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みる意識



今月15日午後5:00、ここから車ですぐの騎牟礼城址に登って
望遠レンズで阿蘇方面を撮影。
あの日、陽が照ったり雨が降ったりと不安定な日でした。



翌日の1月16日午後5:22、この日は終日穏やかな青天で
このような素晴らしい日の入りが撮れました。

騎牟礼城址に上がると、阿蘇、久住山、祖母山という日本を代表する名山を見渡すことができます。見る時間によって、季節によって表情が変化していきます。

そのように私自身の身体や感情や思考も刻々変化していきます。穏やかな暖かな陽ざしに包まれた平和なときもあるし、雷鳴がとどろく嵐のようなときもあります。疲れてぐったりしているときもあるし、元気にいきいきとしているときもあります。仕事のことであれやこれや考えすぎて混乱しているときもあれば、大自然のなかに出かけてリラックスして心が静かになっているときもあります。

そのような自分自身の身体や感情や思考をみること、意識すること、気づくことができます。それは秘儀的・秘教的なことでも高次なことでもなく、ごくごくシンプルなあたりまえのことだと思います。おそらくシンプルすぎて、あたりまえすぎるために、デカルトのようなずば抜けた知性を持つ哲学者が、この意識、気づき、みることについてわからなかったのではないでしょうか。彼にそれを教えるひともなかった。

意識と存在の学である「現象学」を生みだし、ハイデガーやサルトル、メルロ=ポンティ等にも大きな影響を与えた偉大な哲学者・フッサールですら、非常に不思議なことですが、このシンプルなあたりまえの気づきの意識については体験がなかった。もし彼に体験があったなら、20世紀の哲学はまったく違ったものになっていたでしょう。芸術も文学もです。

ゲオルギー・グルジェフは「思考にとらわれているひとは、瞑想を体験できない」と言いましたが、思考力が優れすぎているがゆえに、みる意識、気づきの意識がわからなかったということでしょうか? 西洋哲学の分野にはその意識を取りあげたものがないと思います。

平凡な私たちも実は、仕事や雑事に追われてあれこれ考え迷うとき、思考に同化し、思考をみる意識がなくなります。なくなりがちです。大きな悲しみや怒りの感情があるとき、その感情に同化し、その感情をみる意識が消えてしまいがちです。身体に大きな痛みやかゆみがあるとき、それに同化しそれをみる意識を忘れてしまいがちです。

でももし思考や感情や身体をみる意識があれば、その意識は思考内容でもなく、怒りでもなく悲しみでもなく、痛みでもかゆみでもありません。

この意識に在ると、思考や感情や身体が私たちの本質なのではなく、みる意識、気づきの意識が私たちの本質であることがわかります。身体は歳をとって老化していきます。記憶力も思考力も衰えます。ところがこの意識は歳をとりません。

身体や感情や思考に同化してこの意識を忘れても、また想起することができます。どんなに忘却しても消えてはいません。そうすると身体が死んでもこの意識は死なないと感じます。

「ヨーガスートラ」は、こう言っています。

ヨーガとはマインドの働きをストップさせることである。
そのとき、みる者は本来の状態にとどまる。
それ以外のときには、みる者はマインドの働きに同化している。


日々の生活・仕事・雑用に追われるなかで、私たちは思考・感情・身体に同化しがちです。けれどシンプルな気づきの意識、みる意識によって、本来の状態にとどまることができます。

そうしようと思えば日々の生活のなかで簡単にできることです。努力も修行もいりません、学問も邪魔です。簡単すぎるので忘却しやすく、とらえどころがないのかも知れません。高層ビルや高速道路や航空機やパソコンや携帯電話を創造するほうがはるかに難しい・・・が、そのほうができるんです。

ディアン



現代インドの禅師OSHO(オショー/1931~1990)。
「The Grass Grows By Itself」(邦題 草はひとりでに生える)と名づけられた彼の講話録(1976)のはじめに「ディアン」について語っています。

