カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

スペイン・アンダルシア(その1)

2013-12-23 | スペイン(アンダルシア)
年の瀬も押し迫ったスペインの朝はまだ暗い。こちらは午前8時のバルデペーニャス(Valdepenas)の様子で、正面の白い建物は、昨夜泊まった「ベラクルス ホテル」(Hotel & Spa Veracruz Plaza, Plaza Veracruz)である。


バルデペーニャスは、スペイン、カスティーリャ ラ マンチャ州、シウダ レアル県にある都市で、マドリードからは220キロメートル南に位置している。この地までは、フィンランド航空で関西国際空港を発ち、ヘルシンキを経由し、昨夜午後8時25分にアドルフォ スアレス マドリード バラハス空港に到着し、E05線(A4)を車で約200キロメートルを走行してきた。

ベラクルス ホテルの1階フロントでチェックアウトした際、騎士像をイメージしたオブジェが飾られているのに気が付いた。こちらのシウダ レアル県は、12世紀シトー会の傘下騎士団として、スペインで初めて設立されたカラトラバ騎士団の本拠地で、歴代の王たちとともにレコンキスタ(国土回復運動)を戦い、勇猛をとどろかせたという。


ホテル正面からすぐ南側が旧市街の繁華街となるが、人通りはなく閑散としている。繁華街先の右側にスペイン広場があり、広場の奥(北側)に「聖母被昇天教会」が建っている。この町並みは、1212年、ナバス・デ・トロサの戦い(北アフリカのイスラム王朝ムワッヒド朝とカスティーリャ王アルフォンソ8世を中心とするキリスト教諸王国連合軍との間に起った戦争)に勝利したカスティーリャ王国のベレンゲラ女王(アルフォンソ8世の長女)の指示により造られた。
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ところで、バルデペーニャスは、ワイン造りで長い歴史を持っており、夏は暑く冬は寒い大陸性気候を背景に、多くの葡萄品種が作られている。低価格にも関わらず高品質なワインが造られており、特に、センシベル(テンプラニーリョ)を主体にした赤ワインが代表的ワインとして知られている。

さて、これから、一路グラナダ(Granada)に向かう。E05号線を南下し、85キロメートル先で、E902/A44に乗り換える。バルデペーニャスから、グラナダまで、約220キロメートルの距離(マドリードからは400キロメートル南)である。


グラナダは、アンダルシア州グラナダ県の県都で、イベリア半島南東部にあるシエラ ネバダ(積雪のある山脈の意)山脈(最高峰は標高3,478メートル)の北西麓に位置している。

イベリア半島は、地中海世界の西方にあり、キリスト教とイスラム教が交差する地域となってきた。ローマ帝国滅亡後は、キリスト教国ゲルマン系の西ゴート王国が支配していたが、711年に、イスラム勢力(ウマイヤ朝)の侵攻により、西ゴート王国は滅ぼされ、イスラム教社会となる。その後、756年には「後ウマイヤ朝」が、コルドバで建国し、10世紀に最盛期となるものの、1031年に滅亡し、イスラム勢力はタイファ諸国(イスラム教諸王国)に分かれていく。これを機にキリスト教徒は、レコンキスタの戦いを活発化させていく。

キリスト教徒がイベリア半島各地で戦いを繰り広げた結果、13世紀にはナスル朝グラナダ王国(1237年建国)だけがイスラム教国となった。そして、キリスト教国のカスティーリャ王国イサベル1世とアラゴン王国の太子フェルナンドとの結婚(カトリック両王)により誕生したスペイン王国(1479年建国)は、1492年にナスル朝の最後の拠点グラナダを陥落させ、キリスト教国念願のレコンキスタを達成したのである。

グラナダ最大の観光スポットといえば「アルハンブラ宮殿」(la Alhambra)だが、先に、グラナダ旧市街に建つ「グラナダ大聖堂」(カテドラル)から見学する。その大聖堂周辺には、午前10時半頃に到着した。グラナダ大聖堂は、広い広場に面しておらず、隣接する古い町並みに溶け込む様に建っているため見つけづらい。こちらは、カンセル バハ通り(Cansel Baja)沿いから " 後陣(シュヴェ)のやや北側 " を見上げた様子である。
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グラナダ大聖堂は、1523年からエンリケ・デ・エガスの設計によりゴシック様式で進められ、5年後には、神聖ローマ皇帝カルロス(カール)5世(カトリック両王の孫で、スペイン王カルロス1世)の指示により、ディエゴ・デ・シロエがプラテレスコ様式(ルネサンス様式)に変更し建設が続けられた。1664年からは、アロンソ・カーノ(1601~ 1667)によりバロック様式が導入され1704年に完成している。

