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北岳と甲斐駒ヶ岳

ロマンチストの独り言-14 【古典音楽】

2004-12-31 | 【独り言】

ロマンチストの独り言-14 

【古典音楽】

 いわゆるクラシック音楽の鑑賞に目覚めたのは、中学2年生の頃だったろうか。
きっかけは、ブラスバンド部に所属していた西海司が、彼のパートである、小太鼓の練習に「ラベルのボレロ」をやっていたのを、聞いたことだった。
いつもは、朝礼の時の校歌の演奏程度しか聞かなかったのだが、突然彼が叩き始めた旋律が、妙に頭に残った。
 「ツカやん、さっき叩いてたん、何?」と、訪ねたのだが、彼からは明快な曲名は聞き出せなかった。
曲名を教えてくれたのは、同じ林校区から通っていた、魚住仁だった。

 当時、僕たちは流行歌を歌うことを禁じられていたため、女子を中心に『愛唱歌集』など作って、ロシア民謡や、学生愛唱歌等を、半ば強制的に歌わされていた。
余り得意ではなかったが、日本の歌謡曲(いわゆる、流行歌)には無い旋律が新鮮で、次々と覚えはじめた。
そのころ、月刊芸能雑誌と言われていた『平凡』と『明星』には、毎号、付録として「日本の流行歌」なるものが付いていた。
学校の中では歌えなかったが、下校時、海に出て大騒ぎしている時など、必ず誰かが冊子を鞄から取り出し、歌いはじめる事が多かった。
三橋美智也、春日八郎、小林旭、石原裕次郎、守屋浩....女性歌手の歌は、歌わなかった訳ではなかったが、男同士の中では意外なほど頑に、歌うことを避けた。
そんな日々が続いていたのだが、クラシック音楽に関しては、本当に唐突と、僕の耳に届いた。
ブラスバンドの一つのパートの練習に、級友が叩いていた一つの旋律そのものが、古典音楽鑑賞入門のきっかけになるとは思いも寄らぬことだった。
 ただ、残念ながら、当時の僕の周辺には、立派なオーディオ装置を保有するような家庭は無かったから、もっぱらレコード鑑賞は、学校の放送室だけであった。
それも自由に聞けるような環境にはなく、放課後、校内放送が終わった後、こっそり放送室に潜り込んで無断で聞くしかなかった。
昼休み、時折流されるメロディーは、耳にタコが出来る程に聞かされたが、それを「ポンキエルリの歌劇ジョコンダの中の、時の踊り」だと教えてくれたのも、魚住だった。

 彼は自宅に、オーディオ装置を持っていたが、それはお世辞にも立派とは言えなかった。
しかし、僕たちは深夜まで語りながら、時には、17cmLP(多くは、セミクラシックと分類される、小品)を聴き、生意気に批評などをしていた。
僕の周りで、自分の装置を保有していたのは、間違いなく彼一人だった。

     *   *   *

 高校に入学し、音楽の時間になると、立派な鑑賞室での授業が続いた。立派なオーディオ装置が正面にデンと備わっていた。
 この最初の授業で聞かされた「シューベルトの交響曲第八番 未完成」は、それまで聞いていた幾つかのクラシック音楽とは違って、30分もの大作。
居眠りしながら聞いていた。 

 その授業の後である。
教室に戻る僕の前を、田上と、武本が歩いている。
武本の口笛が聞こえてくる。
ついさっき聞いた、「未完成」の旋律だった。
驚異だった。
と、同時に不思議な感動を覚えた。春日八郎の「お富さん」は口笛で吹けたが、難解(?)なクラシック音楽を口笛で吹く彼らの技能に、僕はあぜんとした。
その日から、僕は必死で眠らないように、レコード鑑賞の授業を受けた。
次々と聞かされるレコードは、中学時代に聞いたものとは比較にならない程に長時間を要する曲だったし、もともと楽譜など読めない僕だったから、歌謡曲の様にすぐに覚えられるはずはなかった。だが、武本・田上との交流は、僕にとってのクラシック音楽鑑賞の、又とない大きなチャンスを作ってくれた。

