春夏秋冬

日々流されないために。

徳島橋梁技術者の会

2007年05月17日 11時20分32秒 | ふるさと・徳島
題記の一寸変わったサイトがあった。その中に「四国における橋梁技術者の先達たち」という記事があり、増田淳やらの記事が載っていた。なかなか興味があったが、もっとくわしく読むには、ログインしなければならない。つまり会員登録する必要がある。しかし、タイトルにもあるようのこの会、橋梁技術者の会、つまり専門家の会ということだ。事務局も徳島大学工学部建設工学科。専門家でもない私が登録してよいものか、迷ったが、郷里の懐かしさのあまり、会員登録してしまった。
 
会員登録したら、事務局をされている建設工学科の先生から、登録御礼のメールを頂いた。話のついでに、WEB記載の増田淳の記事(徳島県技術士会会報)を見る方法をお尋ねしておいたら、有り難いことに、わざわざその記事を見せて頂いた。
 
増田淳は吉野川橋を設計した人。隅田川の白髭橋を設計した人でもある。この人の設計した橋は、素人の感じだが、何か安定感があって、時代を超えた造形美があるように思う。つくば市に国土総合研究所があり、そこの図書館で増田淳の設計図面及び計算書が閲覧できるそうだ。勿論複製だそうだが。機会があったら、行ってみようと思っている。
 
徳島大学工学部といえば、子供の頃、上物が戦災でやられてレンガの基礎だけ残っていた頃、よく遊びに行った。当時のわが家からは少し距離があったが、遊びのテリトリーの範疇にあった。吉野川や徳島大学は子供の頃の思い出の中にある。

 
徳島橋梁技術者の会 
http://www.tokushima-bridge-engineers.net/modules/pukiwiki/ 

徳島のうどん

2006年11月04日 13時11分34秒 | ふるさと・徳島

関東では、うどんと言えば、讃岐うどんが有名で、どこのスーパーなどでも、腰のある讃岐うどんと大書された冷凍の讃岐うどんが売られている。徳島うどんというのは聞いたことがない。徳島出身のわたしとしては、徳島のうどんも美味しいぞ、と思っているが、知名度において讃岐に負ける。
  
讃岐うどんは腰があって少し堅めが特長だが、徳島のうどんは、それほど堅くはない。しかし、わたしは郷里が徳島であるということを抜きにしても、徳島のうどんの方が好みだ。ただし、これは子供の頃から、そういううどんを食べてきたので、そう思うのだろう。
 
讃岐うどんで美味しかったのは、宇高連絡船での立ち食いうどん。これは、うまかった。宇高連絡船が現在ないので過去形でしか表現できないが、わがふるさと徳島においても、宇高連絡船のうどんのはなしをすると、昭和20年代後半から30年代前半利用した人は、恐らく100%の人が美味しかったと肯定する。
 
甲板のベンチに腰掛けて、連絡船がつくる白い泡が遠くの海に去っていくのを見ながら、うどんをすする。ひとつまみの、ふんわりと掛けられたかつお節と青ネギだけの素うどん。ここまで書いただけで、生唾が出てくる。関東では素うどんのことを、かけうどんと言っているが、かけうどんでは、わたしには感じがどうもつかめない。
  
宇高連絡船は、高松から宇野までの所要時間がほぼ1時間。気候のよいときは甲板で過ごすのがいちばん快適。女の方は日差しを気にして船室でいたが、当時、若いわたしはいつも甲板で海を見ていた。今は明石大橋ができて、宇高連絡船がなくなってしまった。和歌山と徳島を結ぶ南海汽船もなくなってしまった。船に乗る雰囲気は今はない。
 
この前、帰郷したら、徳島駅前にビジネスホテルができて、「つぼや食堂」と言ったと思うが、うどん屋さんが無くなっていた。残念なり。で、眉山のロープウエイ近くの元祖何とかと書いてあったうどん屋に入ったが、味がやや関東風になって、いまいち。連絡船のような素朴な素うどんを食べさせてくれるところは、少なくなった。


懐かしい吉野川橋

2005年11月04日 20時51分19秒 | ふるさと・徳島

先日徳島に帰郷したとき、吉野川橋の写真を撮る。雨模様だったので、写りはいまいちだが、橋の写真を、下に2枚ほど掲げる。
 
吉野川橋は、徳島市と川内町をつなぐ長さ千メートル強の17連のトラス橋。美しい橋である。小生にとっては、懐かしい橋だ。昭和3年完成。写真は、徳島側の土手から撮った。
 
