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レオナール藤田



7月15日のブログで藤田嗣治(レオナール藤田)のことについて少し触れました。
http://blog.goo.ne.jp/ki_goo/e/186d0fa6109dc6be3c0c7354b17420b2

上のパンフレットは6月28日に熊本市の徳冨記念館を訪ねたときに見つけました。そのときから、熊本県立美術館に行きたいと思っていました。
http://blog.goo.ne.jp/ki_goo/e/a66f5a2535532468c640b32513e969bd

東京で勉強がある桂子を今朝熊本空港に送った、そのついでに県立美術館を訪ねることができました。思えば美術館で絵を見るのは約20年ぶりかも知れません。インドの古都・ベナレスの博物館・美術館で聖像を描いたたくさんの作品を見て以来かな・・・



今回会場にあったフジタの作品です。
油彩画なんですが、水墨画のようでもあります。
こんなヌードを描いたものは東洋の水墨画にはありません。
西洋にもこんな不思議なヌードの絵はありません。
フジタは東洋と西洋を融合した非常にユニークな画家でした。

第二次世界大戦前のパリで彼は才能を開花し、ピカソやローランサン、キスリング、モディリアーニたちと交遊し、フランスのひとたちに愛された。フランスでもっとも有名な日本人画家という。



熊本県立美術館。大きな樹に覆われ“林のなかの美術館”の風情。クマゼミがさかんにないていました。



美術館をふり返ると、広大な熊本城址公園。



むこうに熊本城が見えます。



望遠レンズに切り替えました。



一度だけ、この天守閣に登ったことがあります。



美術館のあと、フジタが2歳から12歳まで住んだ熊本市西区稗田町を訪ねました(詳しい場所は地元の郵便局に入って聞きました)。この写真の右手前の石垣の上がフジタの家でした。フジタ記念館などにはなっていません。普通の民家で、普通に生活されている場所でした。



民家の入り口を、ためらいながら上がっていきます。



すると

ここに藤田嗣画伯
少年期を送る

と刻まれた丸い石碑が・・・



この界隈、道が狭く車一台がやっと通れる古い町並みで、こんな藁葺き屋根の家も。



こんな風情です。フジタは終生、子供時代を過ごしたこの地を懐かしんだといいます。



彼が通った小学校も近くにありました。
現熊本大学付属小学校です。

ネコのスタッフ



まったく久々にエンジェルファームのネコたち。
ミロクが死んでからネコのことをほとんど話題にしなくなりましたが、ビッチ、ラティ、ウリ、ミカの四匹、みんな元気です。
↑上はビッチ。2001年生まれ、野良ネコ出身。今は亡きミロクに気に入られて、エンジェルファームのスタッフになる。



ラティ、彼女も2001年生まれ。2002年にウリ、ミカ、マルを出産。
マルは数年前逝去。



2002年生まれのウリ。桂子の一番のお気に入り。

今日はミカが撮れなかったけれど
みんなとの付き合いが長く
彼らから学ぶことがいっぱいありました。

実は人間と大差ないんです。
人間は自分のことを“万物の霊長”とか
“神の似姿”と思っていますが
本当はネコと大差ない・・・

ネコと暮らしたことのある人なら
おわかりだと思いますが。

雷神



江戸時代の絵師・俵屋宗達が描く“雷神”。

先週の7月26日(金曜)この地方はものすごい雷雨でした。おさまったかと思うとまた強烈な雷鳴がとどろき、長時間悩まされました。この集落の電信柱にも落雷したそうです。離れに住む恐がりの母は耳栓して目を閉じて耐えたという。

夕方インターネットがつながらなくなっていました。いつものように静電気によるトラブルかなと思っていろいろ試みるも解決せず、NTTに電話しましたが、トラブル電話が集中したのでしょうがつながりませんでした。土曜朝、NTTと連絡がとれたものの、トラブル件数が多すぎて土曜の修理は不可能、日曜には行けそうと言われましたが、それも無理でした。結局今日の午後、モデムを新しいのに取り替えてもらったらそれで復旧しました。

この雷雨を体験した7月26日(金曜)の前日、用事で大分市に出たときに偶然↓このようなポスターを発見しました。



じぇじぇじぇ!
約30年ぶりに見るクサマヤヨイではないか!



