カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

スペイン・アンダルシア(その4)

2013-12-27 | スペイン(アンダルシア)
セビリアからE05号線(A4)を北東に30キロメートルほど進み、インターチェンジから降り、A398号線を東に3キロメートルほど進むと「カルモナ」(Carmona)市内に入る。少し先で、公園が併設された中央分離帯のある通りとなり、前方に、アールヌーボー様式で1934年に建てられた市劇場「セレッソ劇場」(Teatro Cerezo)が見えてくる。そして、その先の靄がかかる鐘楼が「サン・ペドロ教会」になる。


「セレッソ劇場」のファサード前を通り、先の「サン・ペドロ教会」鐘楼を右側に見ながら過ぎると、セビリア門のある城壁(下の砦)前に到着する。こちらの門が、カルモナ旧市街への入口となる。門横に観光案内所があるが、この時間(午前9時50分)まだ閉まっていた。


セビリア門の前は、ロータリーになっており、手前側には、サン・ペドロ教会の後陣が面している。後陣の左奥が南袖廊にあたり、大きなクーポラがある。こちらは、18世紀に、セビリアバロック様式で建てられたもので、聖餐式礼拝堂となっている。

さて、セビリア門の城壁に上れるようなので、観光案内所前で待っているとスタッフが現れたので料金を払い階段を上っていく。城壁内には小さな展示室があり、カルモナの歴史資料や遺物などが展示されている。
さて、城壁の最上部にある胸壁から西側を眺めると、やや靄が晴れてきたのか、サン・ペドロ教会の鐘楼(1784年築)も見え始めた。鐘楼は、セビリア大聖堂のヒラルダの塔を真似て造られたとのこと。そして、その後方には、カルモナの町並みが広がっている。
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こちらは、カルモナ旧市街の北東側を眺めた様子で、すぐ手前に「サン・バルトロメ教会」(San Bartolome)の鐘楼が聳え、路地が旧市街中心地に向けて延びている。その中心地には、大きなクーポラの「救世主教会」(18世紀)や、左隣の「サンタ マリア修道院教会」(15世紀から19世紀)などが建っている。
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南東側に視線を移すと、電波塔付近から急斜面になっている。カルモナの旧市街(標高253メートル)の北、東、南側の三方向は高低差100メートルほどの急斜面となり、その先には平原が広がっている。カルモナ旧市街は、北東側から南西側に数十キロメートル続く断層帯にあり、特にいびつな突起状の正断層の上盤にある。この要害の地であるカルモナは、古くから軍事上の要所として栄えた。
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セビリア門のある砦(下の砦)下から、白壁の建物に囲まれた細い上り坂の路地を進むと、小さな円形の「サン・フェルアンド広場」があり、その先に、サンタ マリア教会や博物館があるが、閉まっている。周りは細い路地と白壁ばかりで建物の全体像がつかみにくい。こちらは「デスカルサス修道院」(Convento de las Descalzas)で、小さな広場があったことから、鐘楼やクーポラを見上げることができる。
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サン・フェルアンド広場から、路地を東に500メートルほど進むと急に視界が開け「マルチェナ門」(Marchena)(上の砦)に到着する。この砦の場所には、もともと、ローマ時代の城壁を基礎に要塞が造られていたが、1350年、カスティーリャ王ペドロ1世(在:1350~1369)が愛人マリア・デ・パディリアのためにセビリアのアルカサルと同じ職人を使って改装した居城の跡である。


ペドロ1世は、父王アルフォンソ11世(在:1312~1350)の病死を受けて王に即位したが、王権強化を目指し下級貴族を登用したことから、反発した有力貴族たちが父の庶子(異母兄)エンリケ2世のもとに結集し王位継承権争い(第一次カスティーリャ継承戦争、1366~1369)へと発展してしまう。また、母マリア(ポルトガル王アフォンソ4世の娘)を追放して、折り合いの悪かった王妃ブランカ(ブルボン家のピエール1世の娘)を幽閉し、死に至らしめ、フランス王家とも対立する。

