goo blog サービス終了のお知らせ 

HAYASHI-NO-KO

雑草三昧、時々独り言

ロマンチストの独り言-31 【瀧口入道/高山樗牛】

2004-12-31 | 【独り言】

原本にある難読文字のルビ、補足解説(青色の漢数字表記)などを転記した為に全文は3ページに分割せざるを得なかった。
以下に、該当する章のリンクを示す。
【瀧口入道/高山樗牛】第一~第十三
【瀧口入道/高山樗牛】第十四~第二十五
【瀧口入道/高山樗牛】第二十六~第三十三  「滝口入道と横笛/神坂次郎」


ロマンチストの独り言-31 
【瀧口入道/高山樗牛】第二十六~第三十三  「滝口入道と横笛/神坂次郎」

第二十六

 瀧口入道、都に來て見れば、思ひの外なる大火にて、六波羅、池殿《いけどの》、西八條の邊《あたり》より京白川《きやうしらかは》四五萬の在家《ざいけ》、方《まさ》に煙の中にあり。洛中《らくちゆう》の民はさながら狂《きやう》せるが如く、老を負ひ幼を扶けて火を避くる者、僅の家財を携へて逃ぐる者、或は雜沓《ざつたふ》の中に傷《きずつ》きて助けを求むる者、或は連れ立ちし人に離れて路頭《ろとう》に迷へる者、何れも容姿を取り亂して右に走り左に馳せ、叫喚呼號の響、街衢〈ぐわいく〉に充ち滿ちて、修羅《しゆら》の巷《ちまた》もかくやと思はれたり。只々見る幾隊の六波羅武者、蹄の音高く馳せ來りて、人波《ひとなみ》打《う》てる狹き道をば、容赦《ようしや》もなく蹴散《けちら》し、指して行衞は北鳥羽の方、いづこと問へど人は知らず、平家一門の邸宅《ていたく》、武士の宿所《しゆくしよ》、殘りなく火中にあれども消し止めんとする人の影見えず。そも何事の起れるや、問ふ人のみ多くして、答ふる者はなし。全都《ぜんと》の民は夢に夢見る心地して、只々心安からず惶《おそ》れ惑《まど》へるのみ。

 瀧口、事の由を聞かん由もなく、轟《とゞろ》く胸を抑《おさ》へつゝ、朱雀《すざく》の方《かた》に來れば、向ひより形亂《かたちみだ》せる二三人の女房の大路《おほぢ》を北に急ぎ行くに、瀧口呼留めて事の由を尋ぬれば、一人の女房立留りて悲しげに、『未だ聞かれずや、大臣殿(宗盛)の思召《おぼしめし》にて、主上《しゆじやう》を始め一門殘らず西國《さいごく》に落ちさせ給ふぞや、もし縁《ゆかり》の人ならば跡より追ひつかれよ』。言捨《いひす》てて忙しげに走り行く。瀧口、あッとばかりに呆れて、さそくの考も出でず、鬼の如き兩眼より涙をはらはらと流し、恨めしげに伏見《ふしみ》の方を打ち見やれば、明けゆく空に雲行《くもゆき》のみ早し。

 榮華の夢早や覺《さ》めて、沒落の悲しみ方《まさ》に來りぬ。盛衰興亡はのがれぬ世の習なれば、平家に於て獨り歎くべきに非ず。只々まだ見ぬ敵に怯《おそれ》をなして、輕々《かろがろ》しく帝都を離れ給へる大臣殿《おとゞどの》の思召こそ心得ね。兎《と》ても角ても叶はぬ命ならば、御所の礎《いしずゑ》枕《まくら》にして、魚山《ぎよさん》の夜嵐《よあらし》[五八]に屍《かばね》を吹かせてこそ、散《ち》りても芳《かんば》しき天晴《あつぱれ》名門《めいもん》の末路《まつろ》なれ。三代の仇《あだ》を重ねたる關東武士《くわんとうぶし》が野馬の蹄《ひづめ》に祖先《そせん》の墳墓《ふんぼ》を蹴散《けちら》させて、一門おめおめ西海《さいかい》の陲《はて》に迷ひ行く。とても流さん末の慫名《うきな》はいざ知らず、まのあたり百代までの恥辱なりと思はぬこそ是非なけれ。

 瀧口はしばし無念の涙を絞りしが、せめて燒跡《やけあと》なりとも弔はんと、西八條の方に辿り行けば、夜半《よは》にや立ちし、早や落人《おちうど》の影だに見えず、昨日《きのふ》までも美麗に建て連《つら》ねし大門《だいもん》高臺《かうだい》、一夜の煙と立ち昇《のぼ》りて、燒野原《やけのはら》、茫々として立木《たちき》に迷ふ鳥の聲のみ悲し。燒け殘りたる築垣《ついがき》の蔭より、屋方《やかた》の跡を眺《なが》むれば、朱塗《しゆぬり》の中門《ちゆうもん》のみ半殘《なかばのこ》りて、門《かど》もる人もなし。嗚呼《あゝ》、被官《ひくわん》郎黨《らうたう》の日頃《ひごろ》寵《ちよう》に誇り恩を恣《ほしいまゝ》にせる者、そも幾百千人の多きぞや。思はざりき、主家《しゆか》仆《たふ》れ城地《じやうち》亡《ほろ》びて、而かも一騎の屍《かばね》を其の燒跡《やけあと》に留むる者《もの》なからんとは。げにや榮華は夢か幻《まぼろし》か、高厦《かうか》十年にして立てども一朝の煙にだも堪へず、朝夕玉趾《ぎよくし》珠冠《しゆくわん》に容儀《ようぎ》正《たゞ》し、參仕《さんし》拜趨《はいすう》の人に册《かしづ》かれし人、今は長汀《ちやうてい》の波に漂《たゞよ》ひ、旅泊《りよはく》の月に※[「あしへん+令」]※[「あしへん+并」]《さすら》ひて、思寢《おもひね》に見ん夢ならでは還《かへ》り難き昔、慕うて益なし。有爲轉變《うゐてんぺん》の世の中に、只々最後の潔《いさぎよ》きこそ肝要なるに、天に背《そむ》き人に離れ、いづれ遁《のが》れぬ終《をはり》をば、何處《いづこ》まで惜《を》しまるゝ一門の人々ぞ。彼を思ひ是を思ひ、瀧口は燒跡にたゝずみて、暫時《しばし》感慨の涙に暮れ居たり。

 稍々《やゝ》ありて太息《といき》と共に立上《たちあが》り、昔ありし我が屋數《やしき》を打見やれば、其邊は一面の灰燼となりて、何處をそれとも見別《みわ》け難し。さても我父は如何にしませしか、一門の人々と共に落人《おちうど》にならせ給ひしか。御老年の此期《このご》に及びて、斯かる大變を見せ參らするこそうたてき限りなれ。瀧口今《いま》は、誰れ知れる人もなき跡ながら、昔の盛り忍ばれて、盡きぬ名殘《なごり》に幾度《いくたび》か振※[「えんにょう+囘」]《ふりかへ》りつ、持ちし錫杖《しやくぢやう》重《おも》げに打ち鳴らして、何思ひけん、小松殿の墓所《ぼしよ》指《さ》して立去りし頃は、夜明《よあ》け、日も少しく上《のぼ》りて、燒野に引ける垣越《かきごし》の松影長し。

第二十七

 世の果《はて》は何處《いづこ》とも知らざれば、亡《な》き人の碑《しるし》にも萬代《よろづよ》かけし小松殿内府の墳墓《ふんぼ》、見上ぐるばかりの石の面に彫り刻みたる淨蓮大禪門の五字、金泥《きんでい》の色洗《いろあら》ひし如く猶ほ鮮《あざやか》なり。外には沒落の嵐吹き荒《す》さみて、散り行く人の忙しきに、一境闃《げき》として聲なき墓門の靜けさ、鏘々〈そうそう〉として響くは松韵〈さういん〉、戞々《かつかつ》として鳴るは聯珠、世の哀れに感じてや、鳥の歌さへいと低し。

