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留学、ワーホリと「国際人」

2014年07月15日 | 日記
日本の「国際化」が声高に叫ばれた1980年代に大学生活を送った私は、良い意味でも悪い意味でも、「国際人」という言葉に特別の響きを感じます。「国際人」なるものには、常に「あやふやな期待」がともないます。加藤恵津子『自分探し」の移民たち―カナダ・バンクーバー、さまよう日本の若者―』彩流社、2009年は、それを明確にしてくれる文献でした。

『「自分探し」の移民たち』は、バンクーバーへ留学や働きに来た日本の若者に対する、長年のフィールドワーク研究の成果です。著者の加藤氏がバンクーバーで参与観察を行っていた2008年、私も同市のブリティッシュ・コロンビア大学に長期研究滞在をしていたこともあり、同書を興味深く読みました。



同書に綴られているバンクーバーでの日本の若者の「実態」に、私は少なからず驚きました。当時、私はバンクーバー郊外のブリティッシュ・コロンビア大学で主に活動しており、ダウンタウンには、ほとんど行きませんでした。そのため、ダウンタウンに集中する日本からの若者の情報に触れることは、ほとんどありませんでした。同書で詳細に紹介されている、日本からのバンクーバー渡航者の「成功」とは異なる経験は、不覚ながら、これまで知ることがなかったゆえに、私は大きな興味を覚えました。表からは見えにくい、バンクーバー滞在者の「コインの裏側」です。こうした情報は、留学やワーキング・ホリデーなどを考えている、日本の若い人たちにも、広く提供されるべきでしょう。

それはさておき、私が同書で最も印象に残ったのは、「国際人」や「地球市民」に対する加藤氏の深い洞察です。仕事柄、私は、これらの言葉に触れる機会が多く、また、この2つの用語を様々な用途で使っていましたが、加藤氏の以下の指摘は、こうした概念には、もっと注意深くなるべきだと言っているようです。

「『地球市民』という語には、(本来)『権利をもらう』というよりも『責任を担う』というニュアンスがつよい…、『地球市民』の場合、何らかの『権利』を『ギブ』してくれる政府は、特にない。(中略)『国際人』のイメージ(は)、『国と国の間』を浮遊し続けることが理想であるかのような勘違いをさせ、若者の、どの地にもコミットしない状態を長引かせかねない…これは若者たち自身にとっても、延々と『自分探し』を続けなければならない苦しい状態といえるだろう」(同書、291、305ページ)。

「地球市民」や「国際人」に付随する違和感があるとすれば、加藤氏の説明ほど、この「違和感」なるものを明らかにしたものには、私は、出会ったことがありません。簡潔で分かりやすい見事な指摘です。

同時に、『「自分探し」の移民たち』に、疑問がないわけではありません。第1に、加藤氏は、バンクーバーに渡航する日本人若者の男女の比率が相対的に女性に傾いている事実を指摘したうえで、このことを日本の家父長制に結びつけています。そして、家父長制が残る中国や韓国からは、女性とほぼ同数か、それ以上の男性がカナダに渡っていることから、日本の家父長制の強固さをほのめかしています(同書、第五章)。もちろん、こうした分析は説得的なのですが、代替仮説も立てられます。すなわち、上記のアジア各国の政治体制や地政学上の変数が、男女比の差に作用しているということです。これは単なる個人的な経験による推論にすぎませんが、この2つの変数の因果関係は、かなり強いように思います。

第2に、これは純粋な疑問ですが、物価の高いバンクーバーで、これほど多くの若者が、どうやって経済的に生活できるのだろうか、というものです。なんでも、たとえば「バンクーバーの不動産価格は北アメリカ最高クラス」(『ニューズウィーク日本版』2014年7月29日、18ページ)だとか。同書で参与観察の対象となった若者たちは、比較的裕福な家庭からバンクーバーに渡ったのでしょうか。

いずれにせよ、『「自分探し」の若者たち』は、日本の文化人類学者の力量を私に感じさせる1冊でした。