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バラの花



桂子です。
エンジェルファームに咲いたバラの花。
ユトリロという名前です。
昨年の秋に鉢植えで購入して、花が終わった後に地植えしました。

商品としての価値がなければならないので化学肥料をたっぷり与えられ、害虫避けに農薬も散布されて過保護に育てられたバラですが、昨年から今年にかけて初めての厳しい冬も、日照り続きの夏も越してきました。

過保護に育てられたこと、そしてエンジェルファームではあまりお世話をしてくれないのでバラも生命力、パワーを自力で取り戻さなければなりません。

環境が極端に激変したバラも、ようやく環境になじみ、この夏にはパワーを取り戻して、みごと花を咲かすことができました。

購入時の花より小さいですけど・・・
霜降りの色合いも見事ですし、
バラの高貴な香りにプラスしてフルーティな香りがたまりません。



こちらは“スパニッシュダンサー”というバラです。
すてきな名前をつけてもらっていますね。
名前が素敵なのもバラの魅力の一つです。

私はハートの瞑想をするときに、庭に咲いているバラを視覚化しています。明確に視覚化するために普段から意識を向けて楽しく観察したり、愛でたりしています。視覚化により、スピリチュアルハートにかけ橋ができて奥深い受容性・・・スペースにつながっている証は、いつも瞑想の後の目の力と輝きによって教えられています。

目の前のバラを感じること、慈しむことからハートの瞑想は始まっているのですね。

カラスウリ



桂子です。
エンジェルファームに咲く早朝のカラスウリの花。
濃い朱色の実からは想像できない、真っ白でユニークな形をしています。花びらの先が触手のように切れ込んでいて、海洋生物のヒドラのようです。

昔は塊根から取った天花粉というものをおしろいやベビーパウダーとして使用したり飢饉の時は食していたそうです。ほとんどの植物には、すばらしい薬効があるのだと思いますが・・・。

私の欲望でしょうか?
貴重な物だったのだと知ると、草刈りでバサッとすることはできませんね。ただ、自然に生えてくる物は放置すると庭が荒れ果ててしまうので、適度に人間が手を入れることは必要かな?と思います。

“自然であること=放置すること”ではないと思いますが、東京から来てこの秋で14年目、その辺の分岐点がまだまだわかりません。

私の昭和30年代



私と父、昭和30年代です。
場所は京都のデパートの屋上遊園地だと思います。
私は幼稚園、父は約30歳。





私たちが所属していますホリスティック医学協会の会長である帯津先生が去年大分県・湯布院で講演されたとき、昭和30年代はよき時代であった、あの時代に帰らなくてはならないと言われました。

昭和4年生まれの母は「生まれたときから戦争があった、ずっと戦争に次ぐ戦争だった」と言っていました。たとえ敗戦として終わっても、あの苦しかった戦争から解放され、貧しくても平和であることの歓びを味わっていた。



京都市下京区西七条のアソカ幼稚園の運動会。
ひとり真剣になっているのが私です。
みんなが持っているのは“だっこちゃん”。
この時代の流行でした。
たぶん“だっこちゃん競争”というような趣向だったのでしょう。



上の写真の拡大。



その頃の運動会の写真。僕と母です。“目隠し競争”
目隠ししたお母さんを子供が引っ張って走る競争です。

そのときのことを今でも覚えています。
他の親子はどんどん先に走っていきました。
けれど母は目隠しされたことでおびえて腰が引け
ちゃんと走ることができません。

みんなはとっくにゴールしたというのに
私たち親子だけがスタートしたばかりの位置でもがいています。

あれから半世紀が流れ、紆余曲折を経た今また
この写真みたいなことをやっているかも知れません。
やっぱり母はおびえて腰が引けています。

ハートを開く


リーラ、プラサード & アルヴィナ Leela, Prasad & Alvina
オープニング ザ ハート(ハートを開く)