 墓の前なる石階の下に跪《ひざまづ》きて默然として祈念せる瀧口入道、やがて頭を擧げ、泣く泣く御墓に向ひて言ひけるは、『あゝ淺ましき御一門の成れの果《はて》、草葉《くさば》の蔭に加何に御覽ぜられ候やらん。御墓の石にまだ蒸《む》す苔とてもなき今の日に、早や退沒の悲しみに遇はんとは申すも中々に愚なり。御靈前に香華《かうげ》を手向《たむ》くるもの明日よりは有りや無しや。北國《ほつこく》、關東《くわんとう》の夷共《えびすども》の、君が安眠の砌《には》を駭かせ參らせん事、思へば心外の限りにこそ候へ。君は元來英明にましませば、事今日あらんこと、かねてより悟らせ給ひ、神佛三寶に祈誓して御世《みよ》を早うさせ給ひけるこそ、最《い》と有り難けれ。夢にも斯くと知りなば不肖時頼、直ちに後世《ごせ》の御供《おんとも》仕《つかまつ》るべう候ひしに、性頑冥〈ぐわんめい〉にして悟り得ず、望みなき世に長生《ながら》へて斯かる無念をまのあたり見る事のかへすがへすも口惜しう候ふぞや、時頼進んでは君が鴻恩の萬一に答ふる能はず、退いては亡國の餘類となれる身の、今更君《きみ》に合はす面目も候はず。あはれ匹夫の身は物の數ならず、願ふは尊靈の冥護を以て、世を昔に引き返し、御一門を再び都に納《い》れさせ給へ』。

 急《せ》きくる涙に咽《むせ》びながら、掻き口説《くど》く言《こと》の葉《は》も定かならず、亂れし心を押し鎭めつ、眼を閉ぢ首《かうべ》を俯して石階の上に打伏《うちふ》せば、あやにくや、沒落の今の哀れに引き比《くら》べて、盛りなりし昔の事、雲の如く胸に湧き、祈念の珠數にはふり落つる懷舊の涙のみ滋《しげ》し。あゝとばかり我れ知らず身を振はして立上《たちあが》り、踉《よろ》めく體を踏みしむる右手の支柱、曉の露まだ冷やかなる内府の御墳《みはか》、哀れ榮華十年の遺物《かたみ》なりけり。

*  *  *  *

 盛りの花と人に惜しまれ、世に歌はれて、春の眞中に散りにし人の羨まるゝ哉。陽炎《かげろふ》の影より淡き身を憖《なまじ》ひ生《い》き殘りて、木枯嵐《こがらし》の風の宿となり果てては、我が爲に哀れを慰むる鳥もなし、家仆れ國滅びて六尺の身おくに處なく、天低く地薄くして昔をかへす夢もなし。――吁々思ふまじ、我ながら不覺なりき、修行の肩に歌袋かけて[五九]、天地を一爐と觀ぜし昔人も有りしに、三衣を纏ひ一鉢を捧ぐる身の、世の盛衰に離れ得ず、生死流轉の間に彷徨《さまよ》へるこそ口惜しき至りなれ。世を捨てし昔の心を思ひ出せば、良しや天落ち地裂くるとも、今更驚く謂れやある。常なしと見つる此世に悲しむべき秋もなく、喜ぶべき春もなく、青山白雲長《とこしな》へに青く長へに白し。あはれ、本覺大悟の智慧の火よ、我が胸に尚ほ蛇の如く※[「螢の虫部分を火」]《まつ》はれる一切煩惱を渣滓《さし》も殘らず燒き盡せよかし。

 斯くて瀧口、主家の大變に動きそめたる心根を、辛《から》くも抑へて、常の如く嵯峨の奧に朝夕の行《ぎやう》を懈〈おこた〉らざりしが、都近く住みて、變り果てし世の様を見る事を忍び得ざりけん、其年七月の末、久しく住みなれし往生院を跡にして、飄然と何處ともなく出で行きぬ。


第二十八

 昨日は東關の下に轡《くつわ》竝《なら》べし十萬騎、今日は西海の波に漂ふ三千餘人。強きに附く人の情なれば、世に落人の宿る蔭はなく、太宰府《だざいふ》の一夜の夢に昔を忍ぶ遑〈いとま〉もあらで、緒方《をがた》に追はれ、松浦に逼られ、九國の山野廣けれども、立ち止《と》まるべき足場もなし。去年《こぞ》は九重《こゝのへ》の雲に見し秋の月を、八重《やへ》の汐路《しほぢ》に打眺《うちなが》めつ、覺束なくも明かし暮らせし壽永二年。水島《みづしま》、室山《むろやま》の二戰に勝利を得しより、勢ひ漸く強く、頼朝、義仲の爭ひの隙《ひま》に山陰、山陽を切り從へ、福原の舊都まで攻上《せめのぼ》りしが、一の谷の一戰に源九郎が爲に脆くも打破られ、須磨の浦曲《うらわ》の潮風に、散り行く櫻の哀れを留めて、落ち行く先は、門司《もじ》、赤間《あかま》の元の海、六十餘州の半を領せし平家の一門、船を繋《つな》ぐべき渚《なぎさ》だになく、波のまにまに行衞も知らぬ梶枕《かぢまくら》、高麗《かうらい》、契丹《きつたん》の雲の端《はて》までもとは思へども、流石《さすが》忍ばれず。今は屋島《やしま》の浦に錨《いかり》を留めて、只《ひた》すら最後の日を待てるぞ哀れなる。

*  *  *  *

 壽永三年三月の末、夕暮近《ゆふぐれちか》き頃、紀州《きしゆう》高野山を上《のぼ》り行く二人の旅人《たびびと》ありけり。浮世を忍ぶ旅路《たびぢ》なればにや、一人は深編笠《ふかあみがさ》に面《おもて》を隱して、顏容《かほかたち》知《し》るに由なけれども、其の裝束は世の常ならず、古錦襴《こきんらん》の下衣《したぎ》に、紅梅萌黄《こうばいもえぎ》の浮文《うきあや》に張裏《はりうら》したる狩衣《かりぎぬ》を着け、紫裾濃《むらさきすそご》の袴腰、横幅廣く結ひ下げて、平塵《ひらぢり》の細鞘、優《しとやか》に下げ、摺皮《すりかは》の踏皮《たび》に同じ色の行纏《むかばき》穿ちしは、何れ由緒《ゆゐしよ》ある人の公達《きんだち》と思はれたり。他の一人は年の頃廿六七、前なる人の從者《ずさ》と覺しく、日に燒け色黒みたれども、眉秀いで眼涼しき優男《やさをとこ》、少し色剥げたる厚塗の立烏帽子に卯の花色の布衣を着け、黒塗の野太刀を佩きたり。旅慣れぬにや、將《はた》永の徒歩《かち》に疲れしにや、二人とも弱り果てし如く、踏み締むる足に力なく青竹《あをだけ》の杖に身を持たせて、主從相扶け、喘《あへ》ぎ喘《あへ》ぎ上《のぼ》り行く高野《かうや》の山路、早や夕陽も名殘を山の巓〈いただき〉に留めて、崖《そば》の陰、森の下、恐ろしき迄に黒みたり。祕密の山に常夜の燈《ともしび》なければ、あなたの木の根、こなたの岩角《いはかど》に膝を打ち足を挫《くじ》きて、仆れんとする身を辛《やうや》く支《さゝ》へ、主從手に手を取り合ひて、顏見合す毎に彌増《いやまさ》る太息の數、春の山風身に染みて、入相《いりあひ》の鐘の音《ね》に梵缶《ぼんふう》[六〇]の響き幽《かすか》なるも哀れなり。

 十歩に小休、百歩に大憩、辛《からう》じて猶ほ上り行けば、讀經の聲、振鈴の響、漸く繁くなりて、老松古杉の木立《こだち》を漏れて仄《ほのか》に見ゆる諸坊の燈《ともしび》、早や行先も遠からじと勇み勵みて行く程に、間《ま》もなく蓮生門を過ぎて主從御影堂《みえいだう》の此方《こなた》に立止まりぬ。從者《ずさ》は近き邊《あたり》の院に立寄りて何事か物問ふ樣子なりしが、やがて元の所に立歸り、何やら主人に耳語《さゝや》けば、點頭《うなづ》きて尚も山深く上り行きぬ。

 飛鈷《ひこ》[六一]地に落ちて嶮に生《お》ひし古松の蔭、半《なかば》立木を其儘に結びたる一個の庵室、夜毎《ごと》の嵐に破れ寂びたる板間《いたま》より、漏る燈の影暗く、香烟窓を迷ひ出で、心細き鈴の音、春ながら物さびたり。二人は此の庵室の前に立ち止まりしが、從者《ずさ》はやがて門に立ちよりて、『瀧口入道殿の庵室は茲に非ずや。遙々《はるばる》訪《たづ》ね來りし主從二人、こゝ開け給へ』と呼ばはれば、内より燈《ともしび》提《さ》げて出來《いできた》りたる一個の僧、『瀧口が庵は此處ながら、浮世の人にはるばる訪はるゝ覺えはなきに』と言ひつゝ訝しげなる顏色して門を開けば、編笠《あみがさ》脱《ぬ》ぎつゝ、ツと通る件の旅人、僧は一目見るより打驚き、砌《しきいし》にひたと頭を附けて、『これはこれは』。