これを読むと彼女はうちの母と同じ1929年生まれ。
このポスターが雷でした。
このかたクサマヤヨイこそ雷神かも知れません・・・

近く大分市美術館に行くしかないですね。
たぶん母をつれて。

今年のオニユリ



7月10日、菜園のオニユリの咲き始めです。



7月13日、“鬼”百合という名前が似合っています。
白いユリの清純な高貴なイメージとはずいぶん違って
妖気が漂っているような印象を受けることも・・・



7月15日、オニユリに来たクロアゲハ。
オニユリを好むらしくちょくちょくやって来るんですが、警戒心が強くてすばしっこいのでなかなか撮れません。






7月18日の様子。今年は背丈が2mぐらいになりました。
梅雨が早く終わって日照りが続くせいでしょうか、今年は花が小ぶりです。

オニユリはまだもう少し咲き続けてくれそうです。

明正井路(2)



昨日話題にしました明正井路です。
石橋の特徴だと思うんですが、まわりの自然の風景に溶け込んでいます。まったく違和感がありません。コンクリートや鉄の橋とは風情が全然違います。



築大正8年(1919)ということは、この橋の年齢は94歳。
けれど今だ現役で、東京ドーム約96,000個分の農地を潤す。
老いてもなお働き者の素晴らしい石橋です。



石の存在感が生み出す重厚感があり、畏敬の念を感じます。
私はひとつの巨大な芸術作品として観賞します。

38歳の若さで自殺してしまった会津出身の設計技師・矢嶋義一。
難工事で事故死してしまった石工たち。
多額のお金を出し合った地域の人々。
公的資金を投入した元会津藩士の新妻知事。
たくさんの人々の思い、協力、祈りが作り上げた偉大な造形作品・・・



こちらはエンジェルファームから歩いて10分程度の距離にある石橋・山王橋。こちらは明治40年(1907)に完成、築106年。水路橋ではなく、地域の大切な交通のかなめになっています。もちろん現役で、車も通ります。

実は石橋は非常に強健です。
コンクリート橋の寿命が60年、鋼鉄橋の寿命が45年といわれるわけですから、石橋の寿命はずば抜けています。関東大震災のときも鋼鉄橋がほとんどつぶれたのに、石橋の多くは生き残ったといいます。

本物の自然素材・石を使った橋の美しさ・強健さを評価し、これを復活すべきだと考えます。景観を破壊しないという意味でも石橋は大きな価値を持っています。

明正井路



江戸時代初期の儒学者・熊沢蕃山先生のことを想って、ここ豊後竹田の農業用水路のことを調べているうちに、ひょんなことで、大正8年に完成した明正井路の設計者が福島県会津の出身者であることがわかりました。

水路橋として日本最大規模である明正井路のこと、2007年1月7日にブログで話題にしています。約6年半ぶりにこの水道橋のことを取り上げます。
http://blog.goo.ne.jp/ki_goo/e/f32bb01fdc281146d7772a121dd888ab



この石橋、こんなふうに水を流すための橋です。



石橋の向こうは、こんなふうに農業用水路になっています。この水でお米を作ります。現在もこの明正井路のおかげで、450ha、東京ドーム約96,000個分という広大な農地を潤しているという。



