その2 いつでも夢を
平成27年 西暦2015年11月1日 日曜日
今朝の国際宇宙ステーションからの松山の写真に触発されて
久しぶりに坂の上の雲 第一部4話と5話を見る。
そのまえに、吾輩@松山
小学から高校までの
同級生@道後温泉
松山南は母校 その隣は菩提寺 両親を早く亡くし継母や姉や兄貴そして親族に励まされなんでもお墓に相談した吾輩です。
人間って大切なお金で買えないものを亡くすと優しくなれます。
吾輩の息子どもは吾輩がワイフが生きているから
大切なものにきがつかないのかも!!
ちょっと長生きし過ぎました吾輩?
6年4か月お世話になったGoVapのお家
四国は伊予の松山に三人の男がっではじまる!!
秋山兄弟と正岡子規
テレビ見ながらブランチしながら!!
どうしても土曜日に食べ過ぎる傾向があり、
ブランチを抜きたくなるが、我慢して簡単食事をいただく!!
1894年日清戦争開戦日 戦争礼賛になるのでかたくなに映像化を認めなかった司馬遼太郎 坂の上の雲
明治という誰もが夢をもてた時代
貧しくても楽天的に夢に
挑戦した時代
なんどみてもキュウウンです。
そして結構な東風が吹いています。
TSN空港を離陸する飛行機も本日は東向き!!
我が家 ベランダから写真を!!! 風は強いが空は明るく、雲は少なし!! さて8日ぶりの雨は??? 不明です。
菅原道真の和歌、東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな がぱあっと浮かんできました。
あの子規ですら従軍記者に憧れて夢を実現??正岡子規
弁護士に憧れタレントを辞め夢実現にむかう土曜ワイド劇場司法教官・穂高美子(4)
週末のサスペンスイベント、テレビ朝日の土曜ワイド劇場。
2011年から始まり今回で4作目となる、水野真紀さん主演の人気の「司法教官・穂高美子」シリーズ。
今回の舞台は結婚式場です。花嫁の転落死は、偶然の事故なのか、それとも偶然を装った殺人なのか?
罪を着せられた修習生の汚名を晴らすために司法研修所教官の穂高美子が謎を解きます。
弁護士を目指す小百合(高橋愛)の友人が結婚式の写真撮影中に転落死し、小百合に殺人の疑いが掛かる。美子は弁護士の小宮(筧利夫)と現場へ。
関係者は事件当日に怪しいことはなかったと美子に話すが、転落現場にいた男が殺され美子は関連を調べ始める...
出演:水野真紀、筧利夫、勝野洋、高橋愛、原日出子、高橋ひとみ
これまたグーでした。
今は無限とも思える職業と生き方があり志さへあれば夢いっぱい実現可能って思えたが!!
人それぞれに夢を
性別も年齢も超越し
できれば大きな志と高き品性を兼ねた夢に向かいたい向かって欲しいって思いました。
吾輩ですら未だ夢を追いかけています。
人から神から美・希望・よろこび・勇気・力の霊感を受ける限りは!!
そして
いつも青春とはを音読しますが!!
もう何度もこのブログに掲載したが音読したポエムを下記に!!