そんな彼が唯一心を許し、愛情を注いだ女性が、マリア・デ・パディリアであり、セビリアから離れたこのカルモナの地に安寧の場所を求めたが、ペストで急逝する。

マルチェナ門を過ぎると、敷地の奥に「レイ・ドン・ペドロ(パラドール)」が見える。この建物は、数世紀の間放置され、地震等によって廃墟となったものを、19世紀末に復元し再建したもの。正面入口の上には、カスティーリャを示す3本の塔を持つ城と、レオンを示す冠をかぶった紫のライオンの紋章が飾られている。なお、レコンキスタの終焉となったグラナダへの侵攻を開始したカトリック両王のフェルナンド王とイサベル女王もこの場所にあった居城に滞在した。


パラドール内には、ムデハル様式の噴水に彩られた、アラブの雰囲気漂う見事なパティオ(中庭)がある。
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パラドール内には、ペドロ1世ゆかりの品がおさめられており、こちらの重厚なサロンがあるレセプションの隅には、プレートアーマー・ヘルメットが置かれ、その前にカルモナ、ペドロ1世のアルカサルと書かれている

王位継承権争いが続くペドロ1世は、1366年、フランス王とアラゴン王の援助を受けたエンリケ2世の進撃を受けたことで、イングランド王家の所領バイヨンヌに亡命するものの、イングランド軍を味方につけ反転攻勢に出て勝利する。しかし、1369年にイングランド軍が戦線離脱をしたため、一気に牽制不利となり「モンティエールの戦い」で敗北し戦死する。享年34歳であった。ペドロ1世は、有力貴族を弾圧したことから「残酷王」と呼ばれたが、治安が良く産業が栄え、庶民からは「正義王」との評価も得ている。。


カルモナでは、1時間半ほどの滞在を終え、次の目的地コルドバに向かった。コルドバの後には、更に400キロメートル先のトレドに行くことにしており、ゆっくりできない。コルドバは、E05号線(A4)で、北東100キロメートルほど先に位置しており、概ね1時間半ほど過ぎた、午後1時頃、コルドバ旧市街の西側を南北に延びる並木道の大通り(コレヒドール通り)(431号線)沿いに到着した。

コレヒドール通りから「メスキータ」へは、通り沿いにある城壁(西壁)の「セビリア門」(14世紀後半城内のサン・バシリオ地区の拡張に伴い設けられた)からくぐって向うのが近い。その西壁の手前には、10世紀頃の水道の遺構が残り、コルドバ出身で後ウマイヤ朝イスラム法学の権威イブン・ハズム(Ibn Hazm、994~1064)の像が建っている。像は、没後900年を記念して建てられたもの。彼は法学、神学、詩を中心に400篇近い著述を残し、特に文芸作品の恋愛論「鳩の頚飾り」が有名である。
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旧市街に入り、600メートルほど歩いた三叉路から左折して北方向に進むとメスキータの入場門があるが、右折して、多くの観光客がメスキータに訪れる際に渡るローマ橋の袂に行ってみる。

「ローマ橋」は、コルドバ市内を流れるグアダルキビール川に架かる古代ローマ時代に造られた橋で、戦争や暴動の度に何度も破壊され改修が繰り返されて現在に至っている。橋の側面は、増水にも耐えられるように、支柱部分に水の勢いを弱める補強ブロックが取り付けられている。なお、対岸の塔は「カラオーラの塔(Torre de la Calahorra)」で、タイファの一国「ムワッヒド朝」(1130~1269)により橋を守る為に建てられたもの。


こちらはグアダルキビール川を渡った対岸(南側)からの様子で、ローマ橋とメスキータを同時に一望できる。その「メスキータ」(Mezquita)は、スペインに現存する唯一の大モスクで、別名、「コルドバの聖マリア大聖堂」と呼ばれている。785年、イスラム教の寺院として後ウマイヤ朝(756年~1031年)初代アミールのアブド・アッラフマーン(在位:756年~788年)の命により建設され、その後、歴代のアミールにより拡張されてきた。
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ちなみに、後ウマイヤ朝とは、シリアを本拠としたウマイヤ朝がアッバース朝により滅ぼされ、逃れてきたアブド・アッラフマーンによりコルドバを首都として建国された王朝で、特に、10世紀のアブド・アッラフマーン3世(在位:912~961)治世に、西方イスラム世界の一大中心地として、バグダードやカイロとともに繁栄している。