工事施行関係者として
設計者:矢嶋義一
監督者:近藤正之(ほか)
請負人:直入郡人 堀貞夫
石工:熊本縣人 平林松造 外八名 
と彫られています。



この矢嶋義一が会津出身者だという。
困難な工事による様々な心労が重なって、彼は工事の完成をみるまえに短刀で自殺してしまった・・・



橋の中央部にはこう刻まれています。

明正井路
第一号石橋
大正八年成
大分縣知事従四位勲五等 



新妻駒五郎が刻まれている部分を拡大しました。

この新妻駒五郎(にいづま・こまごろう)も会津の人でした。
会津戦争当時は13歳。戦後、佐川官兵衛同様、東京に出て警視庁に入り、西南戦争のときには抜刀隊として田原坂の戦いにも参加。警察官として出世し、のちに第18代大分県知事に就任。


新妻駒五郎 Wikipedia

NHK大河ドラマ『八重の桜』をきっかけとして、4月には会津に旅行に行ったり、そのごも佐川官兵衛、秋山悌次郎、山川大蔵・健二郎兄弟等のことを調べ、幕末から明治にかけての時代を想っているうちに、ここ九州の豊後竹田・明正井路と会津のひとたちとの不思議なご縁が浮上しました。

参考サイト
http://www.jsce.or.jp/journal/thismonth/200308/travel.pdf
http://www.jcca.or.jp/kaishi/257/257_doboku.pdf

神のような秋月悌次郎



NHK大河ドラマ『八重の桜』。
先日の日曜日放映のワンシーンです。
右、綾瀬はるか演じる山本八重。
左、北村有起哉演じる秋月悌次郎。



今年の4月に会津を訪ねたとき
お城の周辺で秋月の詩碑に気づきました。



明治元年(1868)、エンジェルファームの母屋が建った年に秋月悌次郎がつくった漢詩です。




5月には、熊本市街中心部にあるラフカディオ・ハーン旧居跡を訪ねました。秋月は維新後、旧熊本大学(第五校)の漢文の先生になっていたんです。ハーンが同僚でした。ハーンは前列右から二人目。秋月は前列左から二人目。

ハーンは秋月のことをこう評しています。

秋月氏はしだいに歳を加え、高齢となり、だんだん神さまのような風貌を呈してきた。



ハーンがいう“神さま”は、キリスト教的なGOD? それとも日本的な神? と思って、また下のような本を取り寄せました。ハーンが言うなら日本的な神だろうとは思いましたが、どうしても知りたくなりました。



岩波書店発行『東の国から』のなかに収められている「九州の学生とともに」のなかに秋月悌次郎について触れたカ所があります。

いったい、日本の神さまというものは、絵だの彫刻だのでみるというと、仏さまとはまるっきり似ているところがない。神は仏よりも、年代はずっと古いものであるが、この仏よりもずっと古い神たちは、仏さまみたいにうつむいた目つきだの、寂然と無念無想にふけっている姿だのは、どれもしていない。

神というものは、自然をこのうえもなく愛するものであるから、自然のうちでも最も清白な幽寂のなかへもはいっていくし、樹木の精ともなるし、あるいは、海や川に入って、波の音、せせらぎの育ともなるし、また、時には風にのって、天翔けるようなこともある。

大昔は、神はこの地上で、人間とおなじようにして住んでいたものなのである。そうして、この国の人たちは、いずれもみな、そういう神の子孫なのである。であるから、この国の紳は、神霊としても、人間にだいぶ似たところがあって、きまざまの性質をもっている。つまり、神というものは、生きている人間の感情でもあれば、意識でもあるのだ。

伝説のなかや、もしくは伝説から生まれた美術品などにあらわされているこの国の神は、たいてい、人に親しみをもたれるような姿をしたのが多い。

会津藩士として、苦しい会津戦争を戦い、一時は終身禁固刑を受けた秋月でしたが、会津のラストサムライとして素敵な老境を迎えられていたことをラフカディオ・ハーンは伝えているわけです。

