カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

フランス・ル ピュイ アン ヴレ(その2)

2013-07-20 | フランス(オーヴェルニュ)
ル ピュイ アン ヴレの街を見下ろすコルネイユ山頂上に立つ「聖母子像(ノートルダム・ド・フランス像)」の見学を終え、すぐそばの司教オーギュスト・ド・モルロン像の後ろから南東方面を見渡すと、十字架の立つ岩の向こうに「ル ピュイ アン ヴレ駅」が望める。
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駅前に広がる駐車場も見え、その右側に続く緑に沿って視線を移していくと、幹線道路(N102号線)との丁字路や昨夜宿泊したオレンジ色の外観の「ホテル・イビス(Ibis)」も確認できる。

しばらくル ピュイ アン ヴレ(以下:ル ピュイと言う)の景観を堪能し、吹き抜ける風に身を預けた後、下山することにした。下るごとに「ル ピュイ大聖堂(ノートルダム・ド・アノンシアション大聖堂)」の鐘楼が近くに迫ってくる。鐘楼は高さ56メートル、7層から成り立ち、4つの鐘(17世紀には12個)が設置されている。ところで鐘楼が宗教的な機能を持つことはもちろんだが、こちらの鐘楼は、中世において塔の上部に監視員を配置し一帯を監視する軍事的な機能もあった。
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下りは早く、あっと言う間に、下りてきた。すぐ左側の古びた外壁には、巡礼者向けの宿泊施設でもあるカトリック教会(グラン・セミネール)の扉口があるが、硬く閉ざされている。右側手前が教区教会で、その先隣がペニタン礼拝堂と、このエリアはル ピュイの中でも古い歴史を持ち、狭い通路が入り組んだ中に小さな教会や歴史的記念物などが数多く建っている。
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階段を下りて北袖廊と後陣との間にある大聖堂の扉口まで戻る。右側が12世紀に制作された扉口で、扉の鉄製装飾に加え、リンテルの「最後の晩餐」、タンパンの「栄光のキリスト」との装飾が見所だが、フランス革命時に顔が破壊され輪郭しか残っていない。
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そこから左折して、左側の獅子像(左右に設置)が護る「聖ヨハネ洗礼堂」(歴史的記念物、1840年指定)の扉口と、右側の大聖堂の鐘楼との間を歩いて行く。そのすぐ前方には、山頂からも見えた鮮やかな色合いの双塔が聳える「サン・ジョルジュ礼拝堂」(歴史的記念物、1949年指定)(現:神学校の礼拝堂)のファサードが現れる。塔の表面には、小さな彩色タイルが組み合わさり、ブルゴーニュ地方などで見られるモザイク屋根に似ている。
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サン・ジョルジュ礼拝堂は11世紀に建てられ1749年に再建されたもの(身廊は1710年再建)で、ファサードには、コリント式の柱で支えられたペディメントを持つポータル(扉口)を中心に、左右中央にニッチ(壁龕)が、更に外側に装飾柱が施されている。こちらの敷地内にも、巡礼者向けの宿泊施設があるが、礼拝堂の扉は固く閉ざされている。

ファサード前から、通りは大きく右に曲がり、突き当りの丁字路正面に建つ礼拝堂前まで、急な下り坂になる。その突き当りに建つクラシック・スタイルの礼拝堂は1862年にアン・マリー・マーテル(修道女)らにより、若い女性に対して宗教的な教育を行う目的で設立されたもので、特に、レース編み、看護、社会奉仕活動などに重点が置かれた。現在は、リセ(日本の高等学校に相当)の一部になっている。


ファサードの壁面には、レースが飾られている。ル ピュイはレースの町としても有名で、特に、繊細なデザインで上質のものが多く、街には多くのレース・ショップがある(向かい側にもショップがある)。


ル ピュイ・レースの特徴は、編み針を使用せず、特別な器具(ボビン)を数多く使用して糸を組み合わせる製法で作られる。

画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

近年は、機械織りも盛んに行われている。こちらは、ル ピュイ大聖堂前のターブル通り沿いにあるレース・ショップで実演していた機械織りの様子である。


ファサード前の左右(東西)には石畳の細い通りが続いている。こちらはファサード前から西方向のカルディナル・ポリニャック通り(Cardinal de Poligna)を眺めた様子で、緩やかな下り坂が続いている。通りは人の往来もなく静けさが漂っている。ファサード横にも一気に下りることができる勾配の強い坂道があるが、カルディナル・ポリニャック通りをゆるゆると進むことにする。


200メートルほど進んだ左側に下り階段が続いている。階段の左側には、13世紀に建てられた古い「オテル・ショメイル(Hôtel de Chaumeils)」(歴史的記念物、1951年指定)がある。建物全体は四階建てだが、1階のアーチ扉の上部は6階まで続く塔になっている。アーチ扉の前は、階段と小さな踊り場があり、もともと店舗を想定した造りだった。
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階段を下りて行くと、右側にも13世紀に建てられた「メゾン・ロマンス」(ロマネスク様式の家)(歴史的記念物、1987年指定)が建っている。1階には、幅広のアーチ扉のメイン入口と壁龕のあるアーチ扉が2つ並び、その上の長方形の扉には外階段(螺旋階段)が繋がり1階との上り下りができた。最上部のアーチ窓の右隣の2連アーチは、荒い石で塞がれているが、時代に応じて用途が変化した痕跡なのだろうか。
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階段を降り切ると、再び東西に延びる通りが続き、東方面にしばらく進むと、南北に延びる大通り「ラファイエット通り(Général Lafayette)」に到着する。その大通りを横断すると、再び石畳の細い下り坂となり、左右に高い石壁が続いている。右側の壁の先には、個性的な緑のとんがり屋根を備えた入口があり、その奥に朱色屋根の鐘楼が見える。


こちらは、1432年に設立したル ピュイ最初の女子修道院「サン・クレール修道院(Monastere de Sainte Claire)」(歴史的記念物、1925年指定)で、敷地周囲は高い石壁で覆われている。この時間は、扉が開いていたので入ってみる。

敷地内に入り、鐘楼側の建物を入ると礼拝堂に至る。祭壇は、ステンドグラスと装飾扉を背景に、麻布がかけられた白い聖卓が設置された簡素な造りで、身廊には、会衆席が整然と配置されている。天井には、長方形の小さな木製板がアーチ状に並べられている。


左右の側壁には聖母マリア像を飾る柱が埋め込まれ、両脇にステンドグラスが飾られたアーチ窓がある。こちらのステンドグラスには、ロバに乗り人々から祝福を受ける聖母マリアが表現されている。
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修道院入口前の石畳の通りは、左右の壁が迫る狭く勾配の強い下り坂が、修道院の石壁に沿って右側に回り込む様に続いている。そして石壁を半周した通り沿い南側には、2階建ての古い住宅が建っており、玄関口や窓辺に、色鮮やかな花が飾られている。更に通りを進むと、すぐ先から大きく視界が広がり、振り返ると、2階建ての住宅は、段差地を利用して階下にもう一つの玄関口を持つ3階建て住宅であることが分かる。
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先の階段を下り、住宅の玄関前の花壇のある広場に足を踏み入れると、修道院の石壁沿いの通路下には、アーチ型の水場や、ベンチ等が置かれる等、やすらぎを感じる長閑な風景が広がっている。
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次に、再び「ラファイエット通り」を横断し、ラファイエット中学校の正門右側から、校舎の黄色い外壁が続く「サン・フランソワ・レジ通り」を進む。黄色い壁は途中から古びた石積みの壁となり、途切れた先の三叉路で振り返るとロマネスク様式「カレッジ教会(Eglise du College)」(歴史的記念物、1951年指定)のファサードが現れる。
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こちらは、リヨン出身でイエズス会の建築家マルテランジュ(Martellange)(1569~1641)が、ローマのジェズ教会をモデルとして建築したもの。最上部にはイエズス会を示す「IHS」と十字架が刻まれたペディメントがあり、正面のポータル左右には大きなドーリア式円柱がエンタブラチュアとベランダを支える豪華な造りとなっている。

教会内に入ってみる。交差ヴォールトで覆われた大きな身廊と、アーケードの側廊との3廊式バシリカで構成されているが、側廊は、木製の交差ヴォールトで2層に区切られ、1階部分には小さな礼拝堂が並んでいる。


内陣は身廊よりも低い位置に筒型ヴォールトの丸天井で覆われており、主祭壇には、地元ル ピュイの彫刻家フィリップ・ケッペリン(Philippe Kaeppelin)によって1984年に作られた真新しい黄金衝立が飾られている。この時間は、会衆席には2名が座っていた。
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右側のアーケード柱には、雲を思わせる溶岩石を背景に祈りの聖母マリア(無原罪の御宿り)が飾られている。そして、向かって右側には聖ヨハネと思われる礼拝堂があったが詳細は分からなかった。
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カレッジ教会を出て、西に200メートルほど歩くと市役所が建つ「メリー広場」に到着した。この時間、市役所の後方から音楽が聞こえてきたので、向かうと「プロ広場」でミニコンサートが行われていた。現在時刻は午後6時を過ぎたところで、プロ広場にはレストランのテラス席が並び、多くの人で賑わっていた。
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ル ピュイの3日目の朝、昨夜は、ホテル・イビスの幹線道路(N102号線)の向かい側にあるホテル・レジオナル(Regional) に泊まった。時間は既にお昼の12時である。1階に下りてカウンターにいるマダムに、今夜も宿泊が可能か聞くと、笑顔でOKと言っている。そもそもチェックインの際に、名前を聞かれただけで、パスポート確認もされないが問題ないのだろうか。。ちなみに宿泊代は、54ユーロ(26ユーロ×2泊+2ユーロ)である。


その後、旧市街に入り、昨日同様に、ラファエル通りから、ターブル通り(ル ピュイ大聖堂の参道)との交差点まで行き、その先(北側)に延びる「ファルジュ通り」を300メートルほど進むと幹線道路(N102号線)との交差点(変形五差路)に到着する。コルネイユ山の南麓を東西に延びていたホテル前の幹線道路(N102号線)は、途中から南北に方向が変わり、この交差点からは市内を離れ西へ向かっていく。ちなみに、コルネイユ山の北麓を回り込む周回道路は交差点からD13号線へと変わる。

N102号線とD13号線との間には、ゴシック様式の「サン・ローラン教会(Eglise Saint-Laurent)」(歴史的記念物、1906年指定)が建っている。こちらは1340年に設立(ファサードは15世紀)されたもので、ファサード中央にある三重にせり出す大きな尖頭アーチ(ポインテッドアーチ)のポーチ(扉口)が特徴である。
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その扉口から内部に入ると、この時間は誰もいなかった。教会は5つの身廊アーチ・ベイで構成され、南北の側廊には、尖頭アーチ型のステンドグラスの窓が、5か所ずつある。しかし、小さいことから外光が届きにくく、やや暗い。一方、主祭壇には、縦長の大きなステンドグラスが三連並んでおり、眩しい光が神々しく差し込んでいる。
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主祭壇前に立つと、ステンドグラスは三連ではなく五連だった。祭壇の左右には、アーチ型の壁龕があり、周りの壁には彩色された痕が残っている。
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主祭壇に向かって右側の壁龕には、横臥像が飾られている。彫像は、フランス王軍司令官「ベルトラン・デュ・ゲクラン」(Bertrand du Guesclin、1320~1380)で、百年戦争初期(シャルル5世(在位:1364~1380)時代)に活躍した人物。死後は、内臓、骨、心臓、肉と4つに分割され、サン・ローラン教会には内臓が埋葬された。ちなみに骨は、フランス王家の墓所パリの「サン・ドニ大聖堂」に、心臓は故郷ブルターニュ地方ディナンの「サン・ソヴール教会」に、肉は「コルドリエ・ド・モンフェラン修道院(Cordeliers de Montferrand)」に埋葬された。
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他にも、サン・ローラン教会は、ヨゼフ・メルクリン(1819~1905)によるオルガンが有名である。1875年製作で、高さ8メートル、横幅5メートルの大きさで、1973年に解体されてしまったが、近年修復が終了したとのこと。メルクリンは、ドイツ出身で主にベルギーとフランスの教会で400を超えるオルガンを製作、修復した当時の一人者であった。

ちなみに、交差点からD13号線(コルネイユ山の北麓を回り込む周回道路)を200メートルほど歩くと、街はル ピュイから「エギル(Aiguilhe)」となり、前方に奇岩上に建つ「サン・ミッシェル・デギュイユ礼拝堂(Église Saint-Michel d'Aiguilhe)」が見えてくる。
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サン・ミッシェル・デギュイユ礼拝堂へは、後日見学することとして、再びサン・ローラン教会に戻り、N102号に沿って200メートルほど南下すると、左側の旧市街へ入るパヌサック通り横に、古びた塔「パヌサック塔(Tour Pannessac)」(歴史的記念物、1897年指定)が建っている。こちらは13世紀から18世紀までル ピュイの街を守る二重市壁の一部だった。
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パヌサックの塔のすぐ南側のN102号の中央には、ロータリーがあり、西へ向かうD589号線との三差路となっている。そのロータリーの中央に「ラファイエット像(Statue de Lafayette)」(歴史的記念物、2005年指定)が南側を向いて立っている。ラファイエット(1757~1834)は、フランスの貴族、軍人、政治家で、アメリカ独立戦争でアメリカ軍を指揮し、フランス革命時には、改革を支持して人権宣言の起草にあたった。その後は、ナポレオンに協力するが、復古王政には協力せず、フランス革命の理念を象徴する人物として存在し続けた。
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彫像は1883年ル ピュイ市により建てられたもので、高く掲げた右手には革命軍指揮官時代に兵士の徽章として採用した「トリコロール(三色)の円形章」を携えている。

後ろに見える赤い軒先のレストランは、東興楼(La Grande Muraille)で、本格的な中華料理店。新鮮な食材を使い丁寧に調理されており、値段も手ごろで、ランチとディナーともに利用させていただいた。

パヌサックの塔の左側から延びるパヌサック通りを歩いてホテルに戻る(午後8時半過ぎの通りの様子)。


途中、左側に特徴的な装飾で飾られた建物(歴史的記念物、1984年指定)が建っている。アーチ扉のキーストーンには個性的なマスク、コリント式柱頭のエンタブラチュアで、階層を隔て、紋章やマスクなどの装飾を配している。17世紀に芸術家集団が地域に広めようと製作したもの。


しばらく歩くと、途中から「クールリ通り」となり、プロ広場に到着する。その後、幹線道路(N102号線)に出て東方面に歩く。正面にクラシックなホテル・レジーナ(Regina)が現れると、その先隣の建物が宿泊ホテル・レジオナルで向かい側がホテル・イビス。その先に見える塔がある建物は、フランスの建築家アキレ・プロイ(Achille Proy、1864~944)により建てられた歴史的な建物(歴史的記念物、1995年指定)で、彼は、ル ピュイの街を変革した建築家として認められている。
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現在そのアキレ・プロイのビルは、フランスのリキュール「ヴェルヴェーヌ・ドゥ・ヴェレ(Verveine du Velay)」が入居している。ヴェルヴェーヌとは、クマツヅラの葉(薬草、香草の一種)のことで、リキュールは、ル ピュイの特産品である。

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時刻は午後4時(写真は午前中のもの)。今日は、クレルモン フェランの観光を終え、ル ピュイに戻ってきた。これから「サン・ミッシェル・デギュイユ礼拝堂(Église Saint-Michel d'Aiguilhe)」に向かう。「ル ピュイ大聖堂」のファサード前からは、向かって左側の階段沿いに建つ「オテル デ リュミエール」の手前の路地を北方向に歩いて行く。


建物に囲まれた狭い路地を150メートルほど進むと、視界が開き駐車場がある広い車道となる。この辺りは、聖母子像(ノートルダム・ド・フランス像)のあるコルネイユ山頂のすぐ西側中腹で、ポルテ グーテイロン(Porte Gouteyron)と呼ばれ中世には要塞だったが、現在は、県庁(オテル デ デパルトマン)と駐車場になっている。その駐車場の斜面側から奇岩に建つ「サン・ミッシェル・デギュイユ礼拝堂」の姿を正面に眺めることができる。
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駐車場から斜面側にある階段を降りて急勾配の直線道を200メートル下ると「エギル(Aiguilhe)」村になり、小さな八角形の「サンクレア礼拝堂」(1088年設立)が建つ広場に到着する。