  武本の父君は、医者だった。
その自宅の応接間は、立派なオーディオ・ルームになっていた。
1年の夏以降、僕は下校時、しばしば桜町の自宅を訪問し、彼の選曲になる多くの古典派の交響曲を聞くことになる。
時折、ワグナーの歌劇等も話題に上る事はあったが、僕はまだ初心者だった。
そのようにして、古典音楽に突然目覚めてしまったのだが、そうなると今度は、その道一筋....と言うのが僕の悪い癖。
暫くは、クラシック漬けの日々が続いた。
クラス対抗の合唱コンクールの頃になると、伴奏者が選ばれるのだが、ここでも、意外な人がピアノを演奏できることを知らされ、高校まで、歌謡曲・ロシア民謡以外に「音楽」に触れる機会がなかったことを悔いることになる。
そしてますます、レコード鑑賞室に、武本ホールに通い詰め、あらゆるジャンルの曲を聴きあさることになった。

 その後、ブラスバンド部の中西哲夫とも知り合い、今度は本気でワグナーを聴くことになる。
殆どは、柳本と一緒だった。
時折、自分でも専用のオーディオ装置が持ちたいと思ったが、その夢が果たせたのは社会人になってからのこと。
もっぱらラジオ放送を聴くのみだった。

 高校2年になって、時折会う魚住は、中学時代からのギターを続けており、仲間達と相変わらず深夜まで、彼の部屋で名演奏に耳を傾けた。
彼のオーディオ装置は、さほど立派にはならなかったが、それでも僕たちは、精一杯音を楽しんだし、友との語らいや答えの無い議論を楽しんだ。
その後、多くの知人を得る事になる、このクラシック音楽鑑賞趣味(?)の接点はやはり武本にあるのだが
原点は現在も小学校時代と変わらず、浄蓮寺に近い、明石市林高西町(現在の林3丁目)にある、魚住仁の家にあると思う。

  高校3年になっても、武本の家では必ず1枚は聞かせてもらったし、その殆どは、父君の保有されていた貴重な盤だった。
僕は、わずかの間に、相当数のレコードを聴いたのだが、自宅にオーディオ装置が無かったため、自分でレコードを買うことは無かった。
それでも、買ったレコードが二枚ある。
一枚は、ナルシソ・イエペスのギター演奏による、「アルハンブラ宮殿の思い出」。
2年の冬、クリスマスパーティに呼んでもらったお礼としてだったと思うのだが、ツーちゃんに贈った。
もう一枚は、3年の夏に田上の家を訪問する前、彼が好きだといっていた、レナード・バーンスタイン指揮ニューヨークフィルハーモニー管弦楽団演奏の「ドボルザークの新世界交響曲」。
 僕はその日、彼の家で、3度もその終楽章を聴いた。
大半の交響曲は、終楽章で最大の盛り上がりを見せるのが常だが、特に彼はこの曲の終楽章が好きだった。
その後、アンコール!!等と勝手に決めつけて、ブラームスのハンガリー舞曲1,5,6番を聴いたことも遠く懐かしい。
その日以来、僕は田上の自宅を訪問したことはない。
ありきたりの名曲なのだろうが、自分で買ったレコードである。
今、彼がどうしているのかは音信が絶えて久しく、知らないのだが、「家路」のメロディに時として彼の声と、名調子の口笛を思う事がある。

