HAYASHI-NO-KO

雑草三昧、時々独り言

ロマンチストの独り言-12 【幸ちゃん】

2004-12-31 | 【独り言】

ロマンチストの独り言-12

【幸ちゃん】

 僕が岩波書店愛蔵版『星の王子さま』を明石銀座の木村書店で購入し全編の筆写を始めた頃、彼女は大阪学芸大学に通っていた。
高校三年時代の後半、それも晩秋から冬にかけてのわずかな期間に急速に親しくなった級友。

  卒業の年、去ってゆく高校生活を名残惜しみながら、幾度か自宅を訪問し語り合っていた。
卒業後も夜、何度か東戎町の自宅を訪問した。
岩屋神社の南、玄関を出ると直ぐに海が見えるその家は中学時代の級友が住んでいた家。
その関わりの詳細は忘れてしまっているのだが、何時もその玄関先で1時間近くは喋っていた。
僕は今でもそうなのだが、相手の都合を余り聞かずに(だから、当然、電話などで在宅を確認したりはせずに)、思い付いた時その人の自宅を訪問する。
特に親しくしていた訳ではないのだけれど、大学に入った直後は彼女の家を訪れることが多かった。
時折、同級生の山崎と出会うこともあったが、僕はお構いなしに話し込んだりしていた。
考えてみれば、随分身勝手な行為だったと思う。
しかし、僕が勝手に錯覚していただけなのかも知れないのだが、彼女も山崎も、そんな僕の行為を一つの非難もなく受け入れてくれていた。
僕はその高校卒業の年以降、二人はいずれ一緒になるものだと思っていたから、夜の訪問もその内出来なくなる....と感じていた。
それでも彼女の暖かい雰囲気と、何にもまして様々な会話、特に思い出詰まった高校生活の懐かしい日々と夢が溢れていた大学生活への期待を、途切れる事なく話交わせる只一人の友として、その頃の僕には大切な存在だった。
その暖かい雰囲気と優しい言葉遣いは、30年近く経った今も変わらない。

*      *      *

 高校三年の晩秋から初冬にかけての記憶に残る学校生活は、少しばかりの笑い以外は暗いものだった。
大半が大学受験準備に追われ、授業よりも受験勉強に熱が入っていたため、登校そのものが次第に億劫になりつつあった。
夜遅く迄の勉強で誰もが朝の登校時間を遅らせることを余儀なくされるようになっていたし、時には寝坊して欠席するものも増えてきた。
誰もが残された時間の少さを感じはじめてはいたのだが、反対に僕は電車通学の頃よりも30分以上早く登校し、少しでも残す物が増えるように友との会話や雑談や議論のための時間を必死で作ろうとしていた。
「思い出の詰まった学び舎」と、今感傷的に話すことの出来る時間は時折撮影しいた校内の写真に切り取られて残っていた。
ただ会話の殆どは当然だが残っていない。
  庭の花を持参するようになったのは、この頃である。
晩秋から初冬にかけて、菊、秋桜、水仙等の花達が、我が家の庭には次々と咲き続けていたし、通勤・通学ラッシュ前の比較的空いていたバスに乗ることができた所為もあって、週に一二度は適当に手折って行った。

  『おはよう、いつもお花ありがとう』と、朝のゲタ箱で内藤幸に声を掛けられたのは、11月だったように思う。
その時まで僕は同じクラスの女子とは、挨拶すらしなかったし余り積極的な会話を交わすことはなかった。
話のきっかけもなかったのだが、隣のクラスの女子との会話は何故か多かった。
けれど『G連』との会話は殆ど無くなっていた。

  その秋に発刊された、学芸部発行の文集『明星』への投稿がきっかけでクラスの中にも何人かの「詩人」が居ることを知った頃、彼女が書いた詩が話のきっかけになったように覚えている。

  『中谷君は、詩と小説とどっちが好きなの?』 
当時の彼女は、他の女子がそうであったように、同級生に対しては「君付け」だった。
  「僕は、読むのはどっちも好きや。内藤さんは?」
  『私は、詩の方が好きやわ。書かれた背景や、気持ちが伝わって来る』
それまで、合唱コンクールや体育祭の応援合戦などで、積極的に行動している彼女を知っていたから、意外な面を知って嬉しかった。
そんな会話の後に、季節の花の話や絵の話があった。

