Ⅱ
再び、8月半ばの日付に戻る。
日本橋高島屋 ピュリッツァー賞受賞 戦場カメラマン 沢田教一
安全への逃避
まだ、会場には行ってない。
母親が子供を抱えて、川に飛び込み逃避する写真は
18歳の時、新聞で見た。
ベトナム戦争など、関心がなかったが
写真だけは、強烈な印象として焼き付いている。
再び
柳橋事務所に戻った。
事務所で一人、玉葱、ジャガイモ、ピーマンをレンジで4分加熱して食べた。
窓辺から、見る隅田川、神田川は豪雨で水嵩は上がり
スカイツリーも臨めない。
何故か?
ベトナム 川に飛込、逃避する親子を想った。
神田川がお茶の水上流から、汚泥を巻き込み流れて来る。
ベトナム家族は、このような流れを、渡り切ろうと
対岸に向かったのだ。
先日 受信した一つのメールに想い巡らした。
伊豆に8年前、東京の住まいから移住した方からの花便りだ。
広い庭で栽培したキュウリの花とアジサイの花の写真が添付されている。
夫人と二人暮らし。
晴耕雨読の日々が季節毎に花便りとして送られてくる。
既に70歳後半の引退生活。
私がサラリーマン時代 労組書記長として
経営側と対峙した労務課長。
後に本社に戻り栄進。
部長、関連会社社長になった。
同じ頃、私は貧乏に喘いでいた。
担当課長であった。
人間的には、申し分ない清廉潔白な方だ。
個人的な付き合いであれば、居心地の良い付き合い。
酒豪であり、知識もあり常識人。
サラリーマンとしては、かなり珍しい。
優秀なサラリーマン。
労使交渉は、経営側担当者と労働者側担当者は
信義誠実に議論協議して個人的信頼関係を構築しなければ
合意には至らない。
そのような認識であった。
平和的春闘合意を成立。
3月28日に生まれた娘を
やっと抱っこできる日常生活に戻れると安堵した。
夏の組合全国大会終了と同時に書記長辞任して
仕事現場に復帰を考えていた。
当時、予期しないことだった。
私に対して報復人事をしたのだ。
現実の出来事ではないが、比喩的表現すれば
突然、背後から蹴落とされ、濁流の川に投げ込まれたのだ。
妻と2歳の息子、0歳の娘を抱えて
川に飲み込まれまいと必死に流れ抗う。
戦火から逃避のベトナム人家族の光景と同じ。
岸辺では、ニヤリとほくそ笑む者
見て見ぬ振りする者。
手を差し伸べる者皆無。
私との関わりにより、経営側の睨まれるのを
恐れて周囲は離れていった。
失業して、妻子を抱えた
34歳の男。
会社を破壊する男の経歴では
雇ってくれる企業はなかった。
起業する以外に選択はなかったのだ。
濁流に子供二人を妻と必死に抱えて
夜中まで内職して育てた。
子供達が、中学卒業するまで
高校卒業するまで
大学卒業するまで