ディアン(Dhyan)とは、ひとりで在るという状態・・・
自分の存在の奥深い内部
思考のかけらさえ存在しないほどの内部の
深みに入っているひとりの状態を指す。

実は英語にはこれにあたる訳語はない。
Contempation(黙想)というのは合った言葉ではない。
黙想が意味するのは、考えること、内省することだ。

Meditationですら適した言葉とは言えない。
なぜなら、メディテーションという言葉には
メディテーションする対象となる何かが含まれるからだ。

つまりそこに“何か”が在るわけだ。
キリストについてメディテーションすることもできるし
または十字架についてメディテーションすることもできる。

しかしディアンの境地では、
メディテーションの対象となるものまでもなくなっていく。
そこには何も無い、というまでにひとりになること。
対象は何もなく、ただ単に主体だけが在る・・・

意識・・・
雲ひとつ無い
まったく純粋な
空のような意識・・・

この言葉ディアンが中国に到着すると
それはチャンとなった。
チャンが日本に至ってZen(禅)となっていくのだが
すべて同じサンスクリット語ディアンというルーツから
来ている。



西洋のメディテーションという言葉は元々、眼を閉じてキリストやマリアや神を静かに観想し、恍惚とした忘我的な境地に到ることを意味したのでしょう。阿弥陀如来や極楽浄土を観想した平安貴族の浄土信仰も同じだと思います。

神父や神学者の用語であったメディテーションは近世以後、哲学者や科学者がそれを語るとき、それは沈思黙考、熟考という意味で使われたんですね。

それ故に日本人は明治維新後、西洋の哲学書や文学者にあるMeditationを訳すのに禅という言葉を用いなかった。デカルトの哲学書「Meditationes」には「省察」を造語、他の場合、瞑目して想うという意味で「瞑想」を造語しました。

Meditationは20世紀になって、西洋の精神世界がヨーガや仏教、タオイズム、スーフィズム、禅等と出会っていくなかで、新しい意味を獲得していったと思います。特に1970年代後半から80年にブームとなったニューエイジムーブメントのなかで・・・

J.クリシュナムルティはメディテーションという言葉を使いたくないと言った。OSHOは英語にはディアンの訳語がないと言う、それでも二人とも生涯メディテーションという言葉を使ったのは、使える状況が生まれてきたからでしょう。

以上、メディテーションという言葉の問題を話題にしました。
次はその先を話題にしたいと思います。

Meditationする哲学者



オランダ・バロック絵画の巨匠レンブラント(1606~1669)の眼。
1659に描いた自画像の53歳の眼です。


Wikipedia

一昨日話題にしたデカルト(1596~1650)はフランス生まれですが、20年以上をオランダで暮らしました。特にライデン。レンブラントはライデン生まれのオランダ人であり、何らかの接点があったことが想像できます。ふたりのなかに共通する感性や志向性を感じます。あの時代の“時代精神”なのかも知れませんが。



レンブラントの「テュルプ博士の解剖学講義」(1632年)。
医師たちの見まもるなかで犯罪者の死体を科学者テュルプ博士が解剖する。こういう状況を絵にする感性は、東洋絵画には無い感性だと思います。西洋絵画にもそれまでほとんどなかったと思います。



「テュルプ博士の解剖学講義」の手の部分。
デカルトは「方法序説」や「省察(Meditationes)」のなかで、精神と身体を分離します。身体はモノであるという見方、機械のようなものであると説きます。



これはもっと強烈です。
レンブラントの「ヨアン・デイマン博士の解剖学講義」(1656年)
強盗罪で処刑された犯罪者の頭部を解剖しているところ。
腹部はすでに解剖されて空洞になっているように見えます。



