ロマンチストの独り言-2
【みんな、昔は子供だった】 小学校時代の我が周辺を辿る
僕の高校時代は、戦後既に15年が経過し、目で見える範囲では、戦争の傷痕は無くなっていた。
しかし少なくとも、小学校・中学校時代は、貧しい生活を強いられている友達も多かったし、決して食べ物に恵まれていたとも思えない。
小学校の領域は、林崎漁港のある漁師町の全てが含まれていた。
東の明石川河口望海浜から、白砂広がる西の貴崎(岸崎)浜迄の約1.5キロだった。
東から南船上、船上田町、船上権現町、新明町、大東、獅子投、若宮、中ノ町、五蔵町、戎井町、川端町、高浜東ノ町、高浜中ノ町、八黒町、高浜戎井町、高浜西ノ町(この内、高浜四町は、高東、高中、高戎、高西と略称されていた)、山陽電車の線路を越えて、八軒町、その北に立石、硯町、林神社の西に成願寺、そこから随分北にあった国道2号線のまだ北、和坂までが学区だった。
学校の南はそのまま、林崎漁港に続いていたから、半数近くは何らかの形で、漁業に関わっていた。
海から一直線に林神社に向かって道が伸び、その周辺は見渡す限りと言えるくらい田圃が広がっていたから、農業に関わっていた家庭も多かった。
狭くて粗末な家の中での遊びの体験はなかったが、家の外は全て自分達のものだと思っていた。
焼夷弾の絨毯爆撃を何度も受け、焼け野原となってしまったらしい我が家の周辺にも、
物心つく頃には家並みが戻っていたし、季節の花達や雑草がそれぞれの季節に生きていた。
しかし未だ家の外は、至る所に危険・立ち入り禁止の粗末な立て看板があったし、きまってその場所には、
焼夷弾の殻が埋まっているとか、不発弾かも知れないから近づくな、とかの風聞があった。
事実、幾度か不発弾処理のため、周辺住民への避難命令が出された事もあった。
しかし、遊びまわる範囲もさほど広くなかった当時、俗に言う恐いもの見たさで、その現場に近づいたりしていたし、
その立ち入り禁止場所は、殆どが空き地でつまりは自分達の遊びのテリトリーであった訳で、立ち入るなと言う方が無理なことだった。
焼失した家も、一部被害を受けただけの家も、建て直されて立派になりつつあったが、
大半は戦災に遭い、やっと復興し始めた程度の時代だったから、余計に空き地が目立っていた。
我が家の近在も放置されたままの空き地が多かった。
海に続く南に向かう道の左は、自宅にも牛を飼っていた岩井さんの敷地だったが、板の囲いが方々で壊れた荒れ地が広がり気味が悪かった。
その空き地に残されていた井戸に、我が家の愛犬シロが落ちたことを思い出す。
シロは結局死んでしまったから、そこに咲いていた、秋のコスモスと菊の花だけは、何故か不思議に印象に残っている。
右は同じ学年だった伊藤萬正の家。
我が家の東隣は、小学3年生までは鋳物工場があったが、一度ボヤを出した後、廃業し空き地になっていた。
敷地の境には垣根など無く炉の跡等が無残な形で2,3個所残ってはいたし、鉄骨も何本か始末されずに空き地の中に出ていたりはしたが、それを除けば、絶好の三角ベースの場所だった。
細い南北の、海に続く道を挟んでその東に神応寺がある。
夏の終わり地蔵盆の頃には、早朝そこに詣でてお菓子を貰う楽しみがあった。
地蔵盆はかの地の夏の風物として今でも残っているのだろう。
その神応寺は、先年の震災では本堂の大屋根が真ん中から崩れ、結局解体・建て直しされた。
境内の蘇鉄は往時と変わりなく同じ場所に鎮座しているし、地蔵も健在だが。
空き地の北は、藤井さん。
清和・晃(キヨちゃん、アキちゃんと呼んでいた)の兄弟二人は年齢も近く遊び仲間だった。
その北も空き地になっていたが、秋祭りなどに使われていた山車の用具等を収容するタイコ小屋と呼ばれた建物の跡だと教わっていた。
秋祭りの山車を、タイコと称していた。
各町内単位で、それぞれに山車を保有し、その保管場所にはしっかり鍵が掛かっていた。
残念ながら、僕の町内は担ぎ手が居なくなったせいか、資金が無かったか小学校当時既に、町保有の山車はなかった。
林にはそれでも数基の山車があり、それぞれに山車の構造が違っていた。
特徴的だったのは、太鼓の打ち手が座る部分を覆っている幕の飾りと、山車の天井部分に載せられる、ふとんと呼ばれた文字通り布団のおばけの枚数。
町毎にその布団の枚数が異なっていたと思うのだが、定かではない。
ほぼ林の町中を練り歩き、あちこちで酒の勢いでの喧嘩を繰り返しながら、最後に林神社に詣でる、秋祭りの山車は僕たちの中学時代には「危険」を理由に廃止されてしまった。
狭い漁師町の軒先を壊しながらの練り歩き、途中の乱闘騒ぎや、浜国道での暴走騒ぎは、今でも各地の秋祭りの映像を見る度懐かしくなる。
その北隣に農家だった藤井さんの、木造の農機具倉庫があり、その前の一寸した広場が紙芝居の来る場所だった。
5円支払って水飴や、スルメ、麩菓子等を食べ、時には「抜き飴」と称する、薄い長方形のべっ甲飴に書かれた、
魚や鳥などの形を壊さずに抜くと、もう一枚おまけが貰えた飴を必死で舐めながら、真剣に見ていた紙芝居も、
小学校6年あたりには回ってこなくなってしまった。
変な名前だったから今でも覚えている紙芝居の主人公に「コケカキーキ」というのがあった。
何か、のっぺらぼうのオバケの類だった様にも覚えているが詳しく思い出すことは出来ない。
周辺は藤井姓が多く、姻戚関係の有無等詳しく知らなかった僕たちは、皆親戚同士だと思い込んでいた。
空き地の南側は、屋号を「松江屋」と称した駄菓子屋。
しかし、呼称は「マッチャ」だった。
西隣は藤井の八百屋さん。
男3人、女3人の大家族だったが、三男善年(ヨシくんと呼んでいた)が、弟と同学年だったので遊び仲間だった。
兄さん二人は中学時代からハンドボール選手で、高校時代は国体に出た。
当時は、皆スポーツマンだったし、日常が運動の中で育っていた。
川に向かって少し下っていた、細い道の半分には商品が並び、夕方の買い物時分の活況は今も覚えている。
店の奥でさばかれる新鮮な魚類は、昼網で上がった物だっただろう。
未だ一般家庭ではテレビが買えなかった頃は、その店の奥の居間に置かれた東芝製の14インチテレビを週に1度だけ見せてもらっていた。
金曜夜8時、ディズニー映画とプロレスが隔週毎に放映されていた。
我が家にテレビが届いたのは、中学2年になった春、昭和34年4月、言わずと知れた(?)御成婚のテレビ中継を見るためだった。
北隣は、ここにも牛が飼われていたし、馬も居た農業の藤井さんの家。
稲刈りの後、その広い敷地の中で脱穀作業なども行われたし、収穫された野菜が黒々とした土が着いたまま山積みにされていた光景は懐かしい。
