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殉空の碑



一昨日、佐藤義美記念館を見終わって受付で販売されている本を見ていたら、『殉空の碑』の絵本が目に入ってすぐ購入。竹田にあるという殉空の碑、以前から気になっていました。

この絵本が出版されたのは2008年8月。
西日本新聞社2008年8月3日朝刊の記事を検索で見つけたので転載させていただきます。出典:http://www.47news.jp/CI/200808/CI-20080803-00056.html

地元の日米兵士慰霊碑題材
殉空の悲話 絵本に
 
来春統廃合・明治小児童の母親ら 竹田市

竹田市折立の明治小学校児童の母親と女性教職員で組織する「星ボタル」(衛藤智美代表、17人)が、校区内にある米軍爆撃機の搭乗員と旧日本軍戦闘機のパイロットの慰霊碑にまつわる物語「殉空の碑」を出版した。
同小は来春、統廃合されることが決まっており、“最後の夏”に地域に残る太平洋戦争の悲話を未来に伝える絵本が完成した。
「事件」が起きたのは終戦の約3カ月前の1945年5月5日。旧日本軍の戦闘機に体当たりされた米軍の爆撃機B29が同小から約1.6キロ離れた山中に墜落。日本軍機のパイロットは死亡、生き残った米軍機の搭乗員は捕虜となり、1人をのぞき九州大学の生体解剖事件の犠牲になった。
77年に爆撃機が墜落した畑の所有者の工藤文夫さん=91年死去=が日米双方の犠牲者を弔う「殉空之碑」を建て、毎年5月5日に追悼法要が開かれている。
昨年夏、同小の統廃合が避けられなくなり、「校区内で起きた悲惨な出来事を風化させてはいけない」と星ボタルメンバーが一念発起。工藤さんの長男で、爆撃機の墜落を見た勝昭さん(71)などから聞き取りをし、勝昭さんを主人公にした物語を作った。
墜落19年後に発見された「BOEING‐F」の文字が入った機体の破片や、毎年、碑を清掃する明治小児童の写真も掲載した。星ボタルの衛藤代表は「絵本を購入したすべての人が語り部となって、次の世代へ平和の大切さを伝えてもらいたい」と話している。 A4判32ページ。1000部を作成し、1500円で地域の関係者などに購入してもらう予定。問い合わせは明治小学校星ボタル事務局




アメリカのB29戦闘機が墜落していく様子。



民衆はパラシュートで落下してきた米兵をやっつけたいと思ったんですが、憲兵や警察がそれを制止したという。



あれから32年たった1977年(昭和52年)、地元の工藤文夫さんが中心になって殉空の碑を建設。工藤さんは石工(いしく)だったんですね。あの日、B29に体当たりして亡くなった紫電改(しでんかい・太平洋戦争末期の日本本土防空戦で活躍した戦闘機)の操縦士・粕谷二等兵(当時19歳)と、B29乗組員の米兵10名を共に弔い、平和を願うために作った・・・



絵本にあった地図を見て夕方、現地に行ってみました。何と車で約5分ほどの近さにこの標識のポイントがありました。もっと早く来ておくべきだったと思いました。



車を置いて少しだけ山道を歩きます。



殉空の碑です。



亡くなったかたの一人一人の名前が刻まれています。



68年まえのこの空で起きた事件です。

捕虜となった米兵が九州大学で生体解剖を受けたことについては、また改めて話題にしたいと思います。


NHK『戦争証言』アーカイブス
B29墜落 “敵兵”と遭遇した村 ~熊本県・阿蘇~

http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001220041_00000

九大生体解剖事件(朝日放送)
http://www.youtube.com/watch?v=Pv2mQLzni2k
http://www.youtube.com/watch?v=Z0GoRHRhOjI

旧軍における捕虜の取扱い――太平洋戦争の状況を中心に――立川京一(たちかわきょういち戦史部第1戦史研究室主任研究官)防衛研究所紀要第10巻第1号(2007年9月)
http://www.nids.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j10_1_3.pdf

佐藤義美記念館



昨日、神田頭首工を話題にしました。
城原井路に水を引き込む川は、久住川と老野川の合流ポイントから200m下流。ふたつの川が合流して稲葉川になります。稲葉川はエンジェルファームの近く(約300mほど離れたところ)を流れていき、そしてこのポイントを横切って行きます。

昔この河原で動物のを行っていたという。この写真の正面の建物が詩人にして童謡作家の佐藤義美記念館です。エンジェルファームから車で約3分です。



ここ竹田生まれの佐藤義美(1905~1968)さんです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E7%BE%A9%E7%BE%8E

聞いた話ですが・・・記念館を建てるとき、この河原が動物の場であったことを指摘した人があったという。ところが自費で建設しようとしていた佐藤義美の弟子で、著作権を継承する稗田宰子さん(現記念館名誉館長)は、そうであるなら尚更ここに建設したいと言われたそうです。

ふつうなら「縁起が悪い」とか「バイブレーションが悪い」とか言って、こういうところを避けがちですが、さすが佐藤義美先生の弟子ですね。佐藤義美の作品がそういうものを弔うというか、清めるチカラを持つと考えられた。佐藤義美に対する絶大な信頼、尊敬、確信があってこその決断だと思います。

建設後、稗田さんは建物と所蔵品を
惜しげもなく竹田市に寄贈されました。
http://www.oct-net.ne.jp/~yoshimi1/



対岸に移って撮りました。稲葉川です。
この川のことは何度も話題にしたことがあります。
http://blog.goo.ne.jp/ki_goo/e/20138df2a5c9eb4f407f34292ca2806d



さて、佐藤義美記念館外観です。
神奈川県逗子(ずし)にあった彼の仕事場を模したという。そういえば昨日、桂子は逗子市の隣の鎌倉市で、彼女のおいっ子たちと会っていました。





二階の窓際が彼の書斎だったという。
今の記念館ではベッドもありました。
寝室兼書斎だったのでしょうか。

惜しいことに写真撮影が禁じられているので
面白いものが発信できなくて大変残念です。



晩年の彼は、一階のこの部屋の窓際で原子爆弾に反対する童話の構想をねっていたという。二階の書斎には、原爆関係の本もたくさん収められていました。井伏鱒二の『黒い雨』もありました。

神田頭首工



竹田市福原の神田頭首工(こうだとうしゅこう)。
前から気になっていたんですが、今日の夕方とうとう行ってみました。車で10分程度でしょうか。



川などから農業用水を引くための施設を頭首工というそうです。用水路の先頭部に設置する工作物ということです。



人工的に川を堰き止めて水をため、それを農業用水路の方に流すわけです。



「全国疎水百選」というものがあるそうです。
http://inakajin.or.jp/sosui_old/index.html

大分県ではこの神田頭首工(城原井路)と緒方井路が選ばれています。



先日も話題にしましたが、この城原井路(きばるいろ)、江戸初期を代表する岡山藩の儒学者・熊沢蕃山(くまざわばんざん)先生を招いて指導してもらって工事が開始されました。

ここに書かれていますが、総延長130.7Km。
分水1300カ所というものすごい水路です。



大正11年にこういうタイプの堰を築いたという。天然の岩盤をくり抜いた通称「はなぐり水門」というそうです。



ここが長い長い城原井路の起点です。



大量の水がじゃんじゃん流れていきます。



この水が稲作には必要です。

実はこの城原井路の小さな支流がエンジェルファームの脇にも流れています。先人の知恵と努力を想います・・・
http://blog.goo.ne.jp/ki_goo/e/b47e03817995ba8be27894a42c5ad698
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