実はこの土手は、小生が子供の頃、よく遊んだ土手で、土手そのものは、昔と変わらない。変わったのは、河川敷というか、土手の内側だ。昔はここにい草やその他の草が、川岸まで一面に生えており、青一色だった。この橋の少し下流側でよく遊んだ。懐かしい橋だ。
 
土手から橋を眺めていると、徳島空襲で家が焼かれて、母親に手を引かれて、この土手まで、逃げ延びてきて、うずくまっていたことを、思い出す。小学校3年生の時だ。時々、ぼそっ、ぼそっと音がして、焼夷弾が近くに落ちてきた。翌日、吉野川橋を渡り、親戚の田舎に歩いていった。この長い橋を歩いて渡ったのは、このとき以来ない。あれからもう60年が経つ。
 
  
さて、今の吉野川橋は、両側に歩道橋がつくられている。当時はこれがなかった。自動車の横を自転車が通行していたものだ。自動車の交通量が多くなり、危険となったので歩道橋をつくったと言うことだろう。しかし、この歩道橋のおかげで、吉野川橋としての景観が随分損なわれてしまっている。
 
 
この橋の設計は、増田淳。彼は、香川県出身で、米国で15年ほど修行した後、日本に帰国し大正末から昭和中期にかけて多数の橋梁を設計した。東京の白髭橋も彼の設計による。なお、増田淳の橋梁設計図面が多数、つくば市の土木研究所に保管されいるそうで、一度見たいもの。
 
 
なお、小生の子供の頃はなかったが、現在は、この橋の下流にもう1本、橋が架けられている。今ではそちらの方が、交通量が多く、動脈となっている。橋名は吉野川大橋という。ただし、この橋、道路の延長といった感じの橋で、橋としての趣が全くない橋。
 
先日見ると、この吉野川大橋の一寸下流側に橋台を造っていたので、更にもう1本、橋を造るのかな。
 
徳島も少しずつ変わってきている。

 

下の河川敷は、い草などの、緑一面だったが…。小学3年生のとき、戦災で焼けだされたとき、この橋を歩いて渡り、栄村の親戚の田舎に身を寄せた。親戚の家まで遠かった。徳島空襲は7月4日だから、暑いときだった。歩けないと親にだだをこねたのだろう。親に随分しかられた記憶がある。
 

昔は両側の歩道橋がなかった。歩道橋は昭和40年につくられている。本橋は完成後77年経つが、リベット構造のトラス橋は今も健在。アーチ型トラスが17連も連なる美しい橋で、徳島の数少ない歴史建造物の一つと思う。

 

久しぶりの帰郷

2005年10月31日 14時36分36秒 | ふるさと・徳島

小生のふるさとは、四国の徳島。
久しぶりの帰郷で、いろいろあったが、それはさておき、童心の頃のふるさとを書いてみる。
 

小生宅は、戦争前、徳島市内に家があったが、戦災に遭い、すべてを失った。このため、小生宅は、板野郡栄村という純農村地の親戚にお世話になった。小生はこの頃、ちょうど、小学生。そして、ここの栄小学校に通った。小学校3年から6年半ばまでの3年間をここで過ごした。
 
親戚には、従兄弟で、ちょうど小生と同じ歳の男の子がいたので、その子といつも一緒に遊んだ。ここは純農家。広い庭があった。そこがあそびに行く出発点。学校から帰ると、毎日、ここで相談し、あそびに行った。この頃家で勉強した覚えがない。
 
近くの竹藪の冒険。背丈より高い葉っぱが一杯の畑の中で走り回ったこと。池で釣りをして初めて魚を釣ったこと。近所の川で泳いだこと。流れの早い川だったが、小生ここで泳ぎを覚えた。畑に出て家族と一緒に農作業。と言っても遊びに行くのと同じ。麦踏みも始めちょこっとやったら、もう走り回っていた。夜のお墓の肝試し。川の上流に有料の小さな橋があった。ここでもいろいろ思い出がある。
 
庭の隅に小屋があって、そこに牛が1頭飼われていた。親戚のお家では、お父さんが戦争に行って、まだ、復員していなかった。それで、おじいさんが、牛を畑に連れて行って、耕していた。小生、こわごわ牛の後を付けて行って、よく畑に付いて行ったことを思い出す。
 