隣が八百屋さんだったから、僕たちはそこから野菜類は運び込まれていると思っていた。
農作物が無ければそれはそれは広い遊び場。
他人の敷地への出入りなどお構いなしだったから、平気で走り回っていた。
当時は家と家の境にあった垣根も、たとえ入り口に門があったとしても、開けっ放されていたから出入り自由、通り抜け自由だった。
我が家の前の、南へ続く細い道はそのまま海まで続いていた。
伊藤萬正の家の南は、戦災前にあったという風呂屋の跡が、崩れたレンガ塀に少しだけ面影を残していた。
そのまま南に向かう道は、途中微妙に左右に揺れていた。
その風呂屋(藤井さん)の南、浜名さんの広い敷地は、板塀ではなく植栽で囲まれていたから、四季の花を見る事ができた。
残念ながら一部に鉄条網が残っていたので、道まで枝を伸ばしていた枇杷や無花果に手を伸ばすことは無理だった。
一年上だった佐々木赫子の家もあったし、歌がうまかった西川さんの家は、父の姉、浜のおばさんと呼んでいた、林酒店の筋向かいだった。
級友岩井秀子の家は、武盛信一の親戚だった裙本さんの横の細い路地を東に入った場所だった。
広い畑が残っており、その隅には僕の記憶の中では一番大きな無花果の木があった。
所有者がどなただったか知る由もないが、僕たちが幾つかその実を食べたことは言うまでもない。
芋掘りをしたことも覚えている。道は酒屋の前を通り、不発の焼夷弾撤去が何度か行われた空き地(ここは、正月飾りを集め、無病息災・大漁祈願の祭り、トンド焼きの為の高いやぐらが組まれる場所だった)を左に見て、
少しだけ海沿いの道路に向かって上り坂になって港に続いていた。
トンド焼きは、全国的に様々な呼称で行われている、正月の注連飾りを浜辺などに集めて燃やす漁師町の伝統行事。
左義長の名もある。
林の浜では、町別に太い竹を支柱にした櫓を組み、藁縄で編んで骨格を作り、その周辺に家々から集めた注連飾りを吊るすのである。
当然世帯数は限られた漁師町の中で、幾つものトンドが立てられるから、材料の注連飾りの奪い合いになる。
だから出来上がったトンドの下には、何人かの若い衆が寝ずの番をすることになる。
寒いから酒類が持ち込まれ、差し入れの食べ物もあるから、僕たちはそのおこぼれ欲しさに、よく櫓の周辺をうろついた。
民家の密集する場所でのトンド焼きは危険極まりないものだったが、晴れやかな正月には無くてはならない行事だった。
コンクリートで覆われるまでは、所々油で汚れ、壊れた漁具や、船の道具類が無造作に放置されてはいたが、砂浜が海まで広がっていた。
無秩序に張られたロープに、ワカメなどの海藻類や、珍妙な干しダコがぶら下がっている光景は、今も変わらないのだろう。
海に出るその一本道の、我が家から見て最初のT字路を左にとると、大きな柿の木が道まで枝を伸ばしていた岩井さんの敷地。
1学年下に、国ちゃんが居た。
小さな四つ角の南東は多少荒れてはいたが、玉木さんの広い敷地をぐるりと取り囲む石垣が続いていた。
その石垣沿いに東へ辿ると、又、T字路。
すぐ南に水野正夫の実家。
東に歩くと幼稚園から高校まで一緒だったカヨちゃん(赤松嘉代子)の家。
4月生まれだった彼女とはほぼ1年の差があったし、いつも一回り大きな包容力を感じていたから
今でも時折会いたくなって、明石公園のすぐ東、海峡をみはるかす高台にある嫁ぎ先、松本さんのお宅に時々お邪魔している。
幼稚園時代からの優しさは、間違いなく今も同じだ。
共有する時間の多さだけでは説明のつかない、不思議な人と人の関わりの深さを今に残してくれていると思う。
時々だが、人は一生涯にどれだけ多くの人と関わっても、死に臨んで思い出す人はそんなに多くはない、と感じることがあるのだが、
僕の場合、間違いなくカヨちゃんは覚えていると思っている。
カネシンの屋号だった氷屋を過ぎ(水産加工業でもあった神足商店)、又南への道が分かれる辺りには、材木店だった、赤松清美の家。
T字路の東南角の家は、店の名前は忘れてしまっているのだが、おばあさんがお煎餅を焼いていた。程なく中ノ町の四つ角。
文字では「なかのちょう」なのだが、会話では「なかんちょ」だった。
その林中ノ町は、比較的広い領域で、何人か居たガキ大将の中の雄、生頼徹や、海原利昭の家があった。
岸本商店(八百屋)が南東角にあった。
その角を曲がって海の方に歩くと、庭の西の角に、大きなグミの木のあった、近藤昌宏の家。
いつもその広い庭や、農具倉庫などを遊び場にして戯れながら、グミの実を幾つも失敬していた。
道を挟んで向かい側に千崎艶子の家があったし、藤原千賀子も近くだ。
近藤の家の北側に、すれ違うのがやっとの、細い道がありそれも不思議に左右に振れながら、東に続いていた。
その細道を辿ると、平井誠一の家。
僕が、今でも一番大騒ぎをしたと記憶している友である。
勉強嫌いの多かった当時の僕の周り、家庭の事情、本人の事情等様々な理由で中学卒業と同時に就職する級友が多かった。
彼も中学卒で就職したが、その後定時制高校に通い、4年間で高校卒の資格を取った。
僕たちは彼の頑張りに喝采を送り、クラス会を開いて祝った。
途中、自転車では走れない人がやっと通れるほどの路地を抜けると海に続く道、山下孝子の家があった。
平井の家の前の道は東に続き、若宮神社の南の広い通りに出る。
その細道の反対側(角に米屋さんがあった)を辿ると、小さな祠があり、それを左に(つまり南に)海へ向かうと、橘隆好の家に着く。
鳥屋(関西ではカシワと称している)が家業だったから、いつも家の前にはシメられた鶏が無造作に置かれていた。
魚も、鶏も大切な蛋白源だったが、どうもその生々しい鶏に出合う事が多かった所為か、今でも鶏肉は好きになれない。
平井の家の前の道を北に辿ると、前田理髪店。
古くなった芸能月刊誌(平凡・明星)が、畳敷きの待ち合いに無造作に置かれていたから、二月に一度の散髪は楽しみだった。
同級生だった、藤尾耐子が後年そこに嫁いだ。
屋号は覚えていないが途中に本屋があり、その道はやがて毘沙門さんの愛称で呼ばれていた若宮神社・宝蔵寺に続く広い道に出る。
道は、少し南に歩くとさらに東に続くのだが、僕は余り若宮神社の通りより東には歩かなかった。
大抵は自転車だったから、その辺りの詳細が思い出せない。
魚屋を営んでいた上野新治の家や、隅谷武徳、谷川鶴三、海原利明の自宅も訪問した記憶があるのだが今はぼんやりとしか思い出せない。
しかし不思議に、大東の菅野幸夫の自宅は覚えている。その菅野の自宅への途中で細い道はまだまだ東に延び、明石醗酵会社(ショウチュウガイシャと呼んでいたが、原料の芋を醗酵させる過程での臭気はたまらなく、特に風向きで学校まで流れてくる日等は大騒ぎしていた)の蒸留棟を北に見ながら行くと、南船上に至る。
