九州・大分県の内陸部、水清く緑豊かな豊後竹田から発信。
エンジェルファームNEWS
休業のお知らせ
菜園のスギナ。
スズキ式ジュースマシンが届いた5月30日以来ほぼ毎日、スギナもジュースにしていただいています。せっせと摘んで乾燥葉もたくさん作りました。それはヨモギやドクダミ、柿葉などの乾燥葉と混ぜてお茶にして飲みます。
スギナは人間が生まれるよりはるか昔から生き延びてきた強健なシダ植物。約3億年まえ巨大なシダ植物が繁茂した古生代・石炭紀にはスギナの背丈は10数メートルあり、スギナ林があったという。
ヒロシマに原爆が落とされたあと、まっさきに生えてきたのがスギナだったそうです。そういえば今このあたりでも、除草剤をまかれた荒れ地に、除草剤なにするものぞと生い茂るのがスギナです。
スギナの分析値です。
何とかして、スギナを生かすべきであることがわかります。農家に嫌われて抜かれても抜かれても根絶できない生命力を生かす方法法です。私たちは毎年乾燥葉として利用していますが、今年初めてジュースや野草酵素として利用しました。
さて明日7月1日から来年の3月31日まで休業することにしました。関係者や一部お得意様には以前からお伝えしていましたが、6月末日が株式会社としてのエンジェルファームの〆となりますので、今日をくぎりとして9ヶ月のお休みをいただくことになりました。
そのかんにエンジェルファームの1000坪を超えるこの環境(庭・菜園・裏山)を整備したいと思います。この築明治元年の家屋を改修したのは2006年7月末から2007年3月にかけてでした。あのときは建物の改修でしたが、今回は植物や多様な生命体に関わるガーデンの改修を企画しています。それと、ヒーリングスクールのテキストについてもじっくりと見直しをします。2002年開業のエンジェルファームの根本的な見直しをしたい・・・これからは私たちにしかできないことについて見極め、それをやっていきたいと思います。そのための休業とさせていただきます。ブログにはその様子を発信します。
ひさびさに「えひめAI-2」
つけもの用の大型ポリ樽。
近くのホームセンターで買える最大のものでした。
直径46.6cm。高さ35.5cm。
今回以下の目的のために購入。
中に入っているのは
1.お米のとぎ汁
2.ヨーグルトを食べ終わったあとの容器を洗った液。
3.納豆の容器を洗ったヌルヌルとした液。
4.ヌカ漬けのヌカを洗った液。
5.クレイ(桂子がクレイパックした残り)
6.ビールの飲み残し
本来すてるものを、この容器にためていき
二週間ほどたった6月18日の様子です。
発酵仕材として購入して加えたのは下記だけです。
1.ドライイースト
2.上白糖
実はこのポリ樽のふちにいたカマキリの子供のことを書いたのが6月18日のブログでした。
http://blog.goo.ne.jp/ki_goo/e/4c9a6f38fc8f68f78d2721dd95734331
ぐるぐる手でかき混ぜたあとに撮りました。
穏やかですがフツフツと泡立っています。
耳を近づけるとパチパチという、ごくごく小さな音が聞こえました。
あれから11日たった今日の様子。
吟醸酒に似た良い香りがします。なめてみると穏やかな酸味があるのみ。私がイメージしていたものができあがったようです。
赤みがかっているのは、紫タマネギのサラダからしみ出たトロッとした液体を加えたからです。紫色素であり抗酸化物質であるアントシアニンですね。
出来上がったものは、基本的には「えひめAI-2」だと思います。
http://blog.goo.ne.jp/ki_goo/e/54bed459d5850a24a6231e7348bca46c
そのラフな作り方が農文協出版の雑誌「現代農業」にありました。
それを参考にしながら、新たにクレイやヌカ床の成分や紫タマネギの色素を混ぜてみる工夫をしたんですが、「えひめAI-2」が出来上がったときと同じ香りと味がしました。
試しに、台所で油ものを洗ってみると落ちが良いので、マニュアル通りに作らなくても「えひめAI-2」ができることがわかりました。それと工夫を加えても「えひめAI-2」系のものができることもわかりました。私は今回これを洗剤としてではなく農業資材として作りました。菜園の野菜やハーブに噴霧して効果を観察してみるつもりです。
ともかくお米のとぎ汁はたびたび出るものなので、これをベースに「えひめAI-2」のバリエーションをどんどん生みだしてみたいと思います。これに野草酵素ジュースや梅酵素を加えてみたらどうなるか、次のポリ樽はこれかな。