また、この親戚は、困窮した小生宅に小さな農地を貸してくれた。そこで、何か作りなさいと言うことだったようだ。そこは砂地に近い土地。水はけがよいので、ここでサツマイモを沢山作った記憶がある。戦後すぐの頃だったので、食糧難は極度に達していた。このサツマイモはわが家に貢献したはず。
 
その後、小生の父親は徳島の市内に家を新築し、徳島市での生活となった。このため、毎日、あっちこっちと遊び回った時代というのは、小学6年生で終始符を付けることとなった。その後、徳島の市内でも城山冒険と称して、近くの小さな山で毎日遊んでいたが、そろそろ中学生。田舎で経験したようなあそびはなくなった。
 
今、回顧すると、小学3年から6年までの田舎での3年間が、小生の最も楽しい、田舎の良い思い出ばかりが残る頃だったように思う。小生にとって、田舎はどこか。と、言われれば、栄村の田舎に決まっている。思い出がいっぱい詰まった宝物だ。
 
今回、一緒に遊んだ従兄弟の母親、つまり、小生の叔母上様の13回忌の法事で、この田舎に行った。幹線道路から一歩この村にはいると、昔が一気に思い出されてきた。道路はそのまま残っている。小さな祠もそのまま。昔あそびに行ったお寺もそのまま川向こうにある。
 
昔と変わらぬくらし。そして、そこで、純農家として、農業をまじめに一生懸命やってきている証し、を見ることができた。これが一番、小生の心に残った。
    
従兄弟は、赤銅色の顔をほころばせながら、
身体のあちこち、ガタが来ていると言っていた。長生きしてほしい。
 

悲しみを乗り越えて

2005年10月26日 00時01分04秒 | ふるさと・徳島

人間、寿命が医学の進歩で大幅に伸びたと言われる。しかし、医学の進歩がまだ及ばないところもある。最近、小生の近親者が亡くなった。発症したら半年という業な病に冒されて、47歳の若さで亡くなった。徳島県庁に勤めており、それなりの仕事をしていたと聞いていたが…、突然の訃報だった。人間、どんな運命が待ち受けているのか分からない。残酷です。残されたものがあり…。
 
膵臓癌というのは、統計的に見ても、1万人に1人か2人。罹る率は少ないのに何で…、と言う気持ち。そして、罹病すれば、ほとんどが半年という病気。医学の進歩がここには及んでいない。
 
人間の寿命について、大分前に、友人と議論したことがある。彼は、自分の命が後どれくらいあるか、予測できればよいという。残された時間を有効に使うことが出来るというのだ。それに対して、小生は、人間の寿命というのは予測できないから、深みがあるのでないか。明日の命かも知れないが、明後日のことを考えるのが人間というものではないか。と主張した。
 
どちらが正解か、小生には分からない。
 
みんな平均的なところまでは生きたいと思っている。願わくば、自分だけは平均よりもう少し余計に。などと、欲なことを考えている。しかし、これは全体の平均値としてのはなし。
 
個人個人には、個人としての予測できない人生があるということではないか。そこには、単に人生の長さだけでなく、生き方すべてが、含まれているはず
 

後藤田正晴さんが亡くなる

2005年09月22日 20時14分04秒 | ふるさと・徳島

「後藤田正晴さんが亡くなる」と、題に書いても小生、後藤田さんとは特別の関係はない。単に、後藤田さんは、わがふるさと徳島県のご出身というだけだ。
  
徳島の政治家で、全国区で名前が知れ渡っているのは、数えるほどしかない。小生が存じ上げているのは、三木武夫さん、後藤田正晴さん、そして、最近、女優の水野久美さんと結婚した後藤田正純さん。この最後の方は、後藤田正晴氏とは大叔父・又甥の関係らしい。知名度の高いのは、この3人程度になろうと思う。最後の方は女優と結婚したと言うだけで、どんなお方か、全く存じ上げない。
 
小生は、徳島で選挙ができる年齢に達する前に故郷を飛び出したので、徳島の政治家は、東京の方から眺めるだけしか分からない。で、選挙に関連した父親の思い出をひとつ。それは、子供の頃、しばしば父親から聞かされた三木武夫さんのこと。
 