石井一志の家は、新明町からの道と合する辺りにあった。
背も高く、スポーツ万能だった彼は、ガキ大将の一人だったし、周りの誰もがそれを認めていた。
当時のガキ大将は、半端ではない悪戯の首謀者だったが、弱者に対しての面倒見は人一倍強かった。
思い出す何人かの名前、誰もがその悪戯に音を上げた、生頼徹、武藤利一、門田広司、上野新一、
..しかし、みんな僕の友達だったし、弱者の友達だった。
彼らを筆頭に僕たちは、狭い土地に精一杯遊び場所を見つけ暴れまわり、
それに対して、多少の悪戯を大目に見てくれる大人達が居れば、それだけで十分満足できた時代だった。
大人達が僕たちのそんなちっぽけな満足を時々阻害しただけのことだった。
石井の家の近く、高木礼子、海嶋喜子の家もぼんやりとだが残っている。
そこからもう少し東に歩くと護国寺。
その寺の前の細い道はそのまま南王子に続いていたが、両側は海浜性の雑草が茂り、どの季節もうらぶれた、物悲しい光景だった。
民家の密集した林・船上の域を外れた場所だったから余計寂しい場所だった。
西の端にあった「サンマ」と対比しても、やはり村の外れという印象しか残っていない。
詳しくは覚えていないが密蔵院という名を記憶しているのその境内に、その後建てられた船上地蔵はコンクリート製の大きな像。
その前で夏に開催される盆踊りに出掛けた折など決まって級友に出会えた。
石井の家から北に向かう道の途中は、所々に戦災跡がかなり長い間残っていたし、鉄工所もあった。
門田広司や、藤井民子の家は今も変わりなく残っているだろうか。
その道を北に辿るとやがて、中学校の通学路になっていた東西の道との四つ角に至る。
東すれば古城川を渡り、日本工具第二工場のコンクリート塀に沿う道が、中学校のあった南王子町まで真っ直ぐ延びていた。
途中には丸尾カルシウムの工場があり、周辺はどことなく白っぽい雰囲気だった。
間違いなく精製途中の粉が飛び散っていた。四つ角の南西角には確か米屋さんがあったし
筋向かい北側には若松八百屋さんがあり、傾いた丸型のポストが印象的だった。
道沿いにしか家並みはなく、他は一面の田圃が広がっていたが、その田圃の中の一角だけはこんもりと小山のように盛り上がっていた。
キリシタン大名と言われた高山右近の居城、船上城跡である。
その古城跡を西に見ながら、南北の道に沿った日本工具のコンクリート塀は、浜国道まで続いていた。
トンボのマーク、日本工具は、今は江井ヶ島に移転したけれど当時明石市内では最も大きかった工場。
第一工場と本社は東王子、第二と第四が船上田町で、浜国道を挟んで建っていたし、第三工場が硯町にあった。
多くの級友が、中学卒業でそこに就職した。
船上田町には、坂本一重が居たし、鉄工所経営の神原孝子の実家も近かった。
道路の北には藤原幸子(父君は郵便局勤め)、西出恵一(家業は質屋)も住んでいた。
足が速かった小林英明、デコちゃんも田町だったか。
古鉄商の平田政男の家は、その浜国道と山陽電車の線路に挟まれた場所にあり(地名では、船上権現町となっていた)
校庭や電気工事現場や、廃虚跡などでクズ鉄を拾い集めて売りに行った。
時折彼が居ると、少しは高値で買い上げてもらったりもしたし、何時だったか、教室に迷い込んできた捨て犬の世話をしていた頃、
給食の余り物に、その換金したお金を使ってパンを買ってきた事などもボンヤリ覚えている。
山陽電車の踏み切りから北は、硯町という地名だった。
僕が今も変わり無く思い出すのは、確か小学校4年の夏だったかに転校していった、倉橋正幸の自宅と、その2,3軒隣だったかの岩本大紀の家。
5,6年と一緒だった野田和江の家も硯町だったから、クラス会の折等はよく自転車でそこを訪問した。山本雅子の家も近かった。
その倉橋の転校は、今でも覚えているくらいにショックだった。
切手収集をしていた彼との交換用に、年賀切手小型シート(昭和30年のコケシ図案の切手が4枚組み合わされたもの)を持って、
その年の夏休み、近藤昌宏と二人で電車に乗り、山陽電車・月見山駅の南にあった彼の転宅先へ行った事、
大きな門構えの家で、鉄道模型を走らせた事を鮮明に覚えている。
当時、林小学校一番の秀才だった彼は、その後名古屋工業大学を卒業している。
一度、学生時代に僕の自宅を訪問してくれた事までは覚えているが音信は無い。
硯町の市営住宅から北はやはり田圃が広がり、その向こうには盛り土の上を国道2号線が
学区の北の外れにあった、和坂地区を通り、西明石・姫路方面へ延びていた。
途中で北方、三木方面に延びる国道175号線(通称明舞国道)が分岐していたし、大阪ガスの大きなガスタンクが田圃の中に異様な姿で2基建っていたのを覚えてはいるが、そこまで足を運んだことはない。
和坂地区は、小学校からは距離にして2キロ近くあったが、昔から林小学校の学区だったそうだ。
余りにも遠い場所だった(と、当時は思っていた)から僕は小学校時代、一度もそこに住んでいた級友、久保清徳を訪ねたことはないし、漣正勝の家も訪れた記憶は無い。
余り女の子達と言葉を交わすことの無かった当時、奉仕活動で図書委員をやっていた僕は、
その和坂地区から通学していた、同じクラスの吉田恭子と何度も、図書室で出会った。
彼女は図書委員ではなかったが、不思議な魅力を感じていたし僕の密かな楽しみになっていた。
司書の竹中規志子先生がいつも楽しい話を教えてくれた。
大学生になって二年経った春、小学校6年2組山田学級の初めてのクラス会を開催する話が持ち上がった折、僕は始めてそこに住んでいた吉田恭子の実家を訪問した。彼女は自分自身の希望で、中学を卒業後看護学校に入り、当時は名古屋の日赤病院宿舎に住んでいた。連絡先を教えてもらい案内を送った。クラス会には遠路出席してくれたのだが、彼女はそのことを覚えていないと、それから25年以上経った二度目のクラス会(平成になってからの開催)の時に、寂しそうに話してくれた。人には楽しかった昔の事を忘れてしまう程に、多くの苦難や事件が起こるのだろうと、その夜しみじみ考えさせられた。
硯町の市営住宅の西の外れは、やはり灌漑用水路の末端に続く細い川が流れていたが、この道は随分長い間舗装されなかった。
だから、僕の印象に残る硯町は、埃っぽい道の両側に整然と並んだ市営住宅と、緑の田圃と、不思議なくらい多かった夏のヒマワリの咲く道である。
埃っぽい道が、川に架けられた橋の部分だけ黒くなっていたのも印象に残っている。
その橋を越え、西に行くと校区の北の端にあった、和坂地区の生徒の通学路に出る。