徳冨記念園
昨日、横井小楠生誕の地を訪ねるまえに「徳冨記念園」に寄りました。
告白しておきますが、NHK大河ドラマ「八重の桜」が無かったら、小楠先生や徳冨兄弟の足跡を訪ねることは無かったと思います。彼らに対してこれまで特別な興味を感じたことはありませんでした。そういえば戊辰戦争や西南戦争のことも一般教養の域でした。
元会津藩家老・佐川官兵衛の墓に参るべく大分護国神社を訪ねたり、老母をともなって東京都世田谷区蘆花恒春園や福島県会津を訪ねたり、西南戦争最大の激戦地・田原坂を訪ねたり、横井小南先生の旧居(熊本市沼山津)を訪ねたりしたのは、「八重の桜」がきっかけでした。
「八重の桜」と大分県豊後竹田のエンジェルファームに何の関係があるのかと思われるかたがあるでしょう。実はどっぷりと関係があります。
個人的なことでいうと、桂子のお母さんの出身地が会津です。子供のころ桂子はたびたびお母さんの実家に遊びに行き、質素ながらも自然豊かな環境に感動しました。その感動が現在のエンジェルファームにつながったと思います。
それから私の父は新島襄が創設した京都・同志社大学出身です。新島の妻になったのが八重、その兄が覚馬。ふたりが同志社大学創設に協力しました。ふたりがいなかったら創設できなかったかも知れません。そうなっていたら父は別の大学に行っていたでしょう。父は太平洋戦争敗戦直後の同志社でキリスト教の影響を受けると共に、マルクス・レーニン主義の影響を受けました。
もしその影響を受けていなかったら・・・父にはもっと別の人生があったと思います。従兄弟であった母とは結婚しなかったかも知れないし、そうなっていたら私は香山の父母の子供としては生まれなかったでしょう。日本最高水準の過疎高齢地に「今日のエンジェルファーム」なんていうブログを今夜、こんなことを書くべくキーボードを打つ指は無かった・・・
新島襄が出会うべき瞬間に八重や覚馬と出会うことによって同志社が生まれた。今「八重の桜」でやっている会津戦争で、もし会津が敗北していなかったら、八重と新島襄の出会いは無かったでしょう。そういうことが、私の出生にも影響し、私と桂子との出会いにも影響・・・・・つまり戊辰戦争で会津が負けなければ、京都で八重と新島襄が出会うことは無かった、そうなっていたら私と桂子の出会いも無かった、エンジェルファームも無かった・・・
以下、徳冨記念園で撮りました。詳しいことはHPにまとめます。
横井小楠生誕地
思い立って今日、こんなところを訪ねました。
目的地はこの井戸。エンジェルファームから車で約2時間。
うしろは加寿美学園熊本中央高校。
生徒たちのにぎやかな声が聞こえてきます。ここが横井小楠先生の生誕地、この井戸の水が小楠先生の産湯であったという。
案内板によれば昭和13年当時は清水が湧き出ていたらしい。
今はこの井戸、土で埋められています。
この井戸に隣接して夏目漱石記念館がありそれも訪ねました。
帰って調べると漱石が住んだこの場所は、もとはといえば東京農業大学初代学長の横井時敬(ときよし・じけい)が住んでいた場所だという。彼は横井小楠先生の親類で、お父さんは小楠の高弟だった。その裏手が小楠の生誕地であり、彼が住んでいた屋敷があった・・・
東京農業大学関係のサイトに、このエリアの明治初年の古地図があるのを見つけました。たしかに横井時敬の名前を確認できます。左裏には横井平四郎(小楠)の名前を確認しました。
※横井時敬生誕の地を確認 後に夏目漱石が住む
http://www.nodai.ac.jp/hojin/journal/images/j_1010/p7.pdf
キアゲハの幼虫
雨が上がったときに菜園に出ると
成育中のニンジンにこの姿。
キアゲハの幼虫、インパクトあります。
こういうのが苦手なひとは身震いするかも知れません。
でも誰もが賞賛する美しい蝶になるためには
イモムシのプロセスがどうしても必要です。
写真の中央、少し上にこの幼虫がいます。
こうやって見ると、ニンジンの枝葉にうまくまぎれています。
ドギツイ模様に見えますが、軍服の迷彩色と同じでした。
キアゲハの幼虫はニンジンやミツバ、パセリ、セリのような、セリ科の植物とミカン科の植物が大好物。だからエンジェルファームでは、カボスやハッサクもやられます。
やられるのは痛い・・・けれどキアゲハも生かしてやりたい・・・そのあたり気をもむところなんですが、実はキアゲハの幼虫が生き延びるのも難しい。蝶になれるのはほんの一部です。やっとサナギになれても、他の生物に食べられます。
この幼虫はサナギになることができるでしょうか?