第二十九

 世移り人失《ひとう》せぬれば、都は今は故郷《ふるさと》ならず、滿目奮山川、眺《なが》むる我も元の身なれども、變り果てし盛衰に、憂き事のみぞ多かる世は、嵯峨の里も樂しからず、高野山に上りて早や三年《みとせ》、山遠く谷深ければ、入りにし跡を訪《と》ふ人とてあらざれば、松風ならで世に友もなき庵室に、夜に入りて訪《おとづ》れし其人を誰れと思ひきや、小松の三位中將維盛卿にて、それに從へるは足助二郎重景ならんとは。夢かとばかり驚きながら、扶《たす》け參らせて一間《ひとま》に招《せう》じ、身は遙《はるか》に席を隔てて拜伏《はいふく》しぬ。思ひ懸けぬ對面に左右《とかう》の言葉もなく、先《さき》だつものは涙なり。瀧口つらつら御容姿《おんありさま》を見上ぐれば、沒落以來、幾《いく》その艱苦を忍び給ひけん、御顏痩せ衰へ、青總の髮疏《あらゝ》かに、紅玉の膚《はだへ》色消え、平門第一の美男と唱はれし昔の樣子、何《いづ》こにと疑はるゝばかり、年にもあらで老い給ひし御面に、故《こ》内府の俤あるも哀れなり。『こは現《うつゝ》とも覺え候はぬものかな。扨も屋島をば何として遁《のが》れ出でさせ給ひけん。當今天《あめ》が下は源氏の勢《せい》に充《み》ちぬるに、そも何地《いづち》を指しての御旅路《おんたびぢ》にて候やらん』。維盛卿は涙を拭ひ、『さればとよ、一門沒落の時は我も人竝《ひとなみ》に都を立ち出でて西國に下《くだ》りしが、行くも歸るも水の上、風に漂ふ波枕《なみまくら》に此三年《このみとせ》の春秋は安き夢とてはなかりしぞや。或はよるべなき門司の沖に、磯の千鳥とともに泣き明かし、或は須磨を追はれて明石の浦に昔人《むかしびと》の風雅を羨み、重ね重ねし憂事《うきこと》の數《かず》、堪《た》へ忍ぶ身にも忍び難きは、都に殘せし妻子が事、波の上に起居する身のせん術《すべ》なければ、此の年月は心にもなき疎遠に打過ぎつ。嘸や我を恨み居らんと思へば彌増《いやま》す懷《なつか》しさ。兎《と》ても亡びんうたかたの身にしあれば、息ある内に、最愛《いと》しき者を見もし見られもせんと辛《から》くも思ひ決《さだ》め、重景一人伴《ともな》ひ、夜に紛《まぎ》れて屋島を逃《のが》れ、數々の憂《う》き目を見て、阿波の結城の浦より名も恐ろしき鳴門《なると》の沖を漕ぎ過ぎて、辛《やうや》く此地までは來つるぞや。憐れと思へ瀧口』。打ち萎《しを》れし御有樣、重景も瀧口も只々袂を絞るばかりなり。瀧口、『優《いう》に哀れなる御述懷、覺えず法衣を沾《うるほ》し申しぬ。然《さ》るにても如何なれば都へは行き給はで、此山には上り給ひし』。維盛卿は太息吐《つ》き給ひ、『然《さ》ればなり、都に直に歸りたき心は山山なれども、熟々《つらつら》思へば、斯かる體《てい》にて關東武士の充てる都の中に入らんは、捕はれに行くも同じこと、先には本三位の卿[六二](重衡)の一の谷にて擒となり、生恥《いきはぢ》を京鎌倉に曝《さら》せしさへあるに、我れ平家の嫡流として名もなき武士の手にかゝらん事、如何にも口惜しく、妻子の愛は燃ゆるばかりに切《せつ》なれども、心に心を爭ひて辛く此山に上りしなり。高野に汝あること風の便《たより》に聞きしゆゑ、汝を頼みて戒を受け、樣《さま》を變へ、其上にて心安く都にも入り、妻子にも遇はばやとこそ思ふなれ』。

 瀧口は首《かうべ》を床《ゆか》に附けしまゝ、暫し泪《なみだ》に咽《むせ》び居たりしが、『都は君が三代の故郷なるに、樣を變へでは御名も唱へられぬ世の變遷こそ是非なけれ。思へば故《こ》内府の思顧の侍、其數を知らざる内に、世を捨てし瀧口の此期《このご》に及びて君の御役に立たん事、生前《しやうぜん》の面目《めんぼく》此上《このうへ》や候べき。故内府の鴻恩に比《くら》べては高野の山も高からず、熊野の海も深からず、いづれ世に用なき此身なれば、よしや一命を召され候とも苦しからず。あゝ斯かる身は枯れても折れても野末《のづゑ》の朽木《くちき》、素《もと》より物の數ならず。只々金枝玉葉《きんしぎよくえふ》の御身として、定めなき世の波風《なみかぜ》に漂《たゞよ》ひ給ふこと、御痛はしう存じ候』。言ひつゝ涙をはらはらと流せば、維盛卿も、重景も、昔の身の上思ひ出でて、泣くより外に言葉もなし。

 

第三十

 二人の賓客を次の室にやすませて、瀧口は孤燈の下《もと》に只々一人寢《ね》もやらず、つらつら思※[「えんにょう+囘」]《おもひめぐ》らせば、痛はしきは維盛卿が身の上なり。誰れあらん小松殿の嫡男として、名門の跡を繼ぐべき御身なるに、天が下に此山ならで身を寄せ給ふ處なきまでに零落《おちぶ》れさせ給ひしは、過世《すぐせ》如何なる因縁あればにや。習ひもお在《は》さぬ徒歩《かち》の旅に、知らぬ山川を遙《は》る遙《ば》る彷徨《さまよ》ひ給ふさへあるに、玉の襖《ふすま》、錦の床《とこ》に隙《ひま》もる風も厭はれし昔にひき換へて、露にも堪へぬかゝる破屋《あばらや》に一夜の宿を願ひ給ふ御可憐《いと》しさよ。變りし世は隨意《まゝ》ならで、指《さ》せる都には得も行き給はず、心にもあらぬ落髮を逐《と》げてだに、相見んと焦《こが》れ給ふ妻子の恩愛は如何に深かるべきぞ。御容《おんかたち》さへ窶《やつ》れさせ給ひて、此年月の忍び給ひし憂事《うきこと》も思ひやらる。思ひ出せば治承の春、西八條の花見の宴に、櫻かざして青海波を舞ひ給ひし御姿、今尚ほ昨《きのふ》の如く覺ゆるに、脇《わき》を勤めし重景さへ同じ落人《おちうど》となりて、都ならぬ高野の夜嵐に、昔の哀れを物語らんとは、怪しきまで奇《く》しき縁なれ。あはれ、肩に懸けられし恩賜の御衣に一門の譽を擔〈にな〉ひ、竝《な》み居る人よりは深山木《みやまぎ》の楊梅と稱《たゝ》へられ、枯野の小松と歌はれし其時は、人も我も誰れかは今日《けふ》あるを想ふべき。昔は夢か今は現《うつゝ》か。十年にも足らぬ間に變り果てたる世の樣を見るもの哉。

