春夏秋冬

日々流されないために。

後藤田正晴さんが亡くなる

2005年09月22日 20時14分04秒 | ふるさと・徳島

「後藤田正晴さんが亡くなる」と、題に書いても小生、後藤田さんとは特別の関係はない。単に、後藤田さんは、わがふるさと徳島県のご出身というだけだ。
  
徳島の政治家で、全国区で名前が知れ渡っているのは、数えるほどしかない。小生が存じ上げているのは、三木武夫さん、後藤田正晴さん、そして、最近、女優の水野久美さんと結婚した後藤田正純さん。この最後の方は、後藤田正晴氏とは大叔父・又甥の関係らしい。知名度の高いのは、この3人程度になろうと思う。最後の方は女優と結婚したと言うだけで、どんなお方か、全く存じ上げない。
 
小生は、徳島で選挙ができる年齢に達する前に故郷を飛び出したので、徳島の政治家は、東京の方から眺めるだけしか分からない。で、選挙に関連した父親の思い出をひとつ。それは、子供の頃、しばしば父親から聞かされた三木武夫さんのこと。
 
第2次世界大戦の最中、三木武夫は選挙に出た。しかしそのころ、大政翼賛会というのが強くて、三木武夫は非推薦候補だった。翼賛会というのは軍中心の政治集団で当時の体制派。大変な苦戦だった。演説中に水をぶっかけられるような逆境の選挙だったらしい。なにせ、奥さんの回顧録によれば、三木さんは初回の選挙では、日米不戦論を述べたような政治家だった。
 
わが親父は何を考えたのか、三木武夫を応援した。その非推薦というのが、親父の心を動かしたのかも知れない。どういう形の応援をしたか知らないが、三木さんの応援をしたことは母親も言っていたから、あるいは運動員の末席だったのかも知れない。父親はその後も三木さんのことを至極ひいきにしていた。そして、非推薦だったから、というようなことを何回か口に出していたように思う。小生がまだ小学生低学年の頃だ。
  
戦後、わが家は、生活が苦しかった。それは、まだ小さかった小生にも痛いほど分かっていた。必死に、働かないと食べていけない時代だった。父親はどちらかというと生一本で、戦後の混乱期には不向きな人間だった。三木武夫が総理になったのは、昭和49年。角栄さんの退陣を受けて総理になった。父親は、三木さんが総理になるずーっと以前に亡くなった。
 
後藤田さんについて言えば、亡くなる直前のテレビ番組らしいが、小泉総理の刺客戦術を批判していたのを見たが、失礼だが、ご自分は、田中角栄の懐刀として、三木さんの地盤に乗り込み、刺客として選挙をしたことを忘れている。自分のしたことを棚に上げて、ご都合主義的に相手を批判するなんて最低の人間だ。反三木の後藤田さんだったので、今でも、あまり好意的に見られないということもあるが。
 
ま、もうみんな過去のことになってしまったが。
  
徳島には、生まれ育って、たった19年間しかいなかったのに、思い出すことは、徳島のことが多い。子供の頃の昔のことが、何か、桃源郷のように思い出されるのだ。

 

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