人は誰でも失敗をし、そこから学んで成長をする。失敗の原因には色々あるが、その一つが思い込みである。
大学の最終年次だったと思う。その年の秋に学生ゼミナール大会が私の大学で開催されることになり、私も手伝った。大会は準備から当日の進行まで全部、学生の手によって運営される。私の担当は全国から寄せられる論文を整理し、参加者に配布するために会場ごとに仕分けすることであった。この仕事は大会前には終わり、私はのんびり構えていた。
すると、数日前になって宿泊の受付を頼まれた。分散宿泊であり人手が足らないという。私はお寺への宿泊者を受け持つことになった。過去に合宿で寺院の塔頭などに泊まった経験もあって、寺で食事をしたり風呂に入ったことを思い出し、軽い気持ちで引き受けた。
当日の午後、宿泊者名簿をもらいに責任者がいる市内のホテルに出向いた。ホテルといっても修学旅行生が泊まるような和室の旅館である。宿泊の担当者は同級でもあり、部屋でお茶を飲みながらホテルはいいな、お寺ではお茶なんか出るのだろうかと考えていたら、急に心配になってきた。
私はその寺に行ったことがないのである。現場がどうなっているか、全く知らなかった。名簿を見ると人数も多そうである。夕方も近い。慌てて住所を頼りにお寺へ急いだ。行ってみると案の定、門の辺りで数人の女子学生が不安そうに中を覗いている。
寺に入ると、障子が開け放たれた百畳敷きもあるような講堂に、貸布団が山と積まれている。お茶どころか、廊下には長い洗面台があるだけである。私はてっきり、お寺が万事お世話するものと思い込んでいたのである。庫裏に行くと、年寄りが出てきて何もわからないという。
さあ困ったと思っている内に宿泊する学生達が着き始めた。だが身が一つでは動きようがない。そして辺りが暗くなった頃、私は講堂で数十人の学生に取り囲まれて修羅場にいた。
男女を一緒に泊めるのか、ホテルを世話しろといった罵声を浴びながら、どうしようかと考え込んでしまった。そして私自身、次第に怒りが込み上げてきた。半分は宿泊の責任者に対してであり、あと半分は当日の段取りも考えず、のほほんとしていた自分に対してである。
庫裏の電話を借り、ホテルにいる宿泊責任者を呼び出した。幸い責任者とは連絡が取れて、すぐに駆けつけてきた。しかし彼が説明してもどうにもならない。学生のすることで今から別の宿舎を世話するなど、土台無理な話であった。
そこで寺の住職に来てもらった。住職は別の寺の人であり、ここには住んでいなかったのである。私はそんなことも知らなかった。住職は詫びを言って女性には別の小部屋をあてがい、お寺ではこういう簡易な宿泊のやり方があるなどと説明してみんなを納得させた。
これで一件落着した。不思議なもので、あれほど荒れていた講堂は静かになった。寺の雰囲気に馴染んだのか大声で騒ぐ者もなく、みな大人しく床に就いた。今振り返ると、責任者もお寺の宿泊対応については確認をしていなかったのだと思う。
二日目はこちらも準備万端である。応援の学生が来て二人体制になった。貸布団は取り換えに来たので、あらかじめ全部敷き並べてしまった。女子学生は別のホテルに行ったようである。廊下でも良いから泊めてくれと予約外の学生も来た。お寺ですから何にもないですよと軽口をたたく余裕も出る。和やかな雰囲気の中で、肝試しと称して布団を持ち出し、寺の本堂で寝る者も出てくる始末である。
学生達も寺に泊まるのは初めての体験だったのであろう。ほろ苦い思い出ではあるが、この失敗は良い教訓になった。おかげで一つ一つ確認をしながら 物事を進めていく習慣が身に付いた。
久留米つばき「正義」
何とかなる。。みたいな思いで
大人として恥ずかしい思いをした事を
思い出しました
痛い思い恥ずかしい思いのお蔭で
今、少しマシになったようです
でも学生の柔軟性も面白いですね
肝試しですか(苦笑)
私も肝試し組だなぁ
しかし結果オーライで、よい経験になりました。