 果《はて》しなき今昔《こんじやく》の感慨に、瀧口は柱に凭《よ》りしまゝしばし茫然たりしが、不圖《ふと》電《いなづま》の如く胸に感じて、想ひ起したる小松殿の言葉に、顰《ひそ》みし眉動き、沈みたる眼閃《ひら》めき、頽《くづ》せし膝立て直し屹《きつ》と衣《ころも》の襟を掻合《かきあ》はせぬ。思へば思へば、情なき人を恨み侘びて樣を變へんと思ひ決《さだ》めつゝ、餘所《よそ》ながら此世の告別に伺候せし時、世を捨つる我とも知り給はで、頼み置かれし維盛卿の御事、盛りと見えし世に衰へん世の末の事、愚なる我の思ひ料《はか》らん由もなければ少しも心に懸けざりしが、扨〈さ〉は斯〈か〉からん後の今の事を仰せ置かれしよ。『少將は心弱き者、一朝事あらん時、妻子の愛に惹《ひ》かされて未練の最後に一門の恥を暴《さら》さんも測《はか》られず、時頼、たのむは其方一人』。幾度となく繰返されし御仰《おんおほせ》、六波羅上下の武士より、我れ一人を擇ばれし御心の、我は只々忝なさに前後をも辨《わきま》へざりしが、今の維盛卿の有樣、正に御遺言に適中せり。都を跡に西國へ落ち給ひしさへ口惜《くちを》しきに、屋島の浦に明日《あす》にも亡びん一門の人々を振り捨てて、武士は櫻木、散りての後の名をも惜しみ給はで、妻子の愛にめゝしくも茲まで迷ひ來られし御心根《おんこゝろね》、哀れは深からぬにはあらねども、平家の嫡流として未練の譏《そし》りは末代《まつだい》までも逃《のが》れ給はじ。斯くならん末を思ひ料《はか》らせ給ひたればこそ、故内府殿の扨こそ我に仰せ置かれしなれ。此處《こゝ》ぞ御恩の報じ處、情《なさけ》を殺し心を鬼にして、情《つれ》なき諫言を進むるも、御身の爲め御家の爲め、さては過ぎ去り給ひし父君の御爲ぞや。世に埋木《うもれぎ》の花咲く事もなかりし我れ、圖《はか》らずも御恩の萬一を報ゆるの機會に遇ひしこそ、息ある内の面目なれ。あゝ然《さ》なり、然《さ》なりと點頭《うなづ》きしが、然るにても痛はしきは維盛卿、斯かる由ありとも知り給はで、情なの者よ、變りし世に心までがと、一圖《づ》に我を恨み給はん事の心苦《こゝろぐる》しさよ。あゝ忠義の爲めとは言ひながら、君を恨ませ、辱《はづか》しめて、仕《し》たり顏なる我はそも何の困果ぞや。

 義理と情の二岐《ふたみち》かけて、瀧口が心はとつおいつ、外には見えぬ胸の嵐に亂脈打ちて、暫時《しばし》思案に暮れ居しが、やゝありて、兩眼よりはらはらと落涙し、思はず口走《くちばし》る絞るが如き一語『オ御許《おゆるし》あれや、君』。言ひつゝ眼を閉ぢ、維盛卿の御寢間《おんねま》に向ひ岸破《がば》と打伏しぬ。

 折柄《をりから》杉《すぎ》の妻戸《つまど》を徐ろに押し開《あ》くる音す、瀧口首《かうべ》を擧げ、燈《ともしび》差《さ》し向けて何者と打見やれば、足助二郎重景なり。端《はし》なくは進まず、首《かうべ》を垂れて萎《しを》れ出でたる有樣は仔細ありげなり。瀧口訝しげに、『足助殿には未だ御寢ならざるや』と問へば、重景太息吐き、『瀧口殿』、聲を忍ばせて、『重景改めて御邊に謝罪せねばならぬ事あり』。『何と仰せある』。



第三十一

 何事と眉を顰《ひそ》むる瀧口を、重景は怯《おそ》ろしげに打ち※[「めへん+帝」]《みまも》り、『重景、今更《いまさら》御邊《ごへん》と面合《おもてあは》する面目もなけれども、我身にして我身にあらぬ今の我れ、逃《のが》れんに道もなく、厚かましくも先程よりの體《てい》たらく、御邊《ごへん》の目には〈さぞ〉嘸や厚顏とも鐵面とも見えつらん。維盛卿の前なれば心を明《あか》さん折もなく、暫《しば》しの間《あひだ》ながら御邊の顏見る毎に胸を裂かるゝ思ひありし、そは他事にもあらず、横笛が事』。言ひつゝ瀧口が顏、竊《ぬす》むが如く見上ぐれば、默然として眼を閉ぢしまゝ、衣の袖の搖《ゆる》ぎも見せず。『世を捨てし御邊が清き心には、今は昔の恨みとて殘らざるべけれ共、凡夫《ぼんぷ》の悲しさは、一度犯《をか》せる惡事は善きにつけ惡しきにつけ、影の如く附き纏《まと》ひて、此の年月の心苦しさ、自業自得なれば誰れに向ひて憂を分たん術もなく、なせし罪に比べて只々我が苦しみの輕きを恨むのみ。喃《のう》、瀧口殿、最早《もは》や世に浮ぶ瀬もなき此身、今更惜《を》しむべき譽もなければ、誰れに恥づべき名もあらず、重景が一期《ご》の懺悔《ざんげ》聞き給へ。御邊《ごへん》の可惜《あたら》武士を捨てて世を遁《のが》れ給ひしも、扨は横笛が深草の里に果敢《はか》なき終りを遂《と》げたりしも、起りを糾せば皆《みな》此の重景が所業にて候ぞや』。瀧口は猶ほも默然として、聞いて驚く樣も見えず。重景は語を續けて、『事の始めはくだくだしければ言はず、何れ若氣《わかげ》の春の駒、止めても止まらぬ戀路をば行衞も知らず踏み迷うて、窶《やつ》す憂身《うきみ》も誰れ故とこそ思ひけめ。我が心の萬一も酌《く》みとらで、何處《どこ》までもつれなき横笛、冷泉と云へる知れる老女を懸橋に樣子を探れば、御身も疾ぐより心を寄する由。扨は横笛、我に難面《つれな》きも御邊に義理を立つる爲と、心に嫉《ねた》ましく思ひ、彼の老女を傳手《つて》に御邊が事、色々惡樣に言ひなせし事、如何に戀路に迷ひし人の常とは言へ、今更我れながら心の程の怪しまるゝばかり。又夫れのみならず、御邊《ごへん》に横笛が事を思ひ切らせん爲め、潛かに御邊が父左衞門殿に、親實《しんじつ》を上《うは》べに言ひ入れしこともあり、皆之れ重景ならぬ女色に心を奪はれし戀の奴《やつこ》の爲せし業《わざ》、云ふも中々慚愧の至りにこそ。御邊が世を捨てしと聞きて、あゝ許し給へ、六波羅の人々知るも知らぬも哀れと思はざるはなかりしに、同じ小松殿の御内《みうち》に朝夕顏を見合せし朋輩の我、却て心の底に喜びしも戀てふ惡魔のなせる業《わざ》。あはれ時こそ來りたれ、外に戀を爭ふ人なければ、横笛こそは我れに靡かめと、夜となく晝とも言はず掻口説《かきくど》きしに、思ひ懸けなや、横笛も亦程なく行衞しれずなりぬ。跡にて人の噂に聞けば、世を捨つるまで己れを慕ひし御邊の誠に感じ、其身も深草の邊に庵を結びて御邊が爲に節を守りしが、乙女心の憂《うき》に耐へ得で、秋をも待たず果敢《はか》なくなりしとかや。思ひし人は世を去りて、殘る哀れは我れにのみ集まり、迷の夢醒めて、初めて覺《さと》る我身の罪、あゝ我れ微《なか》りせば、御邊も可惜《あたら》武士を捨てじ、横笛も亦世を早うせじ、とても叶はぬ戀とは知らで、道ならぬ手段《てだて》を用ひても望みを貫かんと務めし愚さよ。唯々我れありし爲め浮世の義理に明けては言はぬ互の心、底の流れの通ふに由なく、御邊と言ひ、横笛と言ひ、皆盛年の身を以て、或は墨染の衣に世を遁れ、或は咲きもせぬ蕾のまゝに散り果てぬ、世の恨事何物も之に過ぐべうも覺えず。今宵《こよひ》端《はし》なく御邊に遇ひ、ありしにも似ぬ體を見るにつけ、皆是れ重景が爲《な》せる業と思へば、いぶせき庵に多年の行業にも若し知り給はば、嘸や我を恨み給ひけん。――此期に及び多くは言はじ、只々御邊が許《ゆる》しを願ふのみ』。慚愧と悲哀に情迫り聲さへうるみて、額《ひたひ》の汗を拭ひ敢へず。