そして、サンクレア礼拝堂の左側の狭い住宅路を抜けた所が「サン・ミッシェル・デギュイユ礼拝堂」への入口で登山道(階段)となる。入口で、入山料を払い階段を上ると、すぐ先で右方向になり、奇岩の岩肌沿いに階段が続いている。階段の崖側には転落防御壁が築かれ(途中防護壁が崩落している個所もあるが)、鉄の手すりも備え付けられており、概ね安心して上ることができる。


階段は、奇岩の東壁面から北壁面をジグザグに268段続き、10分程で上ることができる。最後の階段は、ファサード下の踊り場からの急階段で、礼拝堂のポータル(扉口)に向かっている。上りながら後ろ振り返ると、急階段下の踊り場と、その先にエギル(Aiguilhe)の街並みが見える。傾斜角が大きい奇岩上であり、高所恐怖症だと辛いかもしれない。
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そのポータルは、左右にコリント式の柱を備え、飾り迫縁(アーキヴォルト)として、三葉アーチと鮮やかな多色石のモザイクで覆われている。
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ここで、再び、コルネイユ山中腹から眺めた「サン・ミッシェル・デギュイユ礼拝堂」から細部を確認してみる。礼拝堂が建つ奇岩頂部からやや下方に、北西から手前の東南側にかけて長方形の基壇(側面に2つのアーチあり)が設置され、そこから急階段が礼拝堂のポータルに続いているのが見える。
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その奥に方形造の屋根と最後部に大きな鐘楼が建っているが、方形造の屋根はポータルがあるファサードの方角とややズレた角度となっている。これは、10世紀、方形造の小さな礼拝堂が、四方に面して(後陣は東)建てられたが、その後、巡礼者の増加に伴って拡張が必要となり、12世紀に、頂部のやや下に、奇岩の長径方向(北西から東南)に沿って基壇を設置し、ファサード、身廊、鐘楼を建て増ししたためである。

では、ポータル周りの浮彫装飾を観察してみる。左右のコリント式柱頭には、アカンサスの葉の中に鷲と、アイリスを持つ助祭の浮彫が施されている。
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ペディメントには、それぞれ尾の形状が異なる人魚(向かって左側は蛇の鱗の様に見える)の浮彫があり、タンパンには装飾がない。三葉アーチの上下のアーキヴォルトには、「葉の頭」(グリーンマン)の口から伸びる植物や蔓を掴む人物などが表現されている。そして、三葉アーチには天使を配した「神の子羊」のアーチを中心に、左右に聖杯を持ち傅く人々の姿が表現されている。
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左右柱頭(鷲とアイリスを持つ助祭の浮彫)の上には、それぞれ、短い装飾繰形が乗っているだけで、人魚の浮彫のペディメントや飾り迫縁などは、後方の石壁が支えている。また、左右の柱頭の外側にはガルグイユ(ガーゴイル)像がはめ込まれているが、壁との色合いが異なっている。ともに、移設されたものかもしれない。。
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最上部のアーチ壁龕には、中央にキリストが、左右には聖ヨハネと聖母マリア、聖ペテロと大天使ミカエルを配した浮彫が施されている。アーチ壁龕の間には掌(たなごころ)を正面に向けた浮彫がある。そして浮彫の周囲は、多色モザイクで彩られている。どの浮彫彫刻もデフォルメされた人体や動植物の表現などロマネスク様式の特徴を良く示している。
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次に礼拝堂の内部に向かう。階段はポータルの奥にも続き、身廊はかなり高い位置にある。内部は普通の教会堂とは大きく異なり、左右に並ぶ円柱が左壁に沿って右側に曲がりながらアーケードを形成している。狭い空間にも関わらず、円柱は全部で32本建ち並んでいるが、暗くて見づらい。。
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それぞれ柱頭にはアカンサスの葉など唐草文様の浮彫が施され、柱頭が支えるヴォールトには、聖人、鳥など動物、幾何学文様、唐草文様などのフレスコ画が描かれている。しかし大半は剥落して劣化が著しい。こちらは「東方の三博士」が描かれているが、暗いため馬しか確認できない
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こちらは、入口から右側に回り込んで続くアーケードの最後尾一つ手前の壁側の円柱で、左右に北向きのステンドグラス(幾何学文様)の窓があり、明るい光が差し込んでいる。ヴォールトには、杖を持つ聖人像が描かれているが、ヤコブだろうか。。
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アーケードの内側から東側を眺めると、正方形の内陣がある。こちらが10世紀に建設された初期の礼拝堂で、ひと際高い空間には、外光が差し込み壁に描かれたフレスコ画が明るく照らされている。中央には、小さなアプスがあり、手前に燭台が並ぶ聖卓が置かれ、向かって右側には大天使ミカエルのブロンズ像が飾られている。
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フレスコ画は、近年修復されているが、人物の表情など細かい描写は失われている。アプス上部には「天のエルサレム」が表現され、その上には、天使と聖人群が描かれている。
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天井には、栄光のキリストを中心に、熾天使、大天使ミカエル、月や太陽などが描かれ、四隅には、福音者(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)に対応する「テトラモルフ」が描かれている。こちらも顔などの表情はないが、外光や蝋燭の明かりが反射する陰影で、見ていて穏やかな気持ちにさせられる。
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こちらの壁龕には聖母マリアのブロンズ像が飾られている。腰を掛け、右腕に幼子を抱え、左手を前に差し出している。白いクロスがかけられただけの台の上に置かれており、観光客が自由に触っている。この時間、見学者が10名ほどだけだが、狭い礼拝堂のため混雑している印象だった。
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30分ほど見学した後、ポータルからの急階段を下り、踊り場のある基壇を周回しながら景色を眺めた。南東側には、コルネイユ岩の上に立つ聖母子像やル ピュイ大聖堂のドームや鐘楼なども確認できた。
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夕食は、すっかりなじみとなった中華料理店の東興楼(La Grande Muraille)で、点心、チンジャオロースなどを頂いた。飲み物は、グリ・ブラン(2012)頼んだ。グルナッシュのロゼ・ワインだが、透明感があり辛口だけどフルーティで、中華料理にもよく合っていた。


夕食後「サン・ミッシェル・デギュイユ礼拝堂」のライトアップを見に行った。こちらは、コルネイユ山の北麓を回り込む周回道路D13号線側(北側)から眺めた様子。礼拝堂はもちろん奇岩全体が鮮やかにライトアップされており見ごたえがあった。防護壁のあるジグザグ階段もはっきりと見える。
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そして、こちらは、コルネイユ山の西側中腹の県庁がある駐車場から「サン・ミッシェル・デギュイユ礼拝堂」を眺めた様子。光り輝く奇岩は黄金の王冠を被っている様にも見え、神々しさを感じる風景である。お世話になったル ピュイの街とは、今夜でお別れである。
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(2013.7.20~21、23~24)
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フランス・ル ピュイ アン ヴレ(その1)

2013-07-19 | フランス(オーヴェルニュ)
今朝、リヨン・パールデュー駅を発ち、約130キロメートル南西に位置する「ル ピュイ アン ヴレ駅」(Le Puy-en-Velay)に到着した。乗車中に降っていた雨はこの時間止んでいる。駅前に降り立ち振り返ると、えんじ色に白のラインで彩られた真新しい2階建ての駅舎が建ち、頂部に飾られた時計は、正確に時刻(午後2時半)を指し示していた。早朝にリヨンを出立したにも関わらず「サン テティエンヌ駅」での乗り換えの待ち時間も長く、半日近くかかったことになる。。


駅前には、バス停やタクシー乗り場がある小さなロータリーがあるが、降車客のほとんどが右側奥にある駐車場に歩いて行った。左方向に向かう車道を歩いて行くと、緩やかに右に曲がった前方は丁字路で、正面に6階建てのオレンジ色の建物が建っている。こちらはアコーホテルズが展開する「ホテル・イビス(Ibis)」で、今夜はここに泊まることとしている。
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ホテルに向かって右側後方には「コルネイユ山」が望め、山頂には大きな聖母子像(ノートルダム・ド・フランス像)が飾られている。もともとコルネイユ山は、隆起した火山の名残りで、ル ピュイ アン ヴレ(以下:ル ピュイと言う)の街(標高630メートル)は、山頂(比高約70メートル)の南中腹に建つ「ル ピュイ大聖堂」から麓にかけて広がっている。そして、そのコルネイユ山の麓を周回する様に幹線道路(N102号線)が北東方面から緩やかに右に曲がりながらホテル・イビス前を通って西方面に延びている。

ホテルにチェックインし、部屋のベッドで横になっていると、疲れからか寝てしまった。1時間後に目を覚まし、ホテル前の幹線道路沿いの歩道を歩いて西方面に向かう。右側には、ファーストフードやカフェ、レストラン、ショーウインドーなどが建ち並ぶ賑やかな通りが続いており、南側(反対車線)には、広い平面駐車場、劇場、裁判所、庭園(アンリ・ヴィネ庭園)などが広がっている。

観光案内所方面の表示を右折して、石畳の北側に向かうなだらかな上り坂「ポルト・エギィエー通り(porte Aiguière)」を進む。左右にアーチ装飾や、オスマン風のバルコニー等、歴史的な建造物が建ち並ぶ旧市街の街並みが続き、前方の緑鮮やかな樹の遠く先に、山頂に立つ聖母子像が望める。
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前方の緑は傾斜地に造られた「メリー広場(Place de la Mairie)」の中心に立つ広葉樹で、その西側(左側)には、広場を見下ろす様に1766年に建築家ジャン・クロード・ポータルにより建てられた「ル ピュイ市役所(Mairie)」が建っている(歴史的記念物、1951年指定)。ちなみに観光案内所は広場の北側高台にある。

市役所の手前を左折し「サン・ジャック通り」を西に進み、右側の「プロ広場」を通り過ぎた先の交差点手前に「コキーユ・サン・ジャック(Coquille Saint-Jacques)」があり、店舗前には、ホタテ貝を表した看板が立っている。こちらは、お肉を中心としたデリ・ショップで、店内のガラスケース内には美味しそうな総菜が並んでいる。


サンジャックとは、キリストの使徒の一人「聖ヤコブ」のことで、ホタテ貝がヤコブのシンボルとなっている。9世紀に、ヤコブの遺体が、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラで発見されたことから巡礼路が整備され、ル ピュイが、巡礼地へ向かう出発地の一つとなっている。

交差点の先向かいには海をイメージしたマリンブルー外観のデリ・ショップ「ジャック・ファルゴー・マレ(Jacques Fargeau Marée)」があり、ガラスケース内にシーフード料理が並んでいる。


共に美味しそうだったので、夕食はホテルの部屋で食べることにし、それぞれのショップで総菜を買い、交差点の右奥にあるスーパーマーケット「カルフール」でワイン、ビール、ミネラルウォーターなどを買ってホテルに戻った。


ところで、もともと、ル ピュイでの滞在は1泊の予定で、翌日に移動する予定だったが、急遽やむを得ない事情が発生し、出発することができなくなった。。こちらのホテルの宿泊を延長するか思案しているところ。。

ホテルの部屋から夕暮れ前の通りを眺めながら飲んでいると、真下のホテルの看板に気が付いたので、明日訪ねてみることにする。テレビを付けるとドラゴンボールが放映されており、悟空を始め全員がフランス語をしゃべっていた。。


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翌朝、ホテル・イビスの向かい側にあるホテル(Le Régional)に行ってみた。1階のバーにいた女性オーナーに尋ねると宿泊は可能とのことで、部屋を見せてもらった。部屋は、オートロック付きの専用ドアから階段を上った2階で、廊下の左右に部屋が並んでいる。シャワーとトイレは共同だが、部屋は、北側の水路側で静かで、洗面所もあり、思ったより清潔だったので泊まることにした。


今日は、これから、コルネイユ山の山頂に建つ聖母子像と、その中腹にある「ル ピュイ大聖堂」の見学を予定している。ホテル・イビスのすぐ西側から旧市街に入り、東西に伸びる石畳のショサード通り(Rue Chaussade)を西方面に歩いて行く。通りは旧市街の目抜き通りといった様相で、衣料品、ドラッグストア、お土産、小物などのショップが数多く並んでいる。

しばらくすると広葉樹の「メリー広場(Place de la Mairie)」になり、後方に市役所のファサードが現れる。通りは、市役所を境に二股道になり西に向かっている。今日は市役所に向かって右側の「クールリ通り(Rue Courrerie)」を進むと、その先で交差路になり、右側にル ピュイ大聖堂への近道「シェヌブトゥリー通り(Rue Chenebouterie)」が延びている。そして左側に多くの買い物客でにぎわう「プロ広場」がある。広場中央には、13世紀(18世紀再建)に建てられた「プロ噴水」(歴史的記念物、1907年指定)が飾られている。
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「クールリ通り」はプロ広場から「パヌサック(Pannessac)通り」と名前を変え、引き続き、西に向け石畳が続いている。こちらは、そのパヌサック通りから東側のプロ広場方面を振り返った様子で、左右にはショーウインドーが並ぶ17世紀頃に建築された色とりどりの住宅が続いている。
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左側(北側)に視線を移すと、細い路地が北方向に延びており、洋服店と宝石店との建物がアーチで繋がっている(18世紀築)(歴史的記念物、1984年指定)。洋服店側の2階角には、聖母像のある龕(タベルナークロ)が見える。


右側の宝石店側の2階側面壁にも、龕か窓があった跡が見える。もともと、大聖堂に向かう通路の名残りで、巡礼や礼拝に向かう人々の安寧を祈って作られたものなのだろうか。通りは右に曲がりながらなだらかに上って行くが、途中で行き止まりになる。


すぐ西隣にも細い路地があるので、入って行くと、右側に幅広いアーチ扉が2つ並ぶ古い住宅が建っている。それぞれ上部に口を開けた男の頭部像が飾られ、「1689」と刻まれた石がはめ込まれていることから17世紀に建設されたことが分かる。当時、この場所には妻の不貞を知っていながら、それを大目に見る明るい夫たちが集っていたとのこと。
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再び「プロ広場」まで戻り、左折(北側)して「シェヌブトゥリー通り」を上って行く。すぐ右側には、リンテルに女性頭部像が飾られた中央扉があり左右に大きなアーチ戸を備えた古い建物がある。現在は女性服のショーウインドーだが、壁面上部の幕板そばに16世紀「メゾン・ドゥ・カジェール(Maison du Cagaire)」と書かれた小さなパネルが設置されている。
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更に、北に向かって200メートルほど坂道を上って行くと、西から東に延びる(参道)「ターブル通り(Rue des Tables)」との交差路に到着する。交差路の右角のレースショップを右折し、「ターブル噴水」(14世紀築)を過ぎ、東方向に急勾配の坂道を上って行くと目的地の「ル ピュイ大聖堂」に至る。こちらは、ターブル通りの途中から「ターブル噴水」方面を振り返った様子である。
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前方に「ル ピュイ大聖堂」が見えてきた。ノートルダム・ド・アノンシアション大聖堂(受胎告知の聖母大聖堂)とも呼ばれ、初代神聖ローマ皇帝シャルルマーニュ(カール大帝)(742~814)時代から、巡礼の中心地であった。建設の大部分は12世紀の前半に遡るが、古くは5世紀から始まり15世紀にかけて繰り返し改築され現在に至っている。また、スペインにある聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路への「ル ピュイの道」の出発地点にもなっている。
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大聖堂は西側を正面に、中央に大きな半円形アーチと左右に小アーチを備えた5層からなる12世紀建築のロマネスク様式のファサードで、60段ある大階段の上に建っている。
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日中は逆光になるため、美しいファサードを見学するためには、夕方来るのがお勧め。西日がファサードに反射し、明暗の火山石が組み合わさる壁のコントラストや、頂部のペディメントの細かいモザイク装飾などもはっきり確認することができる。
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ファサード前の階段を上って3つのアーチのある中央ポーチの下から振り返ると、ターブル通りの急勾配の坂と、朱色の屋根で統一された街並みを始め遠くの山々まで一望できる。大聖堂は、コルネイユ山の南中腹にあり、ル ピュイの街の建造物としては最高地点になる。
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見上げると、天井は4つのアーチ・ベイと交差ヴォールトで形成されている。1番目と2番目のベイを支える柱頭には、テトラモルフ(福音書記者)の浮彫が施されている。こちらの南側ベイは、人(マタイ)と獅子(マルコ)で、北側ベイには、雄牛(ルカ)と鷲(ヨハネ)が刻まれている。
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次の中央ベイ・アーチの下部には、預言者イザヤと洗礼者ヨハネが描かれたフレスコ画がある。
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フレスコ画は13世紀前半に描かれたもので、左右のタンパン(ティンパヌム)にも残っている。左側は「玉座に座る聖母子」で、両脇に天使を配した聖母マリアと幼子キリストが正面を見据えており、預言者エレミヤとエゼキエルが傅いている。
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右側のタンパンには「キリストの変容」が描かれている。タボル山(ガリラヤ湖南端)に立つ白く輝く姿のキリストが、左右の預言者モーセとエリヤと語り合う奇蹟を、三人の使徒ペトロ、ヤコブ、ヨハネに見せている。その上のアーチには、ヤシの葉を持つ聖ローレンス(聖ラウレンティウス)(225~258)と聖ステファノ(5~36頃)が描かれている。
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左右にはヒマラヤ杉の扉があり、表面には「キリストの生涯」を題材にした12世紀制作の浮彫パネルがある。パネルの周囲にはアラビア文字を模した装飾が施されている。損傷が激しいが、上部は比較的良く残っている。こちらは、北側扉の浮彫でキリストの幼少期が刻まれている。
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アーチベイの先には鉄柵が設置されたアーチ扉があり、この先の階段を60段上りきると身廊内部に到着する。初期の大聖堂は5世紀、ローマ時代にあった岩山の神殿跡地に建てられたが、当時はかなり小さい聖堂だった。その後、増加する巡礼者の受け入れのため、9世紀以降、当時の聖堂に継ぎ足をし斜面からせり出す形で拡張したことから、建物の支えが下がり、階段を内部に取り込む現在の姿になったという。
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階段は、左右に設置された会衆席の最前列付近に到着する。目の前には、照明が照らされ眩く輝く本尊「聖母子像」が祀られた主祭壇が現れる。逆に後ろを振り返ると、遠くの拝廊手前2階の木製のオルガン付近まで、20列ほどの会衆席が続いており、まるで、迫り(せり)で、舞台中央に押し上げられたように感じる特殊な構造である。

