このもやもや感、どうすれば? ジェラール・ブシャールとの対話で考えた、外国人との共生
対話をしてお互いを知ることは、初期の段階では間違いなく必要です。ステレオタイプ(固定観念)を崩すのです。ただそこにとどまっていては長続きしないでしょう。何かを一緒にすることが非常に重要です。 皆が楽しめることでもいいですし、住んでいる地域をきれいにする活動といった、より重要なことでもいいでしょう。一緒にやることがつながりを生み、最終的には「ここに帰属している」という意識や団結を生むのです。
これ、おれが以前から言っていることやないけ?
おれって、世界の知性とも同意見だし、もしかしたら、国際的にはわりに標準的な意見かもしれんな y(^ー^)yピース!
日本にあてはめて考えるとき、この「双方向」というキーワードはとりわけ重要な意味を持つ。
記事でも書いたが、「外国人は日本のルールやマナーを守るべき」といった文脈で、日本では「郷に入れば郷に従え」という言葉をよく聞く。しかし往々にして、「郷に入れ」ないまま、ルールやマナーを守るべき、と言っているように私には聞こえてしまう。
社会の一員としてのふるまいを求めるのであれば、受け入れる側も、社会の一員となることを助ける。それがブシャールの言う「双方向」だ。
これもその通りだが、例えば、「シーク教徒の男子生徒が護身用の短刀を学校に持ち込」み許可は行き過ぎだ。
当時もいまも、日本政府や日本社会の根底には、労働力としては受け入れざるを得ないが、生活者として、社会の一員としては受け入れたくないという、通用しないご都合主義が見え隠れする。
外国から日本にやってきて、私たちと同じ社会で暮らすのは、「労働力」というモノではない。人間なのだ。
これもその通り。
移民先進国も、労働力で帰るものとして、呼び込んだが、結局住み着くことになった。これは不可避であり、最初からそれを前提とした制度を作るべき。
フランス語、民主主義、自由、社会的平等……。それはケベックの歴史や、彼らの多くがルーツを持つ欧州の歴史に由来するものだ。その中核的な価値を共通のものとして保ったうえで、多様性を前向きにとらえて尊重するというのが、ブシャールが言うインターカルチュラリズムの核心だ。
「私たちは何者か」を突きつけられた
ブシャールとこの話をしているとき、「あなた方の中核的な価値とはいったい何なのだ?」と私自身が問われているような気がした。
本来であれば胸を張って、「私たちの中核的な価値も自由と民主主義です」と答えるべきはずなのだが、そう答えられるだけの自信は、私にはなかった。
日本語、自由主義、民主主義、法の支配でいいんじゃないの?
多神教的価値観というのもあるけど、ことさら、多神教を押し付けるのもよくない。
この国土に歴史的定住している日本人は古くから多くの文化を受容し、日本流に改善してきたわけで、ドイツのような極端な流入ではなく、なだらかなものなら、なんとかやっていけるんじゃないか、とおれは、楽観的ではある。
この記者にとって、民主主義の意味がよおわからんが、和をもって尊しとなす、
広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシで、民主主義の精神は日本には馴染みやすい観念でもある。