ロマンチストの独り言-13
【金木犀と沈丁花】
秋になると、金木犀が匂ってくる。
夜など、何処からともなく流れてくるその香は秋の深まりとともに強くなってゆくのだが、僕は高校1年の秋バス旅行で比叡山に行った時に始めてその名を知った。
根本中堂を見下ろす石段の途中で僕は田上公史と二人、階段を下りてゆくクラスメートを撮影していた。
文化祭の展示用写真の対象を絞り込めずに徒にフィルムだけを消費していたのだが、少し離れた位置に川西匡子を見つけた。
「ケンちゃん、写せよ。」の田上の声。
彼は、僕のカメラが彼女達の方向に向いていないことに気付いて、そう言った。
「なんで、川西ら写さんとあかんねん?フィルムがもったいない。」等と、精一杯の強がりを言う。
強がりだった。
本当はレンズを少し左に振れば、ファインダーの中にその姿があったし1枚の写真にもなったのだろう。
しかし、僕は全く別の被写体を探していた。
探している振りをしていた。
奇妙な気分だった。その時だった。
「きょうちゃん、キンモクセイ咲いてる。どこやろか?」 の声が下から聞こえてきた。
始めて聞く名前だった。
「ネコ、キンモクセイて、なんや?」
「知らん!! 花か何かやろ!!」
「下へ降りて、聞きに行こか?」
「川西にか? 俺は苦手や。あいつら。ケンちゃん、行ってこいよ!!」
「俺も、苦手。花なんか、どうでもええわ。それより早よメシ食べよ!!」
と言う訳で結局その時は分からなかったのだが、帰路のバス車内であの甘酸っぱい香が何処からか匂ってきた。
僕たちがその会話を耳にした階段の直ぐ横に、金木犀の大木があったらしい。
匂ってきたのはその香だったし、車内にはその一枝が手折られて持ち込まれていた。
だから、今でも秋になると、この根本中堂と始めて知った日のシーンを何となく思い浮かべてしまう。
この日、殆ど一緒に行動していた田上は、小学校時代からの友。
卒業生総代で答辞を読んだ秀才だった。
ネコとは、田上の愛称。
中学時代に付けられた。
大学は滋賀大に進み、薬品関連の会社に就職し新潟に住んでいたことまでは風の便りで知っていたが、音信はない。
明石高校の、山内記念図書館の裏に、ゴミ焼却炉があった。
ちょっとした林の風情のあるその一角に、金木犀の古木があった。
朝夕、その図書館と三号館(音楽・美術・書道等の教室があった)の間を抜けるジャリ道を通っていた僕たちに
ほのかな香りが流れて来る頃、西に沈む大きな夕日が必ず週に1~2度は見られた。
たわいない雑談を続けながら下校するのが常だった僕たちも、その夕日の頃は詩人になれたしそれぞれが憧れを抱いている人の話題を口にすることが多かった。
秋の、金木犀が匂い、西に夕日が大きく赤く沈む頃、僕たちは舟木一夫の歌う「高校三年生」を少しはにかみながら歌った。
本物の高校三年生だったし、ニレの並木はなかったが運動場の南には、ポプラ並木が続いていた。
校舎の南には、家庭科教室もあった。
一段低い場所にあった、その教室へは、階段を下ってゆく。
ちょうどその階段を降りた辺りに、明高一の金木犀の樹があった。
木が大きかったせいもあって、匂いはじめる頃はそこからあの甘酸っぱい香りが流れて来るとは気付かなかった。
花の終わり頃、階段の至るところに落ちている、橙色の花びらを見つけてやっと気付いた位である。
大きな木ゆえ、手の届く辺りの小枝は花の咲く頃には少しずつ手折られ、机の上に置かれることになる。
だから、秋には、何処にいてもその香は匂って来るように感じた。
3年生の秋、藤本と不思議な位二人で下校する機会が増えた頃、1年の秋にその名前を知った時の顛末を話した事がある。
西が赤く焼け、明中池を涼しい風が渡る頃だった。
「そうか。その頃からお前は、川西さんを、お姉さんの様に思っていたのか。俺は、彼女のことを妹のように感じている。」
「どうして話さないんだ?」
「俺が、何を言っても構わないんだったら、一度でもいいから彼女と喋ってみろよ。でも、余計なおせっかいだろうから、止める。俺は俺の接し方で彼女に今まで通り接して行く。お前がどう考えようと、俺は彼女を大事に思っている。」
彼は、余り歌うことが好きではなかったから、殆ど話しながらの下校だった。