聖母子像は、受胎告知の浮彫が施された白の大理石の祭壇の上に、金で装飾された飾り台に備え付けられている。周りには、吊り下げ型の常明燈が数多く飾られている。
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聖母子像は「黒い聖母子」で、王冠と白いベールを被り、オレンジの百合の刺繍があしらわれた白いローブに身を包んだ聖母の胸元から王冠姿の幼子キリストが顔を出している。こちらの像は1856年、教皇ピウス9世の名でル ピュイ司教により戴冠されたもの。実はオリジナルは、フランス国王ルイ9世(在位:1226~1270)によって戴冠された高さ71センチメートルの杉の像だったが、1794年のフランス革命時に燃やされている。
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黒い聖母信仰は、フランスがガリアと呼ばれた時代、土着のガリア人はドルイド教を信仰していたが、ローマの属州になって以降、イシス(黒い肌を持つ)信仰などの地母神とも結びついたとされる。4世紀以降、キリスト教化が始まると、聖母と地母神とが結びつき盛んになったと言われている。ル ピュイでは、毎年8月15日に、黒い聖母子像を御輿の上に乗せ、多くの参加者とともに町を練り歩く「聖母被昇天祭」が開催され、多くの人で賑わう。

祭壇の左側には「熱病の石(la pierre des fievres)」と呼ばれる黒い石版がある。ここは病に苦しむある女性がこの石の上に聖母マリアの姿を目撃したことから病が治癒したという奇跡に始まる。その後も多くの奇跡が報告されたことから、現在もこの石の上で治癒を祈願する人の姿が見られる。


聖堂内は、濃いグレー色を基調にしており控えめな印象を与える。身廊には6本のアーチ・ベイが架けられており、身廊の中心付近から天井を見上げると、外光を浴びほんのり赤味がかった温かみのある色合いの丸天井が見える。アーチ・ベイの四つ角に、小円柱と八角形のアーチで支えられたドーム型天井で、ビザンチン建築の影響を強く受けている。


左側には身廊の柱を背景に、モンペリエ出身の木工師ピエール・ヴァノー(Pierre Vaneau、1653~1694)の代表作の一つ、説教壇が設置されている。中央には受胎告知の場面が浮彫で飾られ、頂部には、彫刻家フィリップ・カフィエリ(Philippe Caffieri、1714~1774)作のブロンズ像が飾られている。他にも、ピエール・ヴァノーの作品では、オルガンや拝廊に掲げられた彫刻と金色のパネル(聖アンドレの殉教)などがある。
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説教壇のすぐ左側後方に礼拝堂「聖遺物のチャペル」があり、この時間はちょうどミサが行われていた。右側の壁面に15世紀制作のフレスコ画「自由な芸術(L'arts Liberaux)」がある(作者不明)。リベラル・アーツ(人が持つ必要がある実践的な知識・学問の基本で、自由七科と言う)が主題で、向かって左から、文法、論理、修辞法、音楽を表す4人の女性が座り、そばにこれらの要素を象徴する人物として、左から、プリスキアヌス、アリストテレス、キケロ、トゥバルカインが描かれている。長年壁に覆われていたが、1850年に発見されたことから、まだ美しい色彩が残っている。
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ミサが終わり祭壇に近づいてみる。こちらにも黒い聖母子像が祀られている。近年のものだが、衣の柄といい、丸みを感じさせるつくりに、ふと日本のこけしを思い出した。
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大聖堂の北側廊に隣接し、聖母子像が望めるコルネイユ山の中腹に、煉瓦屋根が囲む長方形(約31メートル×約19メートル)の回廊が広がっている。大聖堂の建設と同時期の12世紀にロマネスク様式で建てられたものだが、現在の姿は1850年から1857年にかけて、建築家マレー(オーヴェルニュの歴史的建造物の修復で知られる)と、建築家ヴィオレ・ル・デュク(パリのノートル・ダム大聖堂等の修復で知られる)により修復されたもの。
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南北回廊に5つのアーチがあり、東西回廊には10のアーチがある。その南回廊を眺めると、背後に、大聖堂の側廊壁と身廊壁が階段状に続いて見て取れる。共に途中で建て増しした様なズレがあり、時代ごとに改築されたことが分かる。
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回廊のアーチは3重アーチで、支える柱は、中心に角柱、左右側面と中庭側に3本の円柱がそれぞれアーチを支え、さらに、回廊内側のヴォールト天井を支える円柱との合計4本の「複合柱」となっている。こちらは西側回廊から中庭方向を眺めた様子で、上部に大聖堂の北袖廊と鐘楼を一望でき、位置関係も理解しやすい。
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円柱の柱頭には、アカンサスの葉の浮彫が施され、その上のアーチは半円環にモザイク状に石材を積み重ねたスペイン・イスラム建築の影響が見られる。そして、アーチのキーストーン(要石)や、軒下に設置されたコーニス(庇)にも聖人、人物、動物、怪獣などの個性的な浮彫が施されている。ちなみに雨除けの役割があるコーニスは、劣化が激しく何度か取り替えられており、現在のものは19世紀に制作されたもの。
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南西角から3番目にある側面アーチは単柱でなく双円柱が支えている。そして柱頭にはアカンサスの葉の間から、互いに辺りを見渡すようなユニークな表情の人物が見て取れる。柱頭彫刻はキリスト教の説話図像の舞台となっている。
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こちらの回廊内のヴォールトを支える円柱の柱頭には、天使が乳児を抱えている様子が表現され、左右を怪しい人物が取り囲んでいる。ある聖人の説話を示しているのだろうか。
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そして、こちらも回廊内のヴォールトを支える円柱の柱頭で、司教杖を取り合う2人の聖職者の様子がロマネスク様式らしいデフォルメされた姿で刻まれている。
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こちらの柱頭では、雄ケンタウロスが伴侶の雌ケンタウロスを追いかけ、尻尾を掴んでいる。。
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北側回廊には聖人や聖職者の像が中庭先の大聖堂を見守る様に3体飾られている。そして回廊内を直線に眺めると、天井に当たる光の陰陽が作り出す美しいヴォールトラインと掃き清められた廊下とが静謐を湛えている。
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回廊の東側にある波打つ浮彫を施した角柱に幾何学模様で飾られたアーチ門を入ると、南側には、壁一面にキリスト磔刑像のフレスコ画が描かれ、周りに石の祭壇や石版等が置かれている。この部屋はもともと聖職者や教会関係者の葬儀や墓所として利用された礼拝堂で「死者のチャペル(Chapelle des Morts)」と呼ばれていた。


フレスコ画は、12世紀から13世紀にかけて描かれたもので、太陽、月、天使に囲まれ、痩せこけ苦痛にゆがんだ磔刑姿のキリストを中心に、左右に悲しみにうちひしがれる聖母マリアと聖ヨハネが描かれている。そして四隅には、キリストの受難について書かれた巻物を持つイザヤ、エレミヤなど預言者たちが描かれている。古い絵にも関わらず剥落が少ないのは、19世紀まで、モルタルに覆われていたためである。
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他にも大聖堂内には、宝物室があり、司教服、ミトラ(冠)、聖遺物箱などが展示されている。
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大聖堂の後陣は、11世紀に建築されたが、この場所には、建設当時の貴重な遺構が残されている。中央の動物は、古代の狩猟シーンを表している。ラテン語の碑文は、12世紀のもので、その上の螺旋状のフリーズはメロヴィング朝を起源としている。手前の呼水槽は、癒しの水として地下からくみ上げていた井戸の址である。大聖堂は19世紀に大幅に復元改修されたが、こちらの古いモチーフなどを参考にしたとされる。
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鐘楼の基部には、お棺が残されている。石棺の蓋には、衣装を着て横たわる女性の彫刻が刻まれ、側面には、ロマネスク様式で表した聖母子の浮彫がある。
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聖堂を出て、コルネイユ山頂上に立つ聖母子像(ノートルダム・ド・フランス像)に向かう。階段の先に見える鉄格子が入口になる。


岩山の周りに造られた道を上って行くと、聖母子像から見下ろされている場所に来た。早く上っておいでと言われているようだ。
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岩山頂上から「ル ピュイ大聖堂」を眺めると、右側(西側)のファサード、中央のドーム、左側(東側)の鐘楼や、手前に隣接している回廊も良く見える。街全体の屋根は、大聖堂と同じ朱色で統一されている。聖堂の南側には、幹線道路(N102号線)の南側にあった広い平面駐車場や、劇場、裁判所、「アンリ・ヴィネ庭園」などが広がっている様子も確認できる。
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ちなみに、こちらは西側から見たル ピュイの街の景観で、大聖堂ファサードを正面から捉えている。岩山上の聖母子像との位置関係も良く分かる。左端にも小さな岩山(奇岩)があり、山頂に「サン・ミシェル・デギュイユ礼拝堂」が建っている。

画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

コルネイユ岩頂上に立つ聖母子像(ノートルダム・ド・フランス像)は、頭に12の星の冠を戴き、丸い月の上に乗った「無原罪の御宿り」を題材として制作されている。ちなみに足元を見ると蛇を踏みつけている。像は、設計から完成まで5年の歳月をかけ、1860年9月に完成した。全長16メートル(台座含め22.7メートル)、重さは110トンある。
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聖母子像に向かって祈りを捧げるブロンズ像は、聖母子像設立に貢献したル ピュイ大聖堂の司教オーギュスト・ド・モルロン(Auguste de Morlhon、1847~1862)である。完成当日行われた式典には、聖職者を始め関係者を含めて12万人の人々が集まった。聖母子像を覆うヴェールが滑り落ちると、それまでの天候不順の空が急に晴れ始め、一筋の光が聖母子像を照らして全身を金色に染め上げたという。

当時、これだけの規模の像に必要な金属の調達が大きな課題だったが、ナポレオン3世に協力要請をしたところ、クリミア戦争時、セヴァストーポリ攻撃に使用されたロシア軍の大砲から鋳造することとなり、鉄150トン分に相当する213台の大砲が使用された。今も周囲には、実際に使われた大砲が置かれている。


聖母子像内は、空洞になっており、螺旋階段で上ることができる。実は、セキュリティの関係から長い間公開されていなかったが、昨年改修を終え、半年前から入場が許可されたとのこと。


内部はこのようになっており、上って行くと、ところどころに小窓があり、ガラス越しに景色を眺められる。しかし内部は狭くやや圧迫感もあり景色も見づらい(上れて有難いが。)ので、正直、岩山からの眺めの方が良いと思う。。
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(2013.7.19~20)
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フランス・リヨン

2013-07-18 | フランス(オーヴェルニュ)
成田空港から午後3時半発の中国南方航空386便に乗り、中国・広州で乗り換え(午後7時半着→午前0時20分発 AF4403便)、パリ・シャルル・ド・ゴール空港に、午前7時20分に到着した。これから午前9時58分発マルセイユ・サン・シャルル行き、フランス国鉄(SNCF)高速鉄道(TGV、71ユーロ)に乗り、フランスの南東部の街リヨン(路線距離389.31キロメートル)に向かう。その乗り換えホームは、空港第2ターミナルからエスカレーターで直結しており、天井はホーム全体を覆うトレイン・シェッドが採用されている。


空港第2ターミナル駅を定刻通り出発したTGVは、午後12時に「リヨン・パールデュー駅(Lyon Part Dieu)」に到着した。リヨンは、160万人(市内50万人を含む)の人口を誇るフランス第二の都市圏で、その規模に相応しい駅(6ホーム11線の高架駅)として、1983年にリヨン市街地再開発工事に合わせて市の東部に開業したもの。ホームからスロープを下った階段下の1階には、東西を直線に繋ぐ広いコンコースが設置され、左右に観光案内所、待合室、売店、カフェなどが並んでいる。


そのコンコースを過ぎ、リヨン市街地方面への西口を出てリヨン・パールデュー駅を振り返ると、ガラス張りの近代的な美しい駅舎の姿を望むことができる。中でも、上部の飛び出す様に鉄骨でデザインされた赤黒2針式のアナログ時計はモダンで印象深い。


実は、リヨンには9年前に訪れて以来の訪問となる。その当時は、パリをスタートし、パリ南部近郊のフォンテーヌブロー、モレ・シュル・ロワン、マンシー(ヴォー=ル=ヴィコント城)、シャブリ、レ・リセ(シャンパーニュ)、フランス東部のブルゴーニュ地方のオセール、アレシア(ウェルキンゲトリクス)スミュール=アン=ノーソワディジョンヴォーヌ=ロマネ(ロマネ・コンティ)、シャニー(メゾン・ラムロワーズ)、ムルソー、ボジョレー、ボーヌなどを巡り、このリヨンで旅を終え「リヨン・ペラーシュ駅(Lyon Perrache)」からTGVに乗りパリ・シャルル・ド・ゴール空港に戻った。

そして、今回は、リヨンを起点として、フランス中南部のオーヴェルニュ地方を周遊することとしている。今日はリヨンの旧市街に一泊する予定だが、駅に乗り入れているメトロB線では、旧市街に直接運行していなく、途中でA線かD線に乗り換える必要がある。また、トラム(路面電車)も直接路線がないため、路線バスに乗るか考えたが、直線距離としては遠くないことから歩いて向かうことにした。

セルヴィアン通り(Rue Servient)を西に20分程歩くとローヌ川(Rhône)に架かるウィルソン橋(Pont Wilson)が現れる。リヨン市は、東から南に流れ込んだローヌ川と、更に500メートル先を北から南に流れ込むソーヌ川(Saône)とが南で合流するまでの中洲エリアを中心に形成されている。
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こちらのウィルソン橋は、左前方に見えるドーム「オテルデュー・リヨン(Hôtel-Dieu de Lyon)」(1454年~2010年まで医療施設)に向かう橋として、1839年に「オテルデュー橋」(吊り橋)として最初に開通したが、現在の橋は、1948年に鉄筋コンクリートに石積みされたもの。ちなみに、この場所からのサンセットは美しい。らしい。。