大聖堂の外観に沿ってカンセル バハ通りを西に向けて歩いていくと、北袖廊前に到着する。扉口脇の柱には、双頭の鷲に支えられた神聖ローマ皇帝カルロス5世の紋章をかたどった彫刻がある。
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北袖廊の先からは、石畳の路地になり、すぐ先に三層からなる鐘楼が聳えている。鐘楼は、当初81メートルの塔を想定していたが、財政的な理由から57メートルの高さで中止となっている。その鐘楼の外壁に沿って左に回り込むと、メインファサードになる。ピラスターで支えられた3つの半円形のアーチで覆われ、中央には、受胎告知の円形の浮彫(トンド)があり、直ぐ上にアヴェ・マリア(こんにちは(おめでとう)、マリア)と刻まれている。
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ファサードの前には、数段の緩やかな下り階段があり、その先に、大聖堂前の広場とは思えないほどの、小さなラス・パシエガス広場(Plaza de las Pasiegas)がある。

大聖堂へは、ファサードに向かって右隣の「サグラリオ教会」(Iglesia del Sagrario)から入場する。このあたりには、かつてナスル朝の大メスキータがあった。設計段階では、大聖堂のファサードの両脇にそれぞれ塔が建つ予定だったが、右側は建設すら至らず、後に現在の教会(サグラリオ教会)が造られた。
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大聖堂の内部は白で統一されておりとても明るい印象だ。柱や天井に至るまでスケールの大きさと優美な装飾に圧倒されられる。
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ステンドグラスと黄金に彩られた主祭壇はディエゴ・デ・シロエの作品。シロエと言えば、スペイン・ゴシック様式の傑作ブルゴス大聖堂の「黄金の階段」など各地の大聖堂を手掛け数々の作品を生み出したスペインの天才建築家である。なお巨大な円蓋までの高さは45メートルある。
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左右の身廊壁には、対になった豪華なパイプオルガンが設置されている。
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サグラリオ教会のファサード前から、右側に進み、教会の壁に沿って左に曲がり、細い石畳(オフィシオス通り)から、サグラリオ教会反対側に回り込むと「王室礼拝堂」への入口がある。礼拝堂は、後期ゴシック様式で豪華な黄金の祭壇衝立があり、聖具室には、カトリック君主の王冠や笏など、貴重なコレクションが収められている。絵画ギャラリーには、ルネサンス期のサンドロ・ボッティチェッリを始め、フランドル派のロヒール・ファン・デル・ウェイデン、ディルク・ボウツ、ハンス・メムリンクや、15世紀のスペイン画家ペドロ・ベルゲーテ、バルトロメ・ベルメホなどの作品が展示されている。
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墓は、地下室の低い樽型ヴォールト天井の下にあり、イサベル1世とフェルナンド2世のカトリック両王、娘のカスティーリャのフアナ1世と、夫でフランス王フィリップ4世、イサベル・デ・アラゴン(イサベル1世の娘)の息子で幼少期に亡くなったポルトガル王皇太子の5人のお棺が収められている。カトリック両王にとって、レコンキスタ完成のグラナダは特別の街であり、中でも、イサベル1世はこの地を自らの墓所と決めていたと言われている。

次に「アルハンブラ宮殿」(la Alhambra)に向かう。こちらは、北側にある丘陵のアルバイシン地区から、南側の「アルハンブラ宮殿」を眺めた様子。丘の下の鐘楼は「聖ペテロ&パウロ教会」で、その先隣にはダーロ川が流れている。そして丘の上に、城壁に囲まれたアルハンブラ宮殿が、直径740メートル、幅205メートルの敷地に建っている。この地には、既に9世紀に城壁が存在していたが、現在の宮殿建設は、ナスル朝の開祖ムハンマド1世(在位:1232~1273)治世から始まっている。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

ナスル朝とは、ムワッヒド朝(北アフリカのイスラム王朝でアンダルシア地方を支配)が、キリスト教諸王国連合軍に壊滅的な敗北を喫し(ナバス・デ・トロサの戦い)、第三次タイファと呼ばれる時代に蜂起したアンダルス系のイスラム勢力で、1238年、指導者ムハンマド・ブン・ユースフ(イブン・アフマル)(後のムハンマド1世)によりグラナダを首都とし建国されたタイファ。