水土の経済学



室田武著『水土の経済学 くらしを見つめる共生の思想』
絶版になっているので、古本を取り寄せました。


熊沢蕃山先生

この本の最終章が「熊沢蕃山の林政思想」となっています。このなかで蕃山先生の意見書『大學或問』からの引用があります。

武士農を離れてこのかた
身病気に手足弱く成りぬ
心斗はいさむとも
敵にもあはで疲れるべく病死すべし


江戸時代になってからの武士の農離れを憂慮しているわけです。参勤交代制度は武士の農離れを進めるものとして批判しています。

諸藩のすぐれた人材や大名の妻子を江戸に長期間留めおくのをやめ、彼らがそれぞれの地域社会において活躍できるように提案する。そうして余った江戸の土地は田畑に変える。小さな屋敷でも竹や桑(養蚕用)を植えたらどうかという。

蕃山先生がこの提案書を書いたのは1686年、今から327年前ですが、この提案は古くなっていないと思います。世界に先駆けた和製のエコロジー思想が蕃山先生のなかに見いだせます。

けれどこの提案書がもとで先生は下総の国・古河の地に幽閉されることになり、元禄4年(1691)に同地で没したという。

この古河の地が、後に足尾銅山鉱毒事件の責任をその半生全部を費やして追求した田中正造が2世紀以上後に倒れた谷中村からほど近いことは、日本の林政・治水史をふり返るときに感慨深い偶然の一致である。

と『水土の経済学』は述べています。

実は東京農大初代学長・横井時敬もはやくから足尾銅山鉱毒事件に係わり、告発した人でした。時敬が亡くなったとき、足尾の被害者総代が彼の死を弔う大きなのぼりを持ってきたそうです。そこには“被害の民々の大恩人”と書かれていました。

熊沢蕃山、山鹿素行、横井小楠、横井時敬、田中正造をつなぐ赤い糸が見えてきました・・・

中国から届いた軍事郵便



北支派遣甲1813部隊千葉隊 高橋賢太郎さんから
私の父・香山康生への郵便葉書です。

軍事郵便となっており、田中さんの検閲印が押されています。
北支派遣とは、旧帝国陸軍の北支那(北中国)派遣軍。
つまり中国から届いた葉書です。

裏面の絵はがきの日付を見ると、昭和17年2月となっているので
この葉書はそれよりあとということです。

当時、私の父は高校生でした。この葉書にもあるように、グライダー研修の日々を送っていました。

この葉書は、父の本棚の引き出しの奥に隠れていました。2002年に父か亡くなり、2006年に母が豊後竹田に移転するために古い書籍・書類を処分するときに出てきました。膨大な量だったので捨てそうになたのですが、一緒に母からのラブレターみたいなものが残されていたので、とりあえず破棄せずダンボールに詰めました。今回、来春まで休業ということで、こういう葉書をUPすることができました。



葉書の裏は藤田嗣治の戦争画。

レオナール・フジタとしてフランスで愛された天才画家は、第二次世界大戦中は日本に帰国し、軍部の命令でこのような戦争画の大作をたくさん描きました、死ぬほど嫌だったろうに。敗戦後、戦争画を描いたことを責められてほとほと嫌気がさしてフランスに去り、二度と日本に戻ることはありませんでした。

フジタが少年時代に熊本市に住んだご縁で、この夏、熊本県立美術館で「レオナール・フジタとパリ 芸術の都に愛された画家 ~藤田嗣治渡仏100周年」と題された展示会があります。私はまったく久々にこのような美術展に行くつもりです。8月25日(日)まで開催されています。
http://www.museum.pref.kumamoto.jp/event_cal/pub/Detail.aspx?c_id=10&id=20&type=top&trk_kbn=A

蕃山先生頌徳碑



今年の3月30日、老母を連れて岡城址に登りました。
そのとき撮った蕃山先生頌徳碑(ばんざんせんせいしょうとくひ)。
桜はすでに散りかけていました。



このかたです、熊沢蕃山先生(1619~1691)。
江戸初期の陽明学者ですが単なる学者ではなく
ここ豊後竹田・旧岡藩に招かれて治山治水の現地指導や
藩政改革の指導も行っています。
http://www.h3.dion.ne.jp/~n_taketa/2009727okahan%20rinku5.html
http://www.h4.dion.ne.jp/~chikuden/kuma.html