ウィルソン橋を渡ると、セルヴィアン通りはチルデベルト通り(Rue Childebert)になり、200メートルほどで、右側に正方形の敷地を持つ「レピュブリック広場(Place de la République)」に到着する。広場中央には左右にウォータージェットの噴水口が設置された縦長の長方形のプールがあり、水が勢いよく吹き出している。向かい側のメリーゴーランドの北側の建物を境にして、右側がプレジデント・カルノー通り(フランス共和国、第5代大統領に因む)で、左側にレピュブリック通りがそれぞれ延びている。
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そのレピュブリック通りは、レピュブリック広場を挟んだ南側にも続いている。特にこの南側がリヨンで一番賑やかなショッピングストリートとして知られ、高級ブティック、ブランド(Fnac、JD sport、Printemps、etc)、レストラン、カフェ(スターバックスetc)、ファーストフード(プレタ・マンジェetc)などが軒を連ねている。通りは「rue de la Ré」の愛称で知られ、昼夜を問わずリヨンで最も賑やかな通りだが、この時間(木曜日の午後1時過ぎ)は空いている。
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引き続きチルデベルト通りを直進すると、前方に「ジャコバン広場(Place des Jacobins)」(1556年築で1871年から現在の名称)が現れる。広場は正方形の敷地で、周りに12もの通りが延びる2区(リヨンは9つの行政区)中心地で交通量の多いエリア。 ジャコバンとは、パリのジャコバン修道院を拠点にできたフランス革命を主導した急進的な政治党派の1つ(ジャコバン・クラブ)で、国民公会(一院制立法府)において左側の席に座ったことから左翼の語源ともなった。


中央の噴水彫刻は1885年に建築家ガスパール・アンドレ(Gaspard André)により建てられたもので、正面には、16世紀から18世紀のフランスの建築家、作家、彫刻家などのアーチスト像が四方にそれぞれ飾られている。南向きは、リヨン出身でフランス・ルネサンス建築の巨匠フィリベール・デロルム(Philibert de l'Orme、1514~1570)の像で、彼はフランス王アンリ2世(在位:1547~1559)の王立建築家も務めた。
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リヨンはフランス王国時代、絹織物の交易の一大中心地として発展したが、フランス革命時代、反革命派がパリの革命政府に対し反乱を起こしたことから、革命政府は、徹底的に弾圧し、4ヶ月に渡って弾圧を続けた。その結果、犠牲者は2千人以上、リヨンの街は徹底的に破壊されたという悲しい歴史がある。

ジャコバン広場を過ぎると150メートルほどでソーヌ川が現れる。ソーヌ川に架かる「パレ・ド・ジャスティス歩道橋(Palais-de-Justice)」は1983年に開通したもの(最初の橋は1638年)で、幅4メートル、長さ136メートルあり、川岸手前に赤く塗られた逆Y字型の鉄骨頂部から伸びる計8本のワイヤーで橋を吊り上げ固定している。その歩道橋を渡った先からリヨン歴史地区(ユネスコ世界遺産)になり、正面には、24本の柱が並ぶ(ポルチコ)古典的な建造物「コート・オブ・ザ・ロード・リヨン」(リヨン裁判所)が建っている。こちらでは、スコットランドで認可されたすべての紋章の一覧簿や、系図の記録を保有・管理している。
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左隣には、屋根に小さな煙突付いた6階建てのアパルトマン風の建物(通路側1階は郵便局)が建ち、その西隣に「サン・ジャン大聖堂」の左右の塔が見える。更に丘(フルヴィエールの丘)の上に建つのがリヨンを代表する教会「フルヴィエール大聖堂」(ノートルダム・ド・フルヴィエール・バジリカ聖堂)である。

パレ・ド・ジャスティス歩道橋を渡って、リヨン裁判所と郵便局の間の過ぎると、すぐ先から歴史地区に相応しい狭い石畳の道となる。100メートルほど先の右側にアーケード型の3層ロッジアのオレンジ色の建物など、暖色系の建物に囲まれた矩形の広場が現れる。最上層のロッジア内の壁面には「Musée Des Miniatures et Décors De Cinéma」と書かれており美術館であることが分かる。広場の手前には、凛々しい姿のライオンの彫像が飾られている。リヨン市の紋章にもライオンが使われているが、これは、リヨン(Lyon)がライオン(Lion)と発音が似ているのが理由とのこと。
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石畳の狭い通りは広場を過ぎると左に大きくカーブして坂道になる。その坂道を上って行くと、すぐ左側にバラ窓が印象的な「サン・ジャン大聖堂」のファサードが正面に見える。大聖堂は1480年に完成したものだが、工事が始まったのは1175年のことで、完成まで3世紀もの期間が費やされた。これだけ長い年月を要したのは、このエリアが川沿いの堆積層で土壌が弱かったことも理由の一つとのこと。当初ロマネスク様式で計画されていたが、途中からゴシック様式の技術を取り入れ完成された。
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大聖堂は、完成後も苦難の歴史が続き、宗教戦争(1562年)、フランス革命(1789年)、リヨンの反乱(1793年)などで甚大な被害を受ける。近年では1944年9月のドイツ軍の撤退時に、ステンドグラスの窓の大半が破壊されるなどの被害を受けたが、その都度修復され、現在では美しい姿を見せてくれる。

この坂道の左斜面側に建つのが今夜の宿で、入口は、建物を通り過ぎ振り返った場所にある。ホテルではなく、ホステリング・インターナショナル(世界的な非営利ユースホステル協会のネットワーク)が経営するホステルで、バックパッカー向けの宿である。リヨンはホテル代が高いし、翌朝直ぐに移動するので寝られれば良いと思い予約した。しかし、こちらのユースホステルは人気が高く、中々予約が取れない。


敷地からの眺望は素晴らしく「サン・ジャン大聖堂」の側廊側のフライング・バットレスや南翼廊など、旧市街の景観を見渡すことができる。遠方に見える高層ビルは「リヨン・パールデュー駅」前に建つパールデュー・タワー(愛称:クレヨン)(低層部はオフィス、高層部はホテル)である。
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チェックインを無事終え、旧市街(ヴュー・リヨンと呼ばれる)を散策することにする。坂を下りてライオン像の飾られた広場まで戻り、その先の交差点を右折すると、前方に見える「サン・ジャン大聖堂」に至る。その交差点角に建つ建物は、1498年に建てられ、16世紀にゴシック・ルネサンス様式で再建された歴史的建造物「メゾン・ド・シャマリエ(Maison du Chamarier)」(建物内に中庭がある)で、窓枠には、ゴシック様式の教会の尖塔に似た浮彫が施されている。
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右折しないで左折すると、すぐ左側に赤い二連アーチのある古い建物が建っている。こちらは、ライオン彫像が飾られた広場奥の3層ロッジアのある建物「メゾン・ド・アボカ(Maison des avocats)」の玄関口で、やはり歴史的建造物。2005年からは改装され美術館「リヨン・ミニチュア&映画装飾博物館」として営業している。この様に旧市街には、15世紀から17世紀頃に建てられた歴史的な建築物が立ち並んでいる。そして、この通り先からは、レストランやビストロ(ブション)などが軒を連ねる旧市街で最も賑やかなエリアとなる。
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リヨン・ミニチュア&映画装飾博物館の入口にはスターウォーズの人気キャラクターのドロイド(C-3PO)が飾られており、興味をひかれ入館することにした。
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入場料7ユーロを払い(1階はフリー)館内に入ると、最初に「パフューム ある人殺しの物語」(2006年製作の独・仏・西)で使用されたセットが展示されている。パリの香水調合師バルディーニ(ダスティン・ホフマン)の自宅階下の仕事場のセットで、弟子で超人的な嗅覚を持つ主人公グルヌイユ(ベン・ウィショー)が多くの瓶から香りを調合する様子を再現している。隣のひょうたん型の大きなタンクは、バルディーニ考案の蒸留装置で、薔薇の花びらを大量に入れ、煮だして精油を抽出する場面として使われた。
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こちらには「三銃士/王妃の首飾りとダヴィンチの飛行船」(2011年)の飛行船が展示されている。映画は、三銃士に仲間入りした青年ダルタニアン(ローガン・ラーマン)が、英仏間に紛争を起こして王位を奪おうとたくらむリシュリュー枢機卿(クリストフ・ヴァルツ)と悪女ミレディ(ミラ・ジョヴォヴィッチ)の陰謀を知り、祖国を守るために立ち上がる。といったストーリー。クライマックスの飛行船との空中戦は大変迫力があった。
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そして、スーパーマンIV(1987年)、インデペンデンス・デイ(1996年)、ヒューゴの不思議な発明(2011年)で登場した、自由の女神、アメリカ合衆国議会議事堂のドーム、暴走する汽車などが展示されており、モニター画面で映画のシーンも紹介されている。
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こちらには、人間になることを夢見るロボットの姿を描いた「アンドリューNDR114(1999年)」のマスクや、スター・ウォーズ/ファントム・メナス(1999年)で、惑星タトゥイーンのポッド・レースに参加したパイロットダッド・ボルトなど、様々なSF映画に登場したエイリアンや宇宙船など特殊効果で使用されたコレクションが所狭しと展示されている。
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映画以外では、フルーツ、スイーツや、芸術家のアトリエの風景(1/12サイズ)などのミニチュア・アートも展示されている。特に印象的だったのは、リヨンの大衆ビストロ「ブション」を再現したもの。温かみのある木目調の店内には様々なオブジェや絵画などが飾られており、仕事帰りの常連客が、ギター演奏の中、気さくな店主の馴染みの郷土料理(クネルや内臓系料理)を頂く。。そんなリヨン・ブションのイメージが凝縮されている。
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40分ほど見学した後「サン・ジャン大聖堂」にやってきた。ファサードを下から見上げると、上へと突き抜けるような鋭角なトレサリーのデザインのせいか、やや威圧感を感じる造りである。バラ窓の装飾も、炎が燃えさかるような複雑な形の文様をしており、ロマネスク様式の中にフランボワイアン(火炎)・ゴシック様式が取り入れられている。
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聖堂内には、理想のキリスト教王と評価されたルイ9世(聖ルイ)が埋葬されているとも言われている。彼は、2回の十字軍を行ったが、失敗に終わっている。また、1600年には、フランス王アンリ4世がメディチ家のマリー・ド・メディシスと結婚式を挙げたとされている。内陣は、ロマネスク様式、身廊はゴシック様式と二つの様式から構成されている。この日は、改修中なのか主祭壇には覆いが掛けられていた。覆いにはバラ窓のステンド・グラスが映りこんでいる。
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こちらが、ファサードにある、1392年に完成したといわれるバラ窓の鮮やかなステンド・グラスである。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

聖堂前は広場になっており、中央に洗礼者ヨハネ像が立っている。サン・ジャンとは、洗礼者ヨハネを表す。広場の奥には、ONLY LYONとライオンのロゴも見える。
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次に、サン・ジャン大聖堂の南側から、ボナパルト橋でソーヌ川を渡ると、右側に巨大な広場が現れる。東西312メートル×南北200メートルの長方形の敷地を持つヨーロッパで最も大きなオープンスクエアの一つ「ベルクール広場(Place Bellecour)」である。遠くに見える騎馬像が、ベルクール広場の中心にあることからもその広さには驚かされる。ちなみに地下は駐車場になっている。
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その中央の騎馬像は、フランス絶対王政全盛期の太陽王と呼ばれたルイ14世(在位:1643~1715)のブロンズ像で、1825年にリヨン出身の彫刻家フランソワ・レモット(1771~1827)によってパリで制作され、24頭の馬に率いられ12日間かけてリヨンに到着し設置された。台座下の左右には、ソーヌ川とローヌ川の2つの寓話的な彫像が飾られている。
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そして、奥に見える鐘楼は、北側の「ベルクール通り」までと、東はローヌ川の沿いまでの正方形の敷地内にあった「シャリテ療養院」(1622年~1934年)の南西角に建っていたもので、療養院と共にその役目を終え解体されたが、市民からの請願に応じ1938年に再建された。現在は小さな敷地内に鐘楼だけが建っている。

騎馬像の前を通り過ぎ、ベルクール広場の東端(メトロ駅への入口がある)から西側を見渡すが、やはり広い。今日は特設のテントなど工作物もなく、イベントが行われていないことからも一層広く感じる。。
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ベルクール広場から北側の「ベルクール通り」を横断すると、北東方向に「レピュブリック通り」が続いており、この時間(午後4時半)は多くの人が歩いている。右手前の左右にトーチを持つ女神とタンバリンを持つエラト女神が飾られたフナック社の店舗ビルは、旧ベルクール劇場で、日本でもお馴染みの実業家エミール・ギメ(1836~1918)の設計によるもの。そして右前方には、頂部にオンドリが飾られたアールデコ様式の「パテ映画館(Le cinéma Pathé)」(1933年)が建ち、その200メートルほど先が「レピュブリック広場」になる。
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「パテ映画館」の前を通り過ぎ、すぐ先から西側に向かうアルシェ(Archers)通りに左折して少し進むと、急に静かな通りになり「セレスティン広場」に到着する。都会のオアシスといった静かな雰囲気の広場には木蓮の樹が茂り、春の開花の時期には多くの人でにぎわうとのこと。その広場の先に立つ建物は「セレスティン劇場(Célestins, Théâtre)」で、リヨンの劇場でも最も美しい劇場の一つとされる。
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最初の劇場は1792年に創設されたが、現在の建物は、全焼したことを受け、1877年にリヨンの建築家ガスパール・アンドレの設計により再建されたもの。フランスでは、コメディフランセーズやオデオン座と並んで200年以上の歴史を持つ劇場の一つで、1030人の観客が収容できる。2002年から2005年にかけて大規模な改修が行われた。
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「セレスティン劇場」正面から右側側面に回り込み、美しい劇場の外観を眺めながら進むと、隣接するカフェ(Pain Des Celestins)の先で、再びソーヌ川沿いに戻る。


ソーヌ川沿いには、バー(ブヴェット・ボナパルト、Buvette Bonapart)があり、そのバーからは、対岸のロマネスク様式の後陣と左右の翼廊を備えた美しい「サン・ジャン大聖堂」と、丘の上に建つ、天に向け聳える4基の塔と鐘楼を備えた「フルヴィエール大聖堂」とのコラボレーションを堪能できる。
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ちなみに前回訪問時にはこちらのバーで午前中に牡蛎を頂いたが、その前日の夜には、車で北に約20分行ったソーヌ川沿いのコローニュ・オ・モンドールにあるポールボキューズ本店で夕食を頂いた。更に牡蛎を食べた後の昼食は、ベルクール広場の東側のローヌ川沿いのポールボキューズのブラッスリー店「ル・シュッド」でランチを頂くなど、美食三昧のリヨンだった。。

時刻は午後5時を過ぎたが、この時期は午後8時過ぎまで明るいので、これから丘の上の「フルヴィエール大聖堂」に向かうことにする。すぐ南側に架かる先ほど渡ったボナパルト橋を再び渡ることにする。なお、ボナパルト橋は1944年にドイツ軍によりダイナマイトで破壊され、1950年に現在の3つのアーチを持つ橋で架け替えられたもの。最初の橋は17世紀に木製で架けられたが、洪水や劣化などで何度か取り替えられ18世紀から現在の石橋となった。
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ボナパルト橋の先のソーヌ川沿いに見える大きな尖塔の教会は、ネオ・ゴシック様式の「サン・ジョルジュ教会(Église Saint Georges de Lyon)」で、1842年に再建されたもの。初期の教会は6世紀中頃に建設され、14世紀には聖ヨハネ騎士団の医療施設でもあった。

ボナパルト橋を渡り、街路樹が建ち並ぶ綺麗な通りを進むと、突き当りに丘の上に向かうケーブルカー乗場がある。乗車するか少し悩んだが、左隣にある路地から歩いて上ることにした。狭い通り沿いには、多くのレストランやブションが店を構えている。


建物に囲まれた狭い石畳の坂が続いている。道が分かれている個所には、建物の壁に「Parc des Hauteurs、Théâtres Gallo-Romain」と矢印が掲げられており、その案内に従い上って行く。「Hauteurs」とは、フルヴィエール大聖堂の東斜面に広がる都市公園「オタール公園」のこと。