コルドバは1236年にカスティーリャ王フェルナンド3世の軍により征服され、それまでのモスク(メスキータ)は、カトリック教会として転用されることになる。そして、16世紀、神聖ローマ皇帝カルロス5世時代には、中央部にゴシック様式とルネサンス様式折衷の教会堂に改築されて現在に至っている。

さて、メスキータの威容を正面に見ながら、ローマ橋を渡り終えると、正面に現れる「プエンテ門」をくぐることになる。16世紀にスペイン王フェリペ2世(在位:1556年~1598年)の命により建てられたルネサンス様式の門である。
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そして、プエンテ門の先は、アーチ・バルコニーのある3層のメスキータの南壁面で、その壁面から、左側に回り込み、西側の通りを北上する(なお、ここでいう「南」は厳密には、南東側であり、「北」は北西側に向いている。以下も同じ)。左側に見える塔は、18世紀フランス彫刻家ミゲール・ベデルディギエル作、サン・ラファエル(コルドバの守護聖人)の勝利塔である。
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この辺りが、城壁門(セビリア門)から600メートル歩いてきたメスキータの南西角の三叉路で、右側のメスキータ壁面に沿って北上し入口に向かう。壁面には、豪華に装飾された門が続いている。右側に最初に現れる門は、「聖霊の門(Puerta del Espiritu Santo)」で、モザイクタイルや浮彫が精緻に施されており目を見張るものがある。先隣りは「サン・ミゲルの門(Puerta de San Miguel)」と名付けられている。
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しばらくすると扉の開いた小さな「デァネスの門(Puerta Deanes)」が現れるが、こちらがメスキータへの入場門になる。
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「デァネスの門」を入ると左側(北)に、オレンジの木のパティオ(El Patio de los Naranjos)(中庭)が広がっており、そのオレンジの木の向こうにアブド・アッラフマーン3世の命により建造されたアミナール(Aminar)(塔)が聳えている。