蝶になってはばたくことができるでしょうか?
ニンジンがやられるのはちょっと惜しいけれど
この幼虫の成長を見まもってみたいと思います。
京都炎上
NHK大河ドラマ「八重の桜」、3月24日に放映された映像。
京都の蛤御門の変で、八重の兄・山本覚馬が目を痛めます。
目を痛めながらも指揮し、長州がたてこもる公家の鷹司家に大砲を向けます。画面左、目を負傷した覚馬。
鷹司家への砲撃が、京都を火の海にしました。
逃げまどう京都の民衆。
左の人物は桂小五郎(木戸孝允)。
京都の街が燃える様子を見る山本覚馬。
市街戦というのは今も昔も悲惨です。そこで生活している市民をまきこみ、何の罪もない子供たちも犠牲にしてしまいます。覚馬の指揮によって、京都の当時の街の55%を焼いてしまったようです。
京都の民衆は、会津のことを「鬼」と言いました。
明治維新後、山本覚馬は京都府(現京都市)の顧問として採用され、京都復興・近代化の大恩人となりました。その背景には、京都を焼いた鬼、天皇に刃向かう賊軍の汚名を晴らしたい気持ちもあったのでしょう。
長州藩出身の二代目京都府(現京都市)知事、槙村正直。
会津のカタキである長州人と二人三脚で京都を復興していきます。
この槙村知事に京都絵画専門学校の設立を建白したのが
ここ豊後竹田出身の田能村直入先生でした。
菊池・後藤温泉
先日初めて詣でました。
熊本県菊池市の後藤温泉。
なんと家族風呂50分600円。
ひとり600円ではありません。二人で入ってこの値段。
アルカリ単純泉と表示されていますが、浴室に入るとすぐ硫黄臭がします。それにごくごく小さな泡がカラダに付着します。たぶんラドンも含まれているのではないかと想像します。飲むと甘みがあります。
後藤温泉の浴槽。この浴室は「銀の湯」という名前でした。隣の部屋は「心の湯」。大地からあふれるありがたい薬湯であることを思えば、「ダイアモンドの湯」という名前でも驚きはしません。間違いなくいいお湯でした。
窓から差し込む光が壁面のタイルに反射してゆらゆら。
浴槽の中にも光が差してゆらゆら。
600円で光のアートを観賞することができました。
施設の外観。
なんとお泊まり2000円~、とあります。
そのうち泊まってみたいと思います。
忘れられた横井小楠
肥後熊本藩の横井小楠。
何ぞ富国に止まらん
何ぞ強兵に止まらん
大義を四海に布(し)かんのみ
欧米列強によって植民地支配される危機にさらされた幕末に、独立を守るために富国強兵を説いた小楠ですが、富国強兵に終わるんじゃない、大義を世界にひろめるんだ、と主張します。
吉田松陰、高杉晋作、坂本龍馬、勝海舟、松平春嶽、徳川慶喜らに畏敬された横井小楠がなぜ今、忘れられた思想家になっているのか・・・そう思って調べていると、松岡正剛氏が「ようするに幕末維新をちゃんと見ている日本人は少ないということなのだろう」と書かれているのを見つけました。
私もちゃんと見てないひとりなんですが、小楠は西洋型の近代文明を採用せざるを得ない状況でも、最も大切なのは東洋的な精神文明であるとか、武士道的な精神修養の重要性とかを認識していたひとだと思います。当時の世界の情勢も知り、時代の先を見て国家の進むべき方向をプランニングするリアリストである一方、日本の古き良き文明の魂を継承しているひとでもあったのでしょう。
明治新政府は、横井小楠の先見性や富国強兵のためのプランニング力は必要だったけれど、彼の精神論、哲学、理想は必要なかった、というか邪魔ですらあったと思います。
だから廃仏毀釈そして修験道禁止、漢方や自然療法の否定でした。これまでつちかってきた日本の精神文化の否定と急激な欧化に突き進みました。
横井小楠の高弟、徳富一敬の子供が徳富蘇峰・蘆花兄弟でした。
親から小楠のことを聞かされて育ったようです。
日を旗じるしとする民
爾が義の日を四海に輝かせ。
と蘆花が書くとき、彼は小楠を継承していると思います。
今日、エンジェルファームではレイキヒーリングの小さな講座がありました。臼井甕男先生(うすいみかお1865~1926)が、霊気療法として体系化したものが世界にひろまり、今や世界中の病院施設で採用されています。特に欧米先進国で。http://reiki.angelfarm.jp/index.php?%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AEREIKI%E3%80%80%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD
これを「怪しい」といって採用しないのが今の日本なんです。明治維新が影響していると思います。それと太平洋戦争敗戦後の高度経済成長以来の、さまざまな利権優先ですね。欧米ですら採用されているのに・・・
小楠は“大義”を説いた故に無視されるのでしょう。
カマキリと明治維新
エンジェルファームの前庭に、カマキリの赤ちゃん発見。
赤ちゃんなのに自分の身を守るすべを身につけています。
何年か前、エンジェルファームから見る田園風景は、江戸時代当時とあまり変わっていないと思うと書きました。それは間違いだったようです。
近所のお年寄りによると、昔はごくごく近くに小学校があったようです。エンジェルファームから約50mほどのところ、今は田んぼになっているエリアに小学校があった。いつごろまであったのかについては定かではないんですが、あったことは間違いありませんでした。
2006年に古民家を改修工事したとき、ふすまのなかから墨の筆書きの古いメモ書きのようなものがでてきました。それでわかったんですが、明治時代にはこの家で文房具などを売っていたようです。なぜかお酒も売っていた。よろず屋みたいなものだったのでしょうか・・・
それとエンジェルファームから約100m先には蓮華寺という寺院があって、そこで「踏み絵」を行っていたという記録が残っているそうです。今は草ぼうぼうの空き地になっています。
実はこのあたり昔のほうが、人口が多くて栄えていたようです。今は過疎高齢化が進み世帯数が減り、子供達も少ししかいません。ここに小学校があったなんて、教えてもらわなかったら想像できません。
桂子は首都・東京に生まれ、私は古都・京都に生まれました。
そのふたりが今なぜ豊後竹田の田園地帯でカマキリやキリギリスと暮らしているのか・・・そのこともまた明治維新につながっていると思います。
明治維新(1868年)
先月5月8日、菜園のカモミール。
今年の早春から、明治維新や西南戦争のことに意識を向けています。このブログにも急にそんな話題が増えました。
2011年の東日本大震災、それは日本で初めての大規模な原発事故を引きおこしました。これは日本の歴史のなかでも巨大な悲劇として記憶されていくでしょう。“ペリー率いる黒船来航”に匹敵する、というかそれ以上の歴史の転換期となるべき大事件でした。
何故、あのようなこのような原発事故が起きたのか、そのルーツは明治政府による急激な近代化政策にあると思います。
2002年、エンジェルファームが始まった年にガンで亡くなった私の父は、京都・同志社大学経済学部の卒業生で、卒論のテーマが明治維新でした。父は、明治維新→日清戦争→日露戦争→日中戦争→太平洋戦争→米軍による日本全土への空爆→ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下→無条件降伏に至るプロセスを探求する・・・そんなことが父のライフワークでした。生涯、平凡なサラリーマンとして生きる一方、小さな手帳に小さな文字をぎっしり書きこんできました。
私は私なりに1868年の明治維新のことについて、何らかの整理をし決着をつけなくてはならないと感じました。私たちがエンジェルファームと名づけたここ、この母屋は明治維新の年、1868年に建てられた古民家です。1877年の西南戦争のときには、ここ豊後竹田は戦場となって、たくさんの家が焼けたのですがこの家は焼けませんでした。
築明治元年の古民家を改装したのが2006年~2007年でした。
あの時は建物の改装でした。今年、庭・菜園・裏山の改装を予定しています。新しい仕事を入れずに、原点に立ち帰って、根本から考え直したいと思っています。そのために145年まえの明治維新のことを考えています。本を読んだり、机のうえで考えるだけではだめだと思います。それで会津若松を訪ねたり、熊本の横井小楠旧居やラフカディオ・ハーン旧居、東京の徳富蘆花公園、田原坂を訪ねたりしています。
そういうことは一見、私たちの癒しの仕事に関係ないことのようですがそんなことはありません。明治政府は明治元年に、神仏分離令をだして廃仏毀釈を行います。明治5年には修験禁止令をだして、神道のルーツ、神道のエッセンスというべき修験道を禁止してしまいます。その流れで、漢方も自然療法も民間療法も否定され、西洋医学のみを医療として認めるという体制ができあがります。それが明治政府の成したことです。そういうことが今も続いているわけです。