長いことブログもご無沙汰していました。香山桂子です。

環境整備のため7月から来春までお休みをもらっていますが
その間に自分自身の環境整備も・・・。

ということで
生活の中に瞑想を積極的に取り入れています。

その一つがこちらの瞑想法。

セドナ在住のヒーラー
リーラ、プラサード、アルヴィナが制作し提供してくれている
「ハートを開く」というガイド瞑想です。

ハートのスペースにくつろぎハートの体験を重ねることで
自然に受容性、感受性、明晰性、創造性、可能性が拡がるという
すばらしい瞑想法です。

私の場合はハートの浄化から始まったので
止めどなく何度も涙が溢れます。
終わった後はうるさい思考がストップして
いつもスッキリ!爽快感があります。
エネルギーがチャージされる感じもあります。

緊張しやすい方や精神的、肉体的に疲れている方
自分にも他者にも思いやりが欠けているなーと
感じている方等にお勧めです。

20分ちょっとの瞑想法なのでお忙しい方にも
気軽に取り入れられると思います。

エンジェルファーム昆虫記

夕方、雲がほぼ全天を覆い、カミナリの音も聞こえてきたので、とうとう雨が降ってくれるのかと期待したら、またまたうらぎられました。

近所のカボス農家の奥さんが、土がカラカラでカボスの生育が悪いと言われました。秋物の野菜の種をまくことができないと農家が困っていると教えてくれました。

けれど日が暮れると、コオロギやウマオイムシたちがさかんに鳴き、彼らの生命力に驚きます。



この夏、こんな珍しいバッタを見つけました。
赤いイナゴです。
ちょっと調べてみると、イナゴの場合、赤い色素を持ったものを食べるとこんなふうに色づくことがあるようです。この近くにブルーベリーが実っていたので、ひょっとしてそのせいでしょうか。



ゴマダラチョウが、野生動物(イタチとかテンかな)の糞の上にのっかって栄養をとっています、塩分とかミネラルを吸収しているのでしょうか。



シオカラトンボ。



シオカラトンボのメス、ムギワラトンボ。

今年の夏もたくさんの昆虫と出会いました。

デカルトやカント、ヘーゲルたち、サルトルたちはトンボやアマガエルたちのことが視野に入っていなかったと思います。マルクス、レーニン、毛沢東もそうです。これからの哲学者、思想家、社会改革家、設計士、アーティスト、プランナー、ヒーラーは、多様な菌類、植物、動物や土、川、海、大気が視野に入っていなければならないと思います。それらと人間存在は無関係ではなく共生関係にあって、むしろ一体です。彼らぬきには人間存在がないわけです。彼らと共に在ることを忘れてはいけないと思います。

芭蕉や蕪村、一茶たちを学ぶことがもっと必要だと思います。

雑草魂



ずっと雨が降りません。
野菜の高騰を招くでしょうね。

けれど雑草の勢いは衰えません。
雑草に敬服します。
「雑草魂」というコーナーを作ることにしました。



これはエンジェルファームの菜園から、お隣の田んぼに侵入し繁茂するセリとミント。彼らも雑草です。本来、ハーブ=雑草です。私たち人類は古代文明の時代から、雑草の逞しい生命力を「お薬」として生かしてきました。



タンポポもハーブ=雑草です。
仏教詩人・板村真民はこんな詩をつくりました。

「たんぽぽ魂」

踏みつけられても
食いちぎられても
死にもしない
枯れもしない
その根強さ
そしてつねに
太陽に向かって咲く
その明るさ
わたしはそれを
わたしの魂とする

板村真民『詩国第二集』



前にもブログで話題にしましたが、古崎順子さんのこの本で
雑草のことをこんなふうに語っています。

なぜ野草ではなく、わざわざ雑草というのですか?

と聞かれた話が載っています。

踏みつけにされがちな雑草たちのことを思うと、その言葉にこだわることで、私の体のなかに熱いものがこみ上げてくるのです。

雑草たちは踏みにじられ、見向きもされないで・・・・と思っていましたが、同じ畑で肥料をもらい、急かされるように市場に出される野菜に、もし心があるとしたら、どちらが幸せと思うでしょうか。
踏みにじられても、自分の命の自然にまかせて生きる雑草のいじらしさに、私は共鳴してしまいます。少しでもその可憐さと強さを自分の命に取り入れたいと、ついに食べることをはじめていました。