途中から二車線の車道に歩道がある広い通りに出た。途中、公園内のルートもあったが間違うと面倒なので、結局車道沿いの歩道をしばらく歩くと、左右に塔が聳える「フルヴィエール大聖堂」が見えてきた。手前の3階建てに宝形造屋根のある建物は、聖美術館(Museum of Sacred Art)で、その北隣の「鐘楼」は、1643年のペスト流行からリヨンの街が救われたことを感謝して建てられた小さな教会堂で、頂部には教会設立200周年を記念して飾られた「黄金の聖母マリア像」がリヨンの街を見下ろしている。
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そして「鐘楼がある小さな教会堂」の北隣に「バシリカ式教会堂」が建っており、これら2つの教会堂を合わせて「フルヴィエール大聖堂」は成り立っている。歩道は南側から西側のファサードに回り込んでおり、近づくにつれて両教会堂の1階部分が繋がっているのが見える。

その「バシリカ式教会堂」は、普仏戦争において、リヨンに進軍していたプロイセン軍が、教会で聖母マリアに祈りを捧げたことにより撤退したことを祝して、1872年から1884年に建築家ピエール・ボッサンの設計で建てられた。ロマネスク建築とビザンチン建築の2つの建築様式の特徴を備えており、それぞれ対角には、高さ48メートルある八角形の塔が建ち、ファサード側の北西の塔から反時計回りに「力、正義、節制、慎重」と美徳に基づいた名前が付けられている。
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ファサードの下部には約10メートルのグレーの円柱が支える奥行きの狭いポーチがあり、アーチ上部には翼を広げる獅子像など繊細な彫刻が施されている。更に、その上には、十字架を捧げるカリアティデス(女像柱)が並ぶロッジアがあり、ペディメントには、聖人を携えた聖母子像が表現されるなど大変豪華な造りとなっている。

聖堂内は、ビザンチン様式で天井、側壁、ステンドグラスなど煌びやかに装飾されている。外観は1884年に完成しているが、聖堂内の装飾には更に時間を要し完成したのは1964年であった。身廊と側廊の間の柱は、豪華な鳩の彫刻があしらわれた八角柱の基壇の上に立ち、柱頭には十字架を捧げる女像柱が備えられている。
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左右の側廊壁面にはそれぞれ3枚ずつ巨大なモザイク画が飾られている。主祭壇に向かって北側廊の左手前から「レパントの海戦」、「フルヴィエールに到着した聖ポティン(ポティヌス、Saint Pothin)」、「無原罪の御宿り教義宣言」で、南側廊の右手前から「エフェソス公会議」、「ジャンヌ・ダルクによるオルレアン解放」、「ルイ13世の誓願」と続いている。
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こちらはその内の北側廊中央に飾られたモザイク画で、リヨンの最初の司教「聖ポティン」がフルヴィエールに到着した際の様子が表現されている。彼は、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝(在:161~180)の177年にリヨンで最初の殉教者となったと言われている。
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大聖堂の敷地の北東壁にある展望台からは「オタール公園」の森の先にリヨンの街並みが一望できる。
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バシリカの北東角の塔には、螺旋階段で上ることができ、その展望台から後陣頂部に飾られた「大天使聖ミカエル像」を通してリヨンの街並みを一望することができる。今日は時間が遅くなり終了している。こちらは前回訪問時の際の様子で、ベルクール広場には、大きな白い円形の特設ドームが設置されていた。
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ところで「フルヴィエール大聖堂」の南側には、ローマ時代の石板やモザイク画などの出土品が展示された「ガロ・ロマン文明博物館」や「古代円形劇場」の址がある。フランスがまだガリアと呼ばれていた時代、この地はルグドゥヌム(ルグドゥネンシス)と呼ばれたローマ植民地であり、多くの遺構が発掘されている。


円形劇場は丘の南斜面を利用したもので、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス(紀元前63~紀元14、在位:紀元前27~紀元14)時代の紀元前43年に建てられ、その後1世紀後半から2世紀前半に10,000人の収容可能な大規模な劇場となった。現在の姿は19世紀の後半に発掘され1933年から復元されたもの。こちらも、前回訪問し最上部から劇場を見下ろした時の様子である。

帰りはライオン彫像が飾られた「リヨン・ミニチュア&映画装飾博物館」の広場そばに繋がる階段を下りた。今夜の夕食はあまりフレンチ気分ではなかったので、セルヴィアン通り沿いにあった中華料理屋を思い出し、そのカウンターで、軽くビールと上海ヌードルを食べて済ました。今回は、美食の街リヨンを全く堪能することなく、街歩きだけで一日を終えた。。ホステルに戻ると、昨夜の移動の疲れもありすぐ寝た。。

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翌朝、朝食付きだったこともあり早めにフロント横にあるラウンジに向かった。カウンターに置かれた籠入りのパンを食べようとしたが、美味しくなかったので、結局食べずにチェックアウトして、リヨン・パールデュー駅に歩いて向かった。。

駅のコンコースにある観光案内所で「ル ピュイ アン ヴレ(Le Puy en Velay)」行き(リヨンから南西方面へ約130キロメートル)のフランス国鉄(SNCF)の鉄道チケットを購入したが、途中の「サン テティエンヌ駅(Saint Étienne)」で乗り換えとなり2枚のチケットが発券された。チケットを確認したところ、サン テティエンヌ駅から乗り継ぎ不可能な時間が記載されていたため、窓口で問い合わせたが、時間は関係ないと言われた。。

午前9時24分発の普通列車(TER)に乗り、午前10時10分に「サン テティエンヌ駅」に到着した。車内は空いていた。駅前から振り返ると、鮮やかな装飾煉瓦に覆われた駅舎(1855年築、鉄骨構造)に目を奪われた。駅前も再開発されたばかりの様に綺麗に整備されている。商店や建物自体も少ないことから、地図を確認すると街の中心部は南西方面の離れた場所にあり、駅に乗り入れているトラム(路面電車)で繋がっているようだ。


街の中心部までトラムに乗って観光するほどの時間はないので、駅前から南西方面に延びる坂道(トラムの軌道あり)を歩いて上った。500メートルほど先にはトラムの停留所があり、その左側にモニュメントが立つ三角形の広場が広がっていた。
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モニュメントの正面には「第一次世界大戦中に亡くなったサン テティエンヌの子供6,000人と聖ステファノに捧げる」趣旨の表示があった。側面には会葬者が彫刻され、上部には、経帷子で覆われた横臥した兵士像が表現された慰霊碑である。聖ステファノ(5~36頃)とは、キリスト教における最初の殉教者で、フランス語で「エチエンヌ」と発音され街の名前の由来となった聖人のこと。ちなみに、この地は古くから武器工場の町だったこともあり「アルムヴィル」と呼ばれた時期(フランス革命時など)もあった。

モニュメント(慰霊碑)前を横断した左側にあったスーパー・リドル(Lidl)で、缶ビールと調理パンを買って駅に戻り、待合室のベンチで食べた。出発20分ほど前にホームで待機していると、モニターに午後12時52分発、ル ピュイ アン ヴレ行きと表示があり、定刻どおり電車が到着した。

(2013.07.18~19)
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アメリカ・ワシントンD.C.(その2)

2013-07-11 | アメリカ(東海岸)
宿泊先のユース・ホステル前の11thストリートNWを南に500メートルほど進むと、交差点の向かい側に「オールド ポスト オフィス」(中央郵便局)(1899年築、1914年まで使用)が建っている。リチャードソン・ロマネスク様式(19世紀アメリカの建築家の名前に因んでいる)で建てられたもので、現在はホテルになっている。中央に聳える高さ96メートルの時計塔は、D.C.のランドマークとなっている。
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その前庭には、ベンジャミン・フランクリン(1706~1790)の彫像が飾られている。フランクリンは避雷針の実験で知られた科学者だが、実業家としても活躍し、アメリカ独立宣言の起草を行うなど、アメリカ合衆国建国の父とも呼ばれている。こちらの像はフランクリンが初代郵便局長(1775~1776)に就任していたことから、1980年に建てられたもの。他にも、見どころとして、外観からは確認できないが、建物中央から後方にかけて広がる長方形のアトリウム(高さは60メートル)などがある。

一昨日より、アメリカ合衆国東部の連邦直轄地コロンビア特別区(通称ワシントンD.C.)に滞在している。メリーランド州とヴァージニア州に挟まれたポトマック川の北岸に位置しており、言わずと知れたアメリカ合衆国の首都である。これからアメリカ合衆国議会議事堂の見学を予定している。

オールド ポスト オフィス前の交差点を左折すると、ホワイトハウスと議会議事堂とを結ぶペンシルベニア大通りとなり、遠くに目的の議会議事堂の姿を正面に捉えることが出来る。そして、次の交差点の左先には、FBIポリスのロゴ入りワゴン車両が駐車していた。こちらの建物(ジョン・エドガー・フーヴァービルディング)が、海外ドラマに出てくるアメリカの特殊機関「連邦捜査局」(Federal Bureau of Investigation、FBI)である。ちなみに、昨日は乗用車タイプが駐車していた
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連邦捜査局(FBI)から議事堂までは1キロメートルほどの距離(3thストリートSW沿いから望む議事堂の様子)だが、西正面口は大統領就任式に使用されており、見学等訪問者のための入口は東正面口になるため、反対側に回り込むことになる。

そして、こちらが「アメリカ合衆国議会議事堂」(United States Capitol)の東正面口になる。現在の議会議事堂は最初に中央部分が1800年に完成し、1850年代に両翼が拡張された。巨大なドーム(高さ88メートル、直径29メートル)は、南北戦争直後の1866年に建設され、1904年には東正面棟が改築されて、現在の姿となっている。ちなみに西正面口と見分ける一つが中央ペディメントの有無になる。
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リンカーン記念堂から議会議事堂までは「ナショナル・モール(National Mall)」と呼ばれるオープンな国立公園で、こちら東隣の議会議事堂を囲む一帯に広がる住宅街や地域名を「キャピトル・ヒル(Capitol Hill)」と呼んでいる。地理的にはワシントンD.C.のやや東部に位置しているが、住所表示は、議事堂を基準に(NE 北東、NW 北西、SE 南東、SW 南西)と定められている。

セキュリティチェックを受けて入場すると、最初に議事堂の歴史についての映画を鑑賞する。その後10数人のグループに分かれて見学を行う。国会議事堂のドームの下には、直径29メートル、壁の上部まで高さ15メートル、天蓋まで55メートルの「ロタンダ」(1824年築)がある。ロタンダは、南側の下院に、北側の上院へと回廊で結ばれている。

ロタンダ南入口の隣には、フランスの新古典主義の彫刻家ジャン・アントワーヌ・ウードンが制作したジョージ・ワシントンの銅像が飾られている。向かい側にはトーマス・ジェファーソンの銅像があり、他にも、トルーマン、アイゼンハワー、フォード、レーガン、キング胸像などの像が飾られている。


そして、ロタンダの周囲には、アメリカの発展に関する8枚の大きな絵画が掲げられている。入口を境に右側(西面)には、1819年から1824年に製作されたジョン・トランブル作の「独立宣言」と「バーゴイン将軍の降伏」があり、更に「コーンウォリス卿の降伏」、「ジョージ・ワシントン将軍の任務辞任」とアメリカ創設を描いた作品が続いている。
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そして、左側(東面)には、ジョン・ギャズビー・チャップマン作の「ポカホンタスの洗礼」、ロバート・ウォルター・ウィアー作の「巡礼者の乗船」、ウィリアム・ヘンリー・パウエル作の「ミシシッピ川の発見」、ジョン・ヴァンダーリン作の「コロンバスの着陸」と、アメリカ大陸発見に関する出来事が描かれた作品が1840年から1855年に追加された。

ドームのオクルスの周囲に施された浅浮き彫りの群像フリーズは、だまし絵で、アメリカの歴史が19のシーンが描かれている。そして天井頂部には「ワシントンの神格化」が描かれている。共に、ギリシャ・イタリア系アメリカ人の歴史画家コンスタンティーノ・ブルミディ(1805~1880)がフレスコ画で制作したもので、南北戦争の終わりの1865年に11か月かけて描かれた。
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こちらは、国立彫像ホールコレクション(National Statuary Hall Collection)で、もともとあった下院が別に移ったことにより、1864年に現在のホールとなっている。最初の像は1870年に設置されたが、現在では、各州の歴史に登場する著名人が、米国各社から寄贈されたブロンズ60像と大理石39像(ロタンダの像を含む)として所蔵されている。こちらは、ハワイ州のカメハメハ1世の像で、1969年に設置されたもの。


ロタンダの真下となる地下室には、40本の新古典主義のドーリア式柱で支えられた円形のクリプトがある。もともと、ジョージ・ワシントンの埋葬予定地だったが、本人の意思でマウントバーノンに葬られたため、現在は、国立彫像ホールコレクションの彫像の展示室及び保管庫として機能している。ロタンダの見所の一つに、ガットソン・ボーグラム作の「エイブラハム・リンカーンの胸像」(1908年)がある。こちらは、6トンの大理石から切り出され制作されたが、左耳がなく未完成のままとなっている。
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次に、議会議事堂の東正面口前の南北に延びる通り(First St SE)を挟んだ向かい側にある「米国議会図書館」(1800年設立)(Library of Congress)にやってきた。世界最大の研究図書館の一つで、事実上のアメリカ国立図書館として機能している。

こちらの建物は、1897年に建築家ポール・J・ペルツ(1841~1918)により建てられた。クラシックなファサードと精巧に装飾されたインテリアが特徴のボザール様式が採用されている。1980年からは、第3代米国大統領に敬意を表し「トーマス・ジェファーソン・ビルディング」と呼ばれている。正面左右階段を上った柱廊玄関の2階には、9つの著名な偉人の胸像(ワシントン・アーヴィング、ベンジャミン・フランクリンなど)が飾られている。


コレクションには約1億7,300万点のアイテムが含まれ、3,000人以上の従業員がいる。また、内容も普遍的で、主題、形式、または国境に制限されない、世界すべての地域からの470以上の言語の研究資料が含まれている。最初に到着するのが、2階吹き抜けの長方形の大広間である。天井には、明り取りの幾何学文様の6枚の天窓が設置されている。


2階には、大広間を見下ろすことができる回廊がある。回廊は双頭柱が支えるアーチ天井が続き、新古典主義、ルネッサンス、バロックなどの様々な要素を取り入れた装飾が施されている。人物画には印象派、ラファエル前派、アール・ヌーヴォーなど様々な様式からの影響を受けている。インテリアの完成と建物の装飾プログラムは、建設監督官のバーナード・グリーンと、デザイナー兼建築家エドワード・ピアース・ケーシーが担当した。2人は芸術監督として、50人以上のアメリカの画家や彫刻家に作品制作を依頼している。


前面(東側)回廊の中央には、上り階段があり、突き当りの踊り場には、ニューヨーク出身の象徴主義派の画家エリュー・ヴェッダー(Elihu Vedder、1836~1923)によるモザイク画「平和のミネルヴァ」(1896年)が掲げられている。こちらの踊り場からは、向かい側の西側回廊と1階大広間の入口方向が同時に見渡せる。


建物の中央にあるのが、メインの読書室で、8本の巨大な大理石の柱が立ち並ぶ、巨大な円形ドームの真下にある。閲覧席が円状にホール内に配置され、書架は、周囲の大理石の柱間にあるアーチの奥に続いている。アーチの階上にも図書室や閲覧室などがあり、その上には、宗教、商業、歴史、芸術、哲学、詩、法律、科学などを象徴する彫像や肖像画が飾られている。見学には、ガイド付きグループツアー(2時間)があるが、あまり時間がなかったことから、さらっと見学して終えた。

次に、議会議事堂の西口側にやってきた。こちらのテラスからは、アメリカ大統領であり南北戦争時の名高い将軍ユリシーズ S グラントの騎馬像(Ulysses S. Grant Memorial)の後ろ姿と、ワシントン記念塔(Washington Monument)が望める。これからユリシーズ S グラント騎馬像前のプール先の右方向にある「ナショナル ギャラリー オブ アート」(National Gallery of Art、略NGA)に向かう。


議会議事堂からは1キロメートルほどで、目的地の「ナショナル ギャラリー オブ アート」に到着した。このナショナルギャラリーは、銀行家アンドリュー・メロンが、ロンドンのナショナルギャラリーに憧れ、母国アメリカにも同様の国立美術館を造りたいと願い、基金及び自身のコレクションを連邦政府に寄付し、1941年に新古典主義様式の外観を持つ美術館(西館)として完成した。1978年には幾何学的な外観の新館(東館)が建設されている。入館料は、スミソニアン協会が運営する19の博物館の一つであるため無料である。