ムハンマド1世により建設が始まった宮殿は、7代ユースフ1世(在位:1333~1354)治世頃に、概ね現在の姿になっている。その後「コマレスの塔」や「リンダラハ庭園」が造られ、ナスル朝の最盛期とされるムハンマド5世(在位:1354~1391)治世時には、城内にモーロ人貴族をはじめ2,000人以上の人々が住んでいた。

宮殿には、チケットショップや駐車場のある東側の「水の門」から入場するのが一般的だが、事前にチケットを購入していれば、他の門からも可能であり、宿泊ホテル「アルハンブラ パラセ」(Hotel Alhambra Palace)近くの「裁きの門」から入場した。すぐにカルロス5世宮殿の前(南角)の広場となり、北側に隣接するアルハンブラ宮殿最大の見どころ「ナサリーエス宮殿」(Palacios Nazaries)への入口前に到着する。この時間、入場を待つ長い列ができていたが、予約時間まで間があったため、先の「ワイン門」をくぐって西南側の「アルカサバ要塞」へ向かうことにした。


左側の兵士用住居が残る通路沿いを進んでいる。アルカサバ要塞は、13世紀にそれまでの古い要塞を改築して建てられたアルハンブラ宮殿のなかで最も古い建造物である。前方は「ヴェラの塔」と名付けられ、見張り塔として使われたが、初期はムハンマド1世の居城として建てられた。
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ヴェラの塔は、高さ26メートルあり、屋上からグラナダ市街を一望できる。南西やや右側に「グラダナ大聖堂」が見え、大きな後陣、中央ドーム、建設途中で中止となった北塔などを確認できる。左側(南側)に隣接する丘の先端には、3階建ての中央塔と2つの側面塔から構成される「朱色の塔(Torres Bermejas)」が建っている。
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視線を右側に移した北西側には、白壁の家々が階段状に並んでいる。この丘陵地区の家並みが、イスラム時代の最古の街並みが残るアルバイシン地区になる。敵の侵入を防ぐ城郭都市として造られたため、迷路のように道が入り組んでいる。
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振り返って東南方面を眺めると、正面手前に見えるオレンジ色の建物が今夜の宿泊ホテル「アルハンブラ パラセ」で、遠方に雪を頂くのが「シエラ・ネバダ山脈」である。なんとも素晴らしい眺めである。
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予約している時間が近づいてきたため「ナサリーエス宮殿」の入口に戻ると、入場の列は、先ほどの半分ほどとなり、カルロス5世宮殿の北壁面までとなっていた。


ナサリーエス宮殿は、メスアール宮、コマレス宮、ライオンのある中庭の建物群から成り立っており、見学者は「メスアール宮」から入場する。その入口となる外壁は、細密な縁取り彫刻で覆われている。
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メスアール宮は、アルハンブラ宮殿の中では最も古く行政と司法が執り行われた場所で、レコンキスタ後以降も数度にわたり改築されている。その長年にわたり受け継がれた繊細な彫刻世界には圧倒されるものがある。
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メスアール宮から中庭に出る手前のポルチコのある部屋は「黄金の間」と呼ばれ宮殿来訪者の控室として使われていた。壁面の浮彫も凄いが、アーチを飾る精緻な浮彫装飾は目を見張るものがある。天井は木造で、黄金で装飾された様々な文様で飾られている。
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「黄金の間」を出ると、大理石が敷き詰められ中央に水盤が置かれた「メスアールの中庭」となる。向かい側(南側)のアラベスクで飾られたファサードは「コマレス宮」の入口で、一層目には、タイルで縁取りされた2つの出入口があり、二層目にはアーチ窓を中心に左右に二連の馬蹄形の窓が配されている。こちらは、ムハンマド5世が、カスティーリャ王国からアルヘシラス(カディス県)を奪回した記念に建てたもの。
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そのコマレス宮の中でも最も広いとされる部屋が「大使の間」で、美しい装飾が隅々まで施されている。上部の馬蹄形の窓はステンドグラスで、室内に神秘的な光りが入り込むようになっている。
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アルハンブラ宮殿における木工天井の傑作で、杉の木をベースに色の異なる象眼細工で装飾された大空(宇宙)を表している。中央頂部がイスラムの楽園への入口とされ、四方の対角線は、楽園へ向かう四条の川を象徴しているとされる。
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コマレス宮からアラヤネス(天人花)の中庭に面したポルチコ内に出てみる。木製の扉にも隙間なく幾何学模様の装飾が施されている。
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ポルチコ内の両脇には、アルコーブと呼ばれる壁面の一部をくり抜いた小部屋があり、天井には、ムカルナスと呼ばれる形式の無数の鍾乳石状の繊細な装飾がなされている。僅かにかつての彩色が残っている。
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アラヤネスの中庭に出て、向かい側の南側からコマレス宮を眺めてみる。先ほどの大使の間は、後方の城壁に建つ高さ50メートルの砦の中にあったことが分かる。こちらから見る景観は、その砦の配置も計算した上で、中央の池(34メートル×7.10メートル)の水面に上下対称に水鏡として映り込む様に設計されていることに驚かされた。水は両端にある大理石の水盤器から供給され、左右は綺麗に刈り込まれたギンバイカ(マートル)の生け垣でかたどられている。
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アラヤネスの中庭を望むポルチコ内の壁面には、生命の樹の見事な彫刻が施されている。