この本のなかに蕃山先生のこんな言葉が掲載されていました。

山は木あるときは神気さかんなり
木なきときは神気おとろえて
雲雨を起こすべき力少なし

しかのみならず水草しげき山は
土砂を川中に落とさず

大雨降れども木草に水を含みて
十日も二十日も自然に川に出る故に
かたがたもって洪水の憂いなし

山に草木なければ
土砂川中に入りて川床高くなり候

大雨を貯うべき草木なき故に
一度に川に落ち入り
しかも川床高ければ洪水の憂いあり


去年の九州北部豪雨のこと風化させず
今こそ蕃山先生に学びたいと思います。

自然に学べ



松尾芭蕉。
彼は「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」と言ったという。

松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へと、師の詞のありしも私意をはなれよといふ事也。此習へといふ所をおのがまゝにとりて終に習はざる也。習へと云ふは、物に入てその微の顕れて情感るや、句となる所也。たとへ物あらはに云ひ出ても、そのものより自然に出る情にあらざれば、物と我二つになりて其の情誠にいたらず。私意のなす作意也。(三冊子)

今はそんなふうに教えてもらえる時代ではありません。
「松の事は教科書に習え、竹のことも教科書にならえ」
そうしなかったら試験の点数が落ちます。

「君の五感を使って対象を感じてみなさい。
君の心で感じてみなさい。君の頭で考えてみなさい」
とは言ってくれません。

「教科書に書いてあることを暗記しなさい」ですね。



東京農大初代学長、横井時敬は
「稲のことは稲に聞け。
農業のことは農民に聞け」と言ったという。
「教科書に聞け」と正反対の発言です。



熊本県菊池市にある菊池養生園名誉園長の竹熊宜孝先生の言葉は
「医は農に、農は自然に学べ」です。
私たちもまったく同感します。
自然療法=自然農法でした。
人間も植物もニワトリも犬もネコもみんな自然の一員であり
同じ自然法則が働いている・・・

結局、自然を学ぶということに尽きると思います。
毎日毎日、倦むことなく観察してもきりがありません。観察すればするほど、自分が無知であることに気づきます。

最近、桂子はレイキヒーリングのテキストをバージョンアップする作業をしているのですが、「まだまだ学びが足りない。勉強不足であることを痛感する」と言いました。

だから3日ほど習っただけでレイキヒーリングをマスターしたと思うのはひどい勘違いです。それは教科書的理解に過ぎないと思います。その3日は、果てしのない学びのスタートラインではないでしょうか。

2010年3月27日、竹熊先生を訪ねたときのブログ↓
http://blog.goo.ne.jp/ki_goo/e/c8782d96a9755f0c78c789a06199bc7a

火伏せの神様から始める



“環境整備”の第一弾。
この数年、草に埋もれがちだった裏庭の「火伏せの神様」をきれいにしました。



ここの売り主によると、この集落が大火ですべて焼けたとき、この家だけが燃えなかったという。この「火伏せの神様」のおかげで燃えなかったのだという。

その大火とはおそらく明治10年の西南戦争のときのものだと思いますが、なぜかこの家だけが燃えずに残り、その原因をこの神様のおかげだとしたのでしょう。



“神様”というけれど、“お地蔵さん”ですね。
インド古典語・サンスクリット語でクシティ・ガルバ。クシティは大地、ガルバは子宮。意訳して「地蔵」とされる大乗仏教由来の“神仏”。

明治元年(1868)この古民家が建てられた年に、明治新政府は性急に神仏分離令をだし、神道を国教とし、仏教を排撃する方針を打ちだします。

飛鳥時代に仏教が伝来して以来“神仏”を拝してきた人々に、いきなり神と仏を分離し、仏を破棄せよと命令する。荒々しいことです。毛沢東の文化大革命みたいなことだったのではないでしょうか。