日本工具第三工場の長い長いコンクリート塀が続く道の西側には、朝鮮人が住む一角があり当時まだ残っていた被差別部落があった。
僕たちは殆どは、その歴史的な経緯もそこに住む人々の実態も真実を知らされる事はなく
「危ないから近づいては駄目だ」としか言われていなかった。
確かに一種異様な雰囲気が感じられはしたし、民家が密集していたその地区には、他の遊び場所のように、僕たちに興味を与えてくれる物は外見上も何も無かったから、敢えて立ち入る事などする必要も無かった。
しかし、考えてみるとその事自体が大いなる差別だったと今思う。
その集落の北に、林神社の南麓にあった立石市営住宅に続く道が東西に延び、集落の南側にも田圃の中を一本、細い道が東西に延びていた。
立石には、田上公史(後、現在は竜男)や、山本武史が住んでいた。
南の八軒町には、木村季代子が、木造のアパートの二階に住んでいたし、田圃の中の一軒家(と、当時は呼んでいた)に、谷康司が居た。
彼の家へは田圃の中の細い道が続いていたのだが、僕たちは山陽電車の低い盛り土を越え線路を横切り、畦道を抜けて近道するのが常だった。
煎餅を焼いていたから何度も、カケラを食べさせてもらっていた。
そこから西は高台になり林神社の横の細い道を登って行くと、左は成願寺市営住宅、
右には、当時建設が始まった住宅公団と、企業の社員住宅用の鉄筋コンクリート4階建てのアパート群があった。
林神社の裏手から、東に続く高台だったから眺めは良かったし、北東の端からは、明石公園迄見渡せた。
開発が始まるまでは、国道近くにあった星光化学工場の敷地の境(板塀だったか、コンクリート塀だったか)までは雑草が茂り、方々にまだ戦時中の瓦礫も放置されていたから、危険と隣り合わせだったし、立ち入り禁止の鉄条網も未だ残っていた。
が、絶好の遊び場所に変わりはなかった。
しかし、その後の周辺の様変わりは、林地区のテンポの遅さと比較できない位異常な速さだったから、次第に僕たちのテリトリーは、住宅地に占有されていった。市街地開発の端緒だったその団地群と、川崎重工明石工場(航空機関連工場だった為、集中爆撃され一面の廃虚だったそうだが、僕たちの小学校時代にはヘリコプターや飛行機のエンジンなどの製作が開始され始めていたから、騒音も相当だった)との間には、市バス(明石駅~成願寺)が走る程度の道が真っ直ぐ国道2号線まで延びていた。団地群が完成するまでは、ただ乾いたアスファルト舗装の寂しい道路だったのだが、何故そこが、和坂地区の生徒の通学路ではなかったのか、今もって不思議な気がする。
成願寺市営住宅の東端には、先浜明が住んでいた。
市営バスの走る広い道がその住宅街の北を東西に延びていた。西に向かって歩くと、田中美津穂、奥山朝子、米山泰正、平田順子、平尾嘉彦、栄藤修ら錚々たるメンバーが居た。その地区は、中学校は望海校区だったので、彼らと一緒になるのは3年後だったが、皆秀才のまま高校生になっていた。
整然と区画整理された街路に沿って、殆ど同じ建物(今の用語で言うと2K程度の広さ)だったから、道を間違えると別の家だったりして戸惑ったこともある。幼稚園時代お世話になった平井十子先生が、山陽電車を跨ぐ陸橋(黒橋と呼んでいた)のすぐ近くに住んでいらっしゃった。何度もお邪魔して手作りのお菓子を頂くことが楽しみだった。
市営住宅の南を走る山陽電車は、駅を出て切り通しを走り、林神社の前の踏み切りで平地に下る。その駅前(現在は、林崎松江海岸と言う駅名になっているが、当時は林崎駅)は一寸した広場になっており、自治会の方々の丹精込めた季節の花がいつも咲き乱れていた。
線路の南を東西に並行して浜国道(250号線)が走り、その南側に下溝県営住宅がこれまた整然と区画整理された街路の中に並んでいた。住宅の南は海岸段丘で、大凡10m程度の高さをもって砂浜を見下ろし、林漁港越しに淡路島が横たわる光景は、一幅の絵だった。
現在はその広々した砂浜も、海岸段丘のあちこちに咲いていた筈の「野路菊」も少なくなり、往時の姿からは程遠い。淡路島にも海峡横断の「明石大橋」が架けられ、景観も変わった。海岸の変化は、激しい瀬戸内・明石海峡の潮流のせいだし、橋も時代の要請だから、仕方ない事なのだろう。その下溝住宅は、林からは程無い距離だったが、成願寺市営住宅が林校区だったにもかかわらず、何故か藤江小学校校区だった。しかし、浜名正信はそこから通っていた。
高校生になって、そこから通っていた川西匡子を知ることになる。
不思議な出会いだったし、余りに近い場所だったから、今でもその場所に立つと懐かしさと、不思議な悔しさを感じてしまう。
既に住宅は、高層住宅化され、そこに住んでいた多くの友はその場所に居ない。
すぐ南に在った「塩会社」の火事で、避難騒ぎがあったことを、その大きな火と立ち上がる黒煙を、
幼稚園の前から唖然と眺めていた大勢の人達、崖の東に残っていた枯れ草まで燃え広がり、夕暮れまで鎮火しなかったこと思い出す。
その高台の下からが、林の領域だった。
浄蓮寺は、林の西の端に位置し、寺の外れに墓場があった。
僕は、当時林の死者はそこに埋葬されるのだと信じていた。
何時の頃まで許可されていたのか知らないが、土葬である。
その場所を「サンマ」と呼んでいたのだが、それが仏教用語で言う「三昧場」の意味だった事を知ったのは後になってからだった。
死者の野辺送りは何度か体験したし秋の終わり頃の、ヤマの下草が殆ど茶色に枯れ木々の葉もすっかり散ってしまった頃の弔いは、本当に悲しい光景だった。
埋葬の後、決して後ろを振り返っては駄目だ、と言われていたし、何かしらえたいの知れない恐ろしい物が後を追いかけてくる衝動にかられて、いつも、墓地の横の道を歩くときは早足になっていた。
殆どが海から吹きつける風に乗って運ばれた砂に埋もれてしまっている卒塔婆や、風化して墓名さえ読めなくなってしまっている墓石、素焼きの花立てに、枯れたまま放置されて残っている花など、どれを取っても悲しい光景だけだった。
その墓地の頂上からは、海が見渡せた。
いつのことだったか、棺を回す蓮台の石の間にそこで拾った10円玉を入れて、「10年後に取りに来よう」等と話し合ったことがあった。
その時一緒だったのは、魚住仁、長谷川正巳、柳本隆蔵、松岡信夫、春川忠義の6人だった。
何故覚えているのか不思議だが、魚住の家で大騒ぎした後だったことだけは確かだ。
級友魚住仁は、この墓地の光景を彼の詩作・創作時代に一遍の詩に詠み、僕の東京生活時代に送ってくれたはがきに走り書きして寄越した。
彼の家は、浄蓮寺(住職は、中学校で社会科を教えていた、白旗先生。ボンチャンの愛称だった)の筋向かい。