そしてアラヤネスの中庭の東側にあるのが、アルハンブラ宮殿で最も有名な「ライオンの中庭」で、王族のプライベートな場所だった。124本もの大理石円柱で支えられた高度な透かし彫りのアーチ群が長方形の回廊を形成している。中央には、水盤を支える円状に配された噴水孔を持つ12頭のライオン像(大理石)が飾られている。ライオンはそれぞれ黄道十二星座を示しているとのこと。
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ライオンの中庭の北側の建物には「二姉妹の間」があり、王妃が住んでいたとされる。八角形の天井はイスラム建築最高峰とも言われ宮殿随一の美しさを持つムカルナス装飾が施され、天窓から差す光の変化を巧みに取り入れるようになっている。
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「二姉妹の間」の出窓を飾る装飾も驚くほど細かい。外に見える緑は、北側の回廊のある小さな「リンダアハの庭園」で、レコンキスタ後に造られた。真夏でも陽光が入りにくいため、涼しく静寂に満ちている。
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「リンダアハの庭園」の北回廊から建物内に入った2階には、アルハンブラ物語を執筆したアメリカ人作家ワシントン・アーヴィングの滞在した部屋が残っており、壁にはこの部屋に滞在したとの標識が掛けられている。彼は、1829年にマドリード・ロシア大使館員の友人とサンチョ(スペイン人従者)とグラナダに旅行し滞在した。物語は、宮殿の華麗で荘厳な姿と幻想的な日々を、様々な伝説を織りまぜて詩情豊かに綴られている。この部屋は、もともとカルロス5世の間と女王の間のために増築された部屋の一部であった。


その北隣の窓から、アルバイシン地区を望むことができる。
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王宮の東側には、綺麗に幾何学文様の刈込みがされた「パルタル庭園」が広がっている。もともと家臣や住民の居住区だったエリアだった。奥(北側)に見えるピンク色の建物は、北城壁に建つ防備用の望楼「貴婦人の塔」(物見やぐら)で、背景にアルバイシン地区の丘が望める。塔の1階正面には、大きなアーチを中心に左右2つの計5つのアーチがあり、その前面にアーチの姿を美しく映し出す長方形の池がある。
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庭園から遊歩道を進み、東側の城壁を抜け、陸橋を渡ると、アルハンブラ宮殿のある丘とは別の、北側に延びる丘となる。緑に囲まれた通路を歩いて行くと、丘の中央から「ヘネラリフェ庭園」に至る。ここは、1319年、イスマール1世により夏の別荘として造られた。いたるところに水路や噴水が設けられており、このことから「水の宮殿」とも呼ばれている。


ヘネラリフェ庭園からアルハンブラ宮殿の北東側の城壁を眺めてみる。手前中央の小さめな塔は「裁判官の塔」といい、その右側の大きな塔が北側の通用門でもある「尖塔の門」、その奥の僅かに見えるスレート状の屋根が、パルタル庭園にある「貴婦人の塔」、その奥の大きな塔が「コマレスの塔」である。
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再び、アルハンブラ宮殿に戻り、宮殿を横断して、最後に西側に建つ「カルロス5世宮殿」に入ってみる。入口は建物の西側で、アルカサバへのワイン門やナサリーエス宮殿入口の近くにある。カルロス5世宮殿は、1492年のグラナダ陥落後、ナスル朝時代の宮殿のあまりの美しさに感銘を受けたカルロス5世が、建築家ペドロ・マチューカに命じ、既存のイスラムの美を破壊せず、取り込んで建設した壮麗なルネサンス様式の新宮殿である。
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ペドロ・マチューカは、正方形の建物の中央に、円形の中庭を設けるというイタリアの様式を取り込む設計をしたが、実際には、計画と建設に大幅な時間がを費やし、中庭を覆う屋根が取り付けられたのは18世紀になってからである。カルロス5世は、この宮殿を政治の中心地にすることを考えていたが、実際には戦争に明け暮れ滞在することはなかったという。