イタリア・ルネサンスの画家アンドレア・マンテーニャ(1431~1506)の「死せるキリスト」(1490年代)。このテの絵は中世からルネッサンス、バロック、近代絵画にいたるまでたくさん描かれました。こういう絵と比較してみると、レンブラントの「解剖学講義」がいかに異様であるかがわかります。が、レンブラントは「死せるキリスト」のような伝統絵画の構図を意識してあえて、脳や腹部を解剖する絵を描いたのでしょう。



レンブラントは牛を解体した姿も描いています。
デカルトは人間の身体を機械とみなしたように、動物は魂のない機械であるとみなし、だから動物を殺しても罪悪感を感じる必要はないと説きました。これが近代合理主義の始まりであり、私たちの現代文明の基礎となっています。



レンブラントの「Philosopher in Meditation」(1632年)。
日本語訳は「哲学者の瞑想」または「瞑想する哲学者」。

これはモノとしての身体表現が希薄です。精神を描こうとしたのでしょう。自分を外界から遮断し、薄暗い部屋のなかに身をおいて沈黙する。

 冬が始まった・・・
 そのころ私がいた駐営地には
 気晴らしとなる話し相手もいなければ
 幸いなことに心を悩ます事柄や
 心をかき乱す事柄もなかった。
 そのため私は一日中一人で暖炉のなかに閉じこもり
 ゆっくり落ちついて思索にふけることができた。

とデカルトは「方法序説」のなかで書いています。
レンブラントの「Philosopher in Meditation」(1632年)は、まるでデカルトの「Meditationes(省察)」(1641年)の姿を表現しているかのようです。

Meditationes2



14世紀のカトリック神学者ルドルフ (Ludolph of Saxony/1295~1378) の著作と考えられている「Meditationes de Vita Christi)(キリストの生涯についての考察 )」。

ボナヴェントゥーラ(Bonaventura/1217年ごろ~1274)にも同じ題名の著作があります。
 
 ボナヴェントゥーラは神学の最終目標は、
 イエスの十字架の苦難を観想することによる魂の深い眠り、
 やすらぎに至ることである。「超脱」への道の三段階がある。

 第一は「浄化purgatio」であり、自分の魂の惨めな状況を瞑想し
 ゆるしの恵みを求める。

 第二は「照明illuminatio」真理への透徹。

 第三は「完全perfectio」。罪ゆるされてキリストとの一致にいたる。
                 出典:小海キリスト教会牧師所感




経験論の祖といわれるイギリスの哲学者フランシス・ベーコン(1561~1626)。
彼の著書にも「Meditationes」があります。
「Meditationes Sacræ. De Hæresibus(聖なる瞑想。異端の論について)」(1597)。




イギリスの数学者エドワード・ウェアリング(Edward Waring/1734~1798)。
彼にもまた「Meditationes」と題した数学書があります。
「Meditationes Algebraicae」(1770)です。
algebraic(代数の)考察という意味でしょうか?


http://www.scs.illinois.edu/~mainzv/exhibitmath/exhibit/waring.htm

中世の神学者、近世の哲学者、近代の数学者が
それぞれに「Meditation」という言葉を使っています。
ボナヴェントゥーラ、ルドルフ、ベーコン、デカルト、ウェアリングがイメージする「Meditation」は同じものでしょうか?

Meditationes



近代哲学の祖、近代合理主義の父といわれるフランス生まれの哲学者、ルネ・デカルト(1596~1650)。



Descartes(デカルト)
Meditationes(メディタシオン)
de prima(第一)
philosophia(哲学)

1641年に出版されたデカルトの著書
「Meditationes de prima philosophia」。
日本では「第一哲学についての省察」と訳される。
1641年といえば、1603年に江戸幕府が成立し、三代将軍・徳川家光が鎖国を完成させたのが1641年でした。

さてこの本はデカルト自身の「Meditation」について書かれているのですが、フランス語でメディタシオン、英語でメディテーションという言葉が、なぜ「省察(せいさつ)」というあまり耳慣れない言葉に訳されているのでしょう? ふつう「Meditation」は「瞑想」と訳されるはずです。

それに近代哲学の祖がなぜ彼の「Meditation」について書くのでしょうか?