 重景が事、斯くあらんとは豫《かね》てより略々《ほぼ》察し知りし瀧口なれば、さして騷がず、只々横笛が事《こと》、端《はし》なく胸に浮びては、流石《さすが》に色に忍びかねて、法衣の濡るゝを覺えず。打蕭《うちしを》れたる重景が樣を見れば、今更憎む心も出でず、世にときめきし昔に思ひ比べて、哀れは一入《ひとしほ》深し。『若き時の過失《あやまち》は人毎《ひとごと》に免《まねか》れず、懺悔《ざんげ》めきたる述懷は瀧口却《かへつ》て迷惑に存じ候ぞや。戀には脆《もろ》き我れ人の心、など御邊一人の罪にてあるべき。言うて還らぬ事は言はざらんには若《し》かず、何事も過ぎし昔は恨みもなく喜びもなし。世に望みなき瀧口、今更何隔意《なにきやくい》の候べき、只々世にある御邊の行末永き忠勤こそ願はしけれ』。淡きこと水の如きは大人の心か、昔の仇を夢と見て、今の現《うつゝ》に報いんともせず、恨みず、亂れず、光風霽月の雅量は、流石は世を觀じたる瀧口入道なり。

 

第三十二

 早ほのぼのと明けなんず春の曉《あかつき》、峰の嶺〈いただき〉、空の雲ならで、まだ照り染めぬ旭影。霞に鎖《とざ》せる八つの谷間に夜《よる》尚ほ彷徨《さまよ》ひて、梢を鳴らす清嵐に鳥の聲尚ほ眠れるが如し。遠近《をちこち》の僧院庵室に漸く聞ゆる經の聲、鈴の響、浮世離れし物音に曉の靜けさ一入《ひとしほ》深し。まことや帝城を離れて二百里、郷里を去りて無人生《むにんしやう》、同じ土ながら、さながら世を隔てたる高野山、眞言祕密の靈跡に感應の心も轉々《うたゝ》澄みぬべし。

 竹苑椒房〈ちくゑんしやうばう〉[六三]の音に變り、破《やぶ》れ頽《くづ》れたる僧庵に如何なる夜をや過し給へる、露深き枕邊に夕の夢を殘し置きて起出で給へる維盛卿。重景も共に立ち出でて、主や何處と打見やれば、此方の一間に瀧口入道、終夜《よもすがら》思ひ煩ひて顏の色徒《たゞ》ならず、肅然として佛壇に向ひ、眼を閉ぢて祈念の體、心細くも立ち上る一縷の香煙に身を包ませて、爪繰《つまぐ》る珠數の音冴《さ》えたり。佛壇の正面には故《こ》内府の靈位を安置しあるに、維盛卿も重景も、是れはとばかりに拜伏し、共に祈念を凝《こ》らしける。

 軈て看經《かんきん》終りて後、維盛卿は瀧口に向ひ、『扨も殊勝の事を見るものよ、今廣き日の本に、淨蓮大禪門の御靈位を設けて、朝夕の※[えんにょう+囘」]向《ゑかう》をなさんもの、瀧口、爾《そち》ならで外に其人ありとも覺えざるぞ。思へば先君の被官内人、幾百人と其の數を知らざりしが、世の盛衰に隨《つ》れて、多くは身を浮草の西東、舊《もと》の主人に弓引くものさへある中に、世を捨ててさへ昔を忘れぬ爾が殊勝さよ。其れには反して、世に落人の見る影もなき今の我身、草葉の蔭より先君の嘸かし腑甲斐なき者と思ひ給はん。世に望みなき維盛が心にかゝるは此事一つ』。言ひつゝ涙を拭ひ給ふ。

 瀧口は默然として居たりしが、暫くありて屹《きつ》と面《おもて》を擧げ、襟を正して維盛が前に恭しく兩手を突き、『然《さ》ほど先君の事御心《おんこゝろ》に懸けさせ給ふ程ならば、何とて斯かる落人にはならせ給ひしぞ』。意外の一言に維盛卿は膝押進めて、『ナ何と言ふ』。『御驚きは然《さ》ることながら、御身の爲め、又御一門の爲め、御恨みの程を身一つに忍びて瀧口が申上ぐる事、一通り御聞きあれ。そも君は正しく平家の嫡流にてお在《は》さずや。今や御一門の方々《かたがた》屋島の浦に在りて、生死を一にし、存亡を共にして、囘復の事叶はぬまでも、押寄する源氏に最後の一矢を酬いんと日夜肝膽を碎かるゝ事申すも中々の事に候へ。そも壽永の初め、指《さ》す敵の旗影《はたかげ》も見で都を落ちさせ給ひしさへ平家末代の恥辱なるに、せめて此上は、一門の將士、御座船《ござぶね》枕にして屍を西海の波に浮ベてこそ、天晴《あつぱれ》名門《めいもん》の最後、潔しとこそ申すべけれ。然るを君には宗族故舊を波濤の上に振捨てて、妻子の情に迷はせられ、斯く見苦しき落人に成らせ給ひしぞ心外千萬なる。明日にも屋島沒落の曉に、御一門殘らず雄々しき最後を遂《と》げ給ひけん時、君一人は如何にならせ給ふ御心に候や。若し又關東の手に捕はれ給ふ事のあらんには、君こそは妻子の愛に一門の義を捨てて、死すべき命を卑怯にも遁れ給ひしと世の口々に嘲られて、京鎌倉に立つ浮名をば君には風やいづこと聞き給はんずる御心に候や。申すも恐れある事ながら、御父重盛卿は智仁勇の三徳を具《そな》へられし古今の明器《めいき》。敵も味方も共に景慕する所なるに、君には其の正嫡と生れ給ひて、先君の譽を傷《きずつ》けん事、口惜《くちを》しくは思《おぼ》さずや。本三位の卿の擒となりて京鎌倉に恥を曝《さら》せしこと、君には口惜しう見え給ふほどならば、何とて無官の大夫が健氣《けなげ》なる討死《うちじに》を譽とは思ひ給はぬ。あはれ君、先君の御事、一門の恥辱となる由を思ひ給はば、願くは一刻も早く屋島に歸り給へ、瀧口、君を宿し參らする庵も候はず。あゝ斯くつれなく待遇《もてな》し參らするも、故内府が御恩の萬分の一に答へん瀧口が微哀、詮ずる處、君の御爲を思へばなり。御恨みのほどもさこそと思ひ遣《や》らるれども、今は言ひ解かん術《すべ》もなし。何事も申さず、只々屋島に歸らせ給ひ、御一門と生死を共にし給へ』。

 忌まず、憚らず、涙ながらに諫むる瀧口入道。維盛卿は至極の道理に面目なげに差し俯《うつぶ》き、狩衣の御袖を絞りかねしが、言葉もなく、ツと次の室に立入り給ふ。跡見送りて瀧口は、其儘岸破《がば》と伏して男泣きに泣き沈みぬ。

 

第三十三

 よもすがら恩義と情の岐巷《ちまた》に立ちて、何れをそれと決《さだ》め難《かね》し瀧口が思ひ極めたる直諫に、さすがに御身の上を恥らひ給ひてや、言葉もなく一間《ひとま》に入りし維盛卿、吁々思へば君が馬前の水つぎ孰りて、大儀ぞの一聲を此上なき譽と人も思ひ我れも誇りし日もありしに、如何に末の世とは言ひながら、露忍ぶ木蔭《こかげ》もなく彷徨《さまよ》ひ給へる今の痛はしきに、快《こゝろよ》き一夜の宿も得せず、面《ま》のあたり主を恥《はぢ》しめて、忠義顏なる我はそも如何なる因果ぞや。末望みなき落人故《おちうどゆゑ》の此つれなさと我を恨み給はんことのうたてさよ。あはれ故内府在天の靈も照覽あれ、血を吐くばかりの瀧口が胸の思ひ、聊か二十餘年の御恩に酬ゆるの寸志にて候ぞや。

 松杉暗き山中なれば、傾き易き夕日の影、はや今日の春も暮れなんず。姿ばかりは墨染にして、君が行末を嶮《けは》しき山路に思ひ較《くら》べつ、溪間《たにま》の泉を閼伽桶《あかをけ》に汲取りて立ち歸る瀧口入道、庵の中を見れば、維盛卿も重景も、何處に行きしか、影もなし。扨は我が諫めを納《い》れ給ひて屋島《やしま》に歸られしか、然るにても一言の我に御告知《しらせ》なき訝しさよ。四邊《あたり》を見※[「えんにょう+囘」]《みまは》せば不圖《ふと》眼にとまる經机《きやうづくゑ》の上にある薄色の折紙、取り上げ見れば維盛卿の筆と覺しく、水莖《みづぐき》の跡鮮《あざ》やかに走り書せる二首の和歌、