イスラムの最高峰の美に圧倒的されながら3時間半ほど見学して、ホテル「アルハンブラ パラセ」まで歩いて戻って着た。このホテルは、1910年に開館したイスラム風の豪華な外観を持ち、開館式には、当時のスペイン国王も出席したという歴史をもっている。さて、まもなく午後6時になる。


部屋の内装にもイスラム風の幾何学模様の装飾が取り入れられて豪華な雰囲気だ。


部屋の窓から身を乗り出して市街地を眺める。右端に大聖堂がわずかに見える。さて、今夜の食事は、その大聖堂東側のパサヘ ディエゴ デ シロエ通りから東の路地を入った所にあるバル兼レストラン「ラ・ビノテカ(La Vinoteca)」で、午後7時半に予約をしている。多くのレストランはクリスマス休暇になり、空いていても混雑するため、大聖堂の見学後に予約しておいた。ホテルからは、下りで800メートルの距離なので、懐中電灯片手に歩いて向かう。


料理はタパスが美味しく、店舗もおしゃれな雰囲気で人気が高い。入口を入ったバルは賑やかだが、奥のレストランは、静かで、ゆっくりと食事ができる。今夜のレストランメニューは、クリスマス限定で、お任せとのこと。
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レストランは、十数組ほどに対応できるテーブル席があり、西側の路地が見える窓際席に案内された。案内された際は、ほとんど空いていたが、しばらくすると、次々とお客が現れ、あっという間に満席になった。料理は、タパスと言う事だが、コース料理の様に順番に運ばれてくる。こちらは、ガスパッチョ風のシンプルなサラダ。
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こちらは、チーズクラッカーに、ホワイトクリームやナッツがふりかけられている。午後8時を過ぎた頃、路地から店内を覗き込む人が増えてきた。クリスマスシーズンで、ほとんどのレストランやバルが休みのため、食事場所を探してさまよっているらしい。地元の人のほとんどはクリスマスを自宅で過ごすが、観光客は事前に予約しておかないと食事にありつけない。。
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料理は、タイミング良く、運ばれてくるが、コース風に仕上げられているのか、一般的なバゲットや揚げパンをベースにしたタパスではなかった。
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こちらは、焼シュウマイ風の肉詰めに、カボチャのチップスが添えられている。
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ラザニアに北京ダックの様な皮が載った一品。メニューがなかったので、料理名は分からなかった。品数も不明だったので確認すると、これで終わりとのこと。お腹も一杯になってきたのでちょうど良い分量だった。
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最後にデザートを食べて終了した。ワイナリー「トーレス(Torres)」が経営するレストランなので、ワインも美味しかった。料理は、思ったよりカジュアルだったが、休店の多いクリスマス時期を考えると、サービスも良く、料理も滞りなく提供されたこともあり、十分納得感があった。帰りは上り坂なので、タイミングよく見つかったタクシーに乗りホテルに戻った。
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翌朝、午前7時半、ホテル「アルハンブラ パラセ」内の朝食会場に向かう。ロビーは、馬蹄形のアーチ門や壁面には細かい幾何学系の文様があるなどイスラム風の装飾で豪華に飾られている。


今朝は、まだ時間が早いのか誰もいない。昨夜、午後9時半頃ホテルに戻ると、多くの宿泊客が、こちらのレストランで食事をしていたが、旧市街のバルの雰囲気を味わうことができたのは良かった。


冷たい総菜や温かい総菜が数種類、パン、デザート、果物も数種類あるが、朝から白ワインも置かれている。。。


食後、チェックアウトして、午前9時ホテルを出発した。昨日、大聖堂を見学し、アルバイシン地区の入口付近まで散策した際、丘の上まで行かなかったので、車で向かったが、雨が強く振り出したので、諦め、グラナダを後にした。

(2013.12.23~25)
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