この月曜日私はブログで「瞑想するカッパ」と書きました。
カッパが「座禅してきた」とも書きましたが
そもそも「瞑想」とは何でしょうか? 
「禅」とは何でしょうか?

J.クリシュナムルティは、「瞑想」という言葉は手あかにまみれているので使いたくないと書いています。けれど、適当な言葉がなかったのか生涯、「瞑想」という言葉を使いました。明日から「瞑想」について話題にしたいと思います。

■青空文庫 ルネ・デカルト著「省察」
http://www.aozora.gr.jp/cards/001029/files/43291_21543.html

米活一の河童像



用事があって熊本市の中心街に行きました。
賑わう商店街の大きな書店の前になぜか
瞑想するカッパ。



帰宅して検索すると、この書店にカッパを導入したいきさつが出てきました。
http://www.kinryudo.co.jp/kappa/

なるほどこの場所にはロダンの「考える人」や抽象彫刻より面白いと思います。



昭和45年(1970)から約44年間
ずっとこの場で座禅してきた・・・



カッパの前には二人の少年が座っています。



この少年は本を開いて何か思い詰めたような真剣な表情をしています。



作品の前に作者の米活一(こめ じいち/明治29年(1896)~昭和60年(1985))の“作意”が書かれています。

カッパそのもの
を一つの人間と
して把らえ
悪から善と導
こうとしている
姿。 つまり過去
の悪夢悪態を禅
によって心身共
に清めかつ善導
仏心となる真の
心を現わそうと
したものである


米活一のプロフィール
http://meikan-web.com/sample/detail/3020.html
東京美術学校(現東京芸術大学)で高村光雲に師事したとあります。上野の西郷隆盛銅像が光雲の作でした。「智恵子抄」の高村光太郎のお父さんです。



本屋さんの正面。
画面下部にカッパ像があります。
この本屋さん、熊本県下最大級の郷土本コーナーがあるとアピールされていますが、なるほどその通りで、横井小楠や徳冨蘆花、徳富蘇峰の専門書までちゃんと並んでいます。
“本離れ”が進む時代にあって、充実した郷土本コーナーを維持できるのは、熊本の知性や郷土愛があってのことでしょう。それとカッパの御りやくでしょうか・・・

朝陽を浴びる柴犬アミ



アミは2004年7月21日生まれ。
熊本のホームセンターのペットショップ売り場で売れ残り、狭いオリのなかで大人の体格になってしまっていました。桂子はこの子が気に入っていたんですが私に反対されていました。が、このままだと動物実験に回されるか殺処分かと考えると彼女は我慢ができず、とうとう2005年2月に連れて帰りました。

そのときの経緯を2006年3月12日のブログに書いています。
http://blog.goo.ne.jp/ki_goo/e/03b22be5fc208a4b3937874919781e5a

そんなアミも9歳6ヶ月。
人間の年齢に換算すると54歳になりました。
けれど性格や表情や行動は来た当時の幼いまま。
結局一度もメスを求めることはありませんでした。

写真は朝陽を浴びてうっとりしているところ。
これも変わりません。

2006年4月3日のブログで朝陽に陶酔するアミのことを書いています。
http://blog.goo.ne.jp/ki_goo/e/4796b51d91af04d5ec6c0d87dd365f54



カメラを向ける私にふりむくアミ。

春日神社の鎮守の森



昨夜、春日神社の鎮守の森について書いたら
今日まさにその森を歩くことになりました。
大分市OASISひろば21で用事をすませたあと、桂子がランチを食べたいと言ったお店が春日神社に隣接するエリアでした。寒いけれどせっかく来たのだから歩くことにしました。



この森、冬だけど野鳥のさえずりがさかんでした。
このエリアに入るとすぐパワースポット独特の強いバイブレーションを感じました。桂子は頭が痛いほど強いと言います。町なかなのにこんなに強いエナジーを持つスポットは珍しいと思います。