そういう歴史、プロセスについてちゃんと向き合うときが来たと感じます。そのために古い歴史のことを話題にしています。そこから掘り起こしているわけです。
山本覚馬伝
4月24日、私たちは福島県会津若松の鶴ヶ城を訪ねました。
写真、左下の後ろ姿、左が83歳の母、右が桂子です。
桜が満開でもたいそう寒い日であったので、母は着ぶくれしています。
実際は、風が吹くと飛ばされそうなほど痩せています。
母は足が弱っているので城には登りませんでした。
桂子は、お母さんが会津の出身だったこともあり
この城には何度も登っているので今回は
母と一緒に下で私を待ちました。
城の出口にNHK大河ドラマ「八重の桜」の特設コーナーがつくられており、そこに山本覚馬のことも展示されていました。これは「管見」の要約です。
会津のひとであろうと、薩長のひとであろうと、幕府のひとであろうと、山本覚馬ほど鮮明に詳細に新しい日本のヴィジョンを描いていたひとはいなかったかも知れません。
彼のすごいところは、頭のなかでプランニングしただけでなく、それを実行に移した点です。目が見えないというハンディと、歩くことさえ不自由な身でありながら、次々と実行していくことができた。暗殺されてしまった坂本龍馬の「船中八策」と、生き延びて京都府(現京都市)の復興・改革を断行した山本覚馬の「管見」との違いがここにあります。
会津旅行に行く前に取り寄せた「山本覚馬伝」。
今だチラチラ読みしかできていないんですが・・・
本の裏の帯です。
1868、山本覚馬の管見
今夜のNHK大河ドラマ「八重の桜」のワンシーン。
鳥羽伏見の戦いで薩摩藩に捕えられている山本覚馬(八重の兄)。
このとき1868年、エンジェルファームの母屋が建てられた年です。
あれから145年が流れました。
覚馬はすでに目が不自由になっていたので、一緒に捕らえられた弟子に筆記させました。薩摩藩邸の暗い牢獄のなかで覚馬が語ったのは会津や幕府、薩長のことではなく、新しい日本のヴィジョンでした。
やっと完成した建白書「管見」(見解)を、小田時栄に託すシーンです。
薩摩藩から解放されたあと、盲目の覚馬を世話したのが小田時栄。彼らは結ばれ小田久栄が生まれます。この子が成長して同志社大学生となり、彼女に恋したのが若き日の徳富蘆花でした。
「管見」を書き終えたシーン。
1867年の坂本龍馬の「船中八策」より優れています。
龍馬の「船中八策」は下記(Wikipedia)。
一、天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事。
一、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事。
一、有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事。
一、外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事。
一、古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事。
一、海軍宜シク拡張スベキ事。
一、御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事。
一、金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事。
以上八策ハ方今天下ノ形勢ヲ察シ、之ヲ宇内万国ニ徴スルニ、之ヲ捨テ他ニ済時ノ急務アルナシ。苟モ此数策ヲ断行セバ、皇運ヲ挽回シ、国勢ヲ拡張シ、万国ト並行スルモ、亦敢テ難シトセズ。伏テ願クハ公明正大ノ道理ニ基キ、一大英断ヲ以テ天下ト更始一新セン。
覚馬の管見については、またあらためて・・・・
京都、同志社大学に手書き写本が残っているようです。
http://elib.doshisha.ac.jp/denshika/yamamoto/128/imgidx128.html
あじさいの花
エンジェルファームの玄関先のアジサイにベニシジミ。
庭にはアジサイもベニシジミもなくてはならないと思います。アジサイの葉のうえで休息するアマガエルやバッタ類もです。
雨のなかでこそ美しく咲く梅雨の花、アジサイ。
坂村真民の詩集「念ずれば花ひらく」のなかに
「あじさいの花」という詩があります。
あじさいの花
まるくまるく
形のよいものに
なろうとする
やさしい心の
あじさいの花
きのうよりも
きょうと
新しい色に
なろうとする
雨の日の