右側(南)に側廊の門が連続する建物が「礼拝の間(Prayer Hall)」で、アブド・アッラフマーン1世が最初(785年)に建造した箇所である。当時はこれらの扉が全て開かれていたが、現在は閉じられている。この礼拝の間は、アブド・アッラフマーン2世(在位:822年~852年)、アブド・アッラフマーン3世、アル・ハカム2世(在位:961年~976年)により次々と南へ拡張されていく。その後、アル・マンスール(執権:976年~1002年)は、礼拝の間を東側に拡張したことにより、礼拝の間の外周は、135メートル×135メートルの正方形となった(パティオを含む総外周は、南北175メートル×東西135メートル)。チケットショップと入口は、このまま、礼拝の間の北側廊に沿って東隅まで進んだ所にある。
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メスキータ内に入ると、赤と白のコントラストが織りなす「円柱の森」と呼ばれる幻想的な世界が広がっている。
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「円柱の森」を構成する円柱は、856本が現存している。円柱上の赤白のアーチは、大理石、ジャスパー、斑紋岩などが使われている。アーチは2連で、上のアーチが半円形、下が柱頭手前で僅かに馬蹄形となっているが、この馬蹄形のアーチ(柱頭含め)は、西ゴート様式と呼ばれ、西ゴート王国(415年~711年)の特徴を受け継いでいる。この場所にはもともと西ゴート王国の教会があり、イスラム教徒がコルドバを支配したころ(711年)は、その教会をイスラム寺院として転用し使ったという。アーチ群は見事なまでの調和を保っておりその荘厳さに圧倒される。
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「円柱の森」の天井部分の多くは、白漆喰の円形天井かモサラベ様式の木造の平天井だが、こちらの中心付近に位置する天井は、教会堂建築特有の交差リブ・ヴォールトが見られ、柱頭の上から上部アーチを支える角柱には、僅かな部分を利用した浮彫像が見える。そして、先のアーチにはタンパン(ティンパヌム)を形成し聖人群の彫刻が施されている。
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この聖人群彫刻のアーチをくぐった南側の空間は、ヴィジャ・ヴィシオーサ礼拝堂(Capilla de Villaviciosa)といい、中央礼拝堂(後述)が出来る前に賢王アルフォンソ10世(在位:1252年~1284年)により改装し造られたキリスト教の礼拝堂である。
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礼拝堂内は多葉系アーチで覆われており、左側には、小さな磔刑像が祀られ祭壇を表している。磔刑像の横の多葉系アーチから奥を覗き込むとカスティーリャ王国の紋章や見事な浮彫が見える。真上を見上げると、天井には、ヴォールト内に花びら風の幾何学模様の彫刻が見られ、視線を右側に移して行くと、礼拝堂の身廊を形成しているのがわかる。この礼拝堂は、イスラム文化とキリスト文化など東西の諸様式が巧みに融合した美の空間である。
この位置から一番奥(南)に、アブド・アッラフマーン3世とその息子アル・ハカム2世が完成させたメスキータで最も重要で最大の見所となる「ミフラーブ(Mihrab)」がある。手前には鉄柵があり、多くの人が集まっている。
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壁面の壁を「キブラ」といい、その奥の小さな窪みが「ミフラーブ」と呼ばれており、メッカのカアバ神殿の方向を示す目印となっている。壁面には、精緻な黄金モザイク装飾で覆われており、コーランからの文言が装飾文字で刻まれている。この辺りは、ローマ橋を渡りきりプエンテ門を越えたメスキータの南壁面の内側にあたる場所だ。
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ミフラーブの前に設けられた天井を見上げると精緻な装飾が施された豪華な黄金のドームが広がっている。
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視線を右側に移すとこちらにもキブラ壁があり、天井を見上げると、ヴィジャ・ヴィシオーサ礼拝堂の天井によく似た幾何学模様が施されている。
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西側から、東側を眺めてみる。右側の鉄柵前に人が集まっているところがミフラーブ。この辺りの天井は、木製のモサラベ様式で覆われている。
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ミフラーブの左側(西隣)には、1697年、枢機卿ペドロ・デ・サラザールによって造られた聖女テレサの宝の礼拝堂(Chapel of Sant teresa)がある。礼拝堂内には、アントニオ・パロミーノ(Antonio Palomino) (1655年~1726年)の聖母画などの絵画が飾られ、中央には、細かい装飾が施された黄金の聖体顕示台がある。この聖体顕示台は、毎年6月に行われる聖体祭で担がれるそうだ。見上げると、白い漆喰とクーポラの下の8つの窓からの陽光で礼拝堂内が明るく輝いている。
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最後に、神聖ローマ皇帝カルロス5世時代にメスキータ中心部に増築した中央礼拝堂(聖マリア大聖堂)を見てみよう。「円柱の森」の低い天井に慣れていると、天空に突き抜けるような身廊の高さに圧倒させられる。ところで、カルロス5世は、建造途中のコルドバに現れ、現場監督に「前もってこのメスキータを見ていたら、決して許可を与えなかっただろう。建造中のものは、どこでも見られるが、壊されたものは世界のどこにもない。」と語ったという。なお、この大聖堂の工事は、250年以上かかり完成したのは1766年のことである。
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1時間半ほどメスキータを見学して、こんどは、南側プエンテ門から東に伸びるカルデナル・ゴンサレス通りを進む。周りにはアンダルシア地方らしい白壁に青や赤で縁どられた建物が並んでいる。


レストランやバルなども多い。またホテルやペンションもあり、この辺りに泊まるのもよさそうだ。


メスキータから400メートルは歩いただろうか。左側にポトロ広場(Plaza del Potro)が現れた。ポトロとは、仔馬の像にちなんで名付けられているという。
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広場には、旅籠メソン・デル・ポトロがある。ドン・キホーテの作者ミゲル・デ・セルバンテスも泊まったとされ、現在は、文化庁の管轄で中庭で、展示会や音楽会等が催される。