摂社の上にそびえる樹木たち。



OASISひろば21から見えた本殿。



御神木の偉大なるクスノキ。
強いバイブレーションを放っています。
神殿より貴重な地域遺産だと思います。
神殿はすぐに再建できますが、この樹が失われたらこの姿にもどるのに300年以上かかります。

ちなみに春日神社は太平洋戦争末期にアメリカ軍の空爆によって焼失し再建されました。もう二度とあのようなことがあってはならない・・・神社は戦勝祈願をする場所ではなく、世界平和を祈る場所であり続けてほしいと思います。春日神社の入口に“敬神生活”として「大御心をいただきて、むつび和らぎ、国の隆昌と世界の共存共栄とを祈ること」と書かれています。

OASISひろば21



一週間ほどまえOASISひろば21に用事があって、ついでに最上階にあるスカイレストラン&バーThe21でお茶を飲んできました。
このビル、大分県で一番背が高い。21階建、高さ101.17m。この高さ、東京や大阪、福岡ならざらにあると思いますが、大分では圧倒的に高い。1998年に建ったというけれど、上まで登るのは今回が初めて。というか大分に来て、お店で桂子と珈琲を飲むのも初めてかも知れません。
写真はThe21の窓から撮りました。
OASISひろば21に隣接して大分県立美術館を建造しているところです。



美術館の工事現場から少し南の角度です。
市の中心部ですがあまり高いビルはありません。
すぐ海、別府港です。



もっと南を見ると新日鉄の工場地帯が見えます。



今となってはシュールな景色に見えます。高度経済成長時代はこの工場や周辺部がたいへんな好景気であっただろうと想像します。もっと煙もモクモク上がっていたことでしょう。



北北東を望むと、左にそびえるのはお猿さんで有名な高崎山です。あの山は大分市と別府市の境界にあり、あの向こうには別府温泉郷が広がっています。



上の写真より少し南を撮りました。
美術館建造中のクレーンが手前に見えます。
中央部に緑の森があります。



この森こそ、春日神社の鎮守の森でした。
おやしろが少し見えます。



2011年に撮ったこの拝殿が見えたのでした。
HPのパワースポットのコーナーにここをアップしています。

大分市は海や山や田園地帯に囲まれていて、たいへん自然の豊かな都市ではありますが、21階から眺めると都市部は意外に緑地が少ないことがわかります。実は春日神社の森が緑のオアシスでした。神域ということ御神木ということで樹を伐採できない。神社のおかげでこうして森が守られるなら、もっともっと神社があってもいいですね。私は平和を守るための平和憲法神社があってほしいと思います。

夕陽を浴びるスズメたち



チュンチュンペチャクチャ、そうとう賑やか。
夕方4時過ぎ、エンジェルファームの庭のキンモクセイの大木につどうスズメたち。
みんな太陽の方向を向いています(変わり者もいますが)。

今朝、霜がきつくてたいへん寒かった。
そんなときにはスズメのオシャベリも聞こえません。



近年、スズメが激減したと言われますが
エンジェルファームではこれです。



夕陽を浴びてくつろいでいるように見えます。
人や車が現れたときだけ、オシャベリを止めます。
飛んでいるスズメがいるのは、私が近づいたこと
あるいはカメラのシャッター音に警戒したため。