サムエル・ウルマン 「青春」
青春とは人生のある期間ではなく、心の持ちかたを言う。
薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな手足ではなく、たくましい意思、
豊かな想像力、燃える情熱をさす。 青春とは人生の深い泉の清新さをいう。
青春とは臆病さを退ける勇気、
安きにつく気持ちを振り捨てる冒険心意味する。
ときには、二十歳の青年よりも六十歳の人に青春がある。
年を重ねただけでは人は老いない。
理想を失うとき初めて老いる。
歳月は皮膚にしわを増すが、熱情は失えば心はしぼむ。
苦悩・恐怖・失望により気力は地に這い精神は芥になる。
六十歳であろうと十六歳であろうと人の胸には、
驚異に魅かれる心、おさな児のような未知への探求心、
人生への興味の歓喜がある。
君にも吾にも見えざる駅逓がこころにある。
人から神から美・希望・よろこび・勇気・力の霊感を受ける限り君は若い。
霊感(アンテナ)が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ、
ひかんの氷にとざされるとき、二十歳であろうと人は老いる。
頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、八十歳であろうと人は青春にしてやむ。
そして5年半前の我がブログにも感動
その一部コピペ
欧米的近代国家を坂の上の雲になぞらえ
封建の世の坂を上って行って
やがて到達するであろう
近代国家へのプロセスを
我が故郷の偉人3人
正岡子規 秋山好古、真之兄弟を中心にして
武士道精神を鑑みながら描かれていく!!!!
うーーーん
昨年末から始まったNHKの3年にわたる放送!!
我がもう一つのブログにも掲載した。
http://ameblo.jp/ken-uobe/
21世紀を迎えるに当たっては
小生ですらその生き方はエッセーに書いたが!!
あのまるで映画のようなシーン
マンハッタンのツインビルへの
2機の飛行機突入テロで
忌まわしきスタート
そして10年が10%が経過したが
司馬遼太郎はまるで死期が分かったかのように
21世紀を見れらいかもしれないが小学生にメッセージを残した。
------------------------------------------
『21世紀に生きる君たちへ』
私は歴史小説を書いてきた。
もともと歴史が好きなのである。両親を愛するようにして、
歴史を愛している。歴史とは何でしょうと聞かれるとき、
「それは、大きな世界です。かつて存在した何億という
人生がそこにつめこまれている世界なのです。」
と、答えることにしている。私には、幸い、この世に
たくさんのすばらしい友人がいる。歴史の中にもいる。
そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて
私の日常をはげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。
だから、私は少なくとも2千年以上の時間の中を、
生きているようなものだと思っている。
この楽しさは・・・もし君たちさえそう望むなら・・・
おすそ分けしてあげたいほどである。
ただ、さびしく思うことがある。
私が持っていなくて君たちだけが持っている大きなものがある。
未来というものである。私の人生は、すでに持ち時間が少ない。
例えば21世紀というものを見ることができないに違いない。
君たちはちがう。21世紀をたっぷり見ることができるばかりか
その輝かしいにない手でもある。もし「未来」という町角で、
私が君たちを呼び止めることができたら、どんなにいいだろう。
「田中君、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている
21世紀とは、どんな世の中でしょう。」
そのように質問して、君たちに教えてもらいたいのだが、
ただ残念にも、その「未来」という町角には私はもういない。
だから、君たちと話ができるのは、今のうちだということである。
もっとも、私には21世紀のことなど、とても予測できない。
ただ、私に言えることがある。それは、歴史から学んだ人間の
生き方の基本的なことどもである。
昔も今も、また未来においても変わらないことがある。
そこに空気と水、それに土などという自然があって、人間や他の
動植物、さらには微生物にいたるまでが、それに依存しつつ
生きているということである。 自然こそ不変の価値なのである。
なぜならば、人間は空気を吸うことなく生きることができないし、
水分をとることがなければ、かわいて死んでしまう。
さて、自然という「不変のもの」を基準に置いて、
人間のことを考えてみたい。人間は・・・繰り返すようだが・・・
自然によって生かされてきた。古代でも中世でも自然こそ神々で
あるとした。このことは、少しも誤っていないのである。
歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上に
あるものとして身をつつしんできた。この態度は、近代や現代に入って
少しゆらいだ。・・・人間こそ、いちばんえらい存在だ。という、
思い上がった考えが頭をもたげた。20世紀という現代は、
ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代といってもいい。
同時に、人間は決しておろかではない。思いあがるということとは
およそ逆のことも、あわせ考えた。つまり、私ども人間とは自然の
一部にすぎない、というすなおな考えである。このことは、古代の
賢者も考えたし、また19世紀の医学もそのように考えた。