  先に書いた中西との関わりは、たまたまブラスバンド部の演奏会の演目がきっかけだった。
3年2組の教室は、3階建教室の最上階で、中部記念講堂が見渡せる。
ある午後だった。
何気なく聴いたメロディに、僕が「あっ、チャイコフスキー。」と言ったことがきっかけだった。
何人かのクラスメートから「へぇーッ。」と半信半疑の声が上がった。
僕は自信があった。
曲は聴いた事がなかったが、チャイコフスキー独特の連音符の連続だったし、終楽章の雰囲気だった。
「それじゃぁ、中西に確かめて来よう。」と言う事になった。
曲は、間違いなく、チャイコフスキーの交響曲第五番の終楽章だった。
僕はその一件以来、クラシック通として祭り上げられる事になってしまった。
早速武本の家で、全曲を聴いたのは言うまでもない。
 「ケンちゃん、ベートーベンの田園知ってるやろ? あれは、春やけど、この曲聴くと秋の雰囲気感じへんか?」と言われて「ブラームスの二番の方が、秋の田園らしい。」
等と気取ったことを言ったような、正確にはその時だったのか、別の機会だったのかは思い出せない。
しかし、今でも、その二曲を秋の木犀の頃に聴くと、「のどかな田園」を想い、すこし心が静かになる。
その何れもが、高校3年の秋に聴いた名曲だからだろう。

     *   *   *

 大学時代は、銀行に就職していた柳本と、『労音』に加入した。月に一度、安くクラシック音楽の演奏会に参加できる事もあり、彼にチケット購入の手を煩わせ、神戸国際会館大ホールに足を運んだ。
その演奏会が終わった後、必ず訪問したのが「コンコード」であり、時々はトアロードの「らんぶる」にも足を運んだ。この二つの喫茶店については、章を改めることになる。

  その後、明石市役所の移転後に新設された市民会館で、その小ホールを利用した「バロック音楽の夕べ」が月一度、定期的に開催されはじめた。
その場所は、武本の自宅からは歩いて2~3分の距離。
本来なら、僕のクラシック音楽鑑賞趣味の大いなる恩人(?)、武本征人と高校時代を懐かしみながら聴くことが出来たのだろう。
しかし、彼は当時大阪大学を卒業し、インターンとなっていたから明石には住んでいなかった。
だから残念なことに一度も一緒に聴いたことはない。
 しかし、不思議な縁で、僕の父の郵便局時代の先輩、村田文直さんと、武本の父君が音楽通仲間だったこともあり
不思議な関係の3人が、延原武春さんの率いる、大阪テレマン・アンサンブルの演奏を月に1度聴くことになる。
父には全く、音楽鑑賞の趣味はなく、僕も恐らく高校時代に武本の口笛を聴かなければ、クラシック音楽を通じてこのお二人に近づくことは無かった訳で
『趣味』の縁を改めて大切に感じた。
このサロン風の演奏会は、市民会館館長のお骨折りに負うところが大きく、館長の転出とともに開催間隔が広がりはじめ、結局定期開催ではなくなってゆくことになる。 
 
 暮れになると、今でも「第九」があちこちで演奏されているし、僕も柳本と何度となく、「第九」を聴き、「やっと年が越せる。」 なんて気障な言葉を吐いた事もあった。
しかし、この頃から、「暮れはバッハのマタイか、ヘンデルのメサイアだよ。」と仰るお二人の影響で、西宮・夙川教会で開催されたメサイアを聴いて以降
年末の「第九」へは足を運ばなくなってしまった。
 僕は、今でもテレマンや、ヴィヴァルディ、バッハの旋律、特にチェンバロが演奏される曲を聴くと、間違いなく、二回り以上も年の離れた大ベテランを想起する。
 殆どの演奏会にお二人は揃って出席されていたし、席は必ず、チェンバロの楽譜が見通せる場所だった。
大阪テレマン協会の主宰者であり、指揮者であり、オーボエ奏者である延原さんの巧みな話術も楽しみだったが、お二人の評論は、新鮮で、強烈で、機智に富み僕には勉強になる内容ばかりだった。時折、「ご感想は?」等と突然質問され「一寸今日のチェンバロは、チャラついていてバイオリンが隠れていましたね。」とか、「バロックピッチの演奏は、大阪テレマンでしか、聴けませんから今日は感動しました。」等と、生意気に評論していた。 
今思うと、お二人とも、僕の就職先から判断して、音楽に対して基準以上の知識・経歴を持っているもの、とお考えだったのだろう。
冷や汗ものの記憶である。
 
