、切符と駅舎の設計青図セットが送られてきた。水彩画の絵はがきが付いていた。青図面の裏に次のような説明文有り。

小湊鐵道のあらまし
小湊鐵道は大正6年5月創立され、大正14年3月7日第一期線(五井-里見間)25.7kmが開通しました。その後大正15年9月には月崎まで4.1km、昭和3年5月に終点上総中野まで9.3kmが開通し、前線39.1kmとなり現在に至っております。
 五井-上総中野間は18駅あり、内18駅が無人となっております。
 
上総鶴舞駅
所在地  千葉県市原市池和田898-2
開駅   大正14年(1925年)3月7日
駅名改称 「鶴舞」駅から「上総鶴舞」へ。上総を代表する桜の名所、城下町鶴舞を広くアピールするため昭和33年1月1日改称された。

 

 

入場券・駅舎設計青図面・水彩画の絵はがきの3点セット
  

篠崎輝夫画の水彩画絵はがき

 


農業公園「ポティロンの森」に行ってきた

2005年04月21日 09時06分21秒 | 旅行
先日、茨城県江戸崎にある農業公園「ポティロンの森」に行ってきた。初め、「ポティロンの森」って何? どんなところ? なにやら名前は、しゃれたところみたいだが。行ってみるか、ということで、延々2時間かけて、車で出かけた。 
 
まあ、名と実がこんなに違うのも珍しい。ポティロンとはフランス語でカボチャという意味。タイトルの響きがいかにもヨーロッパ風を思わせるものだが、単なる遊園地。
 
ヨーロッパの雰囲気といえば、落ち着いたしっとりした感じがするものだが、そういうところではない。「土」のイメージ。芝生にマットを敷いて寝ころべば最高か。少なくとも、街と称する広場くらいは、道路に草が生えてこないようにして欲しいもの。
 
サブタイトルを見たら、農業公園となっていた。こちらの表現が正解。子供の遊び場が充実しているので遊園地と考えれば、ぴったり。子供の遊びには不自由しないので、今度孫が来たら連れて行こうかな。入場料、無料の日を狙って。

 
 

孫が喜びそうなタイやで走る機関車。
 

敷地は広大なり。運動不足解消によいかな。
 

わが母校の先生、中森蒔人さんのこと

2005年04月11日 14時11分15秒 | ふるさと・徳島
昨年(2004年)12月、わが母校、徳島県城東高校の先生でおられた中森蒔人さんがお亡くなりになりました。小生、卒業後、お付き合いがありませんでしたので、全く存じませんでした。一度お会いしたいとは思っておりましたが、何か、きっかけがなく、今に至っておりました。申し訳なく存じます。
 
中森先生のことは、小生が高校生の時、世界史の先生として教えを受けただけの、お付き合いですが、50数年後の今まで、忘れたことはありません。一度、先生から、自分の家に来ないかと誘われました。お家に行くと、そこは、何もない一部屋の間借りの部屋で、室内には何もなく実に殺風景だったことを覚えております。独身者の生活環境ということでしょう。そのとき、どんな話をしたか覚えておりませんが、一冊の本を貸してくれました。定かではありませんが、赤い表紙の本だったように記憶しております。勿論、中身は理解できるようなものでなかったことは確かです。
  
小生が卒業するまで、先生は、城東高校におられましたが、卒業してすぐ、小生がちょうど浪人中に、ある事件があり、先生は別の高校に移られました。その事件のことは、当時、徳島の人なら、知らない人はいないという出来事でした。小生、その事件の当事者ではありませんでしたが近くにおりました。話す機会が来れば、お話することもあるかと思います。
  
なお、中森先生は、東京に戻られ、ほるぷ出版を創設され、児童本などの出版界でご活躍されておりました。そのことは、ときどき、同郷の友人から情報が入っておりました。その後、お会いすることを願っておりましたが機会がなく、一度もお会いできなかったことが残念です。くりくりとまんまるい目をして、いつも、にこにこしていた若い先生のお姿は、ついこの間のように鮮烈に覚えております。小生にとって、心の師と言ったら僭越ですが、中森先生のことは、いつまでも忘れることはありません。
  
中森先生の略歴は下記にあります。
http://web.archive.org/web/20021207001111/http://www2.odn.ne.jp/~aao40020/naka-sp.htm

 
中森蒔人先生経歴要約
最近見ますと、上記WEB記事が削除されておりますので、その時私のパソコンに取り込んでいた記事を基に、先生の略歴のところだけを抜き書き致します。先生がご自分で略歴を述べられている箇所です。
 
 私は1922年(大正12年)東京本郷に生まれました。幼年時代セマント(エスペラント語で種蒔く人)と呼ばれました。父親泰蔵は広島から上京してカナモジ運動、エスペラント語運動に共鳴し、武蔵境駅前に書店クララ館(戦時中、中森書店と改名)を開館しました。
 
 東京工大航空機学科に進み敗戦を迎えた私は戦後東大法学部政治学科に入学し1949年卒業、そして東大に再入学したとき、レッドパージ反対闘争の中で無期停学処分を受けました。そのおかげで南原繁東大総長の知遇を得ることになりました。
 
 その後、生涯の「田舎教師」を望み徳島県の高校教師として社会や世界史を教えていました。しかし、家業である本屋を継いでくれた義兄平井潔が急死したため帰京し家業の中森書店を建て直し、1964年にほるぷ(当時は図書月販)を設立しました。そして1985年12月第22回株主総会まで代表取締役社長、その後代表取締役会長、1986年12月第23回株主総会において取締役(相談役)になり、1988年12月第25回株主総会において取締役退陣をいたしました。
 


つくばエクスプレス、正に快速!

2005年04月01日 10時35分31秒 | つくばエクスプレス
 「ながれやま広報」(4月1日発行)に、つくばエクスプレスの快速停車駅と秋葉原までの所要時間が掲載された。
 
 それによると、わが家最寄りの「流山おおたかの森」駅は、快速停車駅となり、しかも、秋葉原まで、なんと24分なり! これで都心がぐっと近くなった。いままでは、東武野田線で初石から柏まで出て、常磐線に乗り換え、そして上野までというコース。これだと、どうしても乗り換えに時間を要し、上野まで45~50分かかっていた。それが24分だから、時間が半分! おー、随分早くなったわい。しかも、運賃もつくばエクスプレ1本で行けるから、むしろ安い。
 
快速停車駅は
 つくば
 守谷
 流山おおたかの森
 南流山
 北千住
 浅草
 新御徒町
 秋葉原
 
「流山おおたかの森」から「北千住」までが13分。ここまでが早いのだ。