ある意味では、平凡な事実にすぎないこのことを、20世紀の科学は、
科学の事実として、人々の前にくりひろげてみせた。
20世紀末の人間たちは、このことを知ることによって、
古代や中世に神をおそれたように、再び自然をおそれるようになった。
おそらく、自然に対しいばりかえっていた時代は、21世紀に近づく
につれて、終わっていくにちがいない。
「人間は自分で生きているのではなく、大きな存在によって
生かされている。」と、中世の人々は、ヨーロッパにおいても
東洋においても、そのようにへりくだって考えていた。
この考えは、近代に入ってゆらいだとはいえ、右に述べたように
近ごろ再び、人間たちはこのよき思想を取りもどしつつあるように
思われる。この自然へのすなおな態度こそ、21世紀への希望であり、
君たちへの期待でもある。そういう素直さを君たちが持ち、
その気分をひろめてほしいのである。そうなれば、21世紀の人間は
よりいっそう自然を尊敬することになるだろう。そして、自然の一部で
ある人間どうしについても、前世紀にもまして尊敬しあうようになる
のにちがいない。そのようになることが、君たちへの私の期待でもある。
さて、君たち自身のことである。
君たちはいつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。
・・・自分に厳しく、相手にはやさしく。という自己を。そして、
素直で賢い自己を。
21世紀においては、特にそのことが重要である。
21世紀にあっては、科学と技術がもっと発達するだろう。
科学・技術が洪水のように人間を飲み込んでしまってはならない。
川の水を正しく流すように、君たちのしっかりした自己が科学と
技術を支配し、よい方向に持っていってほしいのである。
右において、私は「自己」ということをしきりに言った。
自己といっても、自己中心におちいってはならない。
人間は、助け合って生きているのである。
私は、人という文字を見るとき、しばしば感動する。斜めの画が
たがいに支え合って、構成されているのである。
そのことでも分かるように、人間は、社会をつくって生きている。
社会とは、支え合う仕組みということである。
原始時代の社会は小さかった。家族を中心とした社会だった。
それがしだいに大きな社会になり、今は、国家と世界という社会を
つくりたがいに助け合いながら生きているのである。
自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようには
つくられていない。このため、助けあうということが、人間にとって、
大きな道徳になっている。助け合うという気持ちや行動のもとのもとは、
いたわりという感情である。他人の痛みを感じることと言ってもいい。
やさしさと言いかえてもいい。「いたわり」「他人の痛みを感じること」
「やさしさ」 みな似たようなことばである。
この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。
根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をして
それを身につけねばならないのである。その訓練とは、簡単なことである。
例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、
その都度自分中でつくりあげていきさえすればいい。
この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、
他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。
鎌倉時代の武士たちは、「たのもしさ」ということを、
大切にしてきた。 人間は、いつの時代でも頼もしい人格を
持たねばならない。人間というのは、男女とも、たのもしくない
人格に魅力を感じないのである。
もう一度繰り返そう。さきに私は自己を確立せよ、と言った。
自分に厳しく、あいてにはやさしく、とも言った。
それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。そして、
“たのもしい君たち”になっていくのである。
以上のことは、いつの時代になっても、人間が生きていくうえで、
欠かすことができない心構えというものである。
君たちはつねに晴れあがった空のように、たかだかとした心を
持たねばならない。同時に、ずっしりとたくましい足どりで、
大地をふみしめつつ歩かねばならない。
私は、君たちの心の中の最も美しいものを見続けながら、
以上のことを書いた。書き終わって、君たちの未来が、
真夏の太陽のようにかがやいているように感じた。
--------------------------------------------------------------
本日は外食もやめ、終日3Fフロア内の生活
結局雨は降らず、8日連続雨なしデーです。
夕食は焼きそばと氷水浸漬リプトン緑茶
2回目の休憩
午後9時1分
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平成27年 西暦2015年11月1日 日曜日
今朝の国際宇宙ステーションからの松山の写真に触発されて
久しぶりに坂の上の雲 第一部4話と5話を見る。
そのまえに、吾輩@松山
小学から高校までの
同級生@道後温泉
松山南は母校 その隣は菩提寺 両親を早く亡くし継母や姉や兄貴そして親族に励まされなんでもお墓に相談した吾輩です。
人間って大切なお金で買えないものを亡くすと優しくなれます。
吾輩の息子どもは吾輩がワイフが生きているから
大切なものにきがつかないのかも!!