さてこれは庭師をされているご夫婦が書かれた楽しい本です。
いわゆる“日本庭園”は徹底的に雑草を嫌います。
今となってはそれは不自然でアンチ・エコロジーなスタイルとなっていると思います。事実、多くの日本庭園で農薬や除草剤が使用されていると思います。

私はこれからの庭は蝶やトンボやバッタ、セミ、ブンブン、カエルたちを招き、雑草たちと共存するビオトープでなければならないと思います。



柳宗民(やなぎむねたみ)の雑草ノオト。
彼の素敵な文章と、三品隆司の素敵な挿絵。
今夜ウィキペディアで検索して
2006年に亡くなっていたことを知りました。

柳宗民のお父さんは、民芸運動の柳宗悦(むねよし)。
長男はインダストリアルデザイナーの柳宗理(むねみち)。
次男は美術史家の柳宗玄(むねもと)。
三男が園芸家の柳宗民でした。

私は京都芸術大学の学生時代に、学校の古めかしい図書館でケルト美術の分厚い画集に魅せられ、長い時間をそこで過ごしました。当時ケルト美術なんて、ほかで見ることはできませんでした。その画集の解説文が柳宗理でした。それは学者の書く文章ではなく、まさに“詩”でした。ケルト美術に劣らない素晴らしい詩でした。

その弟さんの「雑草ノオト」もやはり素敵な文章で驚きました。
“雑草”という存在がもっと見直されて欲しいと思います。

20世紀どんな時代だったか



何とこんな本を、ちらちらと読んでいます。
父の蔵書でした。ところどころ父のマーキングのあとがあります。

父が末期ガンと診断されたと母から電話があったのは2002年の8月9日でした。すぐ飛行機で実家の関西に帰ったその日は、ちょうど私の誕生日8月10日。あれから11年の月日が流れましたが、誕生日のたびにあの日のことを思いだします。

今なら病院に行かないという選択を父に勧めたと思います。好きだったお酒を飲んだり、行きたかった温泉に行き、食べたいものを食べたり、やりたいことをしながら自宅で静かに死を迎える選択があったと思います。

あのとき2002年8月10日、父は全く元気で、布団に横たわるというような病人の姿ではなく、庭に出たり、机に座って書きものしたり、全く普段通りの元気な姿でした。

それが病院通いするやいなや突然弱り、入院せざるを得なくなると重病人になり、9月25日あっという間に亡くなりました。死因はガンというより下血でした。母が言うには、体内の血液が全部出てしまうようなひどい下血だった。

父は72歳で亡くなりました。
生きていたら、ここ豊後竹田に来て、彼が好きだった家庭菜園を楽しみながら、彼がライフワークとしていた「明治維新から昭和史へ」という論文を書いていたと思います。

2006年に実家を処分して母を竹田に招いたとき、父の持っていた共産主義系の古い本を私の判断でみんな処分しました。古書として価値あるものもあったのでしょうが、古い漢字・旧仮名遣いのマルクス・レーニン主義の本は新しく誕生したエンジェルファームにふさわしくないと感じました。

でも左翼本でない比較的新しい本については、図書館にでも寄贈できるかなと思いダンボール3箱ほど残しました。
この「20世紀どんな時代だったか戦争編 読売新聞社編」も、そうして残った父の蔵書です。

私は若いころから芸術書、文学書、哲学書、宗教書は好みましたが、こういう本は嫌でした。
こんな本を読むきっかけになったのは福島原発事故だったと思います。ついで去年の母の認知症事件です。母を連れて東京~会津を旅行して以来、父のライフワークであった「明治維新から昭和史へ」に取り組んでいます。

それは実は、明治維新以降の医療・民間療法・自然療法の歴史を明らかにすることにつながります。このあたりできちんと取り組んでおきたいと思います。

菜園の雑草



菜園の雑草を撮って
フォトショップの「輪郭検出」の機能を使って加工しました。

雨が降りません。土がカラカラに乾いています。
今年はどこの畑でもサトイモの生育が悪い。
サトイモは水を好むからです。

ヒトも弱る連日の猛暑ですが
雑草だけは意気盛ん。

種まきもしない、間引きもしない、土よせもしない、肥料もやらない、農薬もやらない・・・どころか、何とか勢いを止めようとして草刈りするも、それをあざ笑うかのように猛々しく繁茂する。

