馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

血圧手帳。

2015-01-11 20:47:52 | 日記

1月10日(日)

午前9時 茜浜までジョギング。

  

いつもは、ノンビリ、ヨタヨタウオーキングするのだが

懸命に走った。

雪富士がクッキリ見える。

 

午後から、診療所で血液検査。

数値を良くしようと走ったのだが

見せ掛けの数値が良くても、普段の怠惰な生活習慣での

血液を採取して検査しないと、医師は間違った判断をしてしまうな?

午後3時 診療所で老医師とご対面

 

「お変わりありませんか」?

「はい、いつもと同じです」

血液手帳を見せる。

 

血圧数値が良好なのを見る。

   

10月から、朝食をスムージーにして

夕食は付き合い以外は軽めにして

土日の朝と昼は原則食べなくなった。

血圧がグーンと低下した。

体重も5キロ減った。

体調は良い。

 

尿と血液採取した。

 

今まで、前立腺、血圧、高脂血漿、痛風の薬を飲んでいるが

今回の検査数値によっては、薬を減らす。

そうあって欲しい。

 

3時半 診療所を出て飲み屋小路に向かう。

16時オープンだが既に店前には飲兵衛―が並んでいた。

朝昼食べていないので、人気の焼酎ハイボールは

ストレートに胃袋に滲みこむ。

 

酒活習慣病を直さない限り

これでは、数値は良くならない。

カウンターからテーブル席を見た。

全て埋まっていた。

 

みんな、肉体の健康より

心の健康を求めて

居酒屋に来るのだ。

 

 


マツコデラックスご推薦の餃子。

2015-01-11 17:19:08 | 日記

1月9日(金)

ランチは餃子。

マツコデラックスの番組

マツコの知らない世界で

紹介されたハナマサの水餃子 焼き餃子を食べた。

中国製造は気になるが

推薦するだけあって結構旨い。

家庭で手間隙かけて作るより良いかもね!

食べ過ぎて 午後3時からの新年会では

ツマミ類があまり食べれなかった。


午後3時から新年会。

2015-01-11 16:53:13 | 日記

1月9日(金)

午後3時 浅草橋駅際 磯丸で新年会。

金儲けの上手くない自営業者3人

昨夜 葬儀に一緒に参列予定であった役員も交えての新年会。

 

皆 時間は自由になるのだ。

磯丸は午後5時までディータイムとして飲み物、肴類が

200円台で提供。

 

店内客はチラホラだったが、15時半過ぎた頃より

テーブルが埋まりだした。

何で昼間から飲んでいるのか?

磯丸は24時間営業。

東京の下町、仕入れ、出張、職人、が行き交う街は

昼夜別なく活動している。

 

以前は弊社で働いていた中国人女性が経営する

中野のスナックで飲んだ

お世話になった元役員は現在78歳。

元気だ。

人間的にも人望があり申し分ない。

母親は103歳で健在。

父親も92歳まで生きた。

 

夕方18時 サラリーマン客が入りだしたので

お開きとする。

飲み代一人1900円

横須賀から来た方はそのまま都営浅草線で帰宅。

一旦 事務所に戻り、ビールを少し飲む。

横浜からの人は20時に帰った。

78歳の元役員は21時まで飲み

府中に帰った。

 

老いても人付き合いをしないと心身衰える。

 

弊社のデザイナー女性のお父さんは75歳だが

自宅のソファに一日中座りTVを見ているそうだ。

お母さんと娘で心配している。

 

今年1月22日は私の誕生日。

まもなく、大台になる。

山登りは続けよう。

 


泉下の客になられた恩人の方々③。

2015-01-11 15:34:06 | 日記

泉下の客になられた恩人の方々 続き

1月8日(木)

18時 横浜あざみのにある斎場で通夜があった。

参列することになっていたが、家族葬で行うとの

知らせを受け遠慮した。

亡くなられたのは

昭和42年私が大学体育会山岳部入部した時の4年生。

 

1月2日 夜自宅で酒を飲み、それから風呂に入った、

風呂場で亡くなった。

医師による死亡診断書は溺死

私の親父も越後湯沢の温泉宿で朝風呂に「浸かり

部屋に入ったところで倒れ亡くなった

風呂での死亡は多いのだ。

 先輩は自動車関係の企業に勤めていた。

私が商売を初めて苦闘していた。

渋谷にある本社に訪ねて仕事を紹介してくれた。

新しく関連会社を設立してハウスエージェントとして広告、物品購入の窓口会社。

担当役員を引き合わせてくれたのだ。

今でもそのエージェントとは取引が継続中。

 

販売推進部長として定年を終えてからも

私の仕事のバックアップ、手伝いをして頂いた。

先輩は私を励まし鼓舞してくれた。

「苦しい状況を脱して」

「お前!良く頑張ったな、たいしたもんだ」

 

 

先輩が大学4年生(1967年)の時、40日間世界一周旅行をした。

ドルが360円だった時代である。

先輩のお父さんがアメリカ国籍を持つハワイ出身で

外国航空会社のアジア地区総支配人であった。

 

私とは家庭環境レベルが全く違うのだ。

それだけに鷹揚で嫌味のない人だった。

 

渋谷の立ち飲み屋で先輩と担当役員で週に一度は飲んだ。

楽しかった。

 

通夜、告別式にて別れの尊顔に挨拶出来ず無念だ。

 

家族葬であることを知っていても

葬儀に駆けつける人がいる。

当人は止むに止まれるの気持ちなのだろうが

ご遺族側からみれば迷惑千万なことだ。

外からは窺い知れぬ親族間の事情があって

家族葬をするのだ。

 

私は何回となく、葬儀では苦い思いをしてきた

ご遺族の意向気持ちを斟酌せずに

自己中心、自己満足、自己顕示で家族葬なのに

侵入するのだ。

私の知る範囲では、そのような方々が遺体の前で涙を見せることはない。

 

当時の4年部員は5人がいた。

一人が三途の川を渡った。

一年部員は8人いた。

中途で退部、退学して

4年になった時は3人になった。

それから、卒業後一人が24歳の時北アルプスで転落死

昭和43年3月 4年生を送る。 

生まれ故郷富山で51歳の時、脳腫瘍で死去。

雪煙舞い上がる立山連峰を仰ぎ見ながら田んぼの墓にいる。

 

今では同期は私一人になってしまった

二年生になったが、一年部員は直ぐに全員退部した。

その後、4名が山で遭難死。

70年間の歴史があり、ヒマラヤ初登頂、知床厳冬期初縦走

韓国ウルサナム岩壁初登攀

輝かしい歴史も10年以上前、部員が0になり廃部になった。

 

 

先輩のご冥福を遠くから悼み

泉下に入られたら一人で墓前に参ろう。