かへるべき梢はあれどいかにせん
風をいのちの身にしあなれば

濱千鳥入りにし跡をしらせねば
潮のひる間に尋ねてもみよ

 哀れ、御身を落葉と觀《くわん》じ給ひて元の枝をば屋島とは見給ひけん、入りにし跡を何處とも知らせぬ濱千鳥、潮干《しほひ》の磯に何を尋ねよとや。――扨はとばかり瀧口は、折紙の面《おもて》を凝視《みつ》めつゝ暫時《しばし》茫然として居たりしが、何思ひけん、豫《あらか》じめ祕藏せし昔の名殘《なごり》の小鍛冶《こかぢ》の鞘卷、狼狽《あわたゞ》しく取出して衣《ころも》の袖に隱し持ち、麓の方に急ぎける。

 路傍の家に維盛卿が事それとなしに尋ぬれば、狩衣《かりぎぬ》着《き》し侍《さむらひ》二人《ふたり》、麓《ふもと》の方に下りしは早や程過ぎし前の事なりと答ふるに、愈々足を早め、走るが如く山を下りて、路すがら人に問へば、尋ぬる人は和歌の浦さして急ぎ行きしと言ふ。瀧口胸愈々轟き、氣も半《なかば》亂れて飛ぶが如く濱邊《はまべ》をさして走り行く。雲に聳ゆる高野の山よりは、眼下に瞰下《みおろ》す和歌の浦も、歩めば遠き十里の郷路、元より一刻半※[「ひへん+向」]《こくはんとき》の途ならず。日は既に暮れ果てて、朧げながら照り渡る彌生半《やよひなかば》の春の夜の月、天地を鎖〈とざ〉す青紗の幕は、雲か烟か、將《は》た霞か、風雄のすさびならで、生死の境に爭へる身のげに一刻千金の夕かな。夢路を辿る心地して、瀧口は夜すがら馳せて辛《やうや》く着ける和歌の浦。見渡せば海原《うなばら》遠《とほ》く烟籠《けぶりこ》めて、月影ならで物もなく、濱千鳥聲絶えて、浦吹く風に音澄める磯馳松《そなれまつ》、波の響のみいと冴えたり。入りにし人の跡もやと、此處彼處《こゝかしこ》彷徨《さまよ》へば、とある岸邊《きしべ》の大なる松の幹を削《けづ》りて、夜目《よめ》にも著《しる》き數行の文字。月の光に立寄り見れば、南無三寶。『祖父太政大臣平朝臣清盛公法名淨海、親父小松内大臣左大將重盛公法名淨蓮、三位中將維盛年二十七歳、壽永三年三月十八日和歌の浦に入水《じゆすゐ》す、徒者足助二郎重景二十五歳殉死す』。墨痕淋漓として乾かざれども、波靜かにして水に哀れの痕も殘らず。瀧口は、あはやと計り松の根元《ねもと》に伏轉《ふしまろ》び、『許し給へ』と言ふも切《せつ》なる涙聲、哀れを返す何處の花ぞ、行衞も知らず二片三片《ふたひらみひら》、誘ふ春風は情か無情か。

*  *  *  *

 次の日の朝、和歌の浦の漁夫《ぎよふ》、磯邊に來て見れば、松の根元に腹掻切《はらかきき》りて死せる一個の僧あり。流石汚《けが》すに忍びでや、墨染の衣は傍らの松枝《まつがえ》に打ち懸けて、身に纏へるは練布の白衣、脚下に綿津見《わたつみ》の淵を置きて、刀持つ手に毛程の筋の亂れも見せず、血汐の糊《のり》に塗《まみ》れたる朱溝《しゆみぞ》の鞘卷逆手《さかて》に握りて、膝も頽《くづ》さず端坐《たんざ》せる姿は、何れ名ある武士の果ならん。

 嗚呼是れ、戀に望みを失ひて、世を捨てし身の世に捨てられず、主家の運命を影に負うて二十六年を盛衰の波に漂はせし、齋藤瀧口時頼が、まこと浮世の最後なりけり。

瀧口入道 完

 

「滝口入道と横笛」 神坂次郎

滝口を慕う横笛は高野山山麓に庵を結んだが、厳しい冬の寒さの中で十九歳の生涯を閉じた。
滝口、いまは大円院の阿浄律師は、悲しげに鳴くウグイスに横笛の死をさとった。
宿坊をでたころから、雪が降りはじめた。綿雪であった。
そのなかを、いま、蓮華谷(れんげだに)にむかって歩いている。
風がでたようだ。金剛峯寺の辻のあたりで、風のたびに花吹雪を散らしたように雪が舞いあがっていた。ここかせ蓮華院、高室院の往還(みち)をいくと、大円院はすぐであった。

 高野山、蓮華谷大円院――
 悲恋の寺である。
 遠いむかし十九歳の若武者と十七歳の乙女の恋を埋めたこの寺は、哀切な恋を物語るにふさわしく、淡淡(あわあわ)した春の雪につつまれて、ひそやかなたたずまいをみせていた。
 わたしは足をとめた。
 大円院の庭に、「滝口入道旧跡」と肉太に刻んだ碑(いしぶみ)がみえ、かたわらに横笛の井戸がみえた。
 そのあたりは訪ねる人もなく、ふたりの恋をあわれむように雪をのせた風だけが吹きこんでいた。
 「平家物語」の巻十や「源平盛衰記」「大円院縁起」によれば、平重盛(たいらのしげもり)の家臣、北面の武士、斎藤滝口時頼(のち滝口入道)が、花見の宴であでやかな舞姿をみせた横笛を見染めたのは十九歳の春であった。

 このとき、横笛は十七歳、建礼門院の雑仕(身分のひくい女官)をつとめる身でぁったが、やがて二人は、はげしい濃いにおちる。そして二人は、たがいに変わらぬ愛をちかいあった。
 けれど、美女と評判の高い横笛と、「平家物語」のなかでも、ひときは凛凛(りり)しく「花ヤカナリシ男ナリ」とうたわれた時頼との恋は、口うるさい都の人びとのウワサにのぼらずにはいなかった。
 そして、この恋は時頼の父、三条の齋藤左衛門大夫茂頼の反対にあって、微塵(みじん)に砕けちる。反対の理由は、家柄の相違であった。

 「このうつけものめが。」
 横笛との恋に身を灼(や)いている時頼を引きすえると、父の茂頼は声を荒くした
 {そなたには、いずれ名のある者の娘を妻にむかえ、ゆくすえ身の立つほどにと考えておる父の心もわきまえず、あろうことか雑仕女(ぞうしめ)ずれに心を奪われおって……}
 罵声(ばせい)を浴びて時頼は唇を噛んだ。

 云いたいことはいくらでもあった。が、結婚を世渡りのわざ、立身の踏み石としか心得ていない父にいまさら恋の「まこと」を説いてみたところで無駄なようであった。
 「……なれど、父上
 そういいかけて時頼は口をつぐんだ。この父に言葉を返してみてもそれが何になろう。
 と、時頼は思う。けれど、こうして口をもだしていると、胸の底から噴きあげてくる言葉が、いまにも時頼の咽喉を破りそうであった。
 《にんげんが人間らしくこの世を生きるというのは、おのれの心を偽らず生きることではないのか。》

 口ばしりそうになる声をおさえて、時頼は目を伏せた。そして時頼は、そんな姿のまま、ながいあいだ板敷に座っていた。
 「――憂(う)き世じゃ」
 燭(ひ)の消えた暗みのなかで、時頼は誰にともなく呟いた。
 この夜――
 屋敷を抜けでた時頼は嵯峨の往生院に走り、もとどり(髪)を切って仏門に身を投じている。
 父と横笛への恋との板ばさみになった時頼には、こうするよりほかに道はなかったのであろう。

 時頼が出家したことを伝え聞いた横笛は、その理由をただすため往生院を訪ねるが、時頼は留守だと伝えて横笛に逢おうとはしなかった。 
 横笛は、時頼の冷たい心を恨むが、やがて、時頼が出家したのは自分のためであったと判り、横笛もまた大和の尼寺で仏門にはいった。

 のち時頼は、ともすれば横笛に傾斜しそうになるおのれの恋慕を断つために女人禁制の高野山にのぼった。
 けれど、横笛もまた、そんな時頼のあとを慕うように高野山の麓(ふもと)の天野の里におもむいて草庵をむすんだ。
 天野の里は高野山から二里の地である。こにおれば、どのようなことで時頼に逢えるかもしれない。
 横笛は、ひたすらそれを念じていた。
 そして、高野山にのぼる若い僧に便りを言伝てた。数日して、いまは滝口入道とよばれる時頼から、横笛のもとに一首の和歌がとどけられた。