除草剤を使うひともありますが、雑草が枯れるのはほんの一時期に過ぎず、じきにまた逞しいヤツらが繁茂してきます。除草剤にも負ケズ、原子爆弾にも負ケズ、原子力発電所の事故にも負ケズ、というような偉大な猛者です。

ますます彼らに畏敬の念をいだきます。



菜園のサツマイモの葉とイネ科の雑草が共生もしくは競合しあいながら成長している姿・・・であると同時に大地・地球・自然の生命力を表現した抽象絵画になっていると思います。ブログ掲載のため横巾540ピクセルに縮小しているので迫力がそがれていますが、原版は強烈です。

菊池渓谷



大阪から遊びに来ている弟夫婦と共に昨日、熊本県菊池市の菊池渓谷を散策しました。菊池渓谷のことはこのブログでも何度か話題にしている“お気に入り”です。

2012年9月16日
http://blog.goo.ne.jp/ki_goo/e/fc71d4f98041bb8f8c0d039c647a6938
2010年8月5日
http://blog.goo.ne.jp/ki_goo/e/3fd6632707e0d8fb875d37f1355ac311
2010年8月2日
http://blog.goo.ne.jp/ki_goo/e/c125d1450ca4755e47b47ea5be5676da



7月に84歳になった母も杖をつきながら、ときにはよろけそうになりながら山の細道を歩きました。「足は痛くならなかった?」と聞いたら、日ごろの散歩のお陰で、痛くならなかったという。

この菊池渓谷や、大分県竹田市の神原(こうばる)渓谷の、水、光、樹、岩、鳥たち、昆虫たち・・・これこそ“奇蹟”ですね。

私たちの時代では、手のひらから灰や腕時計を出したり、スプーンの柄を曲げたりすることが“奇蹟”と呼ばれていますが、ここにあたりまえに在る存在者(渓流、樹々、岩、昆虫たち、鳥たち、人間たち)の存在こそが途方もない“奇蹟”であると思います。灰とか腕時計とかスプーン曲げとか、そんなちゃちなこと大げさに言うことでしょうか? 大げさに言うなら、菊池渓谷や神原渓谷を大げさに言って欲しい・・・。

こんな驚くべき巨大な奇蹟が起きているというのに、これは超能力と言われない。私は灰や腕時計やスプーン曲げを超能力と言いません。菊池渓谷や神原渓谷を超能力と呼びます。

終戦記念日



江戸時代の会津の古地図(城下町)。
会津に限らず、藩がクニであった。
NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公・山本八重も会津というクニを守るために、当時最新鋭のスペンサー銃で会津戦争を戦いました。
今年の春、会津を旅した印象として、ここはいかにもクニとしてのアイデンティティが確立しやすい地形であると思いました。周囲山に囲まれ、中でも磐梯山という特に高い山がそびえ立ち、いつでもどこでも見上げて畏敬の対象になる。磐梯山は「天と地をむすぶ梯子(はしご)」、天地の架け橋という意味。それ故にこの山は修験道のメッカでした。

磐梯山の麓に法相宗の徳一が建立した慧日寺があって、私たちはその仏教寺院の跡も訪ねましたが、磐梯山と慧日寺は会津のスピリチャルセンターであったわけです。

そして実際の世俗的な政治を行うセンターは会津・鶴ヶ城で、これは儒教が中心思想でした。
会津盆地は儒・仏・神が統合した美しい小宇宙であった・・・



けれど一方、ペリー提督ひきいる黒船が来航した嘉永6年(1853)には、こんな世界地図が日本にも伝わっていました。

こういうのを横井小楠や佐久間象山、勝海舟、坂本龍馬、山本覚馬たちは知っていたんですね。

これを見たら会津だの長州だの薩摩だと言っている場合ではないということが痛感できます。

会津や長州や薩摩がクニなのではない、この列島全体がクニ・日本国というクニなのだということです。これからは小さな藩にこだわるのではなく、日本全体というクニのために動かなければならないと認識しました。

