その5 夕方のスクーター外出 まだガソリンスタンドは閉鎖中 外出すれば感動多数 司馬遼太郎の21世紀を目指す小学生へのメッセージ
令和4年 新暦2022年11月1日 旧暦10月8日 火曜日
夕方の大雨1時間で気温は25℃に下がり
スクーター外出は風が冷たく感じました。
いつものように我がフェイスブックのコピペ編集アップ
21世紀を見れらいかもしれないが小学生に残したメッセージをコピペアップ。
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『21世紀に生きる君たちへ』
私は歴史小説を書いてきた。
もともと歴史が好きなのである。両親を愛するようにして、
歴史を愛している。歴史とは何でしょうと聞かれるとき、
「それは、大きな世界です。かつて存在した何億という
人生がそこにつめこまれている世界なのです。」
と、答えることにしている。私には、幸い、この世に
たくさんのすばらしい友人がいる。歴史の中にもいる。
そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて
私の日常をはげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。
だから、私は少なくとも2千年以上の時間の中を、
生きているようなものだと思っている。
この楽しさは・・・もし君たちさえそう望むなら・・・
おすそ分けしてあげたいほどである。
ただ、さびしく思うことがある。
私が持っていなくて君たちだけが持っている大きなものがある。
未来というものである。私の人生は、すでに持ち時間が少ない。
例えば21世紀というものを見ることができないに違いない。
君たちはちがう。21世紀をたっぷり見ることができるばかりか
その輝かしいにない手でもある。もし「未来」という町角で、
私が君たちを呼び止めることができたら、どんなにいいだろう。
「田中君、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている
21世紀とは、どんな世の中でしょう。」
そのように質問して、君たちに教えてもらいたいのだが、
ただ残念にも、その「未来」という町角には私はもういない。
だから、君たちと話ができるのは、今のうちだということである。
もっとも、私には21世紀のことなど、とても予測できない。
ただ、私に言えることがある。それは、歴史から学んだ人間の
生き方の基本的なことどもである。
昔も今も、また未来においても変わらないことがある。
そこに空気と水、それに土などという自然があって、人間や他の
動植物、さらには微生物にいたるまでが、それに依存しつつ
生きているということである。 自然こそ不変の価値なのである。
なぜならば、人間は空気を吸うことなく生きることができないし、
水分をとることがなければ、かわいて死んでしまう。
さて、自然という「不変のもの」を基準に置いて、
人間のことを考えてみたい。人間は・・・繰り返すようだが・・・
自然によって生かされてきた。古代でも中世でも自然こそ神々で
あるとした。このことは、少しも誤っていないのである。
歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上に
あるものとして身をつつしんできた。この態度は、近代や現代に入って
少しゆらいだ。・・・人間こそ、いちばんえらい存在だ。という、
思い上がった考えが頭をもたげた。20世紀という現代は、
ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代といってもいい。
同時に、人間は決しておろかではない。思いあがるということとは
およそ逆のことも、あわせ考えた。つまり、私ども人間とは自然の
一部にすぎない、というすなおな考えである。このことは、古代の
賢者も考えたし、また19世紀の医学もそのように考えた。
ある意味では、平凡な事実にすぎないこのことを、20世紀の科学は、
科学の事実として、人々の前にくりひろげてみせた。
20世紀末の人間たちは、このことを知ることによって、
古代や中世に神をおそれたように、再び自然をおそれるようになった。
おそらく、自然に対しいばりかえっていた時代は、21世紀に近づく
につれて、終わっていくにちがいない。
「人間は自分で生きているのではなく、大きな存在によって
生かされている。」と、中世の人々は、ヨーロッパにおいても
東洋においても、そのようにへりくだって考えていた。
この考えは、近代に入ってゆらいだとはいえ、右に述べたように
近ごろ再び、人間たちはこのよき思想を取りもどしつつあるように
思われる。この自然へのすなおな態度こそ、21世紀への希望であり、
君たちへの期待でもある。そういう素直さを君たちが持ち、
その気分をひろめてほしいのである。そうなれば、21世紀の人間は
よりいっそう自然を尊敬することになるだろう。そして、自然の一部で
ある人間どうしについても、前世紀にもまして尊敬しあうようになる
のにちがいない。そのようになることが、君たちへの私の期待でもある。
さて、君たち自身のことである。
君たちはいつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。
・・・自分に厳しく、相手にはやさしく。という自己を。そして、
素直で賢い自己を。
21世紀においては、特にそのことが重要である。
21世紀にあっては、科学と技術がもっと発達するだろう。
科学・技術が洪水のように人間を飲み込んでしまってはならない。
川の水を正しく流すように、君たちのしっかりした自己が科学と
技術を支配し、よい方向に持っていってほしいのである。
右において、私は「自己」ということをしきりに言った。
自己といっても、自己中心におちいってはならない。
人間は、助け合って生きているのである。
私は、人という文字を見るとき、しばしば感動する。斜めの画が
たがいに支え合って、構成されているのである。
そのことでも分かるように、人間は、社会をつくって生きている。
社会とは、支え合う仕組みということである。
原始時代の社会は小さかった。家族を中心とした社会だった。
それがしだいに大きな社会になり、今は、国家と世界という社会を
つくりたがいに助け合いながら生きているのである。
自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようには
つくられていない。このため、助けあうということが、人間にとって、
大きな道徳になっている。助け合うという気持ちや行動のもとのもとは、
いたわりという感情である。他人の痛みを感じることと言ってもいい。
やさしさと言いかえてもいい。「いたわり」「他人の痛みを感じること」
「やさしさ」 みな似たようなことばである。
この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。
根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をして
それを身につけねばならないのである。その訓練とは、簡単なことである。
例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、
その都度自分中でつくりあげていきさえすればいい。
この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、
他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。
鎌倉時代の武士たちは、「たのもしさ」ということを、
大切にしてきた。 人間は、いつの時代でも頼もしい人格を
持たねばならない。人間というのは、男女とも、たのもしくない
人格に魅力を感じないのである。
もう一度繰り返そう。さきに私は自己を確立せよ、と言った。
自分に厳しく、あいてにはやさしく、とも言った。
それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。そして、
“たのもしい君たち”になっていくのである。
以上のことは、いつの時代になっても、人間が生きていくうえで、
欠かすことができない心構えというものである。
君たちはつねに晴れあがった空のように、たかだかとした心を
持たねばならない。同時に、ずっしりとたくましい足どりで、
大地をふみしめつつ歩かねばならない。
私は、君たちの心の中の最も美しいものを見続けながら、
以上のことを書いた。書き終わって、君たちの未来が、
真夏の太陽のようにかがやいているように感じた。
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