近づかずカメラを向けなければ
みんなチュンチュンペチャクチャ言いながら
枝にとまったままくつろいでいます。

宮崎平和台公園



1月1日は最初に宮崎神宮に詣で
神宮に隣接する平和台公園に向かいました。
川端康成は小説『たまゆら』で、こう書いています。

直木はまだ行っていないが、宮崎神宮の左手を、北へのぽった丘に、高い塔がそびえ立ち、見晴らしのひらけた丘は公園となっているのを、案内記で読むまでもなく知っていた。
今は塔を「平和の塔」と呼び、公園を「平和台」という。日本の敗戦によって、名を改めたのである。御幣(ごへい)をかたどった、高さ三十七メエトルの塔は、皇紀二千六百年を記念する事業として建てられたのであった。
皇紀二千六百年は昭和十五年(西暦一九四〇年)で、すでに「シナ事変」の泥沼にあがきが取れないで、あくる十六年には、アメリカ、イギリスなどに窮余の戦いをしかけた。そういう昭和十五年のことであるから、「皇紀二千六百年」は、日本をさらに神国と尊ぶよい時機として、国をあげて神聖に祝賀され、国民の士気高揚、一致団結を強めるため、どの地にも、いろいろな行事や記念のくわだてが、競って行われた。
神武天皇の東征前の宮居のあとと伝えられる、宮崎神宮のある宮崎としては、この塔のような、思いきった大きい祝賀事業が当然であったろう。




塔は「八紡之基柱(はっこうのもとばしら)」と名づけられた。日本は戦争の理想に「八絃一字(はっこういちう)」という言葉をかかげていたからである。
そして、「八絃」、つまり「全世界」の基柱、中心の象徴として、塔が建立されたのであった。したがって、宮崎市とか宮崎県だけのものではなく、日本の基柱とするような気負いがこめられた。たとえば、神武天皇の神話物語を浮きぽりにした、塔の正面の大屋は、全国の小学生から寄付を集めた一銭銅貨を鋳つぶして、銅板とした彫刻である。また、塔を築いた石は、国内の各地方からはもちろん、中国、ブラジル、ペルウ、カナダなど、多くの外国に住む日本人から、海を越えて遠く送られて来たものが少なくなかった。親日外人の寄贈の石もあった。




塔の設計は日名子実三であったが、今は故人である。
そして、表靡の 「八絃之基柱」という、塔の由来であり、生命であった文字は、日本の敗戦によって、無残にえぐり取られてしまった。塔は「平和の塔」と名を改められ、丘は「平和台」と名を改められた。






塔の台上の四方に立つ四体の神像のうち、軍の神の像は取りのぞかれた。



しかし、塔の裏面にはめこんだ銅板に、「皇紀二千六百年」という文字は、そのままに残っている。気のつく人は多くないだろう。



そして、「八舷之基柱」 の変身の 「平和の塔」のある丘は平和公園として、観光バスも立ち寄る。丘から前方の展望は広く、背後の樹林も美しい。
ところが、昭和三十九年、オリンピック東京大会に、国内の聖火リレエの第二コオスの起点に宮崎が選ばれた。沖縄から飛行機で、九月九日の朝着いた聖火は、夕方まで宮崎神宮で見守られ、そして平和台に運ばれて、平和の塔の前の聖火台に点火された。
ここで聖火の国内出発点の式典が行われた。「八絃之基柱」、改め「平和の塔」 は、これによって一つの蘇生の火の燃やしたことであったろうか。
この時の大きい聖火盤は、絶文土器風の形であって、宮崎市で知られた、埴輪の模造工作所がつくったものであろう。

また、この塔はオリンピックの 「聖火」 の発着点となったのとは、まったくちがった意味の「蘇生」と言えば言い過ぎかもんれないが、近年、紀元節の復活賛否論、つまり復活論が興ったから、反対論がとなえられるわけだけれども、それにつれて、神武天皇の神話にゆかりの地、そのために大きい塔も立てた宮崎としては、敗戦によってもぎ取った「八舷之基柱」の文字板を、ふたたび塔の表にもどしたいとの望みが出ているのも、直木は宮崎の新聞で読んで知っていた。直木はまだ見ていないけれども、「八紡之基柱」の文字盤をもぎ取ったままで、そのあとに「平和の塔」という文字盤を恢めかえてないらしいから、塔の名のあるべきところは傷痕のようである。