お互いに、人間は生れつき寂しがり屋で、ロマンチストで、だから誰でもが詩人になれると思っていたから、話しの大半は文学論だった。
僕は時々、文芸部の発行する誌に寄稿していたから、こんなことも言われた。
「彼女は、随分お前の書く詩や、文章がが好きだと言っている。きれいに言葉を綴っていると言っている。」
藤本との会話は、その殆どが下校時のほんの1時間程度の事だったし、授業とは関わりのないことばかりだった。
それ故に、一層深く突っ込んだ内容になっていた。
頭脳程度は遥かに及ばなかったから、話の内容によっては、聞き役に徹する他無いものもあった。
しかし、奇妙な関わりは卒業までの7~8か月続いた。
誰もが、現役で東京大学を目指す彼を、少し避けている、と感じたのは、秋。
僕は反比例するようにますます彼との会話の度合いを深めていった。
その金木犀の会話の後、僕たちの気持ちの中に、共通の存在としてのマドンナが居た。
しかし、その日以降の会話の中に彼女が登場することは殆ど無くなった。
お互いに意識して避けていたのだし、特に僕は今以て不思議なのだが会話のきっかけすら持てなかった。
そんな僕の態度を、もどかしい思いで見ていた藤本。
卒業が近づき、明高新聞に卒業生からの言葉を書く事になっていた藤本が珍しく授業中にメモをよこした。
明高新聞への文章は一遍の詩にした、それを一度読んでくれという内容だった。
彼らしく、少し気取った感じの内容だったが感想を送った。
その直後だったと思う。
授業中にも拘らず、僕の席まで彼は歩いてきた。
「おい、詩を書いたんだが、ユッカの花ってどちらから先に咲くんだ?」
「下からだ。下から順に咲くんだよ。ひょうたん池のところにある。」
「そうか。それじゃ、ここは下から順に咲いて行く。と書き直さなきゃ。」
授業が終わり、それでもユッカがどちらから咲いて行くのか気がかりだった二人は、ひょうたん池へ下る芝生の坂道に先端部分だけを残してすっかり咲き終わってしまっているユッカを見に行った。
「確かにそうだナ。安心した。俺は、この詩を、お前との共作だと思っている。ユッカは健気に咲いている。のくだりが、俺らしくて、一番好きだ。きっと川西さんも気に入る。」
いつもの彼らしくなく、少し沈んだ雰囲気だった。
彼女の話題は、その直後にもあった。
夕方、その日も二人で下校する事になった。
「帰ろう。」そう言って教室のドアを開け、長い廊下をぶらぶら歩きながらだった。
「おい、中谷。これあげるよ。」
そう言って、リーダーズダイジェストを一冊鞄から取り出し、ページを繰った。
「川西さんの目に似てないか? この王子。「星の王子さま」とは違うようだけど。あげるよ。」と手渡した。
スペインの画家ベラスケスの「馬にまたがるバルタザールカルロス王子」という題の絵だった。
僕はその後『星の王子さま』も、藤本から紹介して貰った。
何故かその時僕は、彼にその童話を紹介したのは川西さんではなかったかとふと感じたことがある。
別にどうでも良い事なのだが、僕のその後の『星の王子さま』に関する記憶の多さ、大切さを考える時、その原点ともいえる紹介者が
高校3年間でただ一度きりしか、会話を交わさなかった彼女であってほしいと願う、これもロマンチシズムなのだと思う。
そして又、藤本との不思議な関わりの数カ月もその一冊に繋がってゆくことを、そして又たとえ記憶の多くが消えてしまった後も、その魅するような甘酸っぱい香りだけは確実に残るはずの、秋の金木犀に収斂してゆくことを、今も僕は信じている。
藤本は、誰もが信じたとおり、現役で東大に入学。
すぐに学生運動に飛び込み、当時国交の無かった中国へも、上海経由で入った。
僕は中途半端に足を突っ込んでいた学生運動からは何となく遠ざかり、彼が幾度か明石に帰省した折、必ず会っていたけれど次第に疎遠になっていった。
卒業後、彼は司法試験に合格し、弁護士になった。
今は、埼玉・浦和に同じ弁護士を業とする奥方と暮らしている。
東京在住の39年卒同窓会(1月14日に開かれるので『114会』と名付けられている。)には、口髭を蓄えて毎年出席している。
3年前からは、マドンナ川西匡子と結婚した、中村昭夫も出席しているが彼女は上京したことはない。