港に続く道を南へ行く途中、坂を登った辺りだったかに菊谷哲夫の家もあったし、長谷川正巳の家も近かった。
畠田商店(駄菓子・煙草・うどん)の西の路地を南に行くと、親戚関係にあった井上保の家に至る。
井上要の家も近かった。
地番は八黒町だったか、中ノ町だったか。
港に近く、小さな祠があった。
水産加工業の「カネキ」の屋号を持つ岸本和義の実家と、樟享子(きょうこと読むのだが、字は亨だったか)の家は近かった。
どちらも立派な庭木のある、裕福な家だったから、子供心に少しだけ羨ましかった。
これも親戚関係にあった「高浜のおばちゃん」の家が、山本悦子の実家だった。
すぐ南には、西海司の家があった。
まじめな性格の彼とは、随分よく議論していたし勉強もしたように思う。
先年(平成8年)同窓会の直前に、突然の訃報に接して戸惑ったが、人丸町の所帯を訪問し、級友としての線香を上げてきた。
一部完成していた、この「ロマンチストの独り言」に奇しくも登場していた彼の名があったため、奥様の御了解を頂き霊前に残してきた。
過去の記憶を残そうとしている僕の行為は、時折悲しい行為ではないかと疑ってみたりするのは、友らの悲しい出来事を見聞したときである。
人の一生は、結局一度きりなのだと、或いは、共通の関わりも一方の死で終わって行くのだと割り切るしかないのだろう。
過去の幾つかを言葉で残した所で、何も変わりはしないのだろけれど、しかし僕自身は僕自身しか正確には覚えていないのだし、
もしかして僕の関わった人々が忘れてしまっていることであっても、僕だけが覚えていることもある。
だからこそ、僕はそれだけでも残したいと思っている。
高浜東ノ町(たかひがし)と、僕の住んでいた林川端町の間には、小さな川が流れていた。
その川には3つの橋が架かり、真ん中の橋の手前に鶴谷千恵子の実家、煙草屋(駄菓子屋も売っていたし、子供達は、店の名をマーサンと呼んでいた)があり、
北側の橋を渡って集落の西端、浄蓮寺に続く一本道の南に木内美智子の家(米屋)、筋向かいに木内芳子の家があった。
海へ続く細い川が流れが丁の境で西は高浜、東が林、浜脇清子や木本利英が住んでいた。
*
林の集落を縫って流れる灌漑用水路の末端は、その殆ど全てがこの川に集まり、港に流れ込んでいた。
だから周辺が田圃で大半を占められていた当時は、常時流れはあったから、流されてきた色んな植物の種子が土手に止まり根づいていたし
田圃に住む生き物達があちこちに生きていたし、海が荒れたりすると小魚が迷い込んでいたりしてそれはそれは楽しい光景だった。
中でも壮観だったのは、春先のオタマジャクシの群れで、橋の下の淀みが真っ黒になっているのが常だった。
橋と言っても粗末な木橋だったし欄干等は勿論無かったから、自転車に乗り始めた頃等
橋の手前でカーブ出来ずにしっかり川に飛び込んだことも何度となく経験した。
橋を渡った南には、赤い丸型ポストが目印になっていた、小林商店(駄菓子屋)。
そこの三兄弟(お姉さんが一人居たが)も年齢が近く遊び仲間だった。
東隣が農家の藤井さん。
近隣に4軒もの駄菓子屋さんがあったが、毎日買い食いが出来るほどに、小遣いを貰えるような身分でなかった。
しかし、誰かしらそこで駄菓子を買っていたから、時にはそのおこぼれに預かれることもあった為、
お店の前は、いつも人が集まっていたような気がする。
店の前の鉄工所には、旋盤の後の鉄屑が大きなドラム缶に捨てられていたが、手出しは出来なかった。
恐いオジサンがいつも工場の中から目を光らせていた。
その東隣は崩れた石垣の中に花が一杯咲いていたし畑があり、
時折芋が収穫される頃に庭で枯れ葉を集めて出来たヤキイモをご馳走になったりした。
僕たちの当時の記憶の殆どは、日々の食べ物の記憶である。
その隣が、金水湯。時折年寄りの馬が牽く大きな荷車が、不揃いの木切れを一杯積んで、風呂場の裏庭に出入りしていた。
馬車の後を辿ると、木切れがあちこちにこぼれ落ちている。
親切な僕たち(?)は、その木切れを拾い集め、裏庭に居る釜焚きさんに持って行く。
時には、そこで牛乳を頂けることがあったから、僕たちは夕食前の空腹を満たせることもあった。
その隣が、卵焼き・うどんの「泉屋」。
御主人は町の芸術家で、書も、絵も独自で習得され、狭いお店の中は作品で一杯になっている。
その前の、南に続く道が神応寺の横を通る道で、少し右に曲がりながら海まで続いている。
泉屋の前の道はそのまま東に延び、サンマ等の水産加工所、樽井葬祭、藤井洋品店、陣崎豊の家
林駐在所(今は無いが、当時は蓬莱巡査が駐在さんだった)、火の見櫓、望海診療所(共に今は無い)と続き、小学校の南の四つ角に当たる。
反対側の、神応寺裏手に続く一帯はまだまだ荒れ地も残っていたし、その一部は畑になっていたから、季節の花・雑草が勝手に生え育っていた。
農家に牛が飼われているのはごく自然だったし、運搬荷役用に、馬も供されていたから、通学路に馬糞が転がっているのはこれもごく自然だった。
通学路の清掃作業は、子供たちの仕事だったが、この馬糞撤去作業は誰もが嫌がった。
秋の運動会の頃等、それを踏んづけるとビリになるとか、あるいは一番なれるとかの風聞の為、
本来有り得ない校舎の中迄それを持ち込む悪戯仲間が居て始終騒然としていた。
さすがに裸足で通学する仲間は減っていたが、校庭内では裸足で走りまわることの方が多かったから、
一度でもそれを踏んづけると相当長い期間、嘲笑の的だった。
今で言うイジメなのだが、陰湿ではなく、時にガキ大将がその犠牲者になることもあったから
愉快だったし、しっかり同じように嘲笑の的になっていたから、まだまだ子供だった。
南東角の四つ角、城下町(船上城)の名残の桝形になった道を抜けると、若宮神社に至り
なお東すると、大東市営住宅。ここには岡本芳美、浅井喜代子(歯科医で、お兄さんが国体100メートル優勝者だった)、野球の名ショート浜村繁夫が居た。
若宮神社の東隣には、田圃の中の一本道が細く北に延びており、新明町の市営住宅から、浜国道に至った。その新明町住宅には、土井正治、汐口恵美子、永谷杳乃(はるかの、と呼んだ)、長原礼子、尾田祥子が居た。
ここには、成願寺地区に劣らぬくらい、錚々たる秀才が揃っていた。
道路を挟んだ北、山陽電車の小さな踏切に向かう途中には岡村多美子の家があった。
小学校の正門はやや北にあったが、学校前の藤原文具店の先に、森岡清子の家があり、荒井加代子の御両親は、用務員(当時は、小使いさんと呼んでいた)だったから、悪戯が過ぎてよく叱られたものである。
幾つかの悪戯
随分遠回りしたが、ほぼ林を左回りに一周した。