「それにしても、『八紘之基柱』という名にもどすのは・・・・・・。」と、直木は一つ葉の浜で、ひとりつぶやいた。「八絃」という言葉の意味を、直木は正しく確かには知らない。戦争中に「八紘一宇」ととなえられた「八絃」が、「全世界」という意味であったのなら、「八絃之基柱」と宮崎の塔を言うのは、もちろん、今は途方もないことであろう。

「八絃」の意味をもし狭く日本だけに限るなら、神話伝説の記念塔としてあってもよいが、それよりもやはり、日本が戦いそして敗れた記念塔として残しておくのがよいのではあるまいか。あまりに明るい丘に高くそびえているけれども、見る人によっては、それが立った時の誇りを思い起し、塔の名のもぎ取られた時のかなしみを思い出し、また、ただ奇妙な形の塔とだけ眺めるのもよいのではあるまいか。すべて、古跡とか記念の建物とかは、見る人のこころごころであろう。戦争を知らぬ小、中学生の修学旅行の子たちは、たとえ案内者の説明を聞かせられても、この塔になにを感じてながめるかわかったものでない。

とにかく、塔は「八紡之基柱」として建立され、それから「平和の塔」と新たな名に塗りかえたのは、敗戦の挫折と心うほかはなかったが、オリンピックの聖火の入国祝賀場となって、新しい生命を与えられ、さらにもし紀元節が復活されれば、もとの「八紡之基柱」という、銅板の文字がもと通り表扉にはめこまれるかもしれない。この記念塔の時勢につれての移り変りである。なにかの記念の建造物には、年月のあいだに、こういう移り変りをするものも少なくないであろう。


今夜はノーベル賞作家にブログを書いてもらうような感じになりました・・・



平和台公園には何10羽かの白鳩が生息していました。平和のための式典で放たれてそのままここに住みついたのでしょうか。
観察してみると、鳩でも隣鳩関係をうまくやっています。自称万物の霊長である人間がなぜ隣国とうまくやっていけないのか・・・

みそぎが池



去年大晦日に宿泊した宮崎の大淀川湖畔。
川端康成が昭和39年(1964)、この湖畔にある宮崎観光ホテルに15泊して書いた小説『たまゆら』のことを記念して建てられた石碑が、ホテル前の堤防にありました。



小説『たまゆら』。その題字が石碑と同じ川端の書。

ところがしかし、職を退いた今、旅に出てみたいと思い立つと、いちばんに心誘われたのが、「神話の国」、日向であった。つづいて、出雲の国であり、大和の国であった。
なぜかは、直木自身にもそう明らかではなかった。学生、つまり青春時代の知と情への懐旧、あるいは老いのせいによる、自国への郷愁と、単純にかたづけられもしなかった。
過去をたずねると言うよりも、むしろ、直木はこのような旅から、自分の新しい出発の足がかりをもとめたかった。
第二の別の人生のために、「禊(みそぎ)」をする心づもりとも言えそうであった。
先ず、日本の神話、伝説、歴史、そして自然によって、自分を洗い清めることである。


この小説を書いたとき川端は65歳。
小説の主人公直木も65歳という設定。

私たちは1月1日に、日本最初の禊の地、宮崎の阿波岐原(あわぎはら)を訪ねました。川端の『たまゆら』では、こんなふうに書かれています。

「古事記」の神話に、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が、吾(あ=私)は「きたなき国に到りてありけり。故、吾は御身の禊せむ」とのりたまひて、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に到りまして、禊ぎ祓いたまひき」とある。その阿波岐原に行ってみたくて、直木はホテルを出て来たのである。



私たちはまず阿波岐原の江田神社に詣でました。
小さなおやしろと狭い参道のせいで大変な行列ができていました。
15分ほどだったのか30分だったのか、生まれて初めて初詣のために行列に並びました。初詣には行っても行列に並ぶことなんてありませんでした。