“環境整備”は、ここに伝わる「火伏せの神様」から始めました。



「火伏せの神様」の少し隣にこんな石造物があります。2002年当時、売り主はこれを知らなかったと言われました。たぶん草に埋もれてわからなかったのでしょう。



何なのかわかりません。お墓のようでもありますが・・・



2002年3月、私たちがここに定住したときもこの紋章が気になりました。



ここ豊後竹田・旧岡藩のお殿様であったキリシタン大名・中川公の御紋“中川クルス”に似ているんですが、少し違います。45度傾けてみたのが下です↓



中川クルス紋とは違い、三重円になっています。
でも似ています。



中川クルス紋です。
似ているんですが、やっぱり違います。

外輪山の傷跡



たまたま阿蘇坂梨を通りがかったので撮りました。
坂梨(さななし)は、かつて宿場町として栄え、幕末、坂本龍馬と勝海舟もこの道を通ったという。

あれはちょうど1年前でした。
正面に見える阿蘇外輪山が土砂崩れを起こし大災害になりました。まだこんな感じで災害の爪痕がそのまま残っています。この場所の崩落は特にひどかったので、当初ここばっかりに目が行きましたが、外輪山にはまるで巨大な爪でひっかれたような傷跡がたくさん残されました。













このときわが街竹田も洪水や土砂崩落の大被害がありました。
そのあとNHKで、土砂崩壊や洪水についての特集番組があったのですが、番組に出てくる科学者や専門家によると、地質学上の問題や地球温暖化等の気象学上の問題がこういう災害をもたらすのだとの説明がありました。

私は科学者でも専門化でもないただのド素人ですが、現場に立ってみると、杉・ひのきの人工林が崩落していることがわかります。誰でもわかります。子供でもわかるでしょう。子供の目をだますことはできないと思います。

不可抗力の想定外の自然災害が起きたのではなく、あきらかに人災だと思います。フクシマ原発事故と同じ構造です。

梅酵素



先月15日ころ常滑(とこなめ)焼の壺に漬けた梅酵素の今日の様子。ヨーグルトを手作りするために取り寄せていたケフィアの菌を発酵材として使ったので、ゆるやかな発酵。上の写真は手で混ぜてから撮ったので泡が際だっていますが、ふだんはそれほどでもないです、ゆるやかです。



もう少ししたら梅の果実は引き上げて、ジュースだけをゆっくり熟成します。



3月22日、認知症の第一人者と言われるコウノメソッドの河野和彦先生のクリニックを訪ねた帰り、中部国際空港から離陸するまで少し時間が余ったので、空港近くの常滑に寄って散策しました。

街全体がレトロな工房のような街でした。上の写真は、古い工房がセラミックスクールになっています。生徒による作品展のポスターがあったけれど、時間が無かったので通り過ぎました。



セラミックスクールの側面。



植木鉢をたくさん見かけました。



古い工房。





小さな工房やお店を訪ねる丘陵地の細道がありました、時間があれば覗いてみたかったんですが・・・



レトロなお宿。

ミヤマフキバッタの交尾



桂子が「カメラを持ってきて!」と言うのでついていくと
前庭で交尾するミヤマフキバッタ。

右の方にいて、交尾する男女をうかがっているオスは
初めはすぐ近くにいて、カラダを揺すりながら
自分をアピールしていたという。



角度を変えて撮りました。
彼らの交尾の仕方がよくわかります。

ミヤマフキバッタの場合は、女性の方が大きくて
男性の方が小さい。

クモなんかは、女性の方が10倍ぐらい大きな品種があって、夫も複数います。一婦多夫制です。自然界の多様性、面白いなーと思います。桂子が私の10倍もあったら、一緒に暮らすのは難しいなーと思いますが、そのクモの場合は異常なことではないんです。
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