日本というクニが、実は世界に多数あるクニのなかのひとつのクニ、しかもかなり小さいクニであると理解した時期でしょう。



この地図は1900年代(明治33~42年)に作成されたという。
このような世界認識のもとに、隣国と戦争しました。
日露戦争(1904~1905)の時代です。

かつては会津だ長州だ薩摩だといって戦った。
明治維新以後は清国だロシアだアメリカだといって戦ったわけです。


(C)宇宙航空研究開発機構

私たちがクニだと思った土地は
もっと大きな列島であったり大陸であった。

実は今、私たちはもっと恐ろしいことを知ってしまった。
私たちはみんなこんな球体に生きている。

どこにもクニなんていう境界線はなかった。

もうクニどうしの戦争をやる時代ではないということが明白になってしまった。あまりにも明白すぎて、何も言えません。この写真を見るだけで充分です。

どうしても戦争したいなら、どこか他の惑星、他の星と戦いましょう。でも、今の戦闘機や軍艦や原子爆弾みたいな原始的な兵器では敗北がみえています。もっとずば抜けた兵器が必要ですが、小さな(国家)どうしで仲間喧嘩しているようでは、全く勝ち目はないですね。

熊本洋学校教師館ジェーンズ邸



前から行きたいと思っていたジェーンズ邸に行ってきました。
熊本市の水前寺公園に隣接しています。

歌手の水前寺清子をご存知ですか?
熊本出身の彼女の芸名の由来の水前寺です。

もとは熊本城に隣接するエリアにあったそうで
もとの場所に戻すことを現市長が公約にされているそうです。
戻すべきでしょうね。



横井小楠先生の甥の横井太平(たいへい)が、小楠と勝海舟の勧めで二年間アメリカ留学に行き、帰国して熊本知事職であった細川護久(もりひさ)に洋学校の設立を提案しました。そうして教師として招かれたのがジェーンズでした。今日、館長に裏話を聞くことができたんですが、現在のお金にして月給400万円の厚遇だったそうです。



江戸時代から明治時代になったばかりの明治4年に洋学校ができ、その隣にジェーンズと彼の妻と子供が暮らす家が建てられた、それがこれです。



若い時のジェーンズ。陸軍士官学校時代の写真。



Wikipediaに載っているジェーンズ像です。

今日もものすごく暑かった。来館者はほとんどなかった。
けれどここは重要な場所なんです。
NHK大河ドラマ「八重の桜」にもからんでくるはずです。

秋田仙北市の土石流


共同通信ヘリから

8月9日、秋田・岩手方面に猛烈な豪雨があって、秋田仙北市では上の写真のような土石流が発生、家屋が破壊、人命も奪われました。

この光景、去年7月の九州北部豪雨のときと全く同じです。
http://blog.goo.ne.jp/ki_goo/e/79c4b8532ae9fe6053fbef00f7009d88
http://blog.goo.ne.jp/ki_goo/e/aac794068cc761bd058310544f699adf

スギ・ヒノキの人工林が崩落しています。
秋田仙北市の上の写真のケースはスギのようです。


共同通信ヘリから

土砂とスギにやられています。
スギ・ヒノキは家屋の柱として使われるだけあって、まっすぐです。
電信柱みたいに見えます。


FNNニュース(秋田テレビ)

この同じ光景をわが町竹田や阿蘇でくりかえし見ました。


FNNニュース(秋田テレビ)

地区の町内会長がこんなふうに言われています。


FNNニュース(秋田テレビ)

電信柱みたいなスギが、すべり落ちてきて
それが家屋を破壊したという。
ここ竹田の場合も、そのようなスギ・ヒノキが
橋や堤防を破壊するだけでなく、流れをせきとめ
川を氾濫させ致命的な床上浸水を招きました。

去年の九州北部豪雨も今回の秋田仙北市の土石流も、スギ・ヒノキの人工林が根本原因である可能性があります。そうだとしたら、これは天災ではなく人災です。自然の摂理を無視して利益優先に走ったことの結果であるといえます。

昨日のNHK7時のニュースでは、原因は「深層崩壊」であると大学教授に言わせていましたが、現地の映像を見たら誰でもわかります・・・山全体が人工林に覆われていますよね。全く不自然な異常なことです。