  三年生のゲタ箱は、西側の通用門に近い場所にあった。
僕たちは、別に時間を合わせていた訳ではなかったが、その日以降殆ど毎日のように寒い階段を一緒に昇りながら会話を続けるようになった。
同じ三階に二年二組の教室もあったから、時折『右近』に出会うこともあったし、彼女に気づかれないように目礼を交わすこともあった。
花を持参した日などは決まってこんな会話が交わされた。
『中谷君は、やっぱりロマンチストやね。男の子が、お花持ってくることなんかあらへんもん。いいね、お庭があって。』
   僕は、彼女の持っている人懐っこい笑顔と多くの経験から来る(と、彼女自身が僕に話してくれた)相手を一回り大きく包んでくれる暖かい気配り、言葉づかいが好きだった。

  昭和39年の冬は格別に寒かったのかどうかは知らないが、朝の寒さは厳しかった。
大袈裟かも知れないがそして他にも優しい、暖かい笑顔が周りにはあったのだが僕は、その冬、彼女の笑顔に出会うことが一番の楽しみになっていたし随分暖かい気持ちになった。
雪も時折舞っていたし、惰性的に勉強するつもりで入った山内図書館の南側の高い窓から、時折ボタリと落ちる雪の固まりを、漫然と眺める日が続いたり冷たい雨の降る日もあった。
 
  年が明けて、正月二日、山田幸夫の自宅で新年会があった。
楽しい時間が続いた....と思うのだが、すっかり忘れてしまっているし、何故そのメンバーだったのかは覚えてない。

しかし、彼女が入っていたことだけは鮮明に覚えている。
授業中も休み時間も、当然だが放課後も僕たちは残り少ない高校生活を存分に楽しんでいた。
しかしそれは表面的な楽しさばかりで、気持ちの中は残りの日々の少なさに比例でもするように暗くなっていった。
藤本との会話は続いていたし、共通の話題であった「文学論」はますます高まり、僕は大学受験勉強よりも話題になった本を片っ端から読み漁っていた。
どこか焦りにも似た、或いは大学受験に対しての一種の逃避にも似た感覚が溢れていた。
だからこそ、さし当たって乗り越えるべき大学受験の話よりも、全く違った感覚で対応してくれる彼女との会話は言葉は良くないのだが新鮮なものだった。

  2月になると、水仙を持参する日が続いた。
  「これ、匂水仙、普通の水仙より匂いがきつい。」 
  『黄色のもあるやろ?』
  「家には、ラッパ水仙はあるけど、黄水仙はないワ。ラッパ水仙て、名前付いてるけど、皆、彼岸花の仲間やで。」
等と、朝から花談義が始まることもあった。
僕は彼女との会話が楽しみで、朝早く花を持参したわけではなかったのだろうが、時折思い浮かぶこれらの日々に占める彼女の比重は殊のほか高かった。

  早咲きのスイートピーが次々咲き始めた頃、僕たちは卒業式を数日後に控えていた。
卒業式の予行演習前日だったと思う。
その日も僕はスイートピーを持参したのだが、ゲタ箱で彼女とは会えなかった。
三階まで上り、一番東の端にあった教室に入ったが、誰もまだ登校していない様子。

誰も居ない朝の教室は、寒々として一人でいるには耐えられない場所だった。
いつもは何人かがすでに登校している時間になっても、僕は一人きりだった。
皆、朝起きるのが辛くなったのだろう、多少遅刻してもこの頃は大目に見てもらえるし、寒いから一日位休んでも仕方ない、等と一人考えて、時間潰しに図書館にでも、と思ってドアを開けるのと幸ちゃんが教室に入ってくるのとがほぼ同時だった。
横山さんと一緒だった。
  『おはよう!!』の声が、暖かかった。 
  『今日は、一寸寝坊してしもてん。ヨッコさん、お水換えに行こ。』
 早速、そう言って、花瓶の水を取り替え、スイートピーを活けた。

  その日、僕は一つの事件に遭遇した。
何校時だったか、それとも授業が終わってからだったか、その日まで一言も言葉を交わしたことの無かった憧れの人と、誰も居ない廊下で初めての会話を交わした。
寒さと緊張と少しばかりの恥じらいがあったのだが、後から教室を出てきた彼女に廊下の中程で振り返って言葉をかけた。
丁度二年二組の前あたりだった。
  「川西さん、どこ受けるん?」
  『えーッ、滑ったらカッコ悪いもん!!』
  「風邪ひいたん?」
  『ふん、一寸喉が痛いねん。』
と、ほんの一言二言の会話とも言えない会話だった。
結果として、僕が高校生活三年間で、言葉を交わしたのは後にも先にもこの一度きりである。
それが卒業式の数日前だったことが暫くは信じられなかった。
考えるまでもなく、喧騒の山陽電車・林崎駅(現在は、林崎松江海岸駅)の朝や「人丸山東坂」の途中で、普通の感覚であれば挨拶位はするのだろう。
が、僕自身の自信の無さなのか、余りにも憧れが強すぎて言葉そのものが出なかったのか、誰に話しても「お前が、川西と一度も喋ったことない、なんて嘘やろ。」と言われ続けていた。
そう言われても、一度も喋ったことがないことが事実だった。
僕はその不思議な事実に、自らの努力(?)と僕自身の感情を充分気づいた上で、優しく対してくれた彼女のお陰で辛うじて卒業の数日前にピリオドを打てた。