ここには、コルドバが生んだ歌手、フォスフォリート(Fosforito)を記念するフラメンコ・センターがある。フォスフォリートゆかりの品々はもちろんのこと、フラメンコの歴史、視聴コーナーなどがある。左側にはフラメンコギターの創始者で神様と言われた巨匠ラモン・モントーヤ(Ramon Montoya)の似顔絵も見える。
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ポトロ広場の東側には、「コルドバ美術館(Museo bellas artes de Cordoba)」がある。入ってみる。


この美術館にもオレンジの木で覆われた噴水のあるパティオ(中庭)がある。


こちらの絵画は、「ホセ・デ・リベーラ工房(Jose de Ribera y taller)」による「エジプトへの逃避(Descanso en la huida a egipto)(1638~1652年)」。ホセ・デ・リベーラ(1591年~1652年)は、バレンシア近郊のハティバ出身だが、主にイタリア・ナポリで活動したバロック期のスペイン画家。代表作にルーヴル美術館所蔵の「エビ足の少年」がある。
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こちらは、「アントニオ・デル・カスティーロ・サーベドラ(Antonio del castillo Saavedra)(1616~1668年)」の「フランチェスコの洗礼(Bautismo de San Francisco de Asis)(1663~1665年)」。サーベドラ(1616年~1668年)は、コルドバ出身のバロック期の画家。言わずと知れた、中世イタリアにおける最も著名な聖人、アッシジのフランチェスコのことである。洗礼名はジョヴァンニ(ヨハネ)であった。
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そして、同じくサーベドラの「聖パウロ(San pablo)(1655年)」。
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こちらは、スペインの巨匠「フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ(Francisco Jose de Goya)(1746年~1828年)」の「羊飼いの礼拝(Adoracion de los Pastores)」。キリスト誕生は、天使によって、まずベツレヘムの郊外で家畜の群れを守っていた羊飼いたちにもたらされた。羊飼いたちは、幼な子キリストの周りに敬虔な様子でひざまずく場面で、宗教画によく使われる題材である。
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さて、時刻は、16時半。それでは、コルドバを出発する。

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トレドには、午後7時半過ぎに到着した。今夜はトレド旧市街を取り囲むテージョ川の南の高台にあるパラドール・デ・トレドに泊まる。そのパラドールからは、美しいトレド旧市街の夜景が見渡せる。正面に見える鐘楼のある教会がトレド大聖堂で、右側の長方形の建物がアルカサルである。チェックインを済ませ、これから旧市街に食事に向かうこととしている。
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その食事場所は、トレド旧市街の南西付近、コンテ広場の近くにあるレストラン、ラ・オルサ(La Orza)である。坂道のデスカルソス通りを南に下って、大きく右に回り込んだ右側に入口がある。カジュアルな雰囲気だが伝統料理を出すお店として人気がある。
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到着が遅くなったことから、午後9時からの食事となった。前菜は「アーティチョークハートとイカとマスの卵」で、アーティチョークを尖塔の様に立てたインパクトのある盛り付けとなっている。トリュフがトッピングされている。
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こちらも前菜で、皿一面に盛り付けられた「オルサのロース(イベリコ豚)半冷製 熟成チーズと松の実添え」。トマト、バルサミコがかけられ、チーズとの相性が素晴らしい。
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たしか、鹿肉だったような。。中がレアでタタキだった。はちみつ風の甘いソースで頂く。
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メインの「骨付ラム肉」。ブロックのためボリューム満点。見た目も大胆で力強さを感じる。焼き具合も抜群で大変美味しい。
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ワインは、スペイン・リオハの名門ワイナリー「マルケス・デ・バルガス(Marques de Vargas)」を頂いた。
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最後にデザートをいただき、プティ・フールで終了した。肉では、仔豚のローストやウズラがあり、魚ではタラやマグロを使った料理があった。伝統料理ということで、ジビエ系の素材やボリューム感はうなずけるが、かなり現代風なアレンジがなされており、初心者でも美味しくいただけた。
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時刻は23時になった。他に客はいなくなり、真夜中のように静かになった。
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西側のサン・マルティン橋(Puente de San Martin)を渡ってパラドールに帰る。人通りもほとんどなくなり、街灯も少なく薄暗く寂しい雰囲気だが、満腹なので、散策するのは最高に楽しい。
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(2013.12.27)
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