全員の名前を言われて、その実家が大体どの辺りだったか覚えていたのは何時の頃までだったのだろう。
皆同じ学年だったし、昭和20年4月から21年3月までの僕たちの学年は、
その前年よりもその次の年よりもガクンと出生率が落ちていた年代、際立って少数派だったから、全ての顔と名前は間違いなく一致していた。
一クラス50人程度だったが、4クラス目は50人には満たなかった。
卒業写真に写っている人数を数えたら180人だった様に覚えているが、もう名前と顔が一致する人の方が少なくなっただろう。
卒業以来会ったことも無い人も大勢居るし、明石の町ですれ違っても気付くことはないだろう。
しかし、不思議なことに声を聞くと思い出す人が多いのは何故なのだろう。
何度かのクラス会・同窓会でそれを感じている。
どこかに懐かしい故郷の訛りが残り、その一言だけで、自分達の生まれた場所がさほど遠くない位置に在ったことを思い出すからだろうか。
たとえ見かけ上は様変わりしてしまっていても、心の何処かに、共通な原風景が見つけられるからだろうか。
僕には、その原風景が浄蓮寺の西の「サンマ」であり、林神社の高台から望めた、淡路島だったと今でも思っている。
何度か登場した、若宮神社・宝蔵寺の境内には、鹿の瀬伝説の、「雌鹿の松」が半ば枯れかかって粗末な柵の中にあった。
年中何かしらの祭りが行われていた当時、その毘沙門さんの秋祭りは、最も人出があった。
秋の収穫祭だったと思うのだが、神社の中では、賽銭播き(ゼニまきと言っていた)、モチ播きが行われた。
小学生は絶対参加厳禁だった。
しかし、悪童達は、神官の目を盗む危険を冒しての賽銭釣りよりも、当然、公然と頂ける賽銭を
大人達に独占させる気など毛頭なく、何人かは、こっそり授業を抜け出し、
畦道を突っ切って境内に忍び込み石畳の境内に大人が拾い損ねた、或いは少額のため拾ってもらえなかった、某かの現金を手に入れた。
ただ、この冒険にはしっかり罰が待ち受けていた。
他のクラスは覚えていないが、僕のクラスの担任、山田先生(尭・たかしと読む)通称カカシは大声で叱る事はなかったが、とにかく悪事がバレた時のお仕置きは必ず、ゲンコツでゴンと頭を叩くのが常だった。
比較的大柄だった先生が、ほぼ真上からゲンコツを落とし、その尖った第二関節で二三度ゴリゴリとやるのである。
とにかく痛かった。
廊下に立たされ、整列させられた男子生徒が、ゴンとやられるのを見ている女の子も、とても痛そうな顔をしていたくらいだ。
「カカシのゲンバク」として、恐れられていたそのお仕置きも、結局は悪童達の度重なる悪戯の前には、一つの牽制でしかなかった。
僕たちは、一体卒業までに何度その「ゲンバク」を受けたのだろう。
学校の正門から若宮神社までは、正規の道が付けられては居たが、僕たちのコースは
水田の中の畦道を抜け、神社の北を流れていた灌漑用水路を飛び越えて、境内へ忍び込むのが一般的だった。
田植えの頃の一面の水田に大発生するオタマジャクシや、タガメ、田螺、梅雨の頃のカエルの大合唱、
夏から秋へのイナゴの乱舞、刈り取りの前後のトンボの乱舞。全てが遊びの対象だったから、田圃の所有者は大変である。
僕は飛び抜けて成績が良かったわけではないが、他のメンバーよりも少しだけ真面目で先生の受けも良かったから
いつも学級委員をやらされていた。
悪戯がバレると、叱られるのは悪戯の張本人達なのは当然だったが、何故かいつも学級委員も呼ばれた。
だから、と言うわけではなかったが、くやしかったから田圃への侵入に悪知恵を働かせたりしていた。
小学校の校庭は広かった。
南東角には、体育用具庫があり、野球用のバックネットがあった。
広い校庭だったから、南東方向と、北西方向の2面のソフトボール用スペースが取れた。
真剣に野球をやっているときは、当然そんな馬鹿はやらなかったが、野球を終えて次の遊びに移るときは必ず、やった悪戯がある。
練習のフリをして、ボールを田圃の方向に打つのである。
当然ボール捜しが始まるのだが、野球を終わりにした後の僕たちには、ボールなどどうでも良い事だった。
僕たちは真剣にボールを捜す振りをして、ある者は水中の生き物を捕まえ、ある者は飛び交う昆虫を捕まえる事に夢中になった。
同じクラスの女子とは折り合いが悪かったから、必ず告げ口され、時に田圃の所有者に追っかけられたりもした。
それでも懲りずに暴れまわることが出来るほど、僕たちはタフだった。
精神的にも肉体的にも。
それだけが子供の特権だと思っていたし、何よりもそのことの他に、有り余る時間を使う術を持っていなかった。
校庭の東の田圃は、道一つ隔てた位置だったが、西側は灌漑用水路の末端の、細い川を隔てた場所にあった。
こちらも同じように、悪童の遊び場所だったが、細い川が境にあったため、さほど大きな被害を与えた記憶がない。
あるいは、その大半が、同級生木内美智子の家の田圃だったからかも知れない。
その田圃に取り囲まれるように、林幼稚園があった。
その西には、海から林神社に続く細い道がやや斜めに延び、
その道から西は下溝住宅までの間に細い南北の道が一本通るだけの、一面の田圃が広がっていた。
どれくらいの広さだったのだろう。
田圃の中を流れる細い川沿いに、川幅よりも細い道が一本付けられていたが、小学校時代は足を踏み入れることはなかった。
しかし、飽きずにそこでイナゴを追いかけたりした事もあった筈なのだが、記憶に残っているのは何故か学校の東側の田圃での悪戯ばかりである。
若宮神社から海へ向かって延びるその通りに、毘沙門湯があった。
当時、自宅に風呂を持つ家庭は、間違いなく裕福な家であり、大多数は銭湯だった。
林には三つの銭湯があった。自宅近くの金水湯と、この毘沙門湯、浜国道沿いの新明町にあった、新明湯。
日中は散々大暴れしていた僕たちも、夜は意外に真面目だった。
友人達と風呂屋で騒ぐ事は禁じられていたし、毎日必ず風呂に入れたわけではなかったし
第一、暗くなると街灯など無かった時代、怖さも手伝って夜間の悪戯は極端に少なかった。
テレビは当然無かったし、ラジオは大人に占有されていただろうし
勉強などあまり熱心にはしなかったから一体、夜の時間は何をしていたのだろう。
きっと「良い子は早寝早起き」だったのだろうか。
夜更かしの記憶は、小学校時代にはまったくない。
僕の住んでいた家の周辺は、半農半漁だったが、戦後の景気が少しずつ回復するに従って、会社勤めの家庭が増え始めていた頃でもあった。
しかし、先にも書いた通り林地区は、戦時中、広大な川崎航空機の工場が、成願寺の北西に広がっており