瀬会海水浴場



ここは海水がきれい。
環境省による快水浴場百選(2006年)
日本の水浴場88選(2001年)に選定されています。

それでも人は意外なほど少なかった。
大分県佐伯市上浦の瀬会(ぜあい)海水浴場。

近年、急激に日本人の海水浴離れが進んでいるといいます。
おかげで、けたたましいBGMもなく、ゆったりと静かに海水浴を楽しめるので私たちにとってはありがたいのですが・・・







この海岸は砂浜ではなく、こんな小石の浜。
ひとつひとつ美しい小石に波が打ち寄せる、水と小石と太陽の光が溶け合う・・・それは大自然が造りだした美しい抽象美術作品。







桂子に勧められて彼女の浮き輪をつかって、泳ぐのをやめる。
ただゆらゆら波に揺られ、目を閉じて何もしない。
すると何か大きな優しい“揺りかご”に揺られている気分になっていきました。

私たちのワークのなかにもっと海を取り入れたいと思います。大自然のチカラを借りることによって、禅堂で結跏趺坐するより、すぐに素敵な体験が得られるからです。

粕谷欽三 鎮魂碑



昨夜、1945年(昭和20年)に19歳で亡くなった粕谷欽三という若者のことを想いました。明治維新のときの戊辰戦争で亡くなっていった会津白虎隊や二本松少年隊の姿に重なりました。

米軍の進化した爆撃戦闘機B29の巨体を追撃するには体当たりしかなかった。
東野利夫医師の書かれた『汚名“九大生体解剖事件の真相”』の「追記」のなかに、この唯一の生存者であるB29の機長・ワトキンズ氏と1980年(昭和55年)にアメリカで対面できたときの話が記されています。

そのときこの粕谷少年の写真を見せると、元機長は「カミカゼ!」とひとこと言ったきり目をそむけてしまったという。

私は今日、粕谷少年の鎮魂碑を訪ねようと思いました。今日行かなかったら、ずっとあとになるか、行かなくなると感じたんです。



行ってみると、車で約15分ほどでした。
鎮魂碑は中央です。





軍一等飛行兵曹粕谷欣三と彫られています。



久保帰還兵建之となっています。
“久保”というのは、この集落の地名です。
この地域の帰還兵が“之を建てる”と刻まれています。



碑文前半です。



碑文後半。



粕谷少年が墜落したのはおそらくこのあたりの谷でしょう。



この周辺です。



故郷遠く眠る紅顔19歳の烈士に花を賜りたいと書かれています。

『汚名“九大生体解剖事件の真相”』の追記には
ワトキンズ機長から竹田市民へのメッセージが書かれています。

竹田のみなさまへ

“殉空の碑”の慰霊祭は祖国の安寧のために尊い生命を捧げた御霊を想起し、あの忌まわしい戦争の悲劇を考えさせるよい機会だと思います。
私はこれたの御霊に深い感銘を悲しみを覚えるのであります。
今まで国家と国家n間には幾多の戦争があり、そのたびに沢山の尊い生命が失われていきました。
私、マービン・S・ワトキンズは1945年5月5日、九州に飛来したB29の機長として、竹田市のみなさまに私の部下と日本の少年航空兵を追悼する合同の慰霊碑を建立して下さったことに深く感動し、そのご努力に感謝いたします。
日米両国の今日の平和と友好の影には生命を捧げて礎(いしずえ)となった犠牲者があることをわたくしたちは決して忘れてはなりません。
過去36年にわたって共に享受してきたこの湯公を日米両国の者が、今後とも末永く維持するよう心からお祈りいたします。

  1981年5月5日   元B29機長 マービン・S・ワトキンズ  

殉空の碑(2)



8月3日(土曜)、殉空の碑を訪ねてすぐ二冊の本をアマゾンで注文しました。二冊ともいきなり今日届いたのでその早さに驚きました。



この本のなかにB29に体当たりして戦死した紫電改操縦士・粕谷欣三 二等兵曹(戦死後一等兵曹に昇進)の写真がありました。19歳の少年兵でした。



三四三空戦闘407飛行隊 粕谷欣三一飛曹忠魂碑・殉空の碑慰霊祭
平成2年(1990)5月5日
http://www.youtube.com/watch?v=GoShAUq44LI
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