あじさいの花
真民はアジサイの花のなかに、より形のよいものになろう、より美しい色になろうとする意志をみます。けれどそれは、他の花よりきれいになりたい、目立ちたい、一番になりたいという欲望ではなく、“やさしい心”がそうさせるとみる。美しい形と色で、見る人をただ喜ばせたい・・・
巡礼紀行3
1906年(明治39年)、聖地パレスチナと、ロシアにトルストイを訪ねる大旅行でした。
この旅行記の始めに徳富蘆花はこんなことを書いています。
爾(なんじ=日本のこと)は幼稚なれども
確かに大いなる未来を有す。
爾が理想を高くし、志を大にし
自ら新たにして、この美なる国土に
爾を生みたまえる天の恩寵に背かざれ。
爾の頭(こうべ)より月桂冠を脱ぎ棄てよ。
「剣(つるぎ)をとるものは剣にて亡びむ」。
知らずや、爾が戦いは今後
爾が敵は北にあらず、東にあらず
西にあらず、はた南にあらず
爾が敵は爾、爾が罪
爾は爾自身に克たざるべからざるを。
爾の神を畏れ、爾の敵を愛し
爾の額に汗し、爾の汚れを洗い
爾が剣をなげうち
爾が砲台をこぼち
爾が税関を開き
爾が四周の海を風の思うままに
掃うごとく爾が胸を世界に向かって開け。
日を旗じるしとする民
爾が義の日を四海に輝かせ。
1904年(明治37年)2月に始まり1905年(明治38年)9月に終結したばかりの日露戦争を背景とした文章です。トルストイは戦争中に「反省せよ」と題した日露戦争反戦の論文を書きました。与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」は1904年の作です。http://www.geocities.jp/sybrma/62yosanoakiko.shi.html
「爾が義の日を四海に輝かせ」という言葉に心当たりがあります。
先月5月20日に訪ねた熊本市の横井小楠旧居に併設されている資料館で、これに似た言葉を目にしました。
http://blog.goo.ne.jp/ki_goo/e/8a11572dd1a445c883a4e20dd813fe13
大義を四海に布かんのみ
小楠の下記漢詩の一行です。
堯舜孔子の道を明らかにし
西洋器械の術を尽くす
何ぞ富国に止まらん
何ぞ強兵に止まらん
大義を四海に布かんのみ
心に逆うこと有るも人を尤むること勿れ
人を尤むれば徳を損ず
為さんと欲する所有るも心を正(あて)にすること勿れ
正にすれば事を破る
君子の道は身を脩むるに在り
四海=世界です。蘆花は小楠の漢詩の影響を受けていると思われます。徳富蘇峰・蘆花兄弟の父親・徳富一敬は横井小楠の高弟でした。一敬の妻と小楠の妻は姉妹だったという。
吉田松陰や坂本龍馬、勝海舟に影響を与えた小楠は、高弟の息子・蘆花の明治39年の文章にも影響をもたらしています。
そういえば、坂本龍馬が言っていた「日本を洗濯する」という言い方は実は小楠先生の口癖で、龍馬はそれを真似たようです。
そうそう資料館で知ったのですが、横井小楠の息子時雄は、NHK大河ドラマの主人公・山本八重の兄・山本覚馬の娘、山本峰と結婚します。横井時雄も徳富蘇峰・蘆花兄弟も初期の同志社大学生でした。
ついでに山本覚馬の目が不自由になった京都時代に出会った愛人・小田時栄と覚馬のあいだにできた娘、小田久栄・・・彼女も同志社の学生だった・・・同じ同志社のなかで、久栄に恋したのが若き日の徳富蘆花。
八重が覚馬と時栄を別れさせ、蘆花の恋をつぶしたようです。
巡礼紀行2
先月か先々月、大分市で唯一のデパート・トキハ百貨店でこのポスターを見かけました。アンナ・カレーニナ、原作はロシアのトルストイです。
これも原作はトルストイ。オードリー・ヘップバーン主演バージョン。
トルストイ 1828年(文政11年)~1910年(明治43年)
徳富蘆花 1868年(明治元年)~1927年(昭和2年)
ふたりはちょうど40歳の年齢差。
徳富蘆花がトルストイに会いに行ったのは1906年(明治39年)。蘆花38歳、トルストイ78歳のとき。蘆花がトルストイを訪ねた4年後に偉大な文豪は亡くなっています。間に合ってよかった・・・
晩年のトルストイ。
徳富蘆花。
今から93年まえ1906年。
トルストイ翁は林の散歩道で蘆花に語る・・・・
君よく聴け
ロシアにしろ日本にしろ
東洋民族(翁はロシアを欧州に加えず)には特有の使命あり、
そは人生の真義を知り人間の真生活をなすにあり、
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