ちょっと長生きし過ぎました吾輩?
6年4か月お世話になったGoVapのお家
四国は伊予の松山に三人の男がっではじまる!!
秋山兄弟と正岡子規
テレビ見ながらブランチしながら!!
どうしても土曜日に食べ過ぎる傾向があり、
ブランチを抜きたくなるが、我慢して簡単食事をいただく!!
1894年日清戦争開戦日 戦争礼賛になるのでかたくなに映像化を認めなかった司馬遼太郎 坂の上の雲
明治という誰もが夢をもてた時代
貧しくても楽天的に夢に
挑戦した時代
なんどみてもキュウウンです。
そして結構な東風が吹いています。
TSN空港を離陸する飛行機も本日は東向き!!
我が家 ベランダから写真を!!! 風は強いが空は明るく、雲は少なし!! さて8日ぶりの雨は??? 不明です。
菅原道真の和歌、東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな がぱあっと浮かんできました。
あの子規ですら従軍記者に憧れて夢を実現??正岡子規
弁護士に憧れタレントを辞め夢実現にむかう土曜ワイド劇場司法教官・穂高美子(4)
週末のサスペンスイベント、テレビ朝日の土曜ワイド劇場。
2011年から始まり今回で4作目となる、水野真紀さん主演の人気の「司法教官・穂高美子」シリーズ。
今回の舞台は結婚式場です。花嫁の転落死は、偶然の事故なのか、それとも偶然を装った殺人なのか?
罪を着せられた修習生の汚名を晴らすために司法研修所教官の穂高美子が謎を解きます。
弁護士を目指す小百合(高橋愛)の友人が結婚式の写真撮影中に転落死し、小百合に殺人の疑いが掛かる。美子は弁護士の小宮(筧利夫)と現場へ。
関係者は事件当日に怪しいことはなかったと美子に話すが、転落現場にいた男が殺され美子は関連を調べ始める...
出演:水野真紀、筧利夫、勝野洋、高橋愛、原日出子、高橋ひとみ
これまたグーでした。
今は無限とも思える職業と生き方があり志さへあれば夢いっぱい実現可能って思えたが!!
人それぞれに夢を
性別も年齢も超越し
できれば大きな志と高き品性を兼ねた夢に向かいたい向かって欲しいって思いました。
吾輩ですら未だ夢を追いかけています。
人から神から美・希望・よろこび・勇気・力の霊感を受ける限りは!!
そして
いつも青春とはを音読しますが!!
もう何度もこのブログに掲載したが音読したポエムを下記に!!