 僕が現在保有するアナログレコードの内、約千枚がバロック音楽関連である理由は、高校時代に殆どの交響曲・管弦楽曲・協奏曲の類は聴き尽くしていたし、自分の給料でオーディオ装置を購入し、レコードを買うことが出来るようになった頃始めて出合った、この大阪テレマン・アンサンブルのバロック演奏と、その演奏会でご一緒できたお二人の影響が大きい。
僕に、バロックの清洌さ、単純さを教えて下さった、バッハの権威・村田さんはその後、奥様とお二人で、鹿児島・枕崎に引っ越され、悠々自適の生活を送られていたが、僕が東京へ転勤した後、その地でお亡くなりになったと、父から聞かされた。

  それぞれの時代の、一つ一つの出来事は忘れてしまっていても、季節の花、一つの音楽等、今も変わりなく残っている普遍のもの達を見るにつけ、聴くにつけ、それらを介しての、多くの人達との不思議な関わりの幾つかが、時として驚くほど鮮明に蘇ってくる。


*  *   *

訂正/追加  
西海司
クラシック音楽が僕の耳に残った最初は、西海司が叩いた、ボレロの旋律だった。
この雑文を平成8年秋、小学校の同窓会(昭和33年3月卒、明石市立林小学校6年2組山田学級)の開催直前に、倉敷に住む野田和江に送った。
ところが直後の電話で、彼の突然の訃報に接した。
散々迷った挙げ句、級友代表で線香をあげる役割を果たすことになり、高知からの帰りに立ち寄った。
所帯は、人丸山の南、山陽電車人丸前駅から歩いて数分の距離。
立派に成人されたご子息がお二人、真面目だった彼の面影が何処かに残っていた。
上の息子さんは、高校の後輩に当たり、人丸山東坂を毎日通学していたそうで手書きの地図を懐かしそうに見ていた。
「おとうさんもきっと喜ぶ。」との言葉に甘え、奥様にお断りして未完だったが、彼の名前が記されているこの冊子を、霊前に置かせてもらった。
平成8年10月3日逝去。享年51歳。若すぎる旅立ちである。

チャイコフスキー/交響曲第5番
ブラスバンド部が演奏していたのは、チャイコフスキーの交響曲第4番の終楽章。
金管楽器の壮麗なアンサンブルが、ぴったりだった。その直後に武本の家で聞かせてもらったのは、この4番と、5番。
武本との会話にある、秋の田園云々のくだりは、第5番の方をさしている。
同じ終楽章でも、4番の派手さに比べて、5番は、武本の言ったとおり、秋の田園をイメージさせてくれる。
僕が感じる秋の田園は、ブラームスの第2交響曲の第1楽章のほうだが、不思議なことに、そのチャイコフスキーの第5交響曲を聞くと、高校2年の秋の修学旅行を思い出してしまう。
その武本と、大学1年の秋に二人して訪れた明日香の里は、今ではすっかり観光地になっている。
大和八木で近鉄電車を降り、展望は全くきかなかったが先ず耳成山に登り、香久山の麓から南に歩いた。
飛鳥大仏、岡寺、甘樫丘、明日香川、橘寺、河原廃寺跡を辿って、近鉄橿原神宮前駅に至るコースは、時折秋のススキの原や、柿の実を見る度に思い出している。


▲ 音楽雑誌の付録にあったレコード目録には幾つもの走り書きがあった。やはり交響曲第5番を好んで聞いていたようだ。▲


2023.08 に再編した折、手違いで消えてしまった為に、オリジナルテキストからコピー再編した。
併せて、「人丸山東坂」 「山陽電車」のページには、何枚もの撮りためた画像を挿入した。


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