  その日の朝、持参したスイトピーの薄いピンクと青色の花の香は、その後長い時間忘れてしまっていたのだが沈丁花の思い出話と共に、この雑文を書き始めてからはっきり思い出した。
  その事件のあった日の午後、写真部送別会があった。
『G連』との別れだった。
別段寂しさは感じなかったし、中庭で写した何枚もの記念写真は笑顔ばかりだった。

 四日後の卒業式そのものは殆ど覚えていないし、式の後人丸山へ行く約束が何故だったか取り止めになり....、何処をどのように、そして誰と一緒に荷山を降りたのかも覚えていないのだが、記憶が突然明石駅前の江陽軒で、藤本・柳本の三人で焼きソバを食べている場面に飛んでいることは、既に書いた。
その最後の日の人丸山行きに、幸ちゃんも同行する予定だったが結局果たせなかった。
翌々日、共に人丸山に上れなかった寂しい思いと、一編の詩が記された手紙が届いた。
ハイネの「わかれには」と題されたその詩と自作の詩に、別れの切なさと彼女の持つ強さを感じた。

わかれには  おたがいに
こいびとは  手をかわし
なきぬれて  ためいきは
いつまでも  つきぬもの

わかれには  ぼくたちは
なきもせず  ためいきも
でなかった  そのあとで
なきぬれた  せっなくて
せつなくて         井上正蔵訳


寂しさは追うものではない

寂しさは追い越すものだ
寂しさには愛が必要なのだ
喜びはそれで出来るんだ
             自作の詩/日記帳から

*   *   *

 切ない思いを抱きながら僕は、この30年も前の事実を幸ちゃんに話した。
その時も彼女はいつもの暖かい笑顔で、『話したら、面白い子よ。』と笑った。
 
  数年前から単身赴任の山崎を心配して、平成6年夏から東京・明石の二重生活を始めたのだが、その翌年初めて参加した「明高39年卒クラス会」で僕は結婚以来2度目の対面をした。
20年は経っていただろうが優しさは変わらなかったし、目敏く僕を見つけ、
  『ケンちゃん、こっちへおいで。』の気軽な言葉遣いはそっくりそのまま高校時代の僕たちの気軽さだった。

  僕にとってこの雑文を書くきっかけは先年の大震災なのだが、考えてみれば多くの記憶が残る高校時代の思い出の記になりそうである。
懐かしい友達は今、便りも無くなっているし連絡の術もない人が多い中で、幸ちゃんを接点にした繋がりだけはこれから先も、僕の高校時代の記憶の糸の一端を残してくれそうな気がする。

*   *   *

[追記]  
記憶の端に残っている日付。
卒業式は昭和39年2月26日だったから、事件のあった写真部送別会は溯って2月22日、翌日が日曜日で24日が卒業式のリハーサルだった。
記憶に残る前日、25日の大雪は劇的だったから飽きずに教室の窓から写真を撮り続けた。
山崎正弘と、内藤幸の結婚は、昭和45年4月。
僕はその結婚祝いに、彼女の欲しがっていた「陶器製のニッパー」を一揃い会社帰りに持っていった。
寒い日だったが、早速梱包を解き、机に並べてお母さんと二人本当に喜んでくれた。
その犬達は、転勤の都度高槻・滋賀甲西・新居浜などに連れていってもらい、今明石・大久保の自宅に居る。

阪神大震災と『114会』
 平成3年暮れだったか、米山からの発案で昭和39年3月明石高校卒業生の、東京在住組が集まる同窓会が開かれるようになった。
たまたま最初が1月14日だったので、誰言うとなく『114会』の名称が付けられた。
何度目かの開催から女性陣の参加も始まり、平成7年1月14日の集まりには前年夏に東京暮らしを始めた幸ちゃんも、山崎と参加した。
その直後に大震災が起こった。
大久保の実家の2階、彼女がいつも寝ていた場所には、激震で家具が倒れていたそうである。
 『 東京暮らしをしていなければ、114会に参加していなければ、間違いなく私は下敷きだったんヨ。呼んでくれてありがとう。私は一生114会のことは忘れへんと思う。』
何度も僕は彼女のこの言葉を噛み締めた。
その意味でも、現在の114会に繋がる、昭和36年から39年にかけての友らをいつまでも大切に覚えておきたい。

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