空襲の標的になっていたため、紀伊水道を北上してきた米軍の爆撃に晒され、焼夷弾攻撃によって壊滅的な被害を受けた所。
何も残らなかったのだろうし、元々貧しい家庭の多かった地域だから、戦後の復興期が一段落しても
まだまだバラックや、貧相な家が軒を連ねている風景は当然だった。
我が家も例外ではなかった。
敷地こそまずまずだったが、大半は野菜が植えられていたし、所々に花壇もあるにはあった。
その敷地を少し掘り起こすと、焼失前まで営んでいた「酒屋」の跡を忍ばせる、焼夷弾の光熱で焼かれ曲がってしまった瓶類のカケラが至る所から出てきた。
ときには、旧式の鉄砲さえも錆付き焼け爛れて掘り出されたりもした。
父の手作りの、竹を素材とした垣根に、バラの花が蔓を伸ばしていた。
季節の花達は、貧しい生活にも少しばかり潤いを与えてくれていたのだろうが、当時の僕にはそのような感慨はなかった。
その庭の北西の隅っこに、一軒家があった。
間取りは、六畳の畳一間と三畳程度の板の間、井戸のある土間だけの家。
屋根は瓦葺ではなく、杉の樹皮葺(確か、とんとんと呼んでいた)だったからいつも雨が降ると、洗面器と古新聞が活躍していた。
雨降りの夜などに、寝小便でもしようものなら新聞紙が足りず、朝まで冷たい布団の隅の方に丸まっていなければならなかった。
だが、不思議に惨めさはなかった。
皆同じ環境で育っていたこともあるし、ひもじさは感じていても満たされる事が叶わないことは知っていた。
だから、学校の授業が終わっても、家の中での勉強も、勿論遊びなど出来る筈はなかった。
だからこそ、家の外の自分たちのテリトリー、つまりは遊びまわれる範囲の、まだまだ壊れたままの建物や
いかにも手付かずのままに放置されているとしか思えない空き地、多少の危険を冒しても存分に遊びまわれた田圃や広い砂浜が僕たちの場所!!だった。
当然、危険・立ち入り禁止の場所なのだが、かえってその様な場所ほど悪童達の格好の遊び場になっていた。
海から神社に向かう一本道は、粗末な木造の橋を越え、専修寺(せんじゅじ)の横を過ぎて、一面の田圃の中にポツンと建てられていた林幼稚園の脇を通る。
貧しい生活だったけれど、僕たちは二年保育の最初だったかで、幼稚園には二年間通っている。
仲間は少なかったが、変色してしまった二枚の集合写真には、眩しい日差しを南から受けて真面目に並んで座っている6歳と7歳の僕たちが居る。
間違いなく、そのままその時代に生きていたことを覚えている筈の僕たちが居る。
途中地元で獲れる、さんまの開き(サイラと称していた)を加工していた級友、長田三郎の自宅を左に、程なく通称・浜国道(国道250号線)に至る。
明石駅前を起点にするこの道は、北の国道2号線に対比して浜国道と称されていたが、30分に一本市営バスが走る程度の、当時は未だ一部未舗装の県道だった。
林神社前バス停留所は、現在も当時と殆ど変わらない位置にある。
角の薬局は、近藤好幸の家だった。
その交差点に信号機が付けられたのは随分後になってからだ。
バス停にあったタバコ屋さんには、今で言う身障者がいつも居た。
藤原さんと言うおばさんが一人店を切り盛りし、件の男性を皆は「キッキャン」と呼んでいた。
本名は知らなかったから、僕たちもそう呼んだ。
彼は、歩く事も不自由だったし、喋る事も不自由だったが意外な明るさを持っていた。
道路を横切り、兵庫・姫路間を走っていた山陽電車の踏み切りを越えた左手には、空襲で焼失してしまった工場跡が広がっていた。
歪んだ鉄骨が、崩れたままのコンクリートブロックが、僕たちの小学校時代はまだ放置されたままだった。
殆ど皆が悪童だった(!!)僕たちは、放課後、「探検」と称して、幾度も立ち入り厳禁の立て札を横目に
或いは裏返しにしてそこへ潜り込み、地下室跡(防空壕の役割を果たしていたようだったが)を手探りで歩き回った。
天井には、あちこち穴が開いていたから、薄暗さの中での探検はさほど危険とは思わなかった。
ただ、瓦礫の中には、ガラス片も交じっていたし、鉄条網も張り巡らされていたから、探検から戻る頃には、誰かの手足から必ず血が流れていた。
それでも誰もその事を気にすることもなく、懲りずに何度もそこに潜り込んでいた。
林神社は、漁師町の集落の殆どを見渡せる位置にあったし、高い建物が無かった当時は、学校の向こうに淡路島が見渡せた。
地形的には、屏風ケ浦と呼ばれた海岸段丘の東の端に当たり、その海の部分に、林の集落があった。
神社の石積みの階段は、長年の風雨に晒されてあちこち歪んだり、欠落していたし、
松とウバメガシ、椿などが中心だった植栽も、傾斜地で粘土質の土壌のため、倒れそうになったまま何とか這いつくばっている風情だった。
階段の周辺は、それでも人の手が入っていたが、神社の西側、成願寺へ抜ける細い道の両側は、昼間でも薄暗い程に何本もの大木が折り重なって育っていた。
無造作に、延びるにまかされた蔓性の草がからまっていたから、鬱蒼とした風情を一層暗く感じさせていた。
おまけに、猛毒の蛇・マムシもいたから危ない場所だったけれど、猛者たちはそれを捕獲して町まで売りに出た。
戦争中、神社の南一帯は焼夷弾の雨に晒され、すっかり焼き尽くされたそうだが、
何故神社の周辺にだけ大木が残ったのかは不思議に思えて仕方なかった。
そこだけ奇跡的に焼かれずに残ったとも思えなかったが、神社の東南側の斜面にも雑木林が残され竹薮も気味の悪いくらいに鬱蒼としていた。
港の周辺の砂浜か、学校の運動場か、田圃・畑等の平地以外にも僕たちの遊び場はなかった訳ではないし、
至る所が遊び場だったが、丘陵地はこの神社周辺だけだった。
「あぶないから、気をつけろ」と言う先生方の注意は無視するとしても、マムシが時折現れたりする危険もあったのだが、その危険と隣り合わせのスリルが僕たちには楽しかった。
その鬱蒼とした植栽は当然、季節の虫達、小動物の格好の棲み家だったから、その虫達を次々捕まえることは、僕たちの日課だった。
マムシを捕まえるとお金になる事は知っていたが、敢えて獲りに出掛けはしなかった、と思う。
普通のヘビは面白がってよく捕まえたが。
その丘陵地での遊びは、ギュウニュウという、鬼ごっこが僕たちの最も気に入っていた遊びだった。
敵味方二組に分かれての陣取りゲームの類なのだが、隠れる場所には事欠かない神社の森。
多少大騒ぎしても近所迷惑など無縁の場所だったから、飽きること無くクタクタに疲れるまで、丘陵地を走り回っていた。
しかし、しっかりした靴を履いていたわけではないし、服装もシャツ一枚だったしで、
日暮れに(と言うよりも空腹に耐え切れずに)ゲームを終えて、家路に就く頃は、殆ど全員が何もかも泥塗れ、という姿になっていた。