サムエル・ウルマン 「青春」
青春とは人生のある期間ではなく、心の持ちかたを言う。
薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな手足ではなく、たくましい意思、
豊かな想像力、燃える情熱をさす。 青春とは人生の深い泉の清新さをいう。
青春とは臆病さを退ける勇気、
安きにつく気持ちを振り捨てる冒険心意味する。
ときには、二十歳の青年よりも六十歳の人に青春がある。
年を重ねただけでは人は老いない。
理想を失うとき初めて老いる。
歳月は皮膚にしわを増すが、熱情は失えば心はしぼむ。
苦悩・恐怖・失望により気力は地に這い精神は芥になる。
六十歳であろうと十六歳であろうと人の胸には、
驚異に魅かれる心、おさな児のような未知への探求心、
人生への興味の歓喜がある。
君にも吾にも見えざる駅逓がこころにある。
人から神から美・希望・よろこび・勇気・力の霊感を受ける限り君は若い。
霊感(アンテナ)が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ、
ひかんの氷にとざされるとき、二十歳であろうと人は老いる。
頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、八十歳であろうと人は青春にしてやむ。
そして5年半前の我がブログにも感動
その一部コピペ
欧米的近代国家を坂の上の雲になぞらえ
封建の世の坂を上って行って
やがて到達するであろう
近代国家へのプロセスを
我が故郷の偉人3人
正岡子規 秋山好古、真之兄弟を中心にして
武士道精神を鑑みながら描かれていく!!!!
うーーーん
昨年末から始まったNHKの3年にわたる放送!!
我がもう一つのブログにも掲載した。
http://ameblo.jp/ken-uobe/
21世紀を迎えるに当たっては
小生ですらその生き方はエッセーに書いたが!!
あのまるで映画のようなシーン
マンハッタンのツインビルへの
2機の飛行機突入テロで
忌まわしきスタート
そして10年が10%が経過したが
司馬遼太郎はまるで死期が分かったかのように
21世紀を見れらいかもしれないが小学生にメッセージを残した。
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『21世紀に生きる君たちへ』
私は歴史小説を書いてきた。
もともと歴史が好きなのである。両親を愛するようにして、
歴史を愛している。歴史とは何でしょうと聞かれるとき、
「それは、大きな世界です。かつて存在した何億という
人生がそこにつめこまれている世界なのです。」
と、答えることにしている。私には、幸い、この世に
たくさんのすばらしい友人がいる。歴史の中にもいる。
そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて
私の日常をはげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。
だから、私は少なくとも2千年以上の時間の中を、
生きているようなものだと思っている。
この楽しさは・・・もし君たちさえそう望むなら・・・
おすそ分けしてあげたいほどである。
ただ、さびしく思うことがある。
私が持っていなくて君たちだけが持っている大きなものがある。
未来というものである。私の人生は、すでに持ち時間が少ない。
例えば21世紀というものを見ることができないに違いない。
君たちはちがう。21世紀をたっぷり見ることができるばかりか
その輝かしいにない手でもある。もし「未来」という町角で、
私が君たちを呼び止めることができたら、どんなにいいだろう。
「田中君、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている
21世紀とは、どんな世の中でしょう。」
そのように質問して、君たちに教えてもらいたいのだが、
ただ残念にも、その「未来」という町角には私はもういない。
だから、君たちと話ができるのは、今のうちだということである。
もっとも、私には21世紀のことなど、とても予測できない。
ただ、私に言えることがある。それは、歴史から学んだ人間の
生き方の基本的なことどもである。
昔も今も、また未来においても変わらないことがある。
そこに空気と水、それに土などという自然があって、人間や他の
動植物、さらには微生物にいたるまでが、それに依存しつつ
生きているということである。 自然こそ不変の価値なのである。
なぜならば、人間は空気を吸うことなく生きることができないし、
水分をとることがなければ、かわいて死んでしまう。
さて、自然という「不変のもの」を基準に置いて、
人間のことを考えてみたい。人間は・・・繰り返すようだが・・・
自然によって生かされてきた。古代でも中世でも自然こそ神々で
あるとした。このことは、少しも誤っていないのである。
歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上に
あるものとして身をつつしんできた。この態度は、近代や現代に入って
少しゆらいだ。・・・人間こそ、いちばんえらい存在だ。という、
思い上がった考えが頭をもたげた。20世紀という現代は、
ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代といってもいい。