西館には、中世から19世紀後半までのヨーロッパの巨匠による絵画や彫刻、およびアメリカの芸術家による20世紀以前の作品の展示があり、東館には、近現代美術に焦点が当てられた展示となっている。また西館の西隣には、彫刻庭園がある。今日は西館の展示のみを見学することとし、ポルチコのあるエントランスから入場する。セキュリティチェックを済まし入口を入ると大きな円形ホール(ロタンダ)で、中央に彫刻家ジャンボローニャ(1529~1608)のマーキュリー像が飾られた噴水がある。その噴水に向かって左側(西側)にある展示室に向かう。

こちらは、ゴシック期のイタリア画家ドゥッチョの「預言者イザヤとエゼキエルのキリスト降誕」(1308~1311)で、シエナ大聖堂のための祭壇画のプレデッラとして制作された。左右の預言者は、キリスト誕生を予言すると書かれた巻物を掲げている。中央の小屋には、マリアと誕生したばかりの幼子がおり、手前には2人の助産婦が幼子を産湯につけている。羊飼いの1人は、ドゥッチョ自身と言われている。
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そして、こちらは、シエナ生まれのシモーネ・マルティーニ(1284頃~1344)による「受胎告知の天使」(1330年頃)(West Building, Main Floor — Gallery 3)で、2連祭壇画の左側にあったもの。右側はマリアを描いたパネルだったが、現在、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館の収蔵となっている。
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パネルは赤い粘土の層で覆った後、天使の手と顔を除いて全体に金メッキを施している。天使のローブは繊細なピンクで描き、折り目は暗い色調で影を落としている。陰影線を出すために表面を削り取るズグラッフィート技法が用いられている。シモーネ・マルティーニは、ドゥッチョの弟子とされ、ジョルジョ・ヴァザーリによると、ジョットの弟子であったとされる。

ルネサンスのフィレンツェ派を代表するフィリッポ・リッピ(1406~1469)による「東方三博士の礼拝」(1440~1460年頃)(Gallery 4)で、もともと、フラ・アンジェリコが制作を始めたが、作品の大部分は、リッピが完成させた。1492年に発表されたロレンツォ・デ・メディチの邸宅の目録には、この絵がフィレンツェの有力な家族のコレクションの中で最も価値があると特定されている。
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ひざまずく3人の東方三博士が聖家族に贈り物を捧げており、その行列は丘を曲がりくねり、古代のアーチの後方から続いている。そのアーチの右側には、裸の少年たちが、壊れた塀の上で様々なポーズをとっているが、これは異教世界の終わりを示唆しているとされる。

他にも、フラ・アンジェリコの作品としては、「聖コスマスと聖ダミアヌスによるパラディアの癒し」(1438/1440年頃)(フィレンツェのサンマルコ教会の祭壇画)、フィリッポ・リッピの作品としては「聖母子」(1440年頃)(Gallery 4)などが展示されている。

イタリアのルネサンス期の画家アンドレア・デル・カスターニョによる「ダヴィデとゴリアテの首」(1450~1455年)(Gallery 4)で、儀式用の盾に貼られた皮に描かれている。盾を持つための5本のボルトが打ち込まれており、表面に突起が確認できる。紋章などを描いた装飾的な盾は現存しているが、著名な画家が物語として描いたものは大変珍しく貴重である。
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足を踏ん張り、手を掲げるダヴィデに対して、ゴリアテの首はダヴィデの足元に転がっていることから、戦いの結果を描いた様に思えるが、よく見るとダヴィデは投石器で石を投げようとしており、ゴリアテの額にはその石が埋め込まれ血を流していることから、異時同図法とみなすことができる。

こちらは、サンドロ・ボッティチェリの「東方三博士の礼拝」(1478/1482年頃)(111センチ×134センチ)(Gallery 7)である。マリアの膝に座る幼児キリストを訪れる3人の博士は、敬意を表して贈り物を贈っている。マリアのいる場所は、質素な厩舎ではなく、牧歌的な風景に面した半廃墟の古典的な寺院の廃墟にあり、周囲には多くの人物が描かれている。
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前景では、数人の人物が跪いて崇拝しており、ボッティチェリの特徴でもある、透明感のある鮮やかで繊細な衣服が豊かな折り目でカスケードしている。右側には、東方の博士の側近の行列が背景に広がり、画面に深みと物語性を際立たせている。

他にも、ボッティチェリの作品としては、ジュリアーノ・デ・メディチ(1478/1480年頃)や、青年の肖像(1482/1485年頃)(Gallery 6)などが展示されている。

こちらは、最大の見どころの一つ、ルネサンス期の芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチによる「ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像」(1474~1478年頃)で、レオナルドの絵画としてはアメリカ大陸で一般公開される唯一の作品である。ジネーヴラの表情には微笑みはなく、表情は厳しく、視線は鑑賞者に向けられることなく超然としている。また、遠景はトスカーナの田園風景で、その先に教会の2本の尖塔が描かれている。
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モデルのジネーヴラはフィレンツェ貴族アメリゴ・デ・ベンチの娘で、当時16歳だったが、年齢の離れた政務官ルイージ・ニッコリーニとの結婚が約束されており、結婚記念として描かれたとされる。作品は下部分が切断されており、もともとは両腕部分も描かれていたと言われているが、オリジナルの姿は分かっていない。

裏面には「Virtvtem Forma Decorat」(美は徳を飾る)との碑文が描かれている。月桂樹と椰子はヴェネツィアの駐フィレンツェ大使ピエトロ ベンボのエンブレムで、ベンボとジネーヴラは交友がありプラトニックな恋人であったともされている。


イタリアの盛期ルネサンスの画家ラファエロによる「ニコリーニ カウパーの聖母子」(1508年)(大きなカウパーの聖母子)(80.7センチ×57.5センチ)(Gallery 20)である。背景は青い空のみで、聖母子でキャンバスを埋め尽くしている。故郷ウルビーノからローマに向けて出発する前に描かれたとされ、作品名はイギリスのカウパー伯爵のコレクションの一つに因んでいる。
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ナショナル ギャラリーには、もう一点、ラファエロの「カウパーの小聖母」(1505年)(59.5センチ× 44センチ)があるが、この日は展示されていなかった。カウパーの小聖母に描かれたキリストは、凛々しさが感じられる顔立ちだが、こちらのキリストは魅力的で遊び心のある子どもの表情をしている。

こちらは、盛期ルネサンスのヴェネツィアで活動したイタリア人画家ジョルジョーネ(Giorgione)による「羊飼いの礼拝」(1505年頃)(The adoration of the shepherds)(アレンデールのキリスト降誕)(Gallery 10)になる。ジョルジョーネは、詩的な作風の画家として知られ、現存する作品が数点しかないが、こちらの作品は、彼の初期絵画を収集していたアレンデール・グループ(アレンデール子爵チャールズ・バーモントが所有)のジョルジョーネ作品の一つで、グループの絵画はセットとして扱われており、全てジョルジョーネの真作とみなされることが多いが、逆に全てジョルジョーネの作品ではないとされることもある。
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画面の中央には、キリストの神性を認識し、跪いて礼拝する羊飼いを配置している。羊飼いは、素朴でありながら威厳を感じる佇まいである。右側の暗い洞窟と対象的に、マリアとヨセフも礼拝し、明るく親密な雰囲気を作り出している。左側には、消点となるヴェネツィアの風景が明るく描かれている。

こちらの「聖家族」(The Holy Family)(1500年)は、同じく、アレンデール・グループのジョルジョーネ作品とされる一つで、この日は、ナショナル ギャラリーで所蔵する2点が共に展示されていた。
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フランスのロココ期の画家ジャン・オノレ・フラゴナールの「読書する娘」(1769年頃)で、フラゴナールが友人や常連客をモデルに描いた14点の肖像画連作「ファンタジー・ポートレート・シリーズ」のうちの一つである。こちらは1時間ほどで描いた作品で、絵具が勢いよく塗られ、生き生きとした筆遣いを随所に見ることができる。この絵の少女はもともと鑑賞者を向いていたが、後に読書に夢中になる姿に描き直しているとされている。
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フィンセント・ファン・ゴッホによる「ラ・ムスメ」(娘、La Mousmé)(1888年)は、弟テオと同居していたパリから南仏のアルルに移った年の7月末に描いたとされる。ピエール・ロティのお菊さんを読んで知った日本語から名付けられた。モデルは、アルルに住む12歳の女の子で、赤い上着に紫のストライプ、青に大きなオレンジの水玉のスカートで、小さな手にキョウチクトウの花を持っている。
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ゴッホの先品では、他にサンレミの精神病院から解放される直前に描かれた2枚のバラの絵のうちの1枚「バラ」(1890年)(Gallery 83)、36の自画像のうち、最後の自画像の一つとされる「自画像」(1889年)、ゴッホの義理の妹ボンガー夫人を描いた「白い服の少女」(1890年)などが展示されている。

ポール・ゴーギャンの「ファタタ・テ・ミティ(海辺で)」(Fatata te Miti、1892年)で、ゴーギャンが、初めてタヒチ島に滞在した際の作品である。アトリエはタヒチ島の首都パペーテからおよそ45キロメートル郊外にあるパペアリに、自ら竹の小屋を建てている。作品は、漁師が槍で釣りをしている海に、2人のタヒチ女性がパレオを脱いで飛び込む様子が描かれており、官能的な喜びを伝える様に、強烈なトロピカルカラーで彩られている。
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クロード・モネの「散歩、日傘をさす女性」(1875年)で、モネの最初の妻カミーユが長男ジャンとともに草原を散歩する様子が、下から仰ぎ見る構図で描き出されている。
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同じく、クロード・モネの「ヴェトゥイユの画家の庭」(1881年)。モネは、1878年蒐集家エルネスト・オシュデ家族と共に、パリの喧騒を離れ、光の探求のためヴェトゥイユに移住し、描いた作品である。高い地平線と青空へ真っ直ぐに延びる小路の構図により、ヒマワリが咲き乱れる庭の存在が効果的に描かれている。階段の上段にはオシュデ家の娘と息子、そしてワゴンの側にいるのは、モネの息子ミシェルである。モネは、ヴェトゥイユの庭を題材に4作品を描いているが、こちらが最も完成度が高いとされる。
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他にも、モネの作品は、いくつか展示されている。こちらは「ルーアン大聖堂、西ファサード、陽光」(1894年)で、モネがルーアン大聖堂の西側正面の建物内にイーゼル(画架)を置き、ルーアン大聖堂の連作30点を制作した一つである。

「日本の橋と睡蓮の池」(1899年)は、モネが、1890年にジヴェルニーの土地を購入し、花の庭を造った後、隣の敷地を購入し、リュ川の水を引いて日本風の太鼓橋を架け「水の庭」とした。1895年から睡蓮の池の作品に取り組み、1898年以降は大量に描かれるようになる。1900年の「モネ近作展」第1睡蓮の13連作の内の一つである。

「国会議事堂、夕日」(1903年)は、1899年から1901年にかけて数回にわたり訪問し取り組んだ連作の一つで、ロンドンのテムズ川の霧の効果をサヴォイ・ホテルから国会議事堂(ウェストミンスター宮殿)を捉えて描いている。

ピエール オーギュスト・ルノワール(1841~1919)による「じょうろを持つ少女」(1876年)で、アルジャントゥイユにアトリエを構えたクロード・モネ宅で描いたもの。ルノワールは、1873年から2年間、度々モネ宅を訪問し一緒に風景画を制作しており、こちらはその中の一つで、近所の少女の一人を描いたもの。ちなみにルノワールは、戸外制作をするモネの姿も描いている。
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ルノワール作品は他にも多く展示されており、こちらは評価も定まった晩年頃の「髪をアレンジする水浴者」(1893年)で、温かい色調の女性裸体画を数多く制作した作品の内の一つである。

こちらは、フランスの写実主義の画家ギュスターヴ・クールベ(1819~1877)による「トゥルーヴィルのブラックロックス」(1865/1866)である。ごつごつとした切り割く様な岩と、地平線のターコイズブルーの帯、様々なブラシとクールベ最大の特徴であるパレットナイフを使用した夕焼けの空は、写しとったかのような臨場感あふれる表現がなされている。
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クールベは、スイスアルプスに隣接するフランス東部のドゥーブの内陸地域で生まれ、劇的な地形の岩だらけの露頭、急な峡谷、流れる川の絵画表現などで知られている。こちらの作品のトゥルーヴィルとは、ノルマンディーのビーチで、天候と光の気まぐれな沿岸に魅了され描いたマリンシリーズの一つである。

2時間ほどの鑑賞を終え、次にナショナル ギャラリー オブ アートの彫刻庭園の西隣にある「国立自然史博物館」(National Museum of Natural History)にやってきた。こちらも、スミソニアン協会が運営する博物館で入館料は無料である。ナショナル・モール側の入口(南入口)を入ると、大きなドーム真下の円形ホール(ロタンダ)で、中央に大きなアフリカゾウのはく製が飾られている。


最初に円形ホールから右側にある恐竜館に向かった。さすがに、一番人気の博物館と言われるだけのことはあり、かなり混雑していた。展示室には、いたるところに、化石化した骨格が再現展示されている。展示室を入った正面には、恐竜の代名詞とも言われる「ティラノザウルス」(Tyrannosaurus rex)の骨格が展示されている。ティラノザウルスの迫力ある姿は、恐竜の中で最も知名度も高く、長い間、恐竜人気を支え続けてきた最強の肉食恐竜である。
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ちなみに、アメリカ自然史博物館は、アメリカ映画「ナイト ミュージアム」(2006年)の舞台になっている。映画では、夜になると展示物が動き出す不思議な博物館において夜間警備員として働くことになった主人公の活躍をコメディタッチで描いている。

こちらの展示室で最もスペースをとって展示されているのは「ディプロドクス」(Diplodocus)の骨格である。ジュラ紀後期の大型竜脚類で細身で尻尾が非常に長く、全長30メートルほどの巨体を有している。主に、北アメリカ大陸に生息していた大型草食性恐竜の一種である。
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こちらは「トリケラトプス」(Triceratops)で、中生代後期白亜紀の現在の北米大陸に生息した植物食恐竜の一属である。口先は鳥のくちばしの様に尖り、頭骨には大きな骨質のフリルと3本の角があり、体格は、大きな4本足の体はサイに似た形状で、人気恐竜の一つである。展示室には、他にも、ステゴザウルス、アロサウルス、ケラトサウルスなどの骨格が展示されていた。
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2階には「鉱物・宝石コレクション」の展示室がある。国立自然史博物館では、約350,000点の鉱物標本と10,000点の宝石を所蔵しており、実際の展示も、様々な鉱物や宝石が所狭しと展示されている。こちらの中央のトルコ石風の鉱物はバリサイト(バリッシャー石、Variscite)と言い、アルミニウムの豊富な岩石と反応したリンを含む水が、直接堆積して形成されるもの。右隣の甘栗が集まった様な鉱物は、硫黄(いおう、Sulfur)で、殺虫剤、医薬品、農薬、黒色火薬の原料など幅広く用いられている。


こちらは、博物館の最大の見どころの一つ、巨大な青いダイヤ「ホープ・ダイヤモンド」で、持ち主を次々と破滅させながら、人手を転々としていく『呪いの宝石』」として有名である。周りには16個、鎖に45個のダイヤをはめ込んだ白金製のペンダントの中央を飾っており、価格は2億ドル以上と言われている。


続いて、西隣の「国立アメリカ歴史博物館」(The National Museum of American History)に向かった。1階から3階までの3つの展示室と地階に小売店及びダイニングがあるが、1階のエントランスホールを進んだ先の「アメリカ開拓史と交通の展示コーナー」を見学する。入館料は無料。