だから僕も藤本も、少なくとも30年近くマドンナと会っていないことになる。
藤本は会ったのかも知れないが、僕は間違いなく30年近く会っていない。
その後、平成7年1月14日の同窓会に始めて参加した、山崎幸(旧姓内藤)からその年の正月に写した、明石・神戸在住6人の写真が回覧された。
114会メンバーへのメッセージも添えられていた。
あの懐かしい顔が笑っていた。
僕はその1枚を、幸ちゃんから貰った。
* * *
秋の金木犀が心の中に少しばかりの寂しさを運ぶ香りだとすると、沈丁花の香りは寒さから抜け来たるべき春への期待を呼ぶような、何となくウキウキした気持ちを運ぶ香り。
高校時代にも一つきりの記憶が残っているのだが、僕は大学に入った後の事を書こうとしている。
『高校3年生』があちこちで聞こえていた頃、僕は隣のクラスに居る池田日出夫をよく訪ねた。
彼と岸本幸彦の3人は「歌声喫茶」と言われるほどに歌が好きだった。
岸本は奇麗なバリトン、残る二人は余り美声とは言えなかったが、歌は好きだった。
その日も放課後、校庭で歌う約束をして、グラウンドの西端、がけになって下のたんぼの緑が見下ろせる場所に車座になって歌いはじめた。
気分良く歌っている時である。
一人の女生徒が近づいてきた。
何か思い詰めたような表情。
『岸本さんは、いらっしゃいますか? 』
『僕だけど。』
と、名指しされた岸本が、怪訝な顔で答える。
一瞬緊迫した空気を感じたのは、彼女の顔が蒼白だったからである。
『一寸、この楽譜お借りしていいかどうかをお聞きしたかったのですが。』
何だ!! だった。
僕たちが車座になっていた場所は、教室からは300m以上離れているし、何故そこに居ることがわかったのか聞かなかった。
とにかく、何だ、だった。
彼女の顔色が蒼白だったのは、その距離を走ってきたからであり、借り出そうとしていた楽譜は、校内合唱コンクールの課題曲の楽譜だった。
僕が、西口香里を知ったのは、その時だった。
その後の経緯が思い出せないのだが、僕は柳本と一度、一人きりで一度、彼女の家に招待されている。
2年後輩だったし直接の関わりは全くないはずだが、大学1年の夏には、暑中見舞いが届いた。
彼女は3年生になって写真部に入った。
そして卒業。
大学は奈良女子大学を受験し、見事に現役合格した。
その昭和41年3月。
合格祝いを持って、久しぶり彼女を訪問した。
夕暮れ近かったので、玄関先で失礼すると言う僕を引き止め、何時もの癖で一寸小首を傾げながら、
『明石公園へ行きたいわ』とつぶやいた。
意外な言葉だった。
『お母さん、中谷さんと公園へ行って来る。夕食は後でいいから。心配しないで、中谷さんと一緒だから』
『早く行きましょ。わたしとっても浮き浮きしているのよ』
のんびり歩く僕の数歩前を、後手を組みながら歩く香里さんは時々振り返り、楽しみだワ、を繰り返した。
太寺を抜け、競輪場跡から入ったのか、薬研掘から入ったのかは定かではないが、展望台に辿り着いた頃には、眼下に見える駅前の灯があちこちともりはじめていた。
手摺にひょいと腰掛けて、足をぶらつかせる
仕種は、子供っぽさを残す、彼女のいつもの陽気さ。
大学への期待を一気に喋る彼女に、ふと楽譜を持って走って来た頃の姿をダブらせていた。
『私、どう見える? 子供子供してるでしょ? みんなによく言われる。妹にも言われる』
そう言いながら、いたずらっぽく笑った。
そして、なお足をぶらぶらさせている。
「大学生になったら、もう少し大人っぽくなるサ。」等と気取って言ってはみたが、もう十分大人っぽい会話や考え方を身に付けている人だった。
『さあ、帰りましょ。?!!』
『今日は、私のためにお付き合い下さいまして、本当にありがとうございました。とってもたのしかったです。』
そう、一息に喋って、ピョンと手摺から飛び降り、一人で歩きはじめる。
東の丸から上の丸へ抜ける出口から、公園を出た所に、地蔵が座る小さな祠がある。
そのあたりで、こんな言葉をくれた。
もう、何度となく思い出し、今でも別れの言葉の中で一番大切にしている言葉。
『ここでお別れしたほうが.... そうすれば同じ頃家に着けるでしょ? 一人でお帰りになるなんて、寂しいわ。』