 高野山 名をだに知らで 過ぎぬべし
 憂きをよそなる 我身りせば

 横笛は、これに返歌して、恋々(れんれん)の思いをこめた和歌を時頼のもとに書きおくっている。

 やよや君 死すればのぼる 高野山
 恋も菩提(ぼだい)の 種とこそしれ

 天野の里に住む横笛が、時頼への恋をつのらせながら、かりそめの病いを得て幸薄い生涯をとじたのは、それから間もなくの十九歳の冬であった。
 こうして横笛は、ついに時頼と逢うこともなく、里の農婦たちに見まもられながら淋しく死んでいった。

 「大円院縁起」によると、横笛が死んだ冬がすぎて、高野の山に春がおとずれた頃、横笛の思慕が鶯(うぐいす)に化(な)って大円院の庭に飛んできたと伝えている。
 そのウグイスは書縁にいる時頼の近くにきて、悲しげに、ときには嬉しげに鳴いていたが、梅が散り桜の花が散り、若葉の萠(も)えいでる初夏になっても大円院の庭から離れようとしなかった。
 ところが、ある日。そのウグイスの姿がみえなくなった。
 時頼が、寺内の井戸に落ちて水死しているウグイスの夢をみたのは、その夜だという。
 夢は「まこと」であった。

 翌朝、ほの暗い井戸の中からあげられたウグイスの屍(なきがら)を、時頼はいたわるように両の掌でそっと包んだ。
 そのとき時頼は、掌の底からすすりなく横笛の声を聞いたような気がした。

 大円院の本尊とされている鶯阿弥陀如来(現存)は、そのとき滝口入道(時頼)が自ら刻んだものと云われ、本尊のなかにはウグイスの屍が納められていると伝えられている。
 大円院の寺内には、このほか横笛ゆかりの鶯の梅、鶯の井戸と名づけられた跡がのこっていて、参拝する人々たちに八百年むかしの「平家物語」の世界を惻惻(そくそく)と語りかけている。

 春の雪につつまれた大円院に詣でながら、わたしはふと、ヨーロッパの中世時代を通じて語りつがれた騎士トリスタンと黄金の髪の美女イズーの愛と死の美しい叙事詩を思い浮かべた。
 トリスタンとイズーは、たがいに求めながら世の仕組みにへだてられ、場所こそちがえ同じ日に、彼は彼女のために、彼女は彼のために死んでいった。
 そしてこの恋人たちの棺(ひつぎ)は、死してからもなお寺院の右と左に分けて葬られたが、春がくると騎士トリスタンの墓所から萠(も)えいでた花茨(いばら)が、寺院の大屋根を這い越えて美女イズーの墓の中に延びていったという。

 この悲恋の物語は、滝口入道と横笛のそれによく似ている。
 愛の貌(かたち)というものは、洋の東西をとわず、今昔を通じて変わらないものなのであろう。 

  昭和四十七年二月十六日 大阪新聞に掲載 「瀧口入道」春陽堂版に貼り付けられていた新聞切抜(四段組)全文を転載

 

底本…「瀧口入道」  岩波文庫、岩波書店
昭和十三年十二月二日第一刷発行
昭和四十三年十月十六日第三十二刷改版発行
昭和五十五年三月十日第四十三刷発行

参考…「滝口入道」  新潮文庫 新潮社
昭和三十一年四月二十日第一刷発行
昭和四十三年一月十五日第二十刷改版発行
昭和四十三年十月二十日第二十一刷発行

参考…「瀧口入道」     春陽堂
明治二十八年九月十八日印刷
明治二十八年九月二十日発行
大正十三年三月一日百六十刷発行

原文に付したルビの内、《 》は、岩波文庫版にあるもの
〈 〉は、新潮文庫版にあるもの
字体の一部は、春陽堂版を参考にした

ページ末に記載した解説は全て新潮文庫版第二十一刷巻末に挿入されている解説/三好行雄によるものである

[一] 華冑攝※ 華冑は家柄の高い貴族。攝※は天皇に代わって政治をとる者で、摂政、関白の意

[二] 六波羅樣 平家風のきらびやかな風俗。当時、京都・六波羅に平家一門の邸宅があった。

[三] 解脱同相の三衣 正しくは、解脱幢相の三衣。僧侶の着る袈裟の異称。袈裟を着用すれば、全ての絆を断つことが出来ることからこう言う。

[四] 天魔波旬 仏道の修行をさまたげ人を悩ますと言う欲界第六天の魔王。波旬はその魔王の名、波卑夜の訛った語。

[五] 遠侍 大名の宅外、中門のかたわらなどに設けた侍の詰所。取次ぎ、警備などのことにあたる。

[六] 花茣蓙の一種。細藺を五色に染めて織る。

[七] 金谷園 中国・晋代の石崇が洛陽の金谷に設けた別荘。ここで宴を催す時は客人に詩を作らせ、出来ないものには酒三斗を飲む罰を与えたという。

[八] 老掛 硬い馬の毛で作った半菊型の髪飾りで、武官が冠を着けた時両鬢の上の着用する。「糸へん」に「委」とも書く。

[九] 青海波 雅楽の曲名。唐楽のひとつで二人で舞う。鳥甲をかぶり衣装には青い波模様の下襲(したがさね)と、千鳥の模様の袍(ほう)を用いる。

[一〇] 春鶯囀 雅楽の曲名。唐の高宗(628~683)が鶯の鳴くのを聞いて白明達に作曲させたという華麗な名曲。

[一一] 綾羅 あやぎぬ(模様を織りこんだ絹)とうすもの(薄く柔らかな絹)を併せて言う語。

[一二] 稜長 股立ちの長い袴。

[一三] 保平の昔 保元の乱と平治の乱を指す。前者は保元元年(1156)七月、藤原頼長が源為義、為朝らと謀り、崇徳(すとく)天皇を奉じで挙兵し、源義朝、平清盛に敗れた事件、後者は平治元年(1159)藤原信頼と源義朝が京都でクーデターを起こし、平清盛に討たれた事件を言う。この二つの乱を通じて平家の勢力が台頭した。

[一四] 治承四年(1180)九月、源氏追討の院宣を受けた平氏は、維盛を総大将とする軍を関東に派遣したが、十月二十三日、源氏の軍と対峙して富士川右岸に野営中、水鳥が飛び立つ音を聞いて源氏の攻撃と錯覚し、全員が潰走した事件。

[一五] 糸竹 糸は絃楽器(げんがっき)、竹は管楽器の意で楽器の総称。転じて、音楽の意にも用いる。

[一六] 鴎尻 太刀鞘の尻が高くそり上がるように帯びること。

[一七] 三諦止觀の月 仏教で三諦とはものの実相を現す三つの真理の意で、すべての存在は人間の心で考えるような実体は無く空無であり(空諦)、縁によって存在する仮のものであり(仮諦)、しかも言葉や思慮の対象を越えたものである(中諦)とされる。止観は仏教修行の二法で、妄念を断って心を特定の対象にそそぎ(止)、それによって対象を正しく認識する(観)こと。天台宗で最も重んじられ、知覬(ちぎ)の「摩訶止観」に空仮中の三観による実践法が説かれている。ここでは、仏道修行によって悟りを得た状態を、明るい月にたとえて言ったもの。

[一八] 百夜の榻の端書 榻は車や輿を止める時に長柄を乗せる台。昔、深草少将が小野小町に懸想して夜毎小町のもとに通い、榻の端にその数を印したが九十九夜まで通って百日目に死んだ為、遂にその想いを遂げられなかったと言う伝説による。

[一九] 鳥部野の煙 鳥部野は京都の東方、西大谷から清水谷に至る一帯の地名。ここに平安時代火葬場があった。死体を焼く鳥部野の煙は人間の無常の象徴であった。

[二〇] 餘五將軍 平維茂(これもち)。平安末期の武将。陸奥守繁盛の子、貞盛の養子となり、第十五子に当るために余五(十五の意)D将軍と称した。武勇に優れ、藤原師種(もろたね)を討った。

[二一] 定業 善悪の業因(ここでは悪業)によって苦楽(ここでは苦)の果報を受けるように定まっていること。宿命。

[二二] 東父西母 東王父と西王母の双称。いずれも中国古来の伝説の仙人で、仙術思想の発達とともに尊崇された。

[二三] 新大納言が陰謀 新大納言藤原成親(1138~1177)は、空席となった大将の位を、後白河法皇の寵を頼んで得ようとしたが清盛の次男宗盛にこれを奪われた。成親は僧俊寛らと京都鹿ケ谷(ししがたに)で平家追討の計画を密議したが事前に発覚し、清盛に捕らえられて処刑された。治承元年(1177)の事件。