同時に、人間は決しておろかではない。思いあがるということとは
およそ逆のことも、あわせ考えた。つまり、私ども人間とは自然の
一部にすぎない、というすなおな考えである。このことは、古代の
賢者も考えたし、また19世紀の医学もそのように考えた。
ある意味では、平凡な事実にすぎないこのことを、20世紀の科学は、
科学の事実として、人々の前にくりひろげてみせた。
20世紀末の人間たちは、このことを知ることによって、
古代や中世に神をおそれたように、再び自然をおそれるようになった。
おそらく、自然に対しいばりかえっていた時代は、21世紀に近づく
につれて、終わっていくにちがいない。
「人間は自分で生きているのではなく、大きな存在によって
生かされている。」と、中世の人々は、ヨーロッパにおいても
東洋においても、そのようにへりくだって考えていた。
この考えは、近代に入ってゆらいだとはいえ、右に述べたように
近ごろ再び、人間たちはこのよき思想を取りもどしつつあるように
思われる。この自然へのすなおな態度こそ、21世紀への希望であり、
君たちへの期待でもある。そういう素直さを君たちが持ち、
その気分をひろめてほしいのである。そうなれば、21世紀の人間は
よりいっそう自然を尊敬することになるだろう。そして、自然の一部で
ある人間どうしについても、前世紀にもまして尊敬しあうようになる
のにちがいない。そのようになることが、君たちへの私の期待でもある。
さて、君たち自身のことである。
君たちはいつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。
・・・自分に厳しく、相手にはやさしく。という自己を。そして、
素直で賢い自己を。
21世紀においては、特にそのことが重要である。
21世紀にあっては、科学と技術がもっと発達するだろう。
科学・技術が洪水のように人間を飲み込んでしまってはならない。
川の水を正しく流すように、君たちのしっかりした自己が科学と
技術を支配し、よい方向に持っていってほしいのである。
右において、私は「自己」ということをしきりに言った。
自己といっても、自己中心におちいってはならない。
人間は、助け合って生きているのである。
私は、人という文字を見るとき、しばしば感動する。斜めの画が
たがいに支え合って、構成されているのである。
そのことでも分かるように、人間は、社会をつくって生きている。
社会とは、支え合う仕組みということである。
原始時代の社会は小さかった。家族を中心とした社会だった。
それがしだいに大きな社会になり、今は、国家と世界という社会を
つくりたがいに助け合いながら生きているのである。
自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようには
つくられていない。このため、助けあうということが、人間にとって、
大きな道徳になっている。助け合うという気持ちや行動のもとのもとは、
いたわりという感情である。他人の痛みを感じることと言ってもいい。
やさしさと言いかえてもいい。「いたわり」「他人の痛みを感じること」
「やさしさ」 みな似たようなことばである。
この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。
根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をして
それを身につけねばならないのである。その訓練とは、簡単なことである。
例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、
その都度自分中でつくりあげていきさえすればいい。
この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、
他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。
鎌倉時代の武士たちは、「たのもしさ」ということを、
大切にしてきた。 人間は、いつの時代でも頼もしい人格を
持たねばならない。人間というのは、男女とも、たのもしくない
人格に魅力を感じないのである。
もう一度繰り返そう。さきに私は自己を確立せよ、と言った。
自分に厳しく、あいてにはやさしく、とも言った。
それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。そして、
“たのもしい君たち”になっていくのである。
以上のことは、いつの時代になっても、人間が生きていくうえで、
欠かすことができない心構えというものである。
君たちはつねに晴れあがった空のように、たかだかとした心を
持たねばならない。同時に、ずっしりとたくましい足どりで、
大地をふみしめつつ歩かねばならない。
私は、君たちの心の中の最も美しいものを見続けながら、
以上のことを書いた。書き終わって、君たちの未来が、
真夏の太陽のようにかがやいているように感じた。
--------------------------------------------------------------
本日は外食もやめ、終日3Fフロア内の生活
結局雨は降らず、8日連続雨なしデーです。
夕食は焼きそばと氷水浸漬リプトン緑茶
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