第2次世界大戦の最中、三木武夫は選挙に出た。しかしそのころ、大政翼賛会というのが強くて、三木武夫は非推薦候補だった。翼賛会というのは軍中心の政治集団で当時の体制派。大変な苦戦だった。演説中に水をぶっかけられるような逆境の選挙だったらしい。なにせ、奥さんの回顧録によれば、三木さんは初回の選挙では、日米不戦論を述べたような政治家だった。
 
わが親父は何を考えたのか、三木武夫を応援した。その非推薦というのが、親父の心を動かしたのかも知れない。どういう形の応援をしたか知らないが、三木さんの応援をしたことは母親も言っていたから、あるいは運動員の末席だったのかも知れない。父親はその後も三木さんのことを至極ひいきにしていた。そして、非推薦だったから、というようなことを何回か口に出していたように思う。小生がまだ小学生低学年の頃だ。
  
戦後、わが家は、生活が苦しかった。それは、まだ小さかった小生にも痛いほど分かっていた。必死に、働かないと食べていけない時代だった。父親はどちらかというと生一本で、戦後の混乱期には不向きな人間だった。三木武夫が総理になったのは、昭和49年。角栄さんの退陣を受けて総理になった。父親は、三木さんが総理になるずーっと以前に亡くなった。
 
後藤田さんについて言えば、亡くなる直前のテレビ番組らしいが、小泉総理の刺客戦術を批判していたのを見たが、失礼だが、ご自分は、田中角栄の懐刀として、三木さんの地盤に乗り込み、刺客として選挙をしたことを忘れている。自分のしたことを棚に上げて、ご都合主義的に相手を批判するなんて最低の人間だ。反三木の後藤田さんだったので、今でも、あまり好意的に見られないということもあるが。
 
ま、もうみんな過去のことになってしまったが。
  
徳島には、生まれ育って、たった19年間しかいなかったのに、思い出すことは、徳島のことが多い。子供の頃の昔のことが、何か、桃源郷のように思い出されるのだ。

 

わが母校の先生、中森蒔人さんのこと

2005年04月11日 14時11分15秒 | ふるさと・徳島
昨年(2004年)12月、わが母校、徳島県城東高校の先生でおられた中森蒔人さんがお亡くなりになりました。小生、卒業後、お付き合いがありませんでしたので、全く存じませんでした。一度お会いしたいとは思っておりましたが、何か、きっかけがなく、今に至っておりました。申し訳なく存じます。
 
中森先生のことは、小生が高校生の時、世界史の先生として教えを受けただけの、お付き合いですが、50数年後の今まで、忘れたことはありません。一度、先生から、自分の家に来ないかと誘われました。お家に行くと、そこは、何もない一部屋の間借りの部屋で、室内には何もなく実に殺風景だったことを覚えております。独身者の生活環境ということでしょう。そのとき、どんな話をしたか覚えておりませんが、一冊の本を貸してくれました。定かではありませんが、赤い表紙の本だったように記憶しております。勿論、中身は理解できるようなものでなかったことは確かです。
  
小生が卒業するまで、先生は、城東高校におられましたが、卒業してすぐ、小生がちょうど浪人中に、ある事件があり、先生は別の高校に移られました。その事件のことは、当時、徳島の人なら、知らない人はいないという出来事でした。小生、その事件の当事者ではありませんでしたが近くにおりました。話す機会が来れば、お話することもあるかと思います。
  
なお、中森先生は、東京に戻られ、ほるぷ出版を創設され、児童本などの出版界でご活躍されておりました。そのことは、ときどき、同郷の友人から情報が入っておりました。その後、お会いすることを願っておりましたが機会がなく、一度もお会いできなかったことが残念です。くりくりとまんまるい目をして、いつも、にこにこしていた若い先生のお姿は、ついこの間のように鮮烈に覚えております。小生にとって、心の師と言ったら僭越ですが、中森先生のことは、いつまでも忘れることはありません。
  
中森先生の略歴は下記にあります。
http://web.archive.org/web/20021207001111/http://www2.odn.ne.jp/~aao40020/naka-sp.htm

 
中森蒔人先生経歴要約
最近見ますと、上記WEB記事が削除されておりますので、その時私のパソコンに取り込んでいた記事を基に、先生の略歴のところだけを抜き書き致します。先生がご自分で略歴を述べられている箇所です。
 
 私は1922年(大正12年)東京本郷に生まれました。幼年時代セマント(エスペラント語で種蒔く人)と呼ばれました。父親泰蔵は広島から上京してカナモジ運動、エスペラント語運動に共鳴し、武蔵境駅前に書店クララ館(戦時中、中森書店と改名)を開館しました。
 