[二四] 六条判官 源為義(1096~1156)。源義家の孫だが、嫡子として家督を継ぎ、保元の乱に敗れて斬られた。検非違使に任じて京都・六条堀川に住んだので六条判官と呼ばれた。

[二五] 我に代わりて悪源太が為に討たれし者 悪源太は源義朝の嫡男悪源太義平(1141~1160)。平治の乱で源平の両軍が待賢門(たいけんもん)で戦った時、重盛は悪源太の為に堀川に追い詰められ危うかったが、辛うじて逃げ延びた。この時、重盛の家臣二人が戦死したが、その一人が与三左衛門尉景泰(よそうさえもんのじょうかげやす)である。

[二六] 秋に無き梶の葉なれば、渡しの料は忘れ給ふな 昔、七夕には七枚の梶の葉に詩歌を書いて織女星をまつった。ここから梶の葉は女性に送る恋文を言い、それに天の川の〈渡し〉の意を掛けて、恋文を届ける謝礼を要求している。

[二七] 祖父禅門 平清盛を指す。禅門は、仏道に入った人。

[二八] 三界の教主 釈迦牟尼を指す。三界(さんがい)は人間が生死流転する迷いの世界を言い、欲界・色界・無色界の総称。

[二九] 耆婆 [Jivaka(梵語)] 古代インドの名医。生まれながらにして薬品・医具を携え、長じて名医となったと言う。王舎城(おうしゃじょう)の帝医で深く仏教を信じ、多くの仏弟子を治療した。

[三〇] 卒塔婆小町 観阿弥改作の同じ題名の能楽曲がある。卒塔婆に腰を下ろしている乞食老女を咎めた高野山の僧が逆に説教される。名を問うと小野小町のなれの果てと言う。小町は美貌を謳われた頃、多くの男に想いを寄せられ、中で深草少将は九十九夜までも通ったが思いを遂げられず恋い死にした。その男たちの怨みを受けて苦しむが、やがて仏の教えに導かれて悟りの道に入ると言う筋。

[三一] 胡越の思ひ 胡と越は中国を挟んで北と南に遠く離れている。それと同じ様に気持ちが疎遠で通じ合わないこと。

[三二] 法界悋気 自分と何の関係も無い他人を嫉妬すること。

[三三] 揄伽三蜜 仏教の修行者が手に印を結び、口に真言を唱え、心に本尊を観じて(三蜜)、精神の統一を図って絶対者と合一し、寂静の神秘境に入ること。

[三四] 東岱 中国・山東省にある泰山のこと。転じて名山の意に用いる。

[三五] 大梵高台 色界十八天の一人、大梵天王の宮殿の意だが、ここでは、宮中のことを指している。

[三六] 四曼不離 密教で浄土に集う諸仏の姿を描く図を曼陀羅と称し、相好、持物、真言、威儀事業の四種に分けて示す(四種曼荼羅、四曼)が、それぞれに融通し、作用して、不離の関係にあること。

[三七] 一切諸縁 親子・兄弟・主従などの、もろもろの人間関係。

[三八] 真間の手古奈 下総国葛飾郡(しもうさのくにかつしかごおり、今の千葉県市川市)の真間に住んでいたと言う、伝説的な美少女。二人の男性に思いを掛けられ、かえって身をはかなんで投身自殺したと言う。彼女を詠んだ歌が『萬葉集』にある。

[三九] 荷葉の三衣 蓮の葉の様に寒気に耐え難い粗末な僧衣の意。

[四〇] 輪王 転輪聖王[Cakra varti rajan(梵) てんおうじょうおう]、七宝(輪・象・馬・珠・女・居士・主兵臣しゅびょうしん)を持ち、四徳(長寿で、患いがなく、顔立ちが優れ、宝が蔵に満ちている)を備え、正法を以って全世界を統治すると考えられた神話的な理想の王者。仏典ではしばしば仏と比較される。

[四一] 円頓 天台宗の教義から出た言葉で、今ここに持ち合わせている心にあらゆる物を具えると悟って、たちどころに成仏することを言う。

[四二] 十字の縄床 縄又は木綿を張った椅子。禅宗で用いる。

[四三] ※吽の行業 読経を中心にした仏教の修行。阿吽(あうん)とも。梵語の字音の最初と最後に当る。転じて、一切の法の太初と窮極を象徴するものとされる。

[四四] 十題判断の老登料 仏教に関する問題を十題出されれば、十題をただちに答えられるほど、長い修行を積んだ老僧。

[四五] 垂髫 幼い子供の意。昔、こどもが髪の毛をうなじのところで束ねたり、切りそろえたりしたことから。 

[四六] 野辺より那方の友 死んで墓に葬られてから、身に添うものの意。

[四七] 結脈 ここでは、師から弟子へ授けられる法門相承の略譜を入れる袋の意。

[四八] 火宅 法華七揄(ほっけしちゆ)にみえる言葉で、人々がこの三界に生きて様々の煩悩に苦しめられる事。又、苦しめられながら死んでいるとさえ知らない有様を、焼けつつある家に喩え、家の中にいて迫ってくる運命も知らずに喜戯するこどもに喩えたもの。

[四九] 耆闍窟 耆闍窟山[Grdhra kuta(梵)](ぎしゃくつせん) 中インド、マガダ国の首都王舎城の東北にある山。仏陀が説法した地として有名。

[五〇] 事理 事とは事相で差別的現象を言い、理は理性(りしょう)、つまり普遍的本質をいう。両者は不即不離で、融通無礙(ゆうづうむげ)だと説かれる。

[五一] 曠劫の習気 古くから続いているならわし。

[五二] 変相殊体 様々に姿かたちが変わること。ここでは、出家して黒染めの衣をまとっていることを言う。

[五三] 蜘手結びこめ 蜘蛛の足のように門に材木を打ちつけて、厳重に閉じこめること。

[五四]源三位 源頼政(1104~1180) 平安末期の武将、歌人、弓に長じていた。平家の横暴に憤り、以仁王(もちひとおう、高倉宮(1151~1180)を奉じて平家追討の兵を挙げたが失敗し、平等院で自刃した。

[五五] 大場の三郎 大場三郎景親(?~1180) 平家の一族。治承四年九月二日、伊豆に流されていた源頼朝の挙兵の報を、相模国から攝津国の福原まで早馬で伝えた。

[五六] 奈良炎上 清盛の命を受けた、平重衡(たいらのしげひら)が兵をひきいて南都(奈良)を攻め、平家に反抗的だった東大寺・興福寺を焼いた事件を指す。

[五七] 会稽の恥じを雪ぎ 屈辱の恨みを晴らすこと。中国・春秋時代に、越王勾践(こうせん)が呉王夫差(ふさ)と戦って破れ、会稽山で屈辱的な講和を強いられたが後に苦心の末、夫差を破って名誉を回復したと言う故事。出典『史記』。

[五八] 魚山の夜嵐 魚山は中国・山東省泰安府にある山。魏の曹値がここで空中に梵天の声を聞き、その音律を写して梵唄(ぼんばい)を作ったという伝説があるように、仏教音楽の中心地として知られる。

[五九] 修行の肩に歌袋をかけて 西行(1118~1190)を指す。俗名・加藤義清(かとうのりきよ)。鳥羽上皇に仕え、弓術と歌に長じていたが、二十三歳ごろ出家。生涯の三分の二を旅におくった。宗祗(そうぎ)・芭蕉とともに漂泊の詩人と呼ばれている。

[六〇] 梵缶 仏事に用いる楽器の一種。

[六一] 飛鈷 鈷はもともとインドの護身用の武器だったが、煩悩を打ち破るという意味で、仏具の一種に用いられるようになった。

[六二] 本三位の卿 平重衡(しげひら 1157~1185) 清盛の第五子。寿永三年、一の谷の戦に敗れ、梶原景時の捕虜となり鎌倉に送られた。後。木津川で斬られた。

[六三] 竹苑椒房 竹苑は天子の子孫、椒房は皇后の座所の意で、ここではそれを合わせて内裏を意味する。

原本にある難読文字のルビ、補足解説(青色の漢数字表記)などを転記した為に全文は3ページに分割せざるを得なかった。
以下に、該当する章のリンクを示す。
【瀧口入道/高山樗牛】第一~第十三
【瀧口入道/高山樗牛】第十四~第二十五
【瀧口入道/高山樗牛】第二十六~第三十三  「滝口入道と横笛/神坂次郎」


コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。