その地点から階段を降り、明石駅からバスに乗って僕が家に着く時間と
香里さんが上ノ丸・太寺を抜けて、歩いて家に着く時間が同じ....と言う程の意味でそう言ったのである。
結局、暗い道が多いので、太寺天王町まで、送ってゆく事になるのだが、今でも心に残る別れの言葉だった。
沈丁花の会話があったのは、その直後、上ノ丸から太寺一丁目への途中だった。
「ジンチョウゲが匂っている。どこからだろう?」
『ほら、あの家の生け垣。でも、私はチンチョウゲって言う方が好き。』
彼女は好き嫌いをはっきり言葉にする。
その時も、僕はその花の名の謂を話しはじめようとして思いとどまった。
中国原産の沈香と、丁字の二つの匂いが....、等と言えば、言下にこんな返答が帰って来そうだったから。
『それはそうかも知れませんけど、私はチンチョウゲって言う方が好き。』
だから、僕はこの日の会話、たったその一つきりの記憶だけを沈丁花の香をかぐ度に思い出す。
彼女の大学時代、夏休みだったかに「神戸大丸」1階のハンカチ売り場でアルバイトをしていたのを訪ねた。
その帰りの電車の中で会った時の言葉。
『その節は、いろいろありがとうございました。中谷さんは、いつまでも詩人で居られる人ネ。私なんか、中谷さんと話している時だけ、詩人になれる。』
西口香里は、奈良女子大を卒業後、現在、名古屋市名東区高針に住んでいる。
名古屋女子大学で教壇に立ち、毎年海外に出掛けた事等を年賀状に書いて送ってくれる。
いつだったかの年賀状に、「....大蔵谷の、明石と神戸の市の境になっている、と言われているあたりに両足を広げて遊んだ日の事を思い出します。」と認めて来た。
まだ、子供の心を忘れないでいる人である。
* * *
追加/訂正 早春の明石公園散策
西口香里との、早春の夕暮れの明石公園散策は、実は彼女の大学合格発表前だった。記憶は曖昧だが、僕は合格したものと思って太寺の自宅を訪問し
彼女の発案で夕暮れ間近い公園散策に出かけた。
奈良女子大学の合格発表はその数日後だった。
公園へは、競輪場からでもなく、薬研掘からでもなく、錦城中学の南から、三笠山に抜ける道を通った。
記憶には無いのだが、その日の散策コースを書いた詳細な地図が残っていた。
当時記していたB6版大学ノートの日記帳の断片である。
会話の幾つかがメモ風に記されており、曖昧になっている多くの記憶を少しだけでも補完してくれる。
沈丁花追補
沈丁花に関しての記憶は、大学2年の早春の一こまを記したが、実はもう一つある。
高校卒業の直前、明石市二見町東二見1785を訪問した日のこと。
散々迷った挙げ句にやっと見つけた『右近』の自宅。
優しそうなお母さんにお会いすることは出来たが、結局悦ちゃんには会えなかった。(と言うより、会わせてもらえなかった、と言う方が正しい)
そのお母さんから、大学受験を頑張るように励まされて後にした玄関脇に大きく膨らんだ蕾を見つけた。
3月3日から4日にかけての試験は、寒々とした大講堂だったが、大学キャンパス(入学後に所属することになった、ワンゲル部室等のある体育会系部室棟の前庭)に見つけた沈丁花の一枝を手折って僕は机の上に置いた。
何とか合格し2週間後、柳本と発表掲示を見に行った日、まだ幾つかの木に咲き残っている沈丁花があった。
ただ、今となっては思い出すのは、この日々ではなく香里さんとの会話である。
それ程に、早春の散策と別れの言葉が印象深い。
1995.1.17 未明の大震災。
何度か帰省を繰り返し、大きな被害を受けた我故郷を歩いた。
記憶に残る町並みは随分変わっていたし、中には記憶そのものが薄れてしまっていて変わっていることすら分からない場所もあった。
その年の暮れ、初めて人丸山東坂を歩き、駅の文房具店で買い求めていた小さなノートに地図を書いた。
曖昧だった記憶が少しずつ像を結んでくるものもあった。
「今の内に、覚えている限りの断片でもいいから記憶を綴っておこう。」、そうふと思い付いたのはその時である。
2023.08 に再編した折、手違いで消えてしまった為に、オリジナルテキストからコピー再編した。
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