江田神社詣でのあと、こういう松林を通りその先にある
伊邪那岐命が禊をしたという池に向かいました。





予想していなかったのですが、ここにはパワースポット特有の強いバイブレーションがありました。



不思議なことに現実ではない写真にも強いバイブレーションがあって
ブログに載せても同じバイブレーションがあります。
お~い新潟のYちゃんどうでしょうか?(Yさんは敏感な受講生)

長湯温泉・ながの湯



夜の7時過ぎ長湯温泉「ながの湯」。
あたり真っ暗ですでに深夜の雰囲気。
外観は車のライトを当てて撮りました。



うちから車で20分。
私たちが最も愛用してきた温泉です。
マグネシウム・ナトリウム-炭酸水素塩・硫酸塩泉
ミネラル成分も炭酸成分も濃厚な優れた泉質。

けれど家族湯800円(以前は600円でした)。
大衆風呂は200円。
料金箱が置いてあるだけ。
田舎の無人野菜販売所のノリです。



観光客を意識していないので
まったく飾りけのないシンプルなつくり。
けれどありがたい贅沢な貴重な場所です。
聖ながの湯様、今年もよろしくお願いします。

ビッチのケガ



香山桂子です。
旅行先から戻ったときに気づいたのですが
ビッちゃんの下あごに傷があり腫れあがっています。
とても痛々しい感じがします。

いつもお世話になっている病院の年明けの診察が今日からだったので、それまで我慢してもらいました。
いつもより少し元気がないものの、食欲だけは落ちません。
さすがビッちゃん。
食べて治す!!のも自然療法のひとつです。



先生はその傷を見ただけで、原因は事故だと言われました。
どうも車に接触したようです。

血を出した方が治りが早いからと
先生は傷口をギュウギュウ絞りました。
人間だったら耐えられない痛みだそうです。
ビッちゃんはあまり抵抗することなくじっと我慢しました。
ほとんどの猫は暴れて、押さえている人の手を引っかき回すそうです。

注射を一本打ってもらい、おとなしくしていたビッちゃんは
先生に褒められてエンジェルファームに戻りました。

戻ってからは自分が落ち着く場所を見つけ
大地と交わってじっと静かに休みました。

私は長い間動物たちと共に密着した暮らした中で、多くのことを教えてもらっていますが、動物は例えば事故にあっても相手を恨んだり、悔やんだり、ショックを引きずらないので本来もって生まれた自然治癒力が充分に発揮され、癒えるのが本当に早い。

自然界から離れてしまった人間は自然治癒力を落としているし
本来のその力を信頼していません。

今日もビッちゃんからまたまた癒しの原点を教えてもらいました。
とても神々しく見えます。

青島の曙光



2014年1月2日午前7時32分。宮崎市青島。
本当は太陽が顔を出す前から撮りたかったけれど少し遅れました。

刻々太陽が昇っていくのが地球の自転のせいだとわかるようになって、太陽は“ラー”“お天道様”“天照大神”“大日如来”等と呼ばれる太陽神ではなくなり“一恒星”になりました。

すべてが科学的に説明できる、よって“神秘”はないといわれる。けれど太陽が科学的に解明されればされるほど神秘は深まり、ますます世界が“奇蹟”であるように見えてきます。太陽は“ラー”“お天道様”“天照大神”“大日如来”としてではなく、太陽は“太陽”として“神秘”だと思います。

世界はなぜ存在し人はなぜ生まれ死んでいくのかという最も重要な問題について、科学はまったく歯が立たず無力であると思います。結局は大衆が信奉する非科学的な常識「死んだら天国に行く」という言葉でお茶を濁し、自らの葬儀は非科学的思考に基づいた非科学的儀式にゆだね、非科学的墓地に埋葬され、非科学的仏壇の非科学的位牌となって、非科学的祈りを受けることになっています・・・

あの途方もない太陽が人間のつくった科学・哲学・芸術・宗教を焼いていく。どんな思考-言葉も無力になって、ただ目の前の海の潮騒に聴き入り、昇ってくる圧倒的な太陽を黙って感じて・・・
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