そんな格好のままで家に帰ることの出来ない僕たちは、
級友、東望の家(呉服屋さん。彼のボーイソプラノは、優しい性格と共に女の子に人気があった)の横を抜け、学校の北西側の細道(そこは、灌漑用水路の末端部分が、海に流れ込む細い川に沿った道だった)で、泥を洗い落とした。
中には、大胆にも学校に入って水道で洗う連中も居たが、当直の先生に見つかることが恐くて、僕は一度もそこに寄ったことはない。
着替えなど望むべくも無く、まして木の枝なんかで破きでもすれば、どんなに叱られるか分からなかったから、裸で走りまわっていた。
しかし、別の心配があった。走り回っている時は気にならないものだが、冷たい水に触れたりすると、あちこちの擦り傷、切り傷が痛かった。
時には傷痕が化膿したりして、校舎の玄関脇にあった保健室の後藤先生にお世話になることも多かった。
件のゲームは、守備側は敵を捕まえ、陣地に連れ戻り、攻撃側は囚われた味方を取り戻す、という単純なもの。
その間、駆け引きで、陣地を無人にして全員で追いかけ回したり、違反なのだが木切れや、土の塊を投げつけたりの、大暴れ。
木と木の間にロープで罠を仕掛けたりして、味方がそれに掛かってしまうというドジもあったり。
クロスカントリーの要素が含まれたゲームだったせいで、長距離走に強い連中には楽しい遊びだった。
ギュウニュウでクタクタに疲れ、どろんこのまま、家に戻れなかった僕たちが、手足の泥を洗い流す事が常だった場所は
先に書いた通り、学校の北に広がる田圃からの流水だった。
幼稚園の建物以外は全て田圃、という景色の中に、田圃が広がり、その川沿いの畦道に大きな無花果の木があった。
それは、校庭の西の端に二つあった学校の便所(トイレなどと、現代風には書けない、とにかく臭く、汚い便所!!だった)の
南側の便所のすぐ側だったのだが、誰言うと無く、汚いから食べると毒だ、との風説があった。
その木は、川を挟んだ反対側あったし、便所の汚水・汚物を肥料にして育ったとしても、毒にはならない筈だったが、不思議に手が付けられなかった。
しかし、僕たちが5年生になった頃からだっただろうか。
林神社での大騒ぎの後、いつもその無花果を目的に学校立ち寄りが続き、遂には、実が色づく前から手の届く辺りの無花果は無くなってしまうようになった。
ヒモジサが日常だった僕たちには、実のなる木が、民家の敷地の中に在ってもこっそり採って腹の足しにしていたから
自然に生えているとしか思えない、道端の木や、畦道の草木になっている「実」は、皆のものだった。
犠牲になった木達や、その所有者には、申し訳ないと思う。
その無花果のほかにも、僕たちの犠牲になった「実」は多い。
しかし、余り雨が降らない気候温暖な瀬戸内には、これと言った有名な果物はなかった。
酸味がきつく、食べ過ぎると口の中がザラつくぐみや、多少の渋さを我慢しながら食べた柿、
スズメが啄ばんで落としていった枇杷くらいが、もっぱら僕たちの標的だった。
それは、校庭から手を伸ばせば取れる位置に在った、いわば皆のものだったからだろう。
しかし、港では様相は違った。漁師の家庭も多く、家の手伝いをすることが当然だった当時
クラスの仲間の多くは学校が終わると、手伝いを日課としていた。
大人に交じっての労働はキツかったと今も思う。
僕の父は、公務員だったから家の手伝いというのは、井戸の水汲みや掃除、畑の雑草抜きくらいだったから
友を訪ねて自宅を訪問し、そこの手伝いをする事は楽しい事だった。
疲れれば手伝うのを止めれば良いし、運が良ければ少しばかりの駄賃にありつけた。
それ以上に楽しかった事がある。
今でこそ、しっかりとコンクリートで固められた立派な港になっているが、その頃は港の中も砂浜が広がり
流木や古い漁具等が無造作に散乱していた。
その港の中の砂浜では、イリコ干しが盛んだった。
使い古され、あちこちに破れが目立つムシロを下に、大量のイワシが広げられる様は壮観だった。
雨の少ない瀬戸内気候は、そのようにして、天日干しをするには絶好の条件だった。
さほど広くはなかったがあちこちでイリコ干しが始まると、僕たち欠食児童は、近所のおばさんの手伝いに動き回った。
傍目には、親の手伝いをする感心な子供たち、だった。
しかし僕たちの狙いは、野良猫とさほど変わらなかった。
夕方近く、少しだけ乾燥し始めた半生状のイリコは新鮮だったから、広げられたムシロの端の方から少しずつ減って行った。
イワシの重なった部分を時々入れ替える作業があったのだが、その作業に紛れて、一掴み失敬するのである。
何十枚も広げられているその場所から、ほんの一握り程度だから殆どバレることはなかった。
尤も、手伝いながら乾燥具合を調べているおばさんに、一言「ちょうだい。」とさえ言えば、どうってことなく手に(口に)入ったのだが。
漁業組合のセリ市は、港の西の端で行われていた。
セリの最中の出入りは駄目だったが、漁師の家庭の子供達はこれも手伝いと称して、半ば公然と出入りしていた。
当然友人の後にくっついてそこへ出入りする事は、僕たちの遊びの一つだった。
魚介類をセリにかけるために、港の中にある生簀から、トロ箱に移す作業はもっぱら大人の仕事だったが
そのトロ箱をセリの場所に持って行くのは時折友人達の仕事になった。
セリそのものは、早朝だったが、午後の仕事はやはり子供に回される事があった。
這い出したタコが港の岸壁から海へ戻ろうとする現場に遭遇するのは、そんな午後だった。
僕たちは、瀬戸内で採れる魚は皆のものだと信じていた。
だからこっそり時には大胆に、その「商品」を失敬した。
当然だが、戦利品は市場の西に広がっていた広大な砂浜の一角で、流木を集めての「浜焼き」に供されたのは言うまでもない。
しかし、ただ僕たちはそのように、努力もせず「食べ物」を漁ってばかりいたわけではない。
しっかりと自分の範囲で、恐い父親(本当に何処の家でも父親は恐かったし、威厳があったし、大人だった)の言い付けを守り、家の仕事を分担していた。
だから当然の見返りとして、駄賃を貰ったり、少し裕福な家庭では小遣いを貰ったりしていたから
それを元手に(?)何某かの「食べ物」は手に入っていた筈である。
しかし、確かに満足・満腹の状態には程遠かったのだろうから
それを満たす為のプラスアルファとして、田圃や、畑、港を走り回りそこで手に入る物を、口にしていたと思う。
今考えると、その事自体が「子供の遊び」の範疇だったのではないか、と自己弁護したくなってしまう程、みんな子供だった。
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