こちらはサンタクルーズ鉄道の「蒸気機関車ジュピター」(1876年)である。サンタクルーズは、モントレー湾の北端にあるカリフォルニア州サンタクルーズ郡最大の都市で、サンフランシスコから南に115キロメートルに位置している。当時カリフォルニア最大の鉄道会社は、この小さな海岸沿いの町への必要な支線を建設しなかったが、鉄道の開通こそが、町の経済発展に繋がると夢見た住民たちの努力により、独自に建設したもの。
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1876 年に営業を開始し、その機関車「ネプチューン」と「ジュピター」は、サンタクルーズとワトソンビル間の13マイルを旅客と貨物の列車で牽引した。ワトソンビルにはサザン パシフィック鉄道との分岐があり、全国鉄道網の残りのすべてに接続していた。

1913年型フォード・モデルTツーリングカーハンドクランクの代わりに電動スターター、アセチレンガスヘッドライトの代わりに電動ヘッドライトを装備したモデル。
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こちらは「コロンビア電気自動車」(1904年)で、コロンビア女性病院の院長ジョン・オスカー・スキナー博士が1906年から1932年まで運転していたもの。当時は、清潔で静か、快適で、操作が簡単であることから、多くの都市の医師や裕福な女性が購入している。
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都市や大きな町には、車のバッテリーを充電するための電力を供給する電力網があったことから都市部では好まれたが、自動車自体高価で、走行距離は短かく、電気料金は高かった上、バッテリーのメンテナンスや充電は複雑で危険な作業だったことからニーズは限られた。

こちらは、イギリスのロバート・スティーブンソン社によって製造された蒸気機関車「ジョン ブル」(1831年)(John Bull)のレプリカで、1939年にペンシルベニア鉄道のアルトゥーナ工場で製造されたが、スミソニアンの理事会が1981年の150周年に火を入れたことにより、世界最古の運転可能な機関車となった。
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国立アメリカ歴史博物館を出て、ナショナル・モールを西に進むと、ワシントン記念塔が迫って来る。1776年の独立戦争で、ジョージ・ワシントンの名誉ある功績を称えて建造された記念碑で、大理石、花崗岩、砂岩など国産の石材を約3万6千個から造られている。


第二次世界大戦記念碑を過ぎ、リフレクティング・プール沿いを進むと「リンカーン記念堂」(Lincoln Memorial)に到着する。ナショナル・モール西端に位置し、アメリカ合衆国第16代大統領エイブラハム・リンカーンを記念して建立された。ドーリス様式のギリシャ神殿の形をしており、およそ10メートルの高さの柱が36本、建物全体を囲むよう配置されている。一本の柱の円周は、大人5人が手を伸ばして抱えても届かないくらいの大きさがある。
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記念堂の中心に飾られるのは、彫刻家ダニエル・チェスター・フレンチの手によって作り上げられたリンカーンの坐像である。彫像の縦と横の幅はどちらもおよそ5.8メートルある。左手は握られ、右手は開いているが、作者のフレンチの娘が耳に障害を抱えていたため、アメリカ手話での左右の手を表したとも言われている。椅子両端には、ローマ執政官の権威の象徴である束桿がレリーフとして彫られている。
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リンカーン記念堂前の階段から振り返ると、リフレクティング・プールとワシントン記念塔が一望できる。
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リンカーン記念堂やリフレクティング・プールは、猿の惑星(1968年)のリ・イマジネーション作品、「PLANET OF THE APES/猿の惑星」(2001年)(ティム・バートン監督)で、インパクトの強いラストシーンとして登場している。

時刻は、午後3時50分になった。ベトナム戦争で戦った3人の彫刻を過ぎ、ベトナム戦争戦没者慰霊碑のある黒い花崗岩で作られた壁が続くメモリアル・ウォールを通ってナショナル・モールを後にした。

一旦、ホテルに戻り、次に2.6キロメートル北にある「フィリップス・コレクション」(The Phillips Collection)に向かった。到着は午後6時半だった。1921年にアメリカ初の近代美術館として開館したもので、ルノワールの「舟遊びの昼食」ゴッホの「アルルの公園の入口」などヨーロッパ絵画の他20世紀アメリカ絵画のコレクションでも知られている。午後7時半ごろまで鑑賞し、ホテルに戻った。

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翌朝は朝7時発のメガバス(Megabus)に乗り、アメリカ・ワシントンD.C.を後にした。この後、北東およそ200キロメートル先のフィラデルフィアを観光し、午後9時発の夜行バスに乗り、更に北東におよそ500キロメートル先のボストンに向かう予定にしている。
(2013.4.25~26)
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アメリカ・ワシントンD.C.(その1)

2013-07-10 | アメリカ(東海岸)
アーリントン国立墓地(Arlington National Cemetery)に、開園時の午前8時にやってきた。1864年に、南北戦争の戦没者のための墓地として、南軍のロバート・E・リー将軍の住居周辺の土地に築かれたのが始まりで、その後、第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争等の戦没者が祀られ、現在でも戦没者やテロ犠牲者などのアメリカ合衆国のために尽くした人物の墓地が存在している。


昨夜、午後5時41分にアメリカ・ワシントン国際空港に到着後、市内のユースホステル(Hostelling International-Washington, DC)に宿泊し、今朝、最寄りのメトロセンター駅からブルーライン(地下鉄)に乗り、西側、アーリントンセンター駅(5駅目)に下車しやってきた。

6本の円柱が並ぶポルチコがあるウェルカムセンターから建物内に入ると、ガラス張りの樽型天井から、明るい光が差し込むエントランス・ロビーになっている。インフォメーションコーナーがあり、ロビー中央にはラッパを吹く衛兵姿の人形がガラスケース内に飾られている。向かい側に見える扉口に向かう。


ウェルカムセンターから、右に続く通りを西に向けて歩いて行くと、周囲には見渡す限りの墓石が広がっている。


ウェルカムセンターから5分ほどでY字路となり、Kennedy Grave site書かれた標識に沿って右側を進むと、再びY字路が現れ、右側の緩やかな丘のサークル通路への階段がある。階段を上りサークル通路を上り半円形の石畳の広場の先の中央階段の先に、第35代大統領ジョン・F・ケネディ(左)と夫人ジャクリーン(右)が眠る場所がある。墓の前には、消えることなく燃え続ける「永遠の炎(Eternal Flame)」がある。高台には、かつてロバート E リーが暮らしていたギリシャ神殿風の大邸宅アーリントンハウスが見える。


サークル通路から階段を下りた先のY字路から左側の通路を通り南方向に墓地を眺めながら歩いて行く。丘の上には、円形劇場のあるギリシャ神殿風の建物が建ち、正面には白い墓石「無名戦士の墓」(Tomb of the Unknowns)がある。身元が不明な戦没者を祀った墓地で、各国の元首や首相、要人が公式訪問した際に訪れ、献花するのがこちらの場所である。この時間、衛兵交代式が行われており、無名戦士の墓の手前に敷かれた黒いシートに衛兵が往復し行われる。
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アーリントン国立墓地は、観光客など多くの訪問者で常に混雑しているが、開園と同時に訪れた今朝は、静謐な雰囲気に包まれていた。50分ほど周囲を見学した後、ウェルカムセンターまで戻り、メモリアルアベニューを東に歩きアーリントンセンター駅がある陸橋に到着した。しかし、爽やかな天気なので地下鉄は利用せずこのまま歩くことにする。

先のポトマック公園を過ぎると、ポトマック川に架かる「アーリントン記念橋」(Arlington Memorial Bridge)があり、対岸となる東正面に「リンカーン記念堂」(Lincoln Memorial)が見える。
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アーリントン記念橋(659メートル)を渡り終えると、通りはリンカーン記念堂の手前から左右に分かれて行く。右側の通りを東方向に歩いて行くと、右側は、大統領夫人による植樹式や、さくら女王のパレードなどで日本でもニュースとなる「桜まつり」で知られる「ウエスト・ポトマック公園」が広がる。

ウエスト・ポトマック公園を通り過ぎると、右側に大きな白い岩のゲートが見えてくる。そのゲートを通り過ぎた先には、公民権運動の黒人指導者「マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の記念碑」(Martin Luther King, Jr. Memorial)が建っている。「私には夢がある(I Have a Dream)」と発言した歴史的なスピーチからちょうど48年目にあたる2011年に牧師の偉業を讃えて完成したもので、高さは約9メートルある。


キング牧師の記念碑の周りにも、多くの桜の木が植えられている。そして、キング牧師が見つめる先には「タイベル・ベイスン池」が広がり、対岸(南東方面)には、アメリカ合衆国第3代大統領「ジェファーソンの記念碑」が望める。
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ところで、リンカーン記念堂からアメリカ合衆国議会議事堂までの東西約4キロメートルは「ナショナル・モール(National Mall)」と呼ばれ、この中に、複数のスミソニアン博物館群と、国有の美術館や記念館、庭園、緑地が広がり、多くの観光客が訪れるオープンな国立公園となっている。これから、タイベル・ベイスン池の対岸にあるジェファーソンの記念碑まで歩いた後、スミソニアン博物館群を見学する予定にしている。

タイベル・ベイスン池の最北端に架かる「クッツ記念橋」(Kutz Bridge)を渡る。コロンビア特別区(D.C.)の技術長官チャールズ・W・クッツに因んで1954年に開通した記念橋である。左前方には、ナショナル・モールの中心にそびえ立つ「ワシントン記念塔」が望める。高さ169メートル(約555フィート)の巨大な白色のオベリスクだが、2011年の地震で亀裂などの被害が発生したため、現在は修復工事が続けられている。


クッツ記念橋を渡り終えた後は、池畔に沿って大きく右にカーブしながら続く遊歩道を歩いて行く。クッツ記念橋から約1キロメートルほどで、タイダル・ベイスン池の南畔に到着する。北側の対岸には、ワシントン記念塔が望める。右側に見える建物は、手前から、連邦政府庁舎、アメリカ合衆国製版印刷局、アメリカ合衆国ホロコースト記念博物館になる。
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遊歩道の終点の広いテラスの中央に建つ白い建物が、最初の目的地「ジェファソン記念碑」(Thomas Jefferson Memorial)になる。アメリカ合衆国第3代大統領トーマス・ジェファーソンを記念して建立された記念建造物で、1939年から1943年にかけてニューヨーク市の建築家ジョン・ラッセル・ポープの設計で建てられた。大理石の階段、柱廊、イオニア式柱の円形の列柱、浅いドームから構成された新古典主義様式の建物である。
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記念碑の中央には、ジェファーソン像が飾られている。こちらはコンペティションで応募があった101件の中から、選ばれた地元の彫刻家ルドルフ・エヴァンス(1878~1960)によるもの。高さ5.8メートル、重さ4,500キログラムのブロンズ像である。完成は、第二次世界大戦中に生じた資材不足が影響し1947年であった。後方のパネルには、アメリカ合衆国独立宣言からの抜粋が記されている。


次に、ナショナル・モールの東側にあるスミソニアン博物館群に向かう。こちらは「製版印刷局」(Bureau of Engraving and Printing)の西側エントランスでワシントン記念塔から南に400メートルほどに位置している。アメリカ政府の様々な機密印刷物をデザインし印刷する米国財務省内の政府機関で、最も代表的な製造物は連邦準備の為の連邦準備券(ドル紙幣)である。それに加えて、米国債、軍士官や賞の証明書、入場許可証、多くの種類の身分証明書など様々な文書を製造している。


先隣りが「ホロコースト記念博物館」(United States Holocaust Memorial Museum)になる。土地は連邦政府から寄贈され、民間からの約1600万ドル(183億円)の寄付で設立された。ジェームズ・インゴ・フリードによって設計され、1988年に第40代大統領ロナルド・レーガンが礎石の設置を手伝った。開館は1993年4月で、最初の訪問者はダライ・ラマ14世であった。


そして、こちらの円形ファサードが、ホロコースト記念博物館の東口で、先ほどの西口と反対側の入口になる。左側の三翼の建物が製版印刷局になる。これから、こちらの14thストリートを通ってスミソニアン博物館群へ向かう。
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南北に延びる14thストリートを北に進み、先の交差点を右折し、連邦政府庁舎前を東に進むと前方に高架陸橋が見えてくる。その高架陸橋の先の左側が、スミソニアン博物館群の一つ「フリーア美術館(Freer Gallery of Art)」になる。


こちらは、アジアの美術品を収集していたデトロイトの実業家、チャールズ・ラング・フリーアにより設立され、建築家チャールズ・プラットの設計で1923年に一般公開された。日本を含む中国やインドを中心としたアジアの古美術品を収蔵する美術館である。隣には、古代のアジア・中東諸国の作品が展示される「アーサー・M・サックラー・ギャラリー」があり、地下通路で双方は繋がっている。このことから、フリーア美術館は、フリーア&サックラー・ギャラリー等と統合して「FSG」と称されることもある。

入口は、北側で入館は無料である。それでは中国美術から鑑賞する。こちらは殷王朝後期(紀元前11世紀)の青銅器で「兕觥(じこう)」と呼ばれる怪獣の身体を模した注酒器である。儀式的な酒の水差しとして使用された。殷王朝時代の青銅器は、個性的な文様が駆使され複雑で様々な器形があり世界中で愛好者が多い。
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他にも、周の趙王(周昭王、在位:紀元前977~957)の治世中に成州で開催された3日間の会議と儀式を記念する碑文が刻まれた、四角い箱形の器身に屋根形の蓋を持つ方彝(ほうい)や、酒を温めるための器「斝(か)」などが展示されている。3つの脚、側面の把手、口縁には2本の突起が付いた特徴がある。

こちらは「玉琮」(ぎょくそう)と呼ばれる玉器で、紀元前3500年頃から紀元前2200年頃、中国の長江の下流域に栄えた良渚文化(新石器時代後期の文化)の玉器である。翡翠(ネフライト)を擦切や穿孔し、形を切り出し、磨きあげて光沢を出している。玉琮はさまざまなサイズがあるが、表面には浮彫や線刻が施され、神人マスクなどの文様があるものもある。古い時代のものほど、丁寧に仕上げられた例が多い。墓で頻繁に発見されており、宗教儀礼に使用された考えられるが詳細は不明である。
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11段チューブは、高さ28.5センチ×幅7.5センチ×奥行き7.6センチで、左前面のマスク付き1段チューブは、高さ4.5センチ×幅7.2センチ×奥行き7.2センチとなっている。手前の丸みを帯びた形状のものはブレスレットを思わせる。

他にも、様々な形状の作品が展示されているが、こちらの「玉琮」は、まっすぐなベースにアーチ状の丸みを帯びた形状で、中央部がわずかに膨らみがあり、棒状の口、隆起した楕円形の目、くぼんだ丸い瞳孔の「神人マスク」の装飾が施されている。

翡翠(ネフライト)を素材にした作品では、中国・戦国時代(紀元前475~紀元前221)(秦の始皇帝が中原統一する前)の東周で製作された「ペンダントビーズとゴールドチェーン」なども展示されている。

「コズミックブッダ(The Cosmic Buddha)」(北斉(550~577)時代、石灰岩、河南省出土)と名付けられた立像で、高さ151センチメートル、ほぼ等身大の像である。1923年に北京のコレクターから購入したもので、頭部と両手は失われているものの、がっちりとした体躯で、簡素な僧衣をまとっている。注目すべきは、僧衣の隅々まで施された細かい浮彫である。
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像が製作された北斉時代とは、頻繁に政権交代が起こった中国・南北朝時代(420~589)の政権の一つだが、国内では、広く仏教が流行し、価値ある仏教美術作品も多く排出されている。西域の、ガンダーラ美術やグプタ朝などのインド仏教美術の様式から、北魏様式と呼ばれる中国独自のものと転換していく時代でもあった。ちなみに世界的に知られる雲岡石窟や竜門石窟の造営もこのころである。

コズミックブッダは、宇宙仏の意味で、万物の慈母であることから真言密教の大日如来と考えられる。一方、衣に刻まれた世界は、衆生が生死を繰り返しながら輪廻する三界(欲界・色界・無色界)であり、法華経の譬喩品からの仏陀、或いは、華厳経の三界唯心の教えとしての信仰対象、摩訶毘盧舎那仏とも考えられる。

衣の前胸には、天と地を繋ぐと信じられる欲界の頂点として「須弥山(スメール山)」が刻まれ、2匹の蛇(ナーガ)が絡みつき、須弥山頂上の忉利天(三十三天)では、守護神として多腕の天部を従えた仏陀が説法している。その下に天、人、畜生、餓鬼と続き、足元の裾となる最下部には、人々が苦しむ地獄が刻まれている。