 東京工大航空機学科に進み敗戦を迎えた私は戦後東大法学部政治学科に入学し1949年卒業、そして東大に再入学したとき、レッドパージ反対闘争の中で無期停学処分を受けました。そのおかげで南原繁東大総長の知遇を得ることになりました。
 
 その後、生涯の「田舎教師」を望み徳島県の高校教師として社会や世界史を教えていました。しかし、家業である本屋を継いでくれた義兄平井潔が急死したため帰京し家業の中森書店を建て直し、1964年にほるぷ(当時は図書月販)を設立しました。そして1985年12月第22回株主総会まで代表取締役社長、その後代表取締役会長、1986年12月第23回株主総会において取締役(相談役)になり、1988年12月第25回株主総会において取締役退陣をいたしました。
 


郷里を教えてというgooブログのお題

2005年03月20日 20時59分32秒 | ふるさと・徳島
小生の郷里は、四国の徳島です。
 
今を去る半世紀も前に郷里を飛び出し、大阪に数年、関東にウン十年です。先日(2月28日付け)、「あさかぜ」今日で最後とのニュース、という題で書いたように、上京した頃は、交通が今ほど便利でなく、郷里に帰るのが大変でした。
 
大阪の某大学を卒業するとき、講座の教授から、東京の就職先を紹介されました。郷里が四国でしたので、出来れば大阪の近辺と思いましたが、なかなかうまくいきませんでした。
 
それ以来、ずーっと、関東暮らしです。母親が一人郷里に残ったので、結果的に母親には不義理を致しました。つまり親孝行が出来ませんでした。今、それが残念です。ある時、四国に本社がある会社の東京支店にいきました。そして、この会社に転職したいと、そして四国に勤務地を持ちたいと、無謀にも申し出ました。すると、東京支店長曰く、君が東京で一所懸命働くことが親孝行になるのだ、と一喝されました。
 
現在は、会社も定年になり、世に言う悠々自適?の生活をしておりますが、郷里には、墓もあるし、親類もいるし、やはり郷里は郷里です。
 
今年は、小生の叔母上様の17回忌で郷里に帰ります。小学生の頃、そのお家に疎開して、お世話になった思い出があり、こういう郷里の思い出は、老境とともに段々浄化されてくるのでしょう。

 

「あさかぜ」今日で最後とのニュース

2005年02月28日 22時31分08秒 | ふるさと・徳島
東京-九州間の夜行寝台列車、「あさかぜ」が今日で最後とか。あさかぜは仕事でよく利用した。風格のあるよい車両だった。ニュースによると、最近の乗車率は3割とか。やはりこれでは採算が取れないだろう。
 
夜行寝台は郷里が四国であった関係で、いろんな思い出がある。
 
もう、うん十年も前のはなしで恐縮だが、郷里の四国に帰るときは、よく寝台列車「瀬戸号」を利用した。この列車は岡山で山陽本線を離れて宇野まで行き、ここで、宇高連絡船に列車ごと乗船し、終着駅の高松に着く。昔は会社の休みが少なかった。帰郷できるのは、盆か正月。しかも、休みの日数が少ない。正月休みは、暮れの31日から1月の3日まで。皆さんがそうだから、その混雑ぶりは想像を絶する。寝台は勿論、指定席も取れない。自由席で帰った。
 
自由席の向かい合わせのボックス席など座れるはずがない。通路に立つわけだが、一旦そこの場所を確保すると、もうそこを離れることはできない。満員電車と同じ状態。人人人でトイレにも行けない。その状態で一晩揺られながら夜を明かすことになる。途中で降りる人は、通路を通れないから窓から降りるということになる。
 
大阪まで来ると、たくさん下車する。大阪までの辛抱だったように思う。そのときは全く考えたこともなかったが、今考えると、女の人は大変だったろうと想像する。
 
上京するときも状況は同じことで、とにかく、東京から四国の徳島に帰るのは大変なことであった。独身時代は、やはり郷里恋しく、無理しても毎回帰ったように思う。
 
宇高連絡船も今はない。明石海峡大橋が出来ている。東京からだと、今は飛行機であっという間に徳島空港につく。あまりにも便利になりすぎて、交通機関のありがたみが薄れてきたような気もする。