衣の背面にも、浮彫が施されており、こちらには、歴史的な仏陀の生涯の場面などが刻まれている

次に日本美術を見学する。こちらは、江戸初期の狩野派の絵師 狩野探幽(1602~1674)による6曲「韃靼人狩猟・打毬図屏風(1668)」で、狩猟をする場面や、打毬杖(だきゅうづえ)をふるって毬( たま)を奪い合う姿などが力強く、生き生きと描かれている。
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江戸時代後期の浮世絵師 葛飾北斎(1760~1849)による「屏風図」である。こちらは、向かって左から右に、僧正遍昭、大友黒主、小野小町、在原業平の4曲が展示されている。しかし、これらは、もともと6曲の屏風を切り離したもので、残り2扇には、文屋康秀と喜撰法師が描かれていた。
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四天王(東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天)(鎌倉時代(1185~1333))は、もともと、奈良・興福寺の収蔵仏だったが、明治初期の神仏分離令以降、荒廃した寺院修復の為の資金調達を目的に破損仏像77体を譲渡し、1906年に実業家の益田孝が購入している。その後、益田は17体のみを手元に残し、他の蒐集家に転売している。
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現在では、興福寺の収蔵仏のほとんどは所在が確認されており、アメリカでは、こちらフリーア美術館の四天王像の他、メトロポリタン美術館、フィラデルフィア美術館、ボストン美術館などに収蔵されている。

こちらの「菩薩坐像」は、仏像表面には金泥塗が施され、高い髻(もとどり)や、切れ長の目尻等から、鎌倉時代を代表する「快慶(1185~1220)」或いは、快慶一派の特徴があると評価されている。快慶の作品は、日本では、ほとんどが国宝か重要文化財に指定されており、アメリカでの快慶作品としては、ボストン美術館の弥勒菩薩像、メトロポリタン美術館の地蔵菩薩像・不動明王像などが挙げられる。
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ガンダーラ美術から「四相図のうちの誕生」(クシャーナ朝、パキスタンまたはアフガニスタン出土(ガンダーラ地方)、2世紀後半から3世紀初頭)。四相図とは、仏陀の生涯の四出来事のことで、誕生、成道初転法輪涅槃を指す。仏陀の母親マーヤー(摩耶)は、ルンビニー(現ネパール)園の無憂樹の下で休息していたが、無憂樹に咲く深紅の花に気づき、その一枝を取ろうと手を伸ばすと、右腕の脇から男子が出生した。パネルでは、その誕生の瞬間を捉えている。これは、仏陀が、他の人間と異なり性と無縁であることを示している。
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インド美術から「王が仏陀を訪ねる(シュラーヴァスティーの大いなる奇跡)」(シュンガ朝、BC2世紀、バールフット出土)(インド中部にある仏教遺跡)で、欄楯に刻まれた浮彫の一部である。中央には、花が敷き詰められた空の玉座の上に車輪があり、厚い花輪がかけられている。シュラーヴァスティーは祇園精舎のことで、仏陀が、千仏化現や、双神変などの奇跡を見せ、異教を論破し、教えを説いて人々を仏教へと改宗させた逸話に基づいている。
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仏陀の入滅後、芸術家たちは何世紀にもわたり、仏陀を人間としての姿では表現せず、仏舎利塔での礼拝、仏陀が座った玉座、瞑想した木、歩いた道を示すことで、仏陀の存在を表現し、仏陀の教えを広めてきた。

こちらは「玉座の脚」(東ガンガ朝、13世紀、インド・オリッサ州)で、悪魔の戦士を逆さまに抱えた「ガジャシンハ」が、象牙を素材に玉座の脚に彫刻されている。ガジャシンハとは、インド神話で登場する神獣で、知恵の象徴としての象(ガジャ)の頭と、王を表わす獅子(シンハ)の両方を併せた姿で表現される。カンボジアでは国章のシンボルとして使用されている。
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象牙の滑らかな表面と悪魔を逆さにぶら下げるガジャシンハの力強さが、巧みな曲線で表現されている。岩山の頂きに跨いだ足で体を固定しており、その岩山には、様々な動物や瞑想する隠者などの姿を見ることができる

こちらはネパールの「白い観音菩薩(アヴァローキテーシュヴァラ)」(Amoghapasha Lokeshvara)(マッラ朝前期、14世紀、ネパール、木材とポリクロミー(多彩色)、高さ162.5センチメートル)である。沙羅双樹の木片から製作された1木造である。像は、白い漆喰を用い、滑らかな層で像を覆った後、さまざまな色やパターンで装飾し、ヒマラヤの特産品である宝石の象嵌細工を施した。しかし、現在、宝石と腕2本が失われている。完成当時は、仏教僧院の祠堂で崇められ、敬虔な仏教徒により毎月特別なプージャ(儀式崇拝)が行われていたと考えられている。
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像は、カトマンズ渓谷の非常に人気のある守護神で、しなやかなトリバンガ(三重に曲がる)の姿勢で立ち、楕円形の顔の美しさの中に、若さと慈悲を体現している。特に、頭部の繊細な浮彫技術や、太腿付近の巧みな多色装飾が素晴らしい。

こちらは、アメリカ生まれで、主にロンドンで活動したアーティスト、ジェームズ マクニール ホイッスラー(1834~1903)による「磁器の国のプリンセス」(1865)である。作品は、着物を着たヨーロッパ人女性が、絨毯、日本の屏風、大きな装飾的な磁器の壺などを背景に、扇子を手にし物憂げに前方を見つめる様子を捉えている。
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作品は、その後、美術品収集家に売却され、ロンドン・ケンジントン近郊のタウンハウスで、景徳鎮磁器などで装飾されたダイニングルーム「ピーコック・ルーム(孔雀の間)」に飾られたが、1903年、チャールズ・ラング・フリーアにより部屋ごと購入されたため、当時の環境のまま展示されている。

次に、東に500メートルほど行った「国立航空宇宙博物館」(Smithsonian National Air and Space Museum)にやってきた。スミソニアン地区の博物館の中でも、屈指の人気を誇る博物館であり、この日も、入口付近には大変多くの見学者が集まっていた(写真は南口)。


セキュリティ・ゲートをくぐると、ガラスカーテンウォールの天井から明るい光が差し込む開放的な吹き抜けのエントランスホール「マイルストーン・オブ・フライト・ホール」(108)に至る。その天井からは、高高度極超音速実験機X-15、スピリット・オブ・セントルイス、スペースシップワン、パイオニア10号、スプートニク1号など、歴史上、名だたる航空機、輸送機、宇宙船、人工衛星等が吊り下げられている。
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ピンクのテネシー大理石が敷き詰められたフロアには、アポロ11号のコロンビア司令船や、左側には、1962年のジョン・グレンのマーキュリー6号(フレンドシップ7号)のカプセルなどが展示され、その隣に、月の石に触ってみよう!との表示がある。
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こちらが、月の石で、1972年にアポロ17号が持ち帰ったもの。着陸地点のタウラス・リトロー渓谷近くで採取されたもので、玄武岩で鉄分を含むきめの細かい火山岩で、約40億年前のもの。三角形のピースにカッティングされており、手で直接触れることができる。この日は、特に混雑することもなく、直ぐに触れることができた。


「マイルストーン・オブ・フライト・ホール」を2階から見下ろしてみる。まず、奥に見える戦闘機が「P-59 エアラコメット」で、ベル社が開発し、第二次世界大戦後にアメリカ陸軍航空軍等で使用された双発単座ジェット戦になる。左側には、世界初の木星探査機パイオニア10号が吊り下げられているのが見える。
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そして、目の前の大型機が、高高度極超音速実験機「X-15」66670(1959~1968)(ノースアメリカン社)で、3機製作された内の1号機になる。X-15は自力で離陸せず、母機となるB-52の主翼下に吊り下げられ上空に運ばれた後に切り離され、空中発進する仕組みであった。

ちなみに1号機は、1960年にマッハ3.31、飛行高度41,605メートル、1963年には高度107,960メートルに達し、その後、1967年ウィリアム・J・ナイト(1929~2004)により、2号機で最高速度7,274キロメートル毎時(マッハ6.7)を記録している。
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そして、1階左端の壁際に見える赤い構造物は、「ブライトリング・オービター3号」で、1999年3月、初の世界一周無着陸飛行に成功したロジエール気球(ガス気球と熱気球の機能を一体化した複合気球)になる。

左側には、ベル社の有人実験機で、世界で初めて水平飛行で音速を突破した有人航空機「X-1」(グラマラス・グレニス)(1946~1958)が展示されている。その音速を超えたのが、アメリカ陸軍・空軍軍人チャック・イェーガー(1923~)で、映画「ライトスタッフ」(1983)では、サム・シェパードが演じている。
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中央は、「スペースシップワン」(2003~2004)で、スケールド・コンポジッツ社により開発された有人宇宙船である。2004年に高度約100キロメートルの宇宙空間に向けた弾道飛行を成功させ、世界で初めての民間企業による有人宇宙飛行を実現させた。降下時に尾翼を立て、スピードを抑え機体の過熱を防ぐ等、特徴的な設計となっている。右手前は「スピリット オブ セントルイス号」で、1927年にチャールズ・リンドバーグ(1902~1974)により、ニューヨーク~パリ間を飛び、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功した、ライアン・エアラインズ社製の単葉単発単座のプロペラ機「NYP-1」の愛称である。

2階通路の後方(南側)展示室(208)には、チャールズ・リンドバーグと彼の妻アン・モローの写真パネルがあり、後ろに黒い機体の「ロッキード・シリウス」(NR-211)(チンミサトーク)が展示されている。こちらは、1931年に北太平洋航路調査(パンアメリカン航空より依頼)のためニューヨークからカナダ、アラスカ州を経て、日本と中華民国まで飛行した水上機である。
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同展示室(208)にある真っ赤なボディは、1927年に初飛行したロッキードの民間用飛行機「ロッキード ベガ」(NR-7952)である。1931年には、隻眼の飛行士ウィリー・ポスト(1898~1935)により世界一周飛行に使用され、翌年には、アメリア・イアハート(1897~1937)により女性初の大西洋単独横断飛行が成し遂げられている。もともと、旅客機として設計されたが、座席数が少なかったため、記録飛行機として、名を残すことになった。
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東隣の展示室(209)には「ライトフライヤー号」が展示されている。ライト兄弟は1903年12月17日に計4回の飛行を行い4回目で59秒間、260メートルの飛行を達成した。こちらは、アメリカ航空宇宙学会ロサンゼルス支部のボランティアにより製作された複製機で、1999年には、NASAのエイムズ研究センターにより実験飛行がなされ、歴史的な飛行のデータの収集が行われた。
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次に、2階通路を左方向(西側)に進むと、航空輸送の展示室(102)が見下ろせる。下が初期のアメリカの旅客機「ボーイング247-D」(1934)で、全金属(陽極酸化アルミニウム)セミモノコック構造、片持ち梁の翼、格納式着陸装置などの当時の先端技術を取り入れた最初の航空機の一つである。黒と黄色のボディは「ピトケアンPA-5」(1927)で、イースタン航空(1926~1991)を構成するピトケアン航空会社のメールウィング単発機で、ニューヨーク市とジョージア州アトランタ間の郵便機として運行していた。
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上は、「ダグラスDC-3」(1936)で、1930年代から1940年代、第二次世界大戦の航空業界に永続的な影響を与えたダグラス・エアクラフト・カンパニーによって製造されたプロペラ駆動の旅客機である。

2階通路の西端を左折すると、第二次世界大戦軍用機の展示室(205)になる。展示室には階段があり見下ろすことができる。左側が、日本の「零式艦上戦闘機(ゼロ戦)五二型」である。五二型は、二一型、三二型に続いて、速力と防弾性能の向上を図ったタイプとして、太平洋戦争の中盤に後期型のゼロ戦として生産された。最高速度は時速565キロメートル、主翼内の燃料タンクに自動消火装置を装備しており、被弾で火災が発生しても二酸化炭素を噴射して鎮火させることができた。ゼロ戦は各型合計で1万機以上が製造されたが、その内の半数が五二型である。
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零式艦上戦闘機(ゼロ戦)五二型の右奥に見えるのが、イギリスのスーパーマリン社で開発された単発のレシプロ単座戦闘機「スピットファイア」のMk.VIIになる。格闘戦を重視し、旋回性能を向上させるため楕円形で薄い主翼を採用しているのが特徴である。1936年初飛行後、第二次世界大戦のさまざまな状況で活躍した。基本設計が優秀であったことと、戦況に応じたエンジンの出力向上により長期間にわたり活躍し23,000機あまりが生産され1950年代まで使用された。

右端が、イタリアのマッキ社が開発し、第二次世界大戦期にイタリア空軍で運用された戦闘機「MC.202 フォルゴーレ」で、その下のレシプロ単発単座戦闘機は、「P-51」(マスタング)で、アメリカ合衆国のノースアメリカン社が開発しアメリカ陸軍航空軍などで運用された。
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左下が、ドイツ空軍の主要レシプロ戦闘機Bf109(メッサーシュミット)で、約33,000機が生産された。後期には世界初となるジェット戦闘機メッサーシュミットMe 262の実用化にも成功している。
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2階通路の東端からは、「アポロ月着陸船」(Apollo Lunar Module )が見下せる。アポロ計画において、2名の宇宙飛行士を月面に着陸させ、かつ帰還させるための宇宙船で、グラマン社により開発された。こちら(シリアルナンバーLM-2)は、2回目の無人飛行用だったが、最終的に地上テスト用で使用されている。総重量は14,696キログラムある。
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2階のアポロ月への旅の展示室(210)(Apollo to the Moon)には、アポロを打ち上げる巨大なサターン5ロケットの5基あるF1エンジン(サターン1Bのメインエンジン:H-1エンジン?)。ノズル直径は約3.8メートル、推力約680トン(5基で3,400トン)は破格の大きさである。 他にも司令船のコックピットパネルや、地球へ帰還で使用されるアポロ宇宙船の司令船(3名が2週間を過ごす。直径約3.9メートル、質量約5.9トン)を始め、アポロ11号の司令船のハッチなどが展示されている。

アポロ月着陸船の西隣となる展示室スペース・レース(114)の大きなロケットは「V2ロケット」(1944~1952)で、第二次世界大戦中にドイツが開発した世界初の軍事用液体燃料ミサイルであり、弾道ミサイルでもある。隣のペンシル型のロケットは、「RTV-G-1 WACコーポラル」(ワック・コーポラル、WAC Corporal)(1945~1950)で、コーポラル計画の一環としてアメリカで開発された最初の気象観測用ロケットになる。
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大きな構造物は「スカイラブ宇宙ステーション」(The skylab orbital workshop)で、アメリカ初の宇宙ステーションとして建造されたもの。3人の乗組員を支えるための居住区、作業場、保管場所、研究機器など必要な設備が備えられている。当時2基が製造され、1基が1973年5月に周回軌道に打ち上げられたが、その後スペースシャトル計画に伴い本計画が終了したことから、もう1基が博物館に移管されることになった。

天井から吊り下がる飛行機は「V1飛行爆弾」で、第二次世界大戦時にドイツ空軍が開発したミサイル兵器になる。左端のロケットは「ヴァイキング」(1949~1955)で、アメリカ海軍研究所(NRL)の監督下で設計、製造された一連の観測ロケット。その右隣のUEのロゴは、「ジュピターC(Jupiter-c)」(1956~1957)で、アメリカの観測ロケットとして使用されたもの。そして、すぐ右奥の細く黒い先端のロケットは「ヴァンガード(Vanguard)」(1955~1959)で、アメリカが開発した衛星打ち上げ用のロケットになる。
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多色のロケットは「LGM-30 ミニットマン(Minuteman)」(1959~) でアメリカ空軍の大陸間弾道ミサイル(ICBM)で、核弾頭を搭載した戦略兵器になる。右端が「スカウト(Scout-D)」(1961~1994)で、小さな人工衛星を地球の軌道に載せるための打ち上げロケットになる。1時間半ほど見学し、国立航空宇宙博物館を後にした。

その後、Big Bus Toursに乗り、Night Tourに出かけることにしていたが、疲れて諦め、夕食を食べて、宿(Hostelling International-Washington, DC)に帰った。明日も、スミソニアン博物館群を中心